序章_02
初めにに浮かんだ事は、ああ、そうだった、という納得で、次に浮かんだ事は、どうしようという迷いだった。
確かに、ここで己の力を使えば、自分の命のみならず、自分と同じ境遇の彼等をこの場から救い出せるかもしれない。或いは、残虐非道な、主の下に使わせなくて済むかもしれない。“奴隷”という区切りから、脱却させる事が可能かもしれない。
だがしかし、その逆だって有り得るのだ。
良い買い主に恵まれれば、その子は無事平穏な人生を歩めるという可能性。
己が直接手を出さなくとも、幸せになれるかもしれないという可能性。
それを自分の手で勝手に摘んでいいのだろうか。
それを自分の行動で変えて良いのだろうか。
解らない。分からない。
それに、彼等だってそうだ。
中には悪い人だっている。どうしようもない屑だっている。けれど、善人がいる事には変わりは無い。
悪人だけならば良い。しかし現状はそうでは決してないのだ。
自分の中途半端な力が恨めしい。
何故もっと、単純なものにしてくれなかったのか。
何故こんな、自分に選択肢を与えようとするのか。
自分の行動によって、先程見た子供達やそれ以外の命運が左右され、掌握される。それは則ち、彼等の命が自分の肩に乗るという事に他ならない。
誰かを見捨て、誰かを救い、誰かに頼られ、依存される。その重みを、少なからず自分は知っている筈だ。
けれど、だからこそ――――。
『――――私は、誰もが笑い合える世間を作りたい。人間も、魔族も、手を取り合って、協力しあう、そんな国を。それが出来たら、世界でだって、きっと夢では無くなるから』
―――――ふ、と思い出す。
頬を撫でる優しい風。
蒼と紅が混じりあった水平線。
元居た世界に劣らぬ太陽が輝くあの景色。
ああ、そうだ。
あの人は、ああ笑うんだっけ――――。
《『特定条件:失われた記憶』を満たした事により、スキル【迷宮創造】〈モード:ファジー〉が解放されました。『条件:【迷宮創造】』を満たした事により、三年間分の魔力が追加されます》
頭の中に直接響いた無機質な声。
空いた拳を握り締め。
唾は飲み込む。
顔を上げ、目線は前に。
そして――――決断しろ。
「【迷宮――――」
エゴでいい。
馬鹿でいい。
自分勝手でいい。
何を言われようとも構わない。
自分は背負う道を選び、そして決めたのだ。
「――――創造】」
――――再び命を背負う、覚悟を。
《『モンスター生成区域』×4を選択しました。使用コスト250000p×4に加え、コマンド【クイック】によりコストが10倍されます。消費コストは10000000pです。
【残P:305136888→295136888】です》
《『元イースリッシュ会場』をHPの指定オブジェクトからダンジョンオブジェクトに再設定します。魔力持続コストが0になります》
《『特定条件:初回時に敵性反応が百以上+“称号付き”が一定数以上』を満たした事により、ユニークモンスター〈蛇竜蜥蜴〉が発生します。使用コストは0です。
【残P:295136891→295136891】です》
《敵性反応設定を変更しました》
《『“人間”スコア:518p』が加算されます。
【残P:295136891→295137419】です》
《『“人間”スコア:188020p』が加算されます。
【残P:295137419→295325439】です》
ポーン。ポーン。ポーン。ポーン。
地震で倒れ、舞台の奥の方に転がった檻の中に、ハルアキはいた。
自身の背中と銀色の柵の間に、元々底に敷かれていた薄いクッションを挟み、仰向けになりながら目を動かして、目の前に表示されたものを必死に読み上げていく。
それとは別に、直接脳内に直接伝えられるのは、無機質な、というよりは感情が込められてない人の声。
淡々と状況を報告するそれは、人の命の終りを告げるには余りにも軽い。
スキル、【迷宮創造】。
これぞハルアキだけが持つ、唯一無二の能力だ。
このスキル、その名前の通り地球で言う【迷宮】を造り、その時に使う“コスト”によるが、それが十二分に足りるならば“個”で持つ能力として規格外の稀少性を持っている。
しかし言ってしまえばそれだけの能力であり、ハルアキ自身の戦闘力にはたいして変わらないので、正直なところ余り戦闘面では役に立たない。然るが故に【迷宮創造】とは、前衛型でもなければ支援型でもない、籠城や耐久に関して言えば他の者より群を抜く、言わばその他タイプ――――特殊型に分類される能力なのである。
生前からこのスキルのお世話になりっぱなしのハルアキだったが、今回使用する際に、多少混乱する事柄が発生した。
(――――仕組みが、変わってる……?)
そう、それは【迷宮創造】の能力の変化である。
【迷宮創造】は基本的に、ハルアキだけが見えるメニューウィンドウから項目を選び、その選択した項目から目的の物を指定する事により、その結果を現実に反映させる、ある意味ゲームの様な操作方法である。
ざっと見たところ、この仕組み系統は前と変わっていないのだが、幾つか機能が増えていたり、選択項目が減っていたりと、メニューウィンドウの項目に目に付く点が多い。
特に『ユニークモンスター』為る存在や、敵性個体の識別の操作がやりやすくなっている事、新しい項目が追加されている等が目立つ点か。だがしかし、ハルアキは沸き上がる疑問を棚上げし、それについて考えるのを止めた。
なぜならば、ハルアキにとってそれらの変化は、今はプラス側で占められていたからだ。
(――これが〈モード:ファジー〉ってヤツの恩恵なのかねっ)
“変化”というよりは“進化”。
まるでハードが次世代になった様に、ハルアキのスキルは変貌を遂げていたのだ。
ハルアキは自分だけが見える、蒼白く発光する、大型テーブル並のインターフェースに目を向けた。
画面の上には様々なアイコンとウィンドウが乱立し、各々がかなりの速度で上へ下へとスクロール。画面表示を切り換えている。
(『モンスター生成』)
ハルアキがそう念ずると、画面の中央に新たな画面が表示された。
白く発光するそれにあるのは、日本語で書かれた短い文章と、その下段にあるキーボード。
長方形のそれには『1』から『9』まで書かれたものと、『0』と『00』の二つを加えた十一のキーに『Enter』と英語で書かれたキー。計十二個で示されている。
《使用Pは?》
画面が表示されると同時に、キーボードより上段に書いてある文字を、感情の無い声が読み上げた。
それにハルアキは深く考えずに――即答。
(――――五百万ッ!)
《『モンスター生成』に5000000p投入します。四ヶ所に配置された『モンスター生成区域』にポイントがランダムに配分されます。
【残P:295325443→290325443】です》
ポーン、という軽快な効果音に続いて、即座に音声が状況を報告する。
と同時に、画面全体の右上に表示されている『ポイント残量』と書かれた、横に細長いウィンドウの示す数字の量が減る。
【294325443p】から【289325443p】へ。
ハルアキのスキル【迷宮創造】は、この数字――『ポイント』と呼ばれるそれを消費する事により、その効果を表すのだ。
つまりこれが無くなる事態が引き起こされれば、ハルアキは暫く何も出来ない唯の人間に戻ってしまうのだが、今あるポイントの量は十分過ぎる程。今この場で心配する必要など何処にもない。
《『“人間”スコア:42463p』が加算されます。【残P―――《『“人間”スコア:612p』が加算され――《『“人間”スコア:9135p』が――《『“人間”スコア:3―――》
奥から聞こえる断末魔の叫びと共に、次々と暗唱される死亡通知。
それにハルアキは、ぐわぁ、と胸を掴まれる感覚を覚えた。
罪悪感か、嫌悪感かは知らないが、心の底から沸き上がってくるそれは、心臓の鼓動を強くする。
胸が苦しい。息が辛い。
心の中で誰かが叫ぶ。今読み上げられた彼等は、お前のせいで死んでいる――――否、お前が彼等を殺していると。
「…………っぁ」
ひゅぅ、と口から息が漏れ、胸を掴んでいる腕の力が無意識の内に強くなる。
確かに、ハルアキは間接的に、又は直接、同じ知恵を持つ者や、同郷の者に手を下した経験は、ある。
だがそれは、全て追い詰められてやった行為であり、言うなれば自衛の為の行為。
しかし今この時この状況。ハルアキは本当の意味で自らの意思で動き、人をこの手で殺めている。
自分の意思で、相手を殺す。人が死ぬ。
己の願望の為の、犠牲者となって。
胃から、酸っぱい何かが込み上がる。
されど。
(その覚悟は――――出来ていた筈だ!!)
