蹂躙_02(下・その1)
迷宮第一階層、その一角で、大きな歓声が沸き起こる。
それは気が触れたために起こった狂宴などではなく、勝利を掴んだがための咆哮だ。
「やった!! やってやったぞッ!!」
「……ははッ! ザマァねぇぜ、この化け物が!!」
「ああ、やっと死んだか……このモンスターがッ」
血で濡れながらも、彼等は笑う。
初め挑んだ時は数十人単位だった彼等はその数を半分以下に減らしてはいたが、今はその対価の味に酔いしれていた。
円陣を組んだ彼等の中心には、一匹の巨大なモンスター。全身を包んでいた茶色の体毛は、四肢や胴に幾つも突き刺された武器を伝って流れる鮮血で紅く染まり、捻れて円を描いていた二本の牙の内一本は、その根元から折られていた。
それは頭胴長四メートル程の巨大な猪、ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉――その骸である。
リュシカ王国軍の兵士達はこの暴れる猪を前に武器を持ち、そして見事自分達の生を勝ち取ったのだ。
「…………これで、家に帰れる」
皆が歓喜に浸る中、兵士の一人が言葉を溢す。
それが彼の限界だったのだろう、涙が瞼から溢れ落ち、血と汗で汚れた頬を伝っていく。
仲間達が見ている場所で泣いてしまう、という本能的な恥ずかしさから、すぐに彼は顔を伏せ、掌を使って涙を拭う。
それでも涙腺は決壊したままで、本人が意識していなくとも、ひっ、ひぐっ、嗚咽が彼の口から漏れだしており、鼻をすする音もまた、彼の周囲へと聞こえていた。
彼が泣いている理由は他でもない――自分が今生きていることに対する、この上のない安堵である。
ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉との文字通りの死闘を生き残り、こうして地面に立っている。
自分は、死んでないんだ。
家族に、また会うことが出来るんだ。
彼には“死”というものがどのようなものかは知りもしないし、考えたこともない。ただ、あの巨大な猪が孕んでいた“死”というものは、彼に恐怖を覚えさせるのは十分すぎたもので。
だから、彼は泣く。
この世界に“生”を受けた時と同じように、今もまた、彼は“生きている”そのことを実感したのだから。
「おいおい、泣くなって。へへ、気持ちは分かるけどさ」
「そうだぜ。まだ俺達はこっから帰り道まで気を付けなきゃいけないんだからよ」
「うぐっ、な、ないてなんか、ひっ、な、いっ」
「嘘つけやっ。なんなら顔を見せてみぃ、顔をっ」
「ちょ、ち、ま、やめっ」
「うわー、目ぇ真っ赤じゃねえか。ハンカチハンカチ……ってだめだ、血で濡れてるわ」
彼の周囲にいた何人かの者達は、泣いている兵士に言葉をかける。
彼等の表情は一様に笑みを溢しており、はははと軽い声で笑い合う。それが束の間の休息だとは分かっていても、もう少しだけはと考えながら。
《――ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉が撃破されました。『条件:500,000pの獲得』を満たしていることにより、転生判定を行います》
ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉は死んだ。それは揺らがぬ事実である。
しかし、彼等は一つ、忘れていることがある。
今現在の【迷宮】内で発動されている“倒されたモンスターは復活する”という効果、それは何も〈ゴブリン〉や〈コボルト〉に限った話ではないという、そのことを。
――彼等の休息の終わりは、予想外の、そして最悪な場所から一方的に告げられることとなる。
その、場所、とは。
《ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉の転生判定を行います。【転生成功確率:0.01%】に【余剰獲得P:242,698p】、【侵入者撃破数:144】の補正がかかります――【転生成功確率:0.336%】》
《ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉の転生判定を行います。【転生成功確率:0.336%】に【呪われし憎悪】、【赦されざる慟哭】、【数の不利】の補正がかかります――【転生成功確率:1.134%】》
《ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉の転生判定を行います。【転生成功確率:1.134%】に【エクストラステータス:腐敗】による強制補正がかかります――【転生成功確率:100%】》
《ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉の転生判定を行います。【転生成功確率:100%】――転生判定に成功しました。これよりユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉はユニークモンスター〈そして猪は彼等を呪う〉に新生します》
「――あーもう汚ねえなぁ…………ん? なんだぁ、これ?」
猪の周囲にいる一人の兵士が自身の右腕に装備した小手を外し、腕にかかった〈向こう見ずな猪〉の返り血を拭っている時に、ふと気付く。
腕に付着している血が、何か紋様のように変わっているのだ。それは見る者が見れば、星等の西洋風の記号を使用したものではなく、鳥居や丸を描く陰陽の印等の、極めて東洋風の文字だと思っただろう。
――目の錯覚か、そう思って彼は強く腕を拭う。何かしら得体の知れないものに、恐怖を抱いたのは錯覚ではなかったから。
「……?」
だが、落ちない。
不信に思った彼は、もう一度腕を拭う。
腕に付いていた血は今度こそ落ちて――いない。
「…………あ?」
混乱する彼は何度も腕を擦るように拭くが、かかった血は一向に落ちない。
見れば、先程より紋様の範囲が広がっている。彼の右肘の一部だけに書かれていたそれは、いつの間にか右腕全体にまで広がっていた。
たらり、と冷や汗が彼の額を伝う。
悪感が全身を襲い、かちかちと、無意識の内に歯が鳴り始めた。
気付けば紋様は左腕にまで回っており、彼は思わず顔を押さえる。が、紋様が広がっているかは分かる筈もなく。
――何だこれは。何だこれは。何だこれは!
