序章_01
※注意!!※
この作品には“地震”の表現が含まれています。それでもOKだという人だけがお読み下さい。
尚、津波などの表現、地震による落石や倒壊、またそれによる死者等の表現は一切ありません。あくまで迷宮を造る際に必要な表現です。
《ファンタジア》、と呼ばれる世界がある。
其処は近代科学の影等見えず、代わりに魔術という奇跡が飛び交う世界。
緑が生い茂る大地に、広がる海の水平線。
澄みきった蒼の空に飛ぶのは巨大な翼を持った竜の群れ。
しかし、一見美しく見えるその世界にも、争いや悲しみは存在する。
動植物を傷付けるモンスター達。友や恋人との別れ。
そして“勇者”と“魔王”の存在。
《ファンタジア》に存在する大陸を縦に二つに分けた、その左側――通称【魔界】と呼ばれる大地、その最西端に、とある魔王が統治する国が存在した。
その国の名は〈アリュテミス〉。
其処は数々の実力者達を屍に変える事となり、『禁断の境地』『混沌の巣窟』と呼ばれるようになる。
その名前は人間界の最東端にまで轟く事となり、人々の興味と関心を惹き付けた。
そして、その国の姿を知る者達はその国をこう呼ぶのだ。
地獄の入り口―――【地下国家】と。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
《―――――造】の――――の値が一定量を超過したので――――が解放されます。『―類』が“――界人兼――”から“――”へ変――れました。―ルアキの――により【――の―約】が破棄されました》
最後に聞いた声は、自身の肉親でもなく、自分の愛した人のでもなく、無機質なもので。
(――――ん)
ゴトゴト、と言う音と共に、震動が身体中を伝わってくる。そんな床の揺れる刺激で、彼のぼやけた意識は覚醒した。
(……………此処は?)
数度瞬き、周りを見ようと目を開く。
目を閉じていたのに対して、視界はかなり暗い。彼は無意識に周りを見ようと身を起こし、その動作で自身が床に伏していた事を認識する。
やけに、首辺りが重い。
彼は頭を掻こうと片手を持ち上げる。
直後、ガチャリ、という冷たい金属音がしただけで腕は持ち上がらなかった。
何処かで聞いた覚えがある音だな。そう彼は思いながら、次に右腕に力を入れて持ち上げてみる。すると今度はジャラリ、という音と共に、もう片方の手も持ち上がった。
「…………?」
なんだ、これ。
段々と鮮明になってくる思考に乗せて、彼は自分の手首に填められた物を認識する。そしてぞわり、と身体中に針を刺したような悪感が走り、全身に鳥肌がたった。
薄く輪郭が見える手首に付いているのは角を削った四角い金属に、そのまま穴を開けた様な無骨な枷。
両手の枷の内側には、それを繋いでいる鎖が付いており、暗闇の中――薄く蒼い光がたまに入る。周りが暗いので、恐らく今は夜――天井にある、小さな格子窓から自身を照らす月明かりに反射して薄い光沢を見せる。
重たい腕を上下に揺らすと、それに合わせてチャリチャリと鎖が跳ねて音を出す。
手に付けられているのは紛れもなく、“手錠”。
カチリ、と何かが填った感触。
「……ぅあっ、――――!!」
これは、これは駄目だ。
何故だか分からない、けれど本能からの叫びに応えるように、彼は鎖を千切るために、腕を何度も左右に開いた。
見た目通りの重さがする枷は、自身の腕にかなりの負担を掛けるがそんな事は考えられない。今、彼の意識は、自身の手首に付いた手錠を外すことだけに向けられている。
(――――外れろッ! 外れろッ!!)