ごくん、とハルアキは口にまで出かかっていた物を飲み込んだ。
そうだ、自分は覚悟をした筈だ。
自分は、“正義の味方”や“勇者”何て大層な者ではない。唯の地球から来た一学生――“異世界人”である。
ハルアキは気を取り直し、腕で口元を拭う。
そして再びスキルを行使しようとして――――。
「ぃや、だぁああああああああああああ!!!」
舞台裏の方から、悲鳴が上がった。
その声は男の様に野太くもなく、高くもない。そう、それはまるで子供のもの。
「――――っ!?」
ハルアキは思わず動作を中断し、顔を上げる。
ハルアキが出てきた方とは逆の方向。
先程の鳥籠が並べられた舞台裏とは違い、片付けられたその場所は、魔術の光で照らされたているが誰の姿も見えない。が、しかし舞台裏の扉が外れて見えた廊下の奥。その曲がり角から一瞬だけ、白い何かが見えた――――瞬間。
飛び出して来たのは、黒と赤。
ドゴンッ、と大きな音を立て、廊下の壁、曲がり角から飛び出してきた黒の塊が、赤の塊に叩き付けられた。
そしてずるりと黒の塊は床に崩れ、赤い塊は二、三歩下がる。
よく見れば、黒の塊は洋服で、先の白い何かは手袋で。赤の塊は、刺繍がされてある風に靡いた赤マント。
黒の洋服を着た子供の灰色の髪は赤く滲み、一方の赤いマントを肩に付けた銀色の剣士の腕には、キラリと輝く細身のサーベル。
――――あの二人は、先程の。
「あ――――!!」
そう認識した直後、凄まじい衝撃が、ハルアキの背中に走った。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
《イースリッション》会場に蛇の竜〈蛇竜蜥蜴〉が出現すると同時に、開場を中心とし、線で結べば巨大な正方形を画く様にしてそれは現れた。
ずんっ、と何の変哲もない草原の大地が盛り上がり、まるで太古からそこに存在していた様な荘厳な雰囲気を放つは、縦横三百メートル超、幅十数センチ程の巨大な一枚つづりの白石の床。次いで平面には何処にも凹凸がなく、裂目や皹が一つもないが、かといって加工された大理石の様な滑らかさもないそれの無垢な表面に、その枠一杯まで届く模様が、烙印の様に描かれる。
それは真円の魔法陣。幾何学的な紋様が数多にも刻まれ、不可思議な文字が円の枠に沿って内側に彫られている。空間が余った四隅にも同じ様な陣が現れ、それは石坂が現れてから数秒も経たずに完成した。
《『モンスター生成場×4』が完成しました》
《モンスター生成場『1』『2』『3』『4』に5000000pがランダムに配布されました。モンスター生成を行います》
誰にも聞こえない音声が流れた直後、石の床に刻まれた魔法陣は自身に込められた機能を発揮する。
―――ぽぅ、と小さく発光。
上空から俯瞰出来たらさぞ美しいだろうというそれは、しかしすぐに不気味なものヘと変わった。
淡く、蒼く発光する芸術が、ぽつぽつと何かに侵食され始める。大きいもの、小さいもの、形や大きさは様々で、それは蠢き、瞬く間に魔法陣を埋め尽し、遂には白石の額から食み出した。
“その何か”は巨大な人の形をして。
別の“その何か”は小さな鳥の形をして。
とある“その何か”はドロドロとした液体で。
その何かは棍を手に持ち、短剣を持ち。
その何か全部、ハルアキの【迷宮創造】で作った『モンスター生成場』から這い出てきていた。
500pを使い、3000pを使い、8000pを使い、13000pを使い。
『モンスター生成場』は、自身に割り振られた【P】という糧を不規則的に消費し、次々にその陣から魔物を産み出し続けているのだ。
産み出されたモンスターはほぼ既存の生命体と変わらず、高度、とは一概には言えないが、ちゃんと独立した意思や思考を持ち一つの生物として産まれてくる。但し、彼等は各々が各々の容姿と特徴を持ち、生成される際に“侵入者の排除”を本能に刷り込まれ、その本能に従い行動を開始し始めるのだ。
故に、彼等はハルアキが無意識的にでも“敵”と見なした者達にとり、生成されたモンスター達は牙を剥くのである。
魔法陣から沸き出てきたのは、人とは違う異形の軍団。魔物達は皆産声を上げて、獲物を探して石の床から去って行く。
そして既に産まれたばかりの彼等の中の一つの集団が遠く離れた獲物を見つけ、群れを成してとある一ヶ所を目指して疾走していた。
力強く四肢で地を蹴る彼等が見つけたのものは、獲物の臭いと血の臭い。
肉を千切る牙の間から涎を垂らし、血走る目を目的地に向けて彼等は駆ける。
目的地はそう、四方に現れた『モンスター生成場』の中心――別名、《イースリッション》開場へ。
「……………うぅぅ」
「ひぐっ……、ひぐっ……」
《イースリッション》会場内、競売ホールの奥。其処にあるのは幾つもの牢屋が並ぶ『商品置き場』。先程まで悲痛や嘆きの泣き声で埋め尽されていた其処は、今は子供らしい純粋な恐怖や不安に染まった泣き声に変わっている。
「――――パドッ!」
ハルアキが入れられた牢。その中に震えた声で、されど己以外の者を心配する言葉を吐いたのは、ハルアキが連れていかれる寸前まで組伏されていた赤髪の少年だ。
彼は牢屋の中で一早く先程の揺れの余韻から脱して、しかし鉄格子を掴んだままで振り向いて、皆の現状を確認する。
建物の作りが丈夫だったのか、幸い瓦礫等は降っていない。彼以外の誰も彼もが頭を抱え、震えるのを見、その中にいる自身の身内の姿を確認して少年は安堵の息を吐いた。
「おいパド、大丈夫か?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな――ひっ、あ………………ゼル兄?」
目尻から涙が溢れ、頬を濡らしながら赤髪の少年――ゼルの方を向いたのは、彼より濃い赤色をした髪を持つ少年だ。
煤けた頬に、クシャクシャな髪。頭頂部には、ゼルと同じ赤い耳。狼の様な彼等のそれは、不安そうに垂れながらゆらゆらと揺れている。見た目ゼルより幼い、パドと呼ばれた子供は、不安そうな瞳で己の兄を見つめ、先程の揺れの恐怖からか再び涙が溢れ始めた。
「――――ああパド、俺だ」
「ゼル兄っ、ゼル兄……!」
もう一度、パドはゼルの存在を確かめる様に抱きついた。と言っても、二人には手枷が填められているので、二人で寄り添う様にしてだなのだが。
ゼルは一度、パドの両肩を掴んで引き離す。次に目線を弟の目と合わせて、真剣に話を切り出そうとした瞬間――――。
「――――キシャァァァアアアアア!!!」
人外による咆哮が、廊下の奥から牢屋に届いた。
「――――ッ!!?」
その咆哮に、ゼルは思わず振り向いた。
しかし其処には何一つも無いただの廊下。
残念な事にゼルだけの幻聴ではないようで、向こう岸の牢屋側も同じく何人かが振り向いている。
疲れのせいで聴力が落ちた自身の耳に集中すると、微かにだが、檻に入れられた黒髪のあいつが連れて行かれた方から、何人もの悲鳴が聴こえてくる。
誰かの咆哮。叫び声。
硝子が割れた様な音に、連続した爆発音。
戦闘の激しさを物語る様に、僅かに地面が揺れている。
「ゼル兄っ…………この音っ!?」
「――――あぁもう何だってんだちくしょう!」
ゼルは叫んだ。
自身の不安を吐き出す為に。
突然の揺れ、響き渡る悲鳴、怪物の雄叫び。
齢十四のゼルにとって、この状況は余りにも不可思議過ぎた。
一体何が起こっているのか。弟の身の安全の心配と、未だ音が聞こえてくる戦闘への不安と、自分はどうすればいいかなんて疑問だけが大きくなって。
「―に――、―ル兄さんっ!」
ぐるぐる、ぐるぐる。
確りと立っている筈なのに視界が、いや足元だろうか、とにかくふらつき、力が抜ける。
目に写る景色が回る。これは何だと認識出来ない。
ああ、ああ――――。
「――――ゼル兄さんっ!!!」
「ぅおぉっ!?」
ガクンガクン、とパドに肩を掴まれ揺さぶられ、ゼルの揺らいだ意識が覚醒した。
あれ、何をしていたのだろう。と考えて、耳に入った悲鳴によって、そんな事はどうでもいい。と意識を戻す。
気付けば、ずん、と体が重い。
どうやら先程のせいで、今まで張り詰めていた体の緊張が解けてしまった様である。
カタ、カタカタ。と小刻みに揺れる小石や燭台を傍目に、ゼルは不安そうに眉を寄せるパドに視線をやった。
「すまん、ぼぅっとしてた。で、何だパド」
泣きそうな声で兄を起こした弟は、今度は震えた声で兄に問掛ける。
「……兄さん、聞こえない?」
「何が――――」
―――、――――。
「…………?」
聞こえるんだ、とは続けなかった。
何故ならば、ゼルも気付いたからだ。
廊下の右側。其所からの戦闘音とは違うその音に。
―――、――――。
それはまるで、小さな地鳴り。
合わせる様に、小石や、燭台もカタカタと揺れる、揺れている。
まさか、とゼルは気付いた。
これはもしかして、とゼルは思った。
先程からの震動は先程の大地の爆発の余韻ではなく、聞こえてくる戦闘のせいでもなく、全部、これのせいなのではないか――――!?