そう心で叫んだ瞬間、ずるり、と猪の血で書かれた紋様をなぞるように、数センチ程の“何か”が彼の全身を這い摺った。
「――――ひ」
彼の心は、決壊する。
「ひ、ひひ、ひ――ぎゃああああああああああ!!!」
歓喜に浸った空気の中に響いた突然の叫び。何事か、と顔色を変えて声の方を振り向いた彼等の目に飛び込んで来たのは――先程まで元気だった兵士の一人が、文字通り真っ黒になっている姿だった。
「ああああああぁぁぁぁ――、が、ごぇ、ぁがげがごぶぁぶぷぶぶぷ…………」
彼の肌が見えている箇所は、顔と左手と右腕のみ。しかしそれは恐らくは全身も同じく黒に染まっていることはまず間違いなく、顔を押さえている両手の指の間からは、茶色だった筈の瞳や周りの白眼ですら、黒に侵食されているのが見える。
最早叫び声は人のものとは思えないものへと変わり、彼の口からはぶくぶくと黒い泡が漏れだしていて、次の瞬間、がしゃんと硬い音をたて、彼の鎧は地面に落ちた。
つつ、とその鎧の隙間から、闇のように暗いタールのような黒の液体が漏れ出し、水溜まりが出来るように広がっていく。
《『“人間”スコア:3,301p』が加算されます》
「…………お、おいっ? どうしたんだっ、おいッ!」
兵士の一人が言葉を投げるが、返答は返ってこない。
それも当然、彼は液体へと変わったのだから。
「な、なんだこ――」
「う、うわっ、と、とれないっ! とれないっ!! とっ――」
ばしゃん、ばしゃん。
次から次へと、猪の血がかかっていた者が、骸に近い順に液体となって死んでいく。
――意味が分からない。
それを只見ている兵士達は、皆共通してそう思った。
ゴブリン達を殺して、森を蹂躙した。急にモンスター達が豹変し、仲間を殺られ、そして彼等は〈向こう見ずな猪〉という名の地獄と出会った。
それを自分達は、乗り越えたのだ。
幾人もの仲間を失い、しかしそれでも自分達は生き残ったのだ。
だと、いうのに。だというのに神は自分達に、更なる地獄を与えるというのか。
誰かがぽつりと「……かみさま」掻き消えそうな声で、そう呟いた。
そしてその返答に答えた者は、神ではなく。
「……………ォォォオオ」
それは断じて生き物の声と認められることはできない声だ。深淵から、常闇の底から響いてくるような、そんな汚泥のようなもの。
……ざわ、ざわざわ、ざわざわざわざわざわ。
骸を晒す〈向こう見ずな猪〉、突如、その周囲の草木が揺れる。
時が刻まれる毎に草木が揺れる範囲が広がっていき、それは猪の死屍を中心に、半径五メートル程いった所で広がるのを止める。
そして、その空間内の草木が、瞬く間に腐り落ちた。そして草木だけではなく、土でさえも、空気でさえも、ぐずりぐずりと形を崩し、肉が腐った悪臭を放つ。
先程まで人間だった黒いタールのような液体は、猪の周りに引かれていき、吸い上げられるように地面から猪の体に移る。
兵士達が騒ぎ出したが、既に状況は動き始めている。彼等が何か行動に移す前に、一度死んだ、殺された筈である猪は起き上がった。
しかし、それはもう、“猪”と呼んでいいかすら分からない。
そのモンスターは全身を黒いタールで覆い、黒い塊となっていて、目の位置の場所だけが、血のように赤く光っていただけだったのだから。
No,10209:〈そして猪は彼等を呪う〉▲詳細
『消費P:[0p]
限界個体数:[1/1匹]
出現条件△
・“魔獣型”モンスターが生成可能。
・ユニークモンスター〈向こう見ずな猪〉が出現している。
~中略~
特徴△
・決められた条件を満たすことで発生するユニークモンスター。
・見た目は元の〈向こう見ずな猪〉とは懸け離れており、体格は5メートル超。全身からは呪いが症気と化して漏れ出しており、腐った体による悪臭を放っている。
・〈そして猪は彼等を呪う〉の全身を覆っているタールのような黒い膜は、このモンスターが持つ【呪い】の効果が付与された防御膜である。