無意識に今は夜だという認識から、なんとなく、こう、叫んではいけない様な気がして、それでも手枷の感覚から離れたくて。
しかし、そんな彼自身さえ分からない、混乱している彼の心を嘲笑うかの様に、手錠の鎖はチャリチャリ、チャリチャリと揺れるだけ。
どうやっても、外せない。
そんな諦めに似た確信が、彼の脳裏に浮かんでくる。
彼は堪らず腕を大きく振ると、今度はがくんと首まで持っていかれ、先程迄の首の重さは、手枷の鎖に繋がっている首輪だったのか、と思考の中の冷静な部分が囁いた。
(うわっ、うわっ――――ッくそ!!)
混乱しながらも彼は手枷を壊そうと、床に叩き付けようと腕を振り上げる。
直前。ガタンッ、と床が跳ねた。
「うわっわっ」
一瞬尻が持ち上がり、ガシャンと比較的大きな音を立てて、着地する。
「ぁぃてっ! ハァッ、ハッ……ふぅー」
ここで彼は比較的自分を取り戻し、自分が何処にいるのだろうか、という結論に帰結する事になる。
さて、此処は何処だろう。
ガタゴト。
跳ねる床に合わせるように、景色が前から後ろへと流れていく。耳を済ませば前方から誰かの話し声と、蹄の音が絶え間無く聞こえてくる、彼は恐らくこれは馬車だと結論付けた。
時は夜、というのは間違い無さそうなのだが、どうやら周りが暗いのは夜だけが原因ではないようで、自分達が一種の箱の様な空間の中にいるからだと分かった。
箱の造りは簡単に、立体の長方形の箱の天井に幾つかの格子窓が付いているくらいで、出口は不明。
箱の材質は壁の部分は分からないが、床は爪で引っ掻いた所、カリカリという感触を得たので多分木材、これは適当な憶測なので余り気にしない。
箱は比較的広く、歩く事が出来るならば、うろうろと大きく円を画いて歩き回れるくらいだ。
まあ歩ければ、の話だが。
(ちっちゃい子、一杯いるなぁ……。てか皆子供か。大人何処だよー)
そう、彼が閉じ込められている箱の中には薄ぼんやりとしか見えないが、体格的にはかなり小さい、もしくはそれなりの子供達がいた。つまり、記憶を間違えていなければ十九辺りの彼より、かなり年下である子供達が、所狭しと座っていたり、体を横にして寝ているのだ。
しかも彼の隣に寝ていた子を見ると、自身と同じ様に手枷に首輪が填められていた。先程、振り回していた彼の手枷が当たらなかったのは不幸中の幸いだろう。
にしても、と彼は腕を組……もうとして出来なかったので膝に置いた。
馬車、箱、というよりは檻、沢山の子供、手枷に首輪、これはもう確定的だ。
(――“奴隷”、ねぇ……)
そう、奴隷である。
しかも、現在進行形で何処かに直送中の。
ハルアキはふわぁ、と大きく欠伸を一つ。
彼の知る一般人ならばここで混乱や狼狽する筈なのだろうが、生憎彼は先程の手枷と首輪の方が何故だか衝撃的だった。
先程から、どうも感覚が麻痺している気がしているな、と彼は思う。まあ、この際彼には興味の無い話だ。
カチリ、と頭の中で何かが填った。
(しかし、何でまたこんな所に……。そもそも、俺って……えーと)
冷静になって、彼は自分自身の事を思い出す。
自分で自分を思い出す、というのも変な響きだが、実際にそうなのだから、仕方が無い。
名前、年、性別、趣味。
根本的な事を少しずつ思い出す内に、自身を確認する打って付けの方法があったのを、彼――ハルアキは思い出した。
それは、自身の“証明書”。
「『ステータス』」
ハルアキがそう呟くと、彼の目の前に、半透明のディスプレイが現れ、同じ様に白い半透明の文字がその画面の上に展開されていく。
彼が住んでいた世界の現代人ならばこのSFじみた光景に仰天したかも知れないが、生憎、彼は既にこの光景には慣れていたのでそこまで驚きはしない。
ただ、ああ、まだ使えたか、良かった、という安堵と、書かれている内容に対する不安、それくらいのものだ。
《『ステータス』
『分類』
“異世界人”
『称号』
『スキル』
【】》
「……全く分からん」
自身のステータスを見て、一人ごちる。
けれども、目の前にあるそれは何も応えずに、無機質な文字を晒すだけ。
叩こうと手を突き出すと、その腕は半透明の画面を突き抜け、空を切る。
隠しコマンドはないかと思ったが、そもそも操作の仕方が分からない。
自分で出した癖に使用方法が分からずに放置され、それでも自身の目の前に表示されているステータスを見て、ハルアキはあれ、と呟いた。
(何で俺、こんな事を知っているんだろうか?)