で、あるならば――――結論を求めて、ゼルは混乱する。
一体、これは何だ?
近付いてくる、これは何だ?!
「――――パドッ!!」
「兄さんっ!!?」
ゼルとパド、二人の兄弟は向き合い、廊下側から牢屋側ヘと向き、叫んだ。
「奥に積めて、身を伏せろぉおおおおおおお!!!」
それは己と弟の為だけではなく、無意識的に皆への注意を呼び掛ける為に。
体が、本能が、最大最高の警報を鳴らす。
――――来る!
近付いて、来る!!
――――――ド、ドドド、ドドドドドドドド!!!
その正体は、大きな足音。
足音は、耳を傾けていた方とは逆から此方に近付いて来る。
足音が鮮明になるに連れ、より煩く。
より大きく。
群れを成して。
そして――――獲物を求めて。
「ガルァグァアアアアアァァァァアア!!!!」
幾重にも重なった野獣達――モンスターの声が、廊下から聞こえた。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
――――グチ、ガリゴリゴリボリ。
静寂の中に、固い物を噛み砕く音が、強く綴じられた牙の間から洩れ出した。
巨大な口が綴じられた事により、会場内にいた彼等は、牙を閉じて食べた物を咀嚼する化け物の顔を拝む事となる。
それは、蛇や蜥蜴を足して二で割り、ギザギザした、鋸の様な竜の鷄冠を付けた生き物だ。
鈍く青色に光る爬虫類の鱗。
獰猛な紅を宿した野獣の双眸。
怪物は、その顔だけで人が何人も並んで入れる扉という額縁を埋め尽す。それは化物の全長が、正しく怪物級の巨体を誇る事を示していた。
「フシュルルルルル………」
グチャァ――――。
蛇の様な、蜥蜴の様な怪物――否、魔物は、醜悪な顔を歪ませ、まるで混乱の極地に突き落とされた彼等を笑う様に口を開ける。
閉じた口内に届まっていた息は、生臭い息に加えて、濃厚な鉄、死の香り。
魔物の紅い瞳が、ギョロリ、と動く。
上へ、下へ、右へ、左へ。ギョロギョロ、ギョロギョロと。
その目は、獲物を探しているのか、それとも――――もっと別の何かを確認しているのか。
そして、吐き出された息を嗅いだ幾人かが、一拍の静寂を打ち破り、叫んだ。
「ま、魔物だぁぁぁぁーーーー!!!」
会場内の止まった時間が、再び時を刻み始める。
訪れたのは混乱の境地。
腰を抜かし悲鳴をあげ、尻から倒れ後退る。
自身の護衛にしがみつき、私を助けろと泣き喚く。
阿鼻叫喚。この状況は、正にその言葉が当て填っていた。
だが、そんな場所にも動く者はいる。
「リシュカ国ザルバダ男爵一番隊騎士団隊長、ルクス・ハマーティア。参る!!」
自身の存在を主張する為の咆哮。
混乱する人の群れから飛び出したのは一人の騎士。
腕と足とを鎧で纏い、胸には模様が彫られた胸甲を。
肩まで届く金色の髪を腕で掻き上げ、気障な笑みを振り撒いて。
主に向かう脅威を払う為――というよりは、自分自身への恐怖と脅威を取り除き、自身の評価を上げる為に、彼は名乗りを上げたのだ。
「ハァッ!!」
ドンッ、と足を強く踏み出し身を低く。
踏み出した衝撃により、ルクスの周囲の椅子が幾つか壊れ、その木屑が宙を舞う。
礼儀を習う騎士にしては野性的なフォームは、彼が唯の自惚れた騎士では無いという事を物語る。
速く。より速く。
ルクスのスピードは本来の筋肉のみでは有り得ぬ加速を経て、瞬く間に高速にまで跳ね上がった。
戦いに身を置く者に、常識として深く根付いている基本魔術の一つ、『身体強化』。
己の体を強くする為に、体内の魔力を循環させ、彼はその魔術を行使する。
騎士――ルクスは魔物に向かい、低く、前に駆ける様に跳躍する。
「くらえぇえええええええええ!!!」
腰にさしたロングソードを抜いて、降り翳し――。
彼、ルクスは赤黒く染まった牙が己の目の前に来ているのを、視界に捕えた。
「ぁえっ」
声を洩らしたのは、誰だっただろうか。
それは一瞬だった。
リシュカ王国の貴族――バルルダットを自身の巨大な口に呑み込み咀嚼した化物は、剣を翳したルクスに向かい、再びその牙を剥いたのだ。
文字通り、首を伸ばして。
扉の奥に隠されていた魔物の胴体は、頭部より細く長いものであり、言わば蛇の様な形をしていたのだ。
そして、その体を餌に向かって伸ばした。それだけのこと。
結果、彼は宙から消えた。
否、消えたのではなく消されたのだ。
扉から顔を覗かせていた魔物の牙に噛み砕かれて。
ゴリ、パキメキコリ、グチュグチャ――――ゴクン。
魔物の首が、口に含んだ物を嚥下しようと上下に動く。
シュルリ、と口から這い出る蛇の様な――先端が二分されている舌が、物欲しそうに宙をさ迷い始める。
そしてガパリと口を開けて、たった今呑み込んだばかりの人間の鮮血を巻き散らしながら、蛇竜は吠えた。
「――――キシャァァァアアアアア!!!」
蛇竜の胴体が、ズルリ。動き始める。
「ぅわぁぁぁあああっ―――!!!」
「助けてくれ、金なら幾等でも払うから、助けっ――」
ばくん、ごくん。バクン、ゴクン。
蛇竜が喉を動かす度に、叫び声が無くなっていく。一人、また一人と飲まれながらも、蛇の腹は膨らまない。
竜の蛇、いや蛇の竜――〈蛇竜蜥蜴〉が、客席ホールを縦横無人に這い回る。
蛇竜は一瞬にして騎士――ルクスを飲んだ後、直ぐ様次の獲物に向かい、身を乗り出した。
二メートル近い高さを持った円筒形の体は、現在百人以上が入る大ホールの床、壁、天井を我が道の様に這っている。
右へ、左へ、蛇の胴体が通った後は元は椅子だった物が、その重圧によって木屑となり散乱し。敷かれた紅いカーペットは、瓦状に覆われた、細かい刺が生えている鱗によってズタズタに切り裂かれ、分泌される毒によって溶け出していた。
グネグネ、グネグネ。流れる様にうごめき、濁った光沢を放つ蛇竜の皮膚は、正に魔物にふさわしい。
だがしかし、真に注目すべきはその大きさだ。
未だ全貌を見せず、尻尾はまだ扉の外側。一体、どれ程の長さを誇るのか――――。
「ジャァアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「ああ、ぁぁぁああああ、助けっ――」
天からの奇襲。
ヒュゴッ、と風を起こしながら、鎌首をもたげた自身の体を高速で伸ばし、獲物を蛇の如くまる飲みにする為に口を開けて喰らい付く。