・この粘性がある液状の【呪い】は、素肌に触れた場所から侵食していき、最終的に【呪い】をかけた者を新たな【呪い】に変換し、それを吸収することにより自身の【呪い】の膜を厚くしていく。
・また、他にも数種類の【呪い】の魔術を保持しており――』
ぞぷり、腐った土壌が沼のように変質し、モンスターの四肢が土に埋まる。
新生したユニークモンスター、〈そして猪は彼等を呪う〉は、逃げ出そうと背を向けていた兵士の方へと顔を向け、ぶるる、と体を揺らす。
びちびちと、体を覆っている【呪い】の粘膜の表面張力が限界を越えて、周囲にが跳ねた。腰を抜かしていた兵士達の幾人かがそれにかかり、絶望を孕んだ絶叫を上げる。
だが、その叫びを無視し呪い呪われた猪は逃げ出した兵士達に目掛けて足を踏む。
そして力強く大地を蹴ろうとした直前に。
「――標的良し、三番隊、やれ」
あくまで冷静に、そして冷酷と感じられる程鋭い声がその場に響く。
そして一拍経たずに幾つもの魔術が的確に〈そして猪は彼等を呪う〉へと着弾し、その巨体を数メートル吹き飛ばす。
ずず、土が捲れ上がり、猪は今の攻撃を放った相手見る。
既に逃げ出した兵士以外は新生した猪の【呪い】により、その防御膜へと成り果てており、猪の周りに生きている者はいない。
ならば一体、何者が。
「――ふむ、矢張り跳ねるか。重装、八人。前へ出ろ」
猪の視界に映ったのは、先頭に立つ人物が、後列の者へと指示を出している光景だ。
ずしゃり、と全身に鎧を纏い、片腕に全身の半分以上が収まる長方形の盾を持つ、重装歩兵が前に出る。
猪は怒りと殺意がごちゃ混ぜになっている頭を働かせ、己に攻撃を喰らわせた相手を認識し、決める。
――獲物は、こいつ等だ。
〈そして猪は彼等を呪う〉が標的を変えて、目の前にいる侵入者達に突進の構えをとった。
ぶるん、と【呪い】の膜が、大きく揺れる。
「おい、あれを素肌に貰うなよ、全て防げ。まあ、失敗しても死ぬだけだ」
先頭に立ち、声を出した人物は、金髪青眼、凛々しい顔立ちを持った精悍な男性。美男子と言えるその顔をこれからの死闘に対する愉悦で歪ませているのは、リュシカ王国近衛師団が隊長――フェアブレア・ナッツィ・レッヒェエンド。
迷宮に新たなる侵入者が、今、ここに。
[11:49:58]
「――オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!」
巨大な黒の塊が、混濁極まった咆哮を上げると同時、【呪い】の膜を巻き散らしながら地面を蹴った。
その突進は生前――〈向こう見ずな猪〉の時よりも強く、まるで巨大な槌を大地にぶつけたかのような音と共に、迷宮の土に小規模のクレーターが出来上がる。
その勢いは、砲弾の如く。
一歩、足を踏み抜くだけで、ただでさえ凄まじい迫力が倍増していくように感じられる。
そしてあと数瞬で前に出た重装部隊と激突するというタイミングで、フェアブレアの声が、彼等に飛んだ。
「――――やれ」
――『戦技:大地に穿つ守護の杭』。
前に立つ重装歩兵の二列八人の内前列の四人が、一斉に魔力を消費して使う戦技を発動させる。
ズズズン、と彼等の表面に出た見えない魔力が肌を覆う鎧となると同時に地面に刺さり、彼等の体を固定する。腰を元々低く構えていて、手に持った盾でモンスターの突進を止めるために、そして己の体を隠すように、彼等は腕を前に突き出した。
戦技とは、言われて想像してみると、何か魔力とは別のものを消費して発動していると思うかもしれないが、この世界――《ファンタジア》では、歴とした魔術の一種なのである。
詳しく言えば、魔力を持っていたとしても、魔術師達が使うような【魔道】に魅入られなかった者達が行き着く基本魔術の部類、という言い方が正しい。
ここで出てきた基本魔術とは何か――それは《ファンタジア》にある、魔術の大きい枠組みの中の一つのことだ。
この世界には、大きく分けて三つ、“魔術”に関する枠組みがある。