そう、実はハルアキ自身、こんな機能を使った覚えがなかったのである。
しかし、使ったと言うことは使い方やその存在を知っていたわけであり。しかも、思い出したと言うよりは、感覚的に分かったという無意識なもので。
あれあれあれ、ハルアキの思考が疑問符で埋め尽される。
カチリ、又一つ。
おかしい。前の世界ではこんな機能は無かったし――――。
(――んん? 前の世界?)
前の世界、前の世界、前の世界。
不思議な響きで、その言葉が何処か思考に引っ掛かる。それの詳細を思い出す為に、馬車に揺られながら、ハルアキは記憶を辿り寄せ始めた。
ハルアキ、人間。所謂ヒューマン。
太陽系第三惑星地球、日本産まれの十九歳。オス。
趣味。読書、但し漫画等も含む。
学生。
ふぅ、とハルアキは息を吐き、手の指でトントンと膝の上を軽く叩く。
その目は自身のステータス画面から放れていない。
何かが有った筈。根拠は無いが、ハルアキはそう確信している。
淡く発光する画面と睨み合いながら暫く記憶を辿り、これまでの少ない情報と合わせ、新たに分かった事は三つ。
一つ。どうやら自分は所謂記憶喪失らしい。
昨日自分が何をしていたかとか、最近日本で何が起きたか等が、思い出せないからだ。
二つ。ここはどうやら、異世界だという事。
格子窓から見えた、夜空に浮かんだ白い月。本来の姿を半分程闇に飲まれたその数は、二つ。白い月と、蒼い月。
地球では有り得ない光景は、つまるところ、今ハルアキは地球とは別に存在する世界にいるという事を示している。
そして、操作や意味が分かっていない、この半透明の画面。
これに書いてある『分類』とは、要は種族を示すものなのではないのだろうか。
であるならば、ハルアキ自身が異世界から来たという事は、自身の『分類』が“異世界人”となっている筈であり、事実、彼のステータス画面にはそう表示されていた。
三つ。恐らく自分――ハルアキは、異世界に訪れた事がある筈だ。
確証は、ある。
今はいつで、此処は何処で、何が起きたかは知らないが。先程の証明書や二つの月を見て、自分が感じた違和感が無さすぎるのだ。
たがしかし、今この現状に繋がる事に関しては全く身に覚えがなく、記憶にも無い。
つまり、自身はエピソード記憶を丸々失っていている。と考えるのが妥当。
そうハルアキは判断する。
馬車に寝ている子供に聞いてもいいのだが、はっきり言って、涙が月明かりに反射して、泣きながら寝ている子供を起こす気にはならなかったし、腕に浮かんでいる痣や火傷等の傷を見ると、どうしても気が引けてしまう。
それに、自分を含めた彼等は奴隷になる身なのだ。高確率で暗い過去を背負っているのは間違い無さそうだし、今は間違ってもそれを聞く訳にいかなかったのである。
他にも理由はあるが、結果的にハルアキが馬車の中で、情報の塊である彼等に話し掛けることは無かった。
「んんー…………」
ハルアキが今唸っているのは、自身の『スキル』欄に対する疑問である。
自分の事が思い出せないなら、今分かっている事を掻き集めて、答えを導き出せばよい。
そうしてハルアキは考えた。
もし自分が、誰もが一度は夢見るファンタジーな世界に訪れたらどうするだろうか。
ハルアキが召喚された世界は、モンスターが蔓延るお花畑な世界だと仮定して、魔法や魔術とかもあったとしよう。
きっと自分は、その世界で戦闘をするかも知れぬ。なにより、異世界に来たのだから、何処かで読んだ小説の様に、何かしら特別な能力が有るのではないかという期待がないわけでもない。
ところが、ハルアキは自身の体内、外から魔力という非科学的なものは感じないし、身体能力も上がった気もしない。腕力等の身体能力は残念な事に、手錠を外せない事で既に証明されているし、寧ろ力が弱くなっている様な気がする位だ。
魔術が使えない?