そして腰を抜かして後退り、しかし蛇竜から目を逸らせなかった婦人服の女性が――バグン、〈蛇竜蜥蜴〉の犠牲者がまた一人。
蛇竜の蹂躙を止める為、逃げ惑う群衆の中、一人が剣を抜く。
「ゥエァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――!!!」
それは己の心を昂ぶらせる為の咆哮。
手にサーベルを持った銀戦士。
腰に短刀をさして、腕に赤いバンダナを巻いて。
先程のルクスと違う点は、胸甲鎧の装飾と、肩に着けたマントの刺繍。そして、右手に装着してある小さな丸盾と、サーベルを持つ手が、利き手が左だという事だ。
この世界《ファンタジア》は利き手が右腕の場合が多く、比較的左利きは珍しいと見なされている。という訳で、彼と対峙する場合は、所謂左利きの戦い方のセオリーを学んで置かなければ、意外と苦戦する事は少なく無い。
つまり、左利きの戦士はそれだけで、一種のアドバンテージを得る事になるのである。
更には右手の鏝に付けた、所謂“バックラー”と呼ばれる小盾には、小石程の、赤く輝く石が中心に填められており、それを強調するかの様に線模様で装飾された小盾は、並の物ではないという事を暗に語っている。
そしてサーベルにも、塚の部分に赤い石が埋め込まれていた。
『魔術武器』。
《ファンタジア》では魔力を含んだ稀少性が高い『魔石』や、魔術を埋め込んだ武器等の総称であり、当たり前の様に馬鹿高い。
勿論、唯単に高いだけではなく――まあ、ものにも寄るが、相当の恩恵を齎してくれるそんな武器を一つでも持っているという事は、その人物がかなりの資産を持つ、則ち強者であること示す一種の象徴である。
彼が装備しているは二つ。
『炎弾の小盾』と『纏火の剣』。
どちらも『魔武器』の中では下位の装備ながらも、立派な『魔武器』である。
故に、その銀戦士は相当な実力者である訳なのだが――――
――――彼は、知らない。
左利きという事など、化物にとってはどうでもいい事に。
そして二番目に喰われた“称号付き”の彼。近衛隊隊長ルクス・ハマーディアと名乗ったあの男。
彼の装備は、振り翳した武器のみならず、全身の鎧まで全て『魔武器』だったという事に。
そして、それが一瞬にして飲まれてしまったその意味に。
「死、ねえええええええええええええええええええええ!!」
彼は魔武器『纏火の剣』を抜刀し、魔石保護する蓋を外す。それに打ち水の役割である衝撃を一つ。
それにより魔石が反応。魔力を流し、剣の根元からに刃に向けて、魔力による火を纏わせる。
先ずは顔ではなく、狙うは胴。
剣を大上段で振り下ろそうと腕を上げる。
「――――フシュルルルルル…………」
――勿論、〈蛇竜蜥蜴〉はそれを黙ってくらいはしない。
野性の感覚と本能で、吠えながら近付いてくる餌を感知。
――どうやら、針に等しい刃を振るってくる様だ、と推測し、瞬間的に行動を起こす。
蛇竜は振り下ろされたそれに対し、己の太く長い胴体を、数千数万を越える脊椎骨独特の動きを使い、餌が飛び掛って来る部分だけを器用にくの字に曲げる――勿論、餌の方など見ずに。
当然彼の剣は空を切り、完璧に当たると思っていたのか体制を崩し、隙だらけ。
故に、反撃。
曲げたくの字から>の字に変える、向かって来た餌を弾き飛ばす為に。
大きく撓らせた大木を解放した様に動いた胴体は、その実強靭さと柔剛性を兼ね備えた筋繊維で構成されており、やわな武器では鱗の下の皮一枚すら傷付かない。そして刺の様に尖っている――大蛇にとっての――小鱗は、己の体自身を凶器と進化させていた。
然るに、そんなものが隙だらけの体に直撃した後の末路は、推して知るべし。
「バぐゅ――」
蛙が潰れた様な音を放ち、ぐちゃりと蛇の鞭に打たれた餌はボールの様に吹き飛び、壁の方ヘと突っ込んでいく。
蛇の回避からの一撃、この間僅か一秒足らずの出来事であった。
蛇竜は飛んだ餌の後を追おうと首の向きを変えて、振り返り。
「『太陽の鎗』」
「『変質:巨大化』」
――直後、蛇竜の感覚器が魔力の反応を示す。
蛇竜の真後ろ、先程までの死角から、悲鳴でもなければ咆哮でもない、落ち着いた声が聞こえた。
「――『太陽の鎗』」
蛇竜が耳にした声の片方。
それは一ヶ所に避難した貴族達の集団の前に立つ、指揮棒の様な杖を振るう女性。
赤が混じった橙色の髪。鋭い目つきをした朱色の瞳。艶やかな紅い色のローブをその身に羽織り、走る事に適した皮のブーツを履いている。
女らしさを強調する体のラインに、可愛いというよりは強めの印象を受ける麗しき美貌。
リシュカ王国の祭典、《イースリッション》で働く一人――ベルディック・パラニティアの詠唱の終りを告げる声に呼応して、彼女の手に持った杖『遮光輝紅』は強く輝き、その魔術を発動させる。
突如宙に現れた火が収束し、現れたのは炎の鎗。
肌を撫でる熱を纏う鎗の色は、燃える赤。
全長二メートルと三十センチ、最大幅八十センチ。前方と後方に馬鎗のような形状をとり、底面が大きい方の尖端を、蛇竜の方に向いている。
彼女の周囲にそれが四本、宙に固定されて浮かんでいる。
「――っいっきなぁ!!」
声を張り上げ、同時に鎗が放たれた。
ヒュボッ、と炎を巻き散らし、回転しながら突き進み、鎗は弓に射られた矢の様に飛翔する。
蛇竜はそれを身を動かし回避しようと巨体を動かして―――。
彼女の隣に立つ男の声が、遅れて届いた。
「『変質:巨大化』」
突如、鎗が変貌を遂げる。
炎の鎗だったそれは、蛇竜の胴にも負けぬ支柱の様に成り、目標をうがつ。
そのいきなりの巨大化に、蛇竜は身を捻る様に回転、動めく。
一本目――回避、胴体の下を通りすぎる。
二本目――回避、胴のアーチをくぐり抜けた。
三本目――かする程度の接触、蛇竜の表面のぬめりが蒸発、鱗か少し焙られる。
そして最後の四本目―――――直撃。
「――――シィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!」
刺さった所は目標のの頭部に近い脇腹。
擦れた悲鳴が蛇竜の口から飛び出して、空気が震う。
正確に彼の胴を射ぬいた炎の支柱は、その尖端を、目標の肉の中に打ち込まれ、自身の真価を発揮する。
―――ッ、ボッ!!