一つは、ある程度年を重ねた子供から大人まで、魔力を持っていれば誰にでも唱えられる基礎魔術。
これらは誰にでも唱えられるという利点はあるが、その威力は有って無いようなもの。生物にはほとんどと言っていい程威力を持たず、主に日常で使われることが多い。
つまりは大半が使えても使えなくても余り関係がない、そんなあってもなくても問題が無い程度の魔術である。
もう一つが魔道魔術と呼ばれるもので、俗に言う【魔道】の魔術である。
こちらは基礎魔術とは違い、明らかに殺傷力を秘めた魔術から、日常内外でどっちも便利な――『照明』の魔術など――魔術等、兎に角基礎魔術とは次元が違う。
ただしこちらは魔力の量や才能、更には【魔道】事態に魅入られなければならないので、はっきり言って得ようと思っても得られる類のものではない。
そして三つ目は基本魔術。
これは魔力の量や魔力を扱う才能が有ってたとしても、【魔道】に選ばれなかった者達が選ぶ魔術である。
【魔道】とは、本人が数ある魔道の中から選ぶのではない。実際はその逆、つまり数ある【魔道】が、その使い手を指名するのである。これは――あるかどうかは分からないが――魔道自体の意思なのか、はたまた神の采配なのかは分からぬことではあるのだが、今解明されていることとしては、【魔道】は誰もが得られるものではないし、魔道魔術は【魔道】から伝授されるということである。
では基本魔術とは何かと言えば、これは基礎魔術の延長線上――つまりこの世界の魔術学者や魔術に関する研究者達が開発した、“この世界独自の魔術”なのだ。
【魔道】の魔術もこの世界特有の魔術と言われれば確かにそうなのだが、この基本魔術は所謂“人工”魔術なのである。
例をあげるとするならば、水汲みを想像してもらいたい。
川から直接水を汲んでくるのが基礎魔術。
雨乞いの儀式等をして雨を降らせるのが魔道魔術。
井戸や水道を引いてそこから水を汲むのが基本魔術、ということである。
そして、この“人工”である基本魔術は、【魔道】の魔術とは比較にならない程に“属性”の魔術が弱い。
ならばということで、『身体強化』や『戦技』等の、【魔道】には発見されていない、言わば戦士系の魔術のレパートリーが豊富となってしまい、今では“魔術”ではなく“戦技”という風に一般的に言われている。
勿論、あくまで歴とした魔術なので魔力は消費するし、こちらは基礎魔術とは違い努力や才能が必要となる。
しかし、その努力で得た威力は、本物だ。
「――オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッッッ!!!」
咆号、激突。
質量のある金属の盾と、凄まじく堅い骨を持つ猪との邂逅は、両者共に退かずに終わる。
重装歩兵は四人掛りですら二メートル半近く押されたが、盾は誰一人として弾かれておらず、また猪の突進も無事、こちらの被害ゼロで抑えきることに成功する。
そして制止された猪に向かい、残る四人の重装歩兵が片腕に持つ槍を構え、より強い貫通力を引き出すために、彼等は槍を持つ手を腰元にぎりりと引き寄せ、力を溜める。
フェアブレアの指示が飛んだのは、その直後。
「顔は狙うな。目か、前足――やれ」
先程の多数の魔術の着弾場所から、何処が傷を負いやすく、何処が傷を負いにくいかを観察したフェアブレアは、頭蓋骨が十分頑丈だということを把握し、的確な指示を出す。
何をやれとまでは言われてはいないが、それくらいのことは、フェアブレアが育てあげたと言っていい近衛師団の一員である彼等にとって、迷うものではない。
即座に四人の内、内側の列にいた二人は猪の赤く光る眼球に狙いを定め、外二人は槍を下段に構えて目標に切っ先を合わす。
「――『戦技:喰らい付く矛』!!」
ほぼ同時に放たれた技は、勢いよく突き出した槍から放つ、魔力の矛。
日頃の訓練により洗練されたその攻撃は、目にも止まらぬ速さを持って〈そして猪は彼等を呪う(タタラレルモノ)〉へと牙を向いた。