身体能力は変わらない?
ならば、残る可能性はこれだろう。
そう、特殊能力である。
という訳で、ハルアキは自身の非力さを感じさせる哀しくも虚しい消去法を経て、大した根拠もないのに半確信に近い自信を胸に、自分は何かしらの『スキル』を持っていると考えたのだ。
因みに、この確信を構成するのに半分程、現実逃避や超能力等に対する期待が混じっていた事は秘密である。
しかし結局答えを絞っても、脳内に霧が掛っているようで何も思い出せなかった。ハルアキは口を尖らせながらうんうん唸るが、霧は当然の如く晴れない。正直言って、お手上げである。
(…………そういえば、眠る前は何してたんだろう)
ふ、とそんな事を思う。
同時、脳内に少しだけ掛っていた霧が晴れて、ハルアキは何か、分からないけど何かが思い出せる気がした。
自分が最後に見た光景はなんだったのだろうか。何か、きっと大切な事をした筈なのに。
(……何か、繋がりがあるのか?)
駄目だ、どうしても思い出せない。
ハルアキは大きくため息を吐いて、深呼吸。吐いた量に劣らない空気を口から肺に送り込む。
限界まで息を吸い込んだ後、口を閉じ少しの間呼吸を止めて、もう一度息を――今度はため息ではないものを――吐いた。
思い出そう。
その一心で、ハルアキは必死に自身の記憶を探ろうとして――――。
ガタンッ。
一度跳ねて、馬車が、止まった。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
「起きろ、奴隷共」
そうハルアキ達に言い放ち、腹の出た中年男性に数珠繋ぎで連れて行かれた先は、先程と広さは然程変わらないものの、火が灯されている燭台が付いた明るい部屋だった。
霞んだ白の色をした壁には窓一つ無く、しかし廊下に接している面の壁は鉄格子。唯一の出入口である扉は、外側から鍵が掛けられている。
その先、つまり通路を挟んだ向かい側には同じ様に鉄格子の壁が幾つもあり、燭台の光で照らされた其所には、ハルアキ達とは別に手錠が掛けられている人の姿。
ハルアキ達がいる場所は、果たして牢屋であった。
「……ない。これはない」
ハルアキ達を連れてきた奴隷商人は今頃、自分達の代金とやらを受け取っている頃だろうか。
そんな比較的どうでもいい事を思いながら、ハルアキは思わずため息を付いた。
彼の耳に入ってくる声は、同じ牢屋の中にいる子供達の、すんすん、やら、ぐすぐす、という泣き声ばかり。中には姉妹だろうか、抱き合う様に寄り添って、ボツボツと言葉を交していたり、十四五歳位の少年が、同年代かそれより下の少年を励ましていたりという光景が視界に入る。そしてどう見て取っても、彼等の表情は暗く沈んでいた。
まあ、これから誰とも知らない人間に売られてしまうのだから、寧ろ恐怖や嫌悪を受けずに暗くならない方がおかしな話だ。
しかし、そんなおかしい人が、彼等の中に一人いる。
(思い出せ思い出せ思い出せ思い出せ――――!!)