まるで深呼吸をするかのように周りの空気を吸い込んで、爆散。
標的の肉を穿ち、命を抉る為に使命を果たした炎鎗は、虚空に溶けた。
強靭と言えども、蛇竜の筋肉は内側からの衝撃に耐えられず、その幾らかが弾け飛ぶ。
そして体内で発せられた衝撃が向かう場所は当然――外。
「ギィィイィイイイイイイィィィイイイィイイ――――!!!」
化物の血は、人間のそれと同じ赤い色。
蛇竜の胴体が弾け、爆風により吹き飛んだ肉片がグシャリべチャリと地に落ちる。
抉れた肉から鮮血が降り、それを顔を上げ、目を開けて見ていた貴族達の幾人かがその反撃に歓声をあげる。
そんな中。
「あ、顔に……」
ぴちゃり。
顔に掛った貴族の一人、腹が出ている男が突然、悲鳴をあげた。
「……ん…………あっ、熱っ?! ―――え、あつ。あぁ、ああぁぁぁ―――!!?」
「どうし――ひぃぃっ!」
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁ! 服が、服が!!」
悲鳴に驚き振り向いた別の貴族の男が見たのは、悲鳴をあげた貴族の顔。触れるか触れないかで宙をさ迷う両手に向けられているのは左頬に異様に目立つ白い肌。
――――否、肌ではなかった。
白い肌の周りには、その男の赤い肉。何本も線が入った様に見えるそれは、彼の苦しみの表情を描く為の横紋筋。
人体構造上、皮膚に覆われていて見えない筈のそれは、今や眼輪筋や口輪筋、咬筋までその姿を外気に晒している。
だが、彼には無い。
頬にある筈の頬骨筋が、彼の手に翳された左頬の上に、無い。
代わりにあるのは白い何か。
それはつまり。
「――――血に触れるなァ! 溶けるぞおおおおおおおおおお!!」
―――彼の、頬骨であった。
しかしそれすらも穴が空き、出来た小さな虫食いから覗かせたのはてらてらと光るピンク、彼の舌。
焼け爛れた皮膚。
焼け爛れた肉。
シュウシュウと肉が焼ける音と共に、何とも言えない脂っこい臭いが広がってゆく。
「あがぁぁぁぁぁ!! あ、あ、あつぃ、ぁつぃぃぃぃ!!」
蛇竜の血は、人間と同じ色をしていた。が、中身は違った。
化物と人間。通う血が同じ色でも、その質すらも同じである筈が、無かった。
一時の歓声から再び、阿鼻叫喚の地獄が舞い戻る。
そんな混乱の中、蛇竜の血が降る、降る、降ってくる。
会場の一ヶ所に固まる彼等が、このままでは血の雨に見舞われるのは間違い無い。
が、当然そんな事を見過ごす筈がなく。
「『形質変容:盾』」
避難者達の前に出たのは丸眼鏡を賭けた細身の男性。
指に填めた指輪が輝き、手に持ち斜めに向けた杖にも見える白い棒が――伸びる。
高速で伸びた棒、それは血の雨の前で止まり、その身を変えた。
溶ける様に拡がって、展開されたのは巨大な盾。円状となったそれは、血の雨を人々の代わりに受け、溶ける。
ジュウウウウウ。恐ろしい音をたて、白い盾に穴が空く。どん、どん、と重い固形物が表面に当たる。盾の中心から伸びる棒が、肉片が当たる衝撃を、自身の持ち主である男に伝導していた。
数秒足らず。彼の手から新たな衝撃が伝わってこないで、その余韻を残すだけとなる。
それはつまり、強酸の血と、それをたっぷり含んだ肉片の雨が止んだ事を意味しており、つまりはもう安全だという事――――では、無い。
突如。幾つもの穴が空いた盾、その一番破損部分が多い箇所から、勢いよくた突き破られる。
何に因って?
――そんな事は、言うまでも無い。
「―――っ!!?」
忘れてはいけない。
この凶悪な雨を降らした根本的原因である蛇竜、〈蛇竜蜥蜴〉は未だ、死んではいないのだから。
「ジャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!!」
血によって潤された喉から、擦り切れた――――まるで次はお前だ、とでも言っているかの様な声。
眼鏡の男には持っている盾を棒に、ましてや他の物に変える為の魔術を詠唱する時間の余裕など、無い。せめて出来る事はといえば、魔力の量に任した身体強化による回避。そしてそれを使えば後ろの人間達は無惨な死を、餌としての死を遂げる事になる。
しかし、丸眼鏡の男にとってそんな事はどうでも良かった。彼はもし、後ろにいる貴族やその護衛達、彼等全員が死ぬ事になっても、別段気にはしない。
その結果はただ、彼等の国での信頼を失うだけで、残念だと思うだけである。
どうでもよくない事は彼――グリニーア・パラニティアが愛する、唯一彼と血の繋がりを持った家族である姉、ベルディック・パラニティアに被害が及ぶ事である。
家族の繋がり、それは彼、そして同時に彼女にとって大切なものである。
グリニーアが今、後ろにいる人々まで防ぐ事が出来た盾の呪文を唱えたのも、貴族達の中にいる護衛を使い、自分達に相対する魔物の勝率を上げる為にそうしたまでであり、この脅威が姉と彼等が別々に、そして同時に襲われたのならば彼は迷わず姉の方を選んだだろう。
だがそれはあくまで仮定の話であり、現在今この状況に於ては、姉が後ろにいるからにして。
つまり防がなければ、又は回避しなければならないという訳なので。ならば彼はどうすればいいのかというと。
――結果として、先程の炎の鎗の魔術を越える速度で向かってくる蛇竜の口は、しかし獲物を捕える事無く阻まれる事となる。
「『守護防壁:壁結界』」
背後からの声。
グリニーアの爪先より少し前方の地面から、ゴゴンッ、と周りの地面を揺らし、勢いよく生えてきたのは幅一メートルを越える分厚い壁。
ノブも取っ手も無く、縦に長いその壁は、中心から十字が彫られており、それを強調する形で立派な装飾が施されていた。
蛇竜は突如現れたその壁に反応出来なかったのか、それとも貫けると確信していたのかスピードを落とさず、壁へ。
――――ゴッキィィィィィィィィイイン!!!