堅い音が、空間に響き、べちゃり、と【呪い】の膜が宙を舞う。
〈そして猪は彼等を呪う(タタラレルモノ)〉の怒りの咆哮。びりびりと周囲の空気が震える。
両眼には当たらなかったものの、前足に放たれた『戦技:喰らい付く矛』は兵士の狙い通りに命中し、猪を大きく退けぞらすことに成功したのだ。
「――オ゛オ゛オ゛゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛!!」
もう一度、猪は吠える。
しかしそれは今しがたの攻撃によって吐き出された痛みからくるものではなく、反撃がための宣言だ。
自身の体を包む【呪い】を文字通り巻き散らし、〈そして猪は彼等を呪う(タタラレルモノ)〉はその赤い瞳で、呪うべき対象を視界に入れて、己が魔術を発動させる。
それは正しく、呪いそのもの。
――『災厄呪詛:来タレ、紅ニ濡レタ黒キ水』。
ごぽり、猪の傷口から、身を包む【呪い】の膜とはまた別の、しかし異様な液が漏れ出した。
赤黒く、まるで血が固まり、酸化された後のような色をしているその水は、ごぽ、と一瞬途切れた直後――瀑布の如く噴き出した。
その赤黒い水がかかった草木は、瞬く間に水分が絞り取られたかのように枯れていき、青々としていたものが見る影もなくなり、砂になったように崩れてしまう。そして赤黒い水は逆にその体積を増していき、発動させた術者である猪を中心に、全体へと広がっていく。
しかしその攻撃は、フェアブレア達に届くことはない。
何故なら、それは。
「二番隊、守護四枚。囲め」
フェアブレアの指示が飛ぶと同時、〈そして猪は彼等を呪う(タタラレルモノ)〉を中央に、【聖護魔道】の魔術の一つ『守護防壁:壁結界』が四方を塞ぎ、天上だけが空いた四角い枠を形作る。
デザインは一つ一つ違うが、巨大な壁という点には変わりなく、『守護防壁:壁結界』。
『災厄呪詛:来タレ、紅ニ濡ヌレタ黒キ水』ごと閉じ込められた猪に、フェアブレアは更なる追撃を実行する。
握っている左拳を頭上に上げて、人指し指と中指の二本をくい、と動かす。合図を受けた魔術隊が、戦闘の開始直後から詠唱していた【聖護魔道】の一つであるそれを発動した。
「『聖印結界:月夜に輝く月桂樹』」
【聖護魔道】。
それは誇りを守る者。
侵すものは決して赦さぬ。
赤き血を止め、不浄を癒せ。
盾を持て。楯を持て。前に塞がる敵を見よ。
それは、己を護る者。
『聖印結界:月夜に輝く月桂樹』、それは不浄を持つ者に対する絶対聖域。
白く発光する円陣の中に月桂樹の葉と実が描かれているその内部は、下位のゾンビ系のモンスターや〈スケルトン〉等のモンスターは存在することすら許されず、入った瞬間、彼等は灰塵と化して死に絶える。
使用するにあたりかなりの魔力と時間を消費するそれは、同じ隊に属する三兄弟により、一人でやるよりも早く、そしてより強力な威力をもって発揮された。
――ユニークモンスター、〈そして猪は彼等を呪う〉は、“腐敗”の効果で蘇っており、確かにこの魔術は喰らうこととなる。しかし、猪にとって致命的だったのはそれではなく、『月夜に輝く月桂樹』が持つもう一つの効果の方であったのだ。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛…………!!」
〈そして猪は彼等を呪う〉、その巨体を覆っていた【呪い】の膜が、しゅうしゅうと煙をあげて無くなっていく。
そしてそれは先程の『災厄呪詛:来タレ、紅ニ濡ヌレタ黒キ水』も同様に、少しずつ浄化され始めていた。
そう、『月夜に輝く月桂樹』、そのもう一つの効果は、“呪い”や“毒”等に対しての浄化。
つまりこの結界の内部では、いかなる呪いも解呪されてしまうということであり、〈そして猪は彼等を呪う〉は、アドバンテージである【呪い】の防御膜を、浄化による除去をされてしまうのであった。