蛇の頭と壁が激突。生物と無機物がぶつかった様なものとは思えぬ凄まじい音を響かせながら、防壁が震えた。
――――ィィィン……。
「……――――ジャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
衝撃の余韻、その一瞬の間の後、蛇竜は防壁の上から鎌首を持ち上げ咆哮を轟かす。
が、それを中断させる様に再びグリニーアの背後から声が。
「――『爆炎華火』」
「『森の戎縛』」
「『身体強化』……『奥技:飛剣』!!」
「『衝風の大槌』」
それは先程とは別で、複数の声。
ボボボ、と蛇の周りに浮いた火の華が爆発する。
床から生えてきた木々が、蛇竜の体を拘束する。
斬撃が直線を画いて宙を飛び、強靭な筋肉を切り付ける。
空気で練られた巨大な風の塊が、蛇竜の頭部に振り降ろされ、鎌首は地に沈んだ。
グリニーアが振り向くと、先ず目に入れたのは姉であるベルディック。そして彼女の後ろには、幾人もの武装した戦士達。
ゴツイ鎧を着た巨漢、身なりが高級そうな女性、見た目騎士の男、三角帽子を深く被る少女、etcetc……。そして彼等の中の一人、ゴツイ鎧を身に纏う男がグリニーアとベルディックを見て、後頭部に羽毛の装飾がされたがヘルムの隙間からにやりと笑う表情を見せ、口を開いた。
「ちょいと遅れたが、俺も手伝わせてもらうぜ」
「――――そうか。頼む」
グリニーアは頷いて、それを肯定。
別にこだわる訳も無し。あの蛇竜相手には対抗する為の戦力は、大きければ大きい程いい。
「わ、わたしもよっ!」
「俺もだ、あの怪物はまだ死んでないだろうしな。それにアイツは俺の主を食いやがった、首を切ってやらなければ気が済まん」
「私も加えさせて欲しいのですが。【嵐風魔道】、称号付きです。足手まといにはなりませんので」
私も、俺も、と貴族達の団体から何人もの人が立ち上がる。大分精神が落ち着いてきまのか、彼等に大きな混乱の色は見られない。
「それに――――」と、初めに声を賭けた男が、ちらりと顔を横へ向けた。
視線の先は会場の二階。いくつかの席だけを中央部分に置いている。そして周りに控えているのはその護衛達。
彼等が画く円形の陣の中心、其処に座っているのは――――。
「――――国王に認められさえすりゃあ、大金星だからな」
男が笑い、それに幾人かが肩で反応する。
どうやら彼等もその考えであり、ちらちらと二階に目を向けていた。
リシュカ国国王、バースルダイグ・グリッドバルム・ゲッテ・ライル・セルグリウッド。国の王の仕事か、彼の趣味か、はたまたその両方かどうか知らないが、彼は《イースリッション》に参加をしている。
当然、今〈蛇竜蜥蜴/ゲルアトゥル〉に巻き込まれている人々の一人なのだが、何故か護衛達、近衛師団は動く様子がない。
それは恐怖で立ち竦んでいるからなのか、それとも。
「“馬鹿息子”だけには目を付けられないようにな」
「おーそりゃ嫌だ。そっちはお断り願いたいね」
グリニーアはヘルムの男に口を開く。
会話とは、熱くなり過ぎたた思考をほどよく冷やすいい冷却材になる故に。
ヘルムの下でガハハ、と強く笑う彼を横目に、グリニーアは二階に佇む近衛師団に目線をやった。
視線の先には、目立つ人物が二人。
「――――まあ、“異世界人”がいるから近衛師団に入るのは難しいんじゃないか?」
「ああ?そんなこたァ無いと思うぜ。逆にあいつらに目を付けられればこっちのモンだ。なンせ王のお気に入りだからな」
ヘルム男が地面に刺さったハルバードを両手で持ち上げ、重心を前に置くように腰を深くし、前傾体勢で構える。
「じゃ。先いってる、ゼェ!!」
ゴシャアッ!! という重い音を放ち、ヘルムの男は、全身を鎧で覆った巨漢とは思えぬ速さで蛇竜へと向かった。
グリニーアはそれを見届ける、精々役に立ってくれと思いながら。
彼は再び後ろに振り向いた。
「――グリア」
「――姉さん」
其所には、最後の家族である姉の姿。
ベルディックはその目を震わし、ローブで包んだ腕を向かえる様に開いて自分より背の高い弟に近付き――――抱擁。
肩の後ろに手を回し、顔を鼻先まで近付ける。グリニーアも彼女を拒む事無く、片手を背中にやり抱き締め返す。
残る片手は姉の頬にやり、その柔肌を愛撫して。
さらさらと抵抗の無い滑らかな感触が、彼の堅く、分厚い皮を持つ手に伝わった。
【陽光魔道】の使い手の姉と【変幻魔道】の使い手の弟。
【魔道】とは平たく言えば、それは魔術の道である。
必要最低限の魔力と才能があれば唱えられる基礎属性の“火”“水”“風”“土”や、それよりかは努力等がいる身体強化の基本魔術の上にある段階、それが【魔道】。
【魔道】には様々な種類があり、各々が各々の特徴を持っている。
例えばベルディック・パラニティアの【陽光魔道】。
この【陽光魔道】は、自身に火の耐性が付与され、基礎属性の他に“熱”や“光”等の新たな属性が加えられた“火”の魔術に特化された【魔道】の一つなのだ。
【魔道】と言うものは、その魔術を極めれば極める程、新しい魔術や属性の発現や、進化等の開拓が進み、それに伴い術者の実力も備わっていく。故に、大抵の【魔道】は基礎魔術とは比較にならない程にバリエーションが増えて、強力な存在なのである。
そして、【魔道】に選ばれ、魔術を習得できたり鍛練することを魔術師達は“魔道を歩む”と言い、魔道を歩まない者は、どんなに言い繕っても“魔術師”とは認められない。
“魔術師”は、基礎魔術が使えればいいのではない。【魔道】を歩み初めてからが、一人前なのだ。
では、【魔道】とは自らの意思で選べるものではないのか?
答えは否だ。
【魔道】は己の道を歩む者を選別する。
つまり、どんな人物でも【魔道】に認められなければ、その【魔道】を歩む権利は無いし、歩む事は不可能なのだ。
これだけは、努力でも才能でも覆せない一つの事実として存在している。
「――グリア」
名前を呼ばれる。
見ると彼女はぷくぅ、と頬を少し膨らまし、表情が緩みながらも不満そう。
彼女の言葉の受け、自らの失態を悟ったグリニーアは苦笑し、鼻先まで近付いた顔を更に近付ける。
その情景は傍から見ると、同胞の家族の抱擁ではなく、まるで男女のそれであり――――事実、正に彼等はそうだった。
「ごめんね、ベル」
「――んっ」
唇と唇の距離が零になり、互いのそれが重なり合う。
一瞬、ベルディックは目を見開くが、それもすぐに恍惚としたものに変わり、合わされた口唇を、もっと、もっと、と強く求めて、自らの口を動かし始める
数秒だったろうか、それとも数十秒だったろうか。まるで離れぬ磁石の様に合わさっていた唇が放され、出来た空間に互いの唾液という蜜が混じりあった糸が引く。
顔、いや、グリニーアから見える胸元から頭の天辺まで全部がベルディックの髪と目と同じ様な、赤よりの橙色に染まり、彼女はそれを隠す為に愛する男の胸に自身の体を預け、彼はそれを確り支えた。
「……ぷはぁ……はぁ……。グリアは、ずるい。こんな事、された、ら、許す、しか、ないじゃなぃ。うぅぅ……」
顔を伏せながら、しかし背中に回した腕の力を更に強めてもごもごと喋る。
グリニーアは家族として――――何より異性として愛するベルディックの頭を優しく撫でた。
「愛してるよ。ベル姉」
グリニーアは優しく微笑む。
親が小さい頃に彼等を残して失踪し、泥水を啜りながらこの世界のスラム街で生きて来た。生き残ってBクラスの実力者まで上り詰めたパラニティア姉弟にとって、家族である繋がりは、大切なものなのだから。
混乱から抜け出してきた者達による反撃が、今から始まる。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
蛇竜が出現した直後。
「おいおい……。どーすんだよあれ」
投げ出す様な、慌てる様な声がその空間に弱く響いた。
一匹の蛇竜により見る影を無くした《イースリッション》の会場の舞台裏。舞台に出す商品を待機するそこに、彼等はいた。
人影は全部で五人。そこには先程までハルアキと話していたスキンヘッドと赤髪の姿も存在している。
一、二、三……全部で五人の人影が、今や戦場と化している客席をこそりと見付からない様に除き見て、顔を見合わせ自分達がどう行動するかを悩んでいる真っ最中である。
当然だ。あんな化物に、自分達が叶う訳が無い。自分達の二倍の体格を持った魔物に相対して、逃げ出した経験がある彼等にとっては当然の思考の帰結としか言えないだろう。
と、言うより、既に彼等には答えが出ている。
彼等は本音を言えば、今すぐ背中を向けて逃げ出したい。勿論、あの魔物と武器を持って戦う事など持っての他だ。
しかし、ならば何故逃げ出さずに彼等はいるのか。
それは、逃げ出したとしても、彼等の問題はその後であるからだ。
もし。そう、もしも彼等の上役である『赫炎の戦斧』のベルディック、『幻影』のグリニーア――パラニティア姉弟や、《イースリッション》総取締役であるゴコロブが生き残った場合、果たして彼等は逃げた自分達の事を許すだろうか。
決まっている。答えは否だ。
彼等には即答出来る自信がある。何故なら、上司が“あの”ゴコロブだからである。
ゴコロブ・バルネ・アガルゴニッシュ。
見た目通りの金に貪欲な性格に、見た目からは想像不可能な商人としての手腕。神は二物を与え無いとは言うが、彼の様になるのだったならば、いっその事手腕を合わせて良い顔を与えて欲しいと言われる程の人物である。まあ、彼が奴隷というものに目覚めたから、今の彼等達がいる訳なのだが、そこは棚に上げておく。
閑話休題。
パラニティア姉弟やゴコロブが生き残った場合。というのはつまり、パラニティア姉弟達があの蛇竜に勝利した場合である。
パラニティア姉弟は、自らの家族に危害が無いと判断すれば、許される可能性は高い。
しかし何度も言うが、問題は更にその上役ゴコロブの存在なのである。
彼は、自分を裏切った者を容赦無く罰する。それも、一思いに殺すのでは無く、徐々に毒を盛る様に、裏切者の土地や財産等を全て奪い、絶望させた後に奴隷へと仕立て上げるのだ。
様々な商会にも太いパイプを持ち、それを使ってとある貴族を滅ぼした事件《ガルド候爵の転落》はリシュカ国内外関係無く、余りにも有名な話である。
そして彼が今いる場所は、国王のいる二階中央。近衛師団の軍の内側。
それは、近衛師団に守られているのとほぼ同義であり、舞台裏の彼等にとって、ゴコロブさん蛇竜に巻き込まれて食われてくれないかなー――――というある種最低な期待から限り無く遠い場所だ。
というより、彼は生き残るだろう。
これは直感ではなく、また状況を分析した結果でもなく、彼等の常識としての決定事項だからであった。
ゴコロブが死ぬという事は、つまりは国王も死ぬことである。しかしそれは彼らにとって有り得ない話だ。何せ一応は日常を送ってきた彼等にとって、一国の王が死ぬ事など有り得ぬ話であり、想像が不可能な話だからである。
王とは老衰や病等でしか死ぬ筈がない。それが彼等の常識で、また近衛師団にいる“異世界人”達の存在が、その証拠の無いそれの地盤をより強く固めていた。
以上を踏まえて考えれば、残念ながら答えが導き出されるのだが――。
「やっぱり、あの蛇の所にいくしか……」
五人の人影の中の一人。
手に両手剣を持って震える男が声を漏らす。
が、彼の右隣にいる赤髪の男が、それに横槍を入れた。
「おいっ、ふざけんなっ。んな事すりゃあ俺達まであの魔物に気付かれるだろ!」
「はあっ? んだよちくしょう、俺だけなのかよ。ああどうすんだよもう…………」
両手剣を持つ男が乗り出した身を、すごすごと戻す。
次に口を開いたのは、赤髪の男の右隣にいる、槍を持った男性だ。
「……逃げるか?」
が、これにも赤髪の男が横槍を。
「いやいやいやいや、そんな事をすればゴコロブの旦那に睨まれるだろ。逃げるなら勝手に逃げてくれよ」
ピク、と赤髪の男の言い様に、槍の男が皺を眉に寄せる。
「…………ジュダン、テメェさっきから否定ばっかしてるけどお前はどうなんだよ」
「は? んなの時が来たら行動するに決まってんだろ? お前はどうなんだよ」
「………………っ」
行けば殉職、退けば野垂れ死。
どちらも早いか遅いかだけで、彼等は終わる。
正しく前門の虎、後門の狼――いや前門の蛇、後門のゴコロブだ。
「………っじゃあ、どうすんだよ!!」
「俺に分かるかってんだ馬鹿野郎ッ!!」
二人が身を持ち上げ、睨み合う。
それをスキンヘッドの男が止めようと動いた所で。
「あ」
我関せずが如く蛇竜の事を観察していた最後の一人が呟いた。
直後。
―――どんっ! ガシャガチガシャァン、ゴロゴロゴロ……ごろ……。
それは言い争いが殴り合いに変わろうとした寸前、舞台裏のすぐ横に凄い勢いで何かがどんっ、と着弾する。
比較的重量がありそうで、金属がぶつかり合う音を立てながら、それは赤髪の男と槍の男の間に到着した。
「なん――――っひ!?」
「あ…………ああ?」
それを目に納めた赤髪は息を飲み、槍の男からは怪訝な声が。
「……う、うで?」
それは腕。柄の根本に赤の魔石を填め込んだ剣を手に掴んだ左腕。
皹が隙間無く入り、既に防具という役割が果たせない手甲に覆われた左腕は二の腕からの先が無く、まるで千切られたかの様な断面からは、紅い水が流れ落ち、其所に小さな水溜まりを作り始める。
しかしそんな光景はすぐに頭から弾き出される事となる。
「――ヤバイッ、此方来るっ!!」
焦燥の叫び。
何が来るというのか。
そんな事、決まっていた。
彼を含めた五人に戦慄が走り、逃げる為、生き残る為に行動を起こす。
直ぐ様彼等は翻し、商品用の奴隷置き場へと繋がる扉へと急ぐ。
赤髪が先頭に、しかし牢屋を開ける鍵束を片手に持って、ノブを掴み――――回す直前、彼に天恵が舞い降りた。
「―――お、俺、いいこと思い付いたぜ?」
「おいィッ?! 早く開けろよテメェ!!」
怒号が飛ぶ。
しかし赤髪は誇らしげに胸を張り、ふふんと鼻を鳴らすだけ。
幸いな事に、未だ蛇竜は来ていない。
そして爆発音をBGMに、彼はにやりと笑った。
「――――お前等、忘れていないか?」
「ああッ!? なんだよッ?! 早くしろよ!!!」
殴る時間すら惜しい。
彼の後ろに並んでいた一人が、いいから扉を早く開けろ、という苛立ちを隠さずに答えた。
だが彼はそれを無視。しかも諭す様に話始めた。
――今は、それどころでは無いというのに。
「俺達はあの“用心棒”、呼んでくればいいんだ」
赤髪の彼は自信満々に言う。
“用心棒”、それは《イースリッション》に所属する人物の一人の呼び名である。
太い眉と額に走る横一文字の傷。厳めしい顔をした両刃の剣の使い手は、ゴコロブのグループに於て特別な位置に立っている。
ギルドランク“B+”彼の実力は折紙付きで、彼等が逃げ出した魔物と自らの得物が無い状態で対峙し、見事徒手格闘で決を下した事がある程である。
更には、彼の両脇に立つ二人の奴隷。彼等は“用心棒”の命令以外、何事も聞かない殺戮人形だ。
“用心棒”と二名の戦闘奴隷。この三人の増援をすれば、確かに罰は与えられないかもしれない。
しかも都合が良い事に、この扉の奥には彼がいる。
つまり彼の考えは、前門と後門の間に現れた第三の門。彼等に、光明が見えた。
「……と言うわけで、あの野郎を探すんだっ!!」
「分かったから早くしろよぉッ!!」
「見付けて呼べばいいんだよな……?」
「はやっ、早く扉を……!!」
既に涙目が一人、拳を握るのが二人、鼻を高くしているのが一人、そして呆れているのが一人。
とりあえず彼等の方針は決まった様で、彼は掴んだノブを回し、静かに掴んだ腕を引いて――――そして、扉が開いた。
バァンと、勢いよく、扉が開いた。
同時、風切り音。
「かひゅ――――?」
ブチィ、と彼の首から、衝撃が走った。
そして驚きの声を叫ぼうとして、しかしひゅうひゅうと空気の音しかしない事に気付く。
目線を下に向ければ、そこには赤い噴水。そして、噴射口は己の首元。
「ごぷっ…………ぁぇ?」
口に溢れた血を吐き、ふらぁ、と視界が揺れる。
腕や膝に力など入らず、彼は操り糸が切れた人形が如く崩れ落ちた。
どしゃあ、と己の血で染まった床の一部に倒れ、先程の左腕と同様に水溜りが広がっていく。広がる波紋は、生暖かい。
痛い、痛い、痛い、何が、痛い、イタイ、いた――――何が、起きた?