だがしかし――森羅万象に言えることだが――物事はそう簡単にはいきはしない。
〈そして猪は彼等を呪う〉を覆っている防御膜は、結界が発動して数秒が経っても、その全体量は十分の一程しか減ってはいない。
【呪い】の膜は何かしらの生命体に当てることで補充が可能、故に大した支障にはなりはしない、〈そして猪は彼等を呪う〉はそう判断し、四方を囲っている『守護防壁:壁結界』をなんとかしようと行動に移る――――その直前。
「【魔力介入】発動。『対象:『聖印結界:月夜に輝く月桂樹』』」
“異世界人”、烏丸清人。
彼がこの世界に来て得た力、その効果が今、発動する。
スキル【魔力介入】。
これは文字通り、他者に対する魔術等の魔力に干渉する能力だ。
魔力とは一人一人が血液型が違う血のようなものであり、その型が合わなければ干渉することは出来ない。つまり他者の魔力に干渉するには、どちらも同じ血縁関係――つまり従兄弟等ではなく、同じ親を持つ兄弟姉妹――でないとほぼ不可能、ということ。
しかし烏丸清人のスキルは、その“魔力の干渉は血縁関係でないと不可能”という枷をぶち壊し、血縁関係ではない他者との魔力に干渉できるのものなのだ。
魔力に干渉出来るということは様々な利点があり、それは例えば《イースリッション》に蛇竜が現れた時にベルディック姉弟のみが見せた、『太陽の槍』と『』の連携や、たった今発動している『聖印結界:月夜に輝く月桂樹』の行使を早めたり、他にも失った魔力を補ったり等、どれも強力な効果が得られるのである。
そのスキルの制約として、“他者の魔力に干渉できるタイミングは、他者が魔力を使って何かをする時でないと不可能”というものがあるので、魔力を持っている人物の魔力を根こそぎ奪ったり等は出来ない。
しかし魔術とは魔力の量でも威力が増加するので、魔力量が魔術師の平均よりも比較にならない程にある清人にとって、スキルから得られるメリットはあまりある。
スキル、【魔力介入】。
清人は己の魔力を、発動している『月夜に輝く月桂樹』に与え、その効果を劇的なまでに高めるのだ。
キィン、と聖印が瞬いた。
元々結界が放っていた光が更に強くなり、それに比例してその効果が倍増する。
比較にならない程に強くなった解呪の効果により、〈そして猪は彼等を呪う(タタラレルモノ)〉の【呪い】の膜は数秒足らずで完全に無くなり、その素肌を外に晒す。
同時、壁結界の外から、声。
「――魔術隊、一人。火を撃て」
膜が浄化しきったタイミングを長年培ってきた勘で計り、フェアブレアが指示を出す。
これも先程魔術の斉射の際に、他の魔術よりもダメージを負っていたことから見極めたものであり、攻撃を加える場所は勿論、『守護防壁:壁結界』で囲んだ包囲陣の唯一が穴、上空から。
魔術隊の一人が、それを唱えた。
「『燃え滾る赫斧』」
【陽光魔道】の魔術が一つ、『燃え滾る赫斧』。
それは刃渡り八十センチ、柄一メートルと六十センチという戦斧。輪郭を赤く燃える炎で作り、火の粉がぶわ、と漏れ出している。
そんな人がくらえば切られた所の怪我では済まないその魔術を見て、フェアブレアは言った。
「――――キヨト」
「あいよ」
【魔力介入】、発動。
『燃え滾る赫斧』の輪郭が一度大きくぶれて、大量の火の粉を噴き出した後、そこにあったのものは別のものと化していた。
刃渡り三メートル、柄八メートル。
炎は先程よりも赤く燃え、離れていた場所からでも熱風が届く程に。戦斧の輪郭だけだった『燃え滾る赫斧』は、炎の凹凸や周囲に浮き出た紋様等により、正に炎の戦斧と変貌している。
当然、威力はそれ以上に上がっており。
それは慈悲など欠片もなく、〈そして猪は彼等を呪う〉に振り降ろされた。
肉が焼ける臭いと、獣の断末魔の鳴き声が、『守護防壁:壁結界』の中から響く。
暫く時が経った後。
「――そろそろ、死んだか。さて、あとは骨を砕いて終わりだ」
かくしてこの場での戦闘は、侵入者側の勝利で幕が、降ろされる。