ひゅぅー……ひゅぅー……ひゅ……ぅ…………。
呼吸が弱くなり、意識が遠のき視界が暗く。
フェードアウトしていく意識と視界でジュダンに届いたのは、仲間の悲鳴と、彼等に襲い掛る獣達の姿。
そして最後に、牙が並んだ獣の口が近付いてきて――――。
「ガァルルァァァァァァァァッッッ!!!」
バキ、グチュ、ゴリン。
『いただきます』。
先程の咆哮が、彼にはそう聞こえた。
茶色の顎髭、スキンヘッドの男――バルベルト・ガヅッチアーニーは狼狽していた。
実の所を言うと、彼は赤髪の男とは違う、しかし罰から逃れられる方法を思い付いていたのだ。
それは至極単純なものであり、また彼にとって安全性の高いもの。
要は、同じ舞台裏にいた知り合い達が逃げ出した際に捕え、生きたままゴコロブに渡す、という、ただ単純に裏切った者を捕える、それだけのもの。
これならば、五人の中で実力が一番高いバルベルトで可能な策であり、それは簡単に出来る事であった。ギルドランク“D+”、“用心棒”の足元にすら及ばないものの、それでもバルベルトは彼らの中では一番強い。
それは、簡単。簡単だった筈なのだ。
しかし今、現実は彼の想像の範疇を越えて、言葉通りに牙を剥けている。
ガツ、ガツ、ボリュ、ブシュ、クチャ、クチャ。
止まぬ地鳴りの中、いやにはっきりと耳に入るのは肉を貪る咀嚼音。生暖かな空気と、鉄の臭いが立ち上り、一瞬で獣臭くなった舞台裏を満たしていく。
バルベルトがちらと横に視線をやると、そこには獣。
茶褐色の体毛に、項から肩まで生えている立派な鬣。隆起した筋肉に覆われた四肢に、臀部に生えた三本の尻尾。どちらも先端に近付く程黒くなり、しかし指の爪は上質の刃物を思わせる程白く輝いていた。
しかしそれらは今、先程までバルベルトが捕える筈だった者の一人――赤髪の男だった人間の血の色に染まっている。
鉤爪が生えた足に押さえられているのは彼の胴。胸から先が獣によって見えないが、既にもう、彼はこの世にはいない事は確かである。
「く、くるなぁ! 来るんじゃねェ!!」
少し離れた所から怯える声が。
おそらくは最初に蛇竜が来る時に声をあげた男のものだと思わせるそれは、しかしバルベルトが確かめる前に途切れ、代わりに新たな方向から肉が千切れる音が聞こえる事となる。
獣が赤髪の彼の喉笛を噛み千切ってから数秒、未だバルベルトを除いた二人の悲鳴が聞こえる事から、彼等は一応は生きているという事が分かる。
しかし、バルベルトは彼等を助ける余裕等無い。
何故ならばバルベルトの目の前、彼の瞳が写すのは一匹の獣――の口内。
凶悪な牙が乱立し、その間からはザラザラしてそうな見た目をした赤い舌を覗かせる。中でも目立つ犬歯は、大きさが十五センチを越えていた。
そう、今彼は、扉の奥から現出した猛獣達の一匹に、組伏されている体制なのだ。
「グルル……ガァッ!!」
「おお、らああぁ………!!!」
ギ、ガギ、ギ、ギ……!
牙と刃の鍔迫り合い。
目と鼻の先に近付いた牙から垂れた涎が、バルベルトの頬を濡らす。
バルベルトの命を繋いでいるのは、一本の短刀。
獣がバルベルトに飛び掛って来た瞬間に“己が持つ武器の中で、どれが一番早く抜けるか”、という無意識下で行われた咄嗟の判断による行動で、彼は獣の突進に被害を受ける事無く防いだのだ。
だが、それはバルベルトが一番後ろに並んでいたから可能だった事であり、それより前にいて、尚且つ彼よりも実力が無い四人は当然反応出来た筈がなく。バルベルトが獣に押し倒される前に見た光景は、お互い違う種類の獣に、バーグの腕と、ベードの太い片足を、宙に飛ばされていたものだった。
「い、い、か、げん……にぃ……!!」
「ガァァァァァッ!!」
ギ、ギ、ギ、ギ、ギギ……!!
バルベルトが獣の牙を押し返し始める。
カチカチャカチカチ、柄と短刀の背にやった腕に全力が込もり、それを受けて短刀は牙と擦れ始める。
「――――しやがれェッ!!」
腹筋で腰を浮かし、獣の腹に苛立ちを込めた蹴り。
その威力で獣の体が浮き、喉の奥から苦痛の声を涎と共に外へと漏らす。
一瞬の硬直。
それを逃がさずに、バルベルトは短刀から片手を放し、側に落ちていた物を拾い、振りかぶった。
「オ、ラァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
ドズッ、と手に伝わるのは肉を突き破る衝撃、感触。
口の中から根元まで刺さったそれは、確かに獣の体の半分以上を貫いていた。
人間ならば致命傷、いや即死の一撃。
だが、それでも。
しかし、それでも。
「…………ガァァッ……!!」
獣は死なない。
最早致命傷なる傷だとしても、彼にとっては即死ではなかった。
怨みを込めた瞳で見据え、一矢報いようと、獣は鉤爪の生えた腕を振り上げて―――――。
「くらい、やが、れえええええええええええええええええええええええええ!!!」
バルベルトは左手に持った短刀を、サーベルが突き刺さっている獣の頬に突き刺した。
全力を込められた短刀は頬の剛毛と皮膚、そして肉を勢いよく貫通し、牙と牙の間隙を通りそして――――ガリン、という硬い物を削る音。
バルベルトは知っていた。
先程飛んで来た、左腕に掴まれたあの剣を。
短刀が届いた場所は、口内に刺さったサーベル、その柄の根元。柄の根元に填め込まれたそれは、赤く輝く小さな『魔石』。
バルベルトが持った剣、それは魔武器『纏火の剣』。
それに填められた魔石は、衝撃という呼び水により、それに応じた炎の魔力を放出する。
そして持ち主だった彼の手甲でも砕けなかったそれは、その身を割られる衝撃に対して、どれ程の魔力を放出するというのか。
その、答えは。
―――――カッッ!
バァァンッ!! と、サーベルが刺さった口内が光った直後。魔石は魔力を全て放出し、爆発。結果、獣の頭は炎を噴き出しながら肉片となり、弾けて燃えた。
首から上がバラバラになり、ザクロの様な傷口を残して、ぐら、と体を支える軸がぶれる。振り下ろされた爪は、バルベルトの真横に突き刺さった。
力尽きた獣は、バルベルトの上に被さる様に倒れ込み、その首から吹き出る鮮血が、バルベルトの頭を含めた上半身を濡らしていく。
「……………………ハァッ……ハァっ…………邪魔……だ」
バルベルトは既に骸と化した獣をゆっくりとどける。というか、ゆっくりとしか体が動かせないのだ。
全身に掛っていた緊張が緩み、当てられていた殺気が虚空に霧散。
忘れられていた疲れや痛みが、じわじわと身体中に広がり始める。
正に、満身創痍。
暫くは立ち上がれない程疲弊した彼は、落ちそうになる瞼を上げる。
ああ、静かだ――――。
バルベルトは、ほう、と息をついて、自身が生きている事を実感する。
今、彼の頭には、蛇竜の事やゴコロブの事等欠片も無く、唯々今の攻防で生き残った事に対する安堵で埋め尽されていた。
だから、彼は気付かなかったのだろう。
「―――」
「……………ん?」
薄れた意識の中、耳に何かが入ってくる。
それを確認する為に顔を横にごろりと向けて―――
――――そこで数匹の魔獣が此方を見ているのを視界に入れた。
「…………ぁあ?」
獣達の周りを見れば、そこにはバラバラになった、腕、脚、胴。それはきっと、元は人だった四つの肉塊。槍は二つに折られ、所有者の血で濡れた両手剣は、肘から千切れて床に転がっている。
そうか、途中から悲鳴が消えていたのか。
バルベルトは今頃気付いた。とはいっても、すぐに気付けたとして、何が出来たのというのか。
「………………はっ」
グルル、グルルル、ガルルルル。
バルベルトを見て、牙の間から涎を垂らしているのは全部で三匹。他はおそらく、舞台から客席に雪崩れ込んでいるのだろう。
「グルルルルルルル……………」
彼等の目には仲間を殺された恨みや憎しみ等の感情は見えず、まるで自身を餌だという様な、楽な相手を見つけた様な、捕食者の目。
「――――――畜生が」
その言葉は、誰に向けたものだったのだろうか。
獣達の跳躍。
【295136888→295136891】の変化はミスではないです。