当然、それはハルアキの事である。
今彼を支配している感情は、己が奴隷になる恐怖や悲嘆等はなく、思い出したい事が思い出せない焦燥感と、このまま売られて奴隷人生を歩むかもしれない不安。
馬車が止まるまで、正確には馬車が止まって現在に至るまで、ハルアキは自身の『スキル』や記憶を思い出そうとしているのだが、結果は見ての通り。まるで探し物が見付からなくて、当てもなく探した場所をもう一度探す様な感じで、ハルアキは悪循環に嵌っていた。正にど壺。
ハルアキ自身、人生は何事も上手くはいかないという事は分かってはいるつもりなのだが、それ以前に知性を持った人である。
こんな今すぐ売られそうな状況から誰かが助けに来たり、地震等の災害が起こって檻から出られたり、一時的でも自身に秘められた能力(本人予想)が覚醒するなりのご都合主義が発生して欲しい。そんな事を心の片隅で密かに願わずにはいられない。
――――詰まる所、彼は所謂、下剋上コースに入りたいのだ。
(時間が…………時間が欲しい!)
せめてちゃんとした時間が取れれば、何かしら妙案を思い付けるかもしれないのに。と一旦思い出せない記憶を掘り返す事を止め、ハルアキは眉間に皺をよせて歯噛みする。
が、その思いを裏切るように。
――――ガシャァン。
遠くの方から、音が聞こえた。
「…………来たぁ……」
ハルアキはうんざりだ、という思いを込めて呟いた。
その原因は廊下の奥から近付いてくる足音と、ガシャン、ガシャンという重い金属が跳ねる音。
現実は非情である。
三角形の列を組んで、牢に近付いて来たのは三人の人影。
蝋燭の光で照らされた、先頭に立つ男の容姿は見た目なら、三十代程の年齢だろうか。ハルアキ達を連れてきた中年男性の様な肥満体型では無く、見るからに身体能力が高そうな体つき。両耳にはピアス、太い眉と額に走る横一文字の傷は、彼の厳めしい顔を際立てている。
腰には両刃の剣をさしていて、体には皮をなめした丈夫そうな防具を装備。そしてその下にあるチェインメイルがジャラリと鳴った。
残りの二人、彼の後ろで肩で何かを担ぎながら沈黙し、佇んでいるのは見るからに護衛役だと分かる二人の男。
前屈みになっている全身は筋肉で覆われており、百八十は有りそうな中央の男性よりも、二回り程大きく見える。
顔には丸が二つ、四角が一つ、計三つの穴が空いている白い仮面を付けていて、首には外側に鋭利な棘を生やした太い首輪。片手に持った人の首より幅の広い円月刀が、蝋燭の光を反射して鈍い光を放つ。
「止まれ」
ガシャン。何も持っていない男の指示により、護衛役の二人に担がれていたそれはハルアキ達の牢の前に降ろされた。
それは金属製の巨大な鳥籠。
中身が見えやすい様に籠は縦の柵のみで仕切られていて、柵は天辺に近付く程アーチを画く。それが天辺で一つにまとまった鐘楼型のその檻には巨大な閂が三つ、縦一列に掛けられている。
そして鳥籠は牢屋とは反対――つまり廊下側に音を立てて置かれ、上から順に堅固な閂が外される。
「っし、次は……」
仮面をつけていない男性は、格子戸に取り付けられた錠を開け、閂を外す。
そして乱暴に開け、衝撃が残る格子戸に腕を掛け、ハルアキ達を見周しながら、彼は見た目相応の低い声を出した。
「――――“三番”」
「……はい」
ハルアキ達の視線が、一点に集う。
肩まで伸びた灰色の髪、蒼色の目。乏しい食事に因って細くなった子供の体躯を持つ“三番”のプレートをつけた少年は、膝を抱えて座っていた状態から弱々しく立ち、男が待つ出口へ向かう。
正確には、彼の奥で口を開いて待っている、銀色の腹の中へ。
足の踏み場など殆ど無い牢屋で、灰色の髪の少年以外の子供達は出来る限り身を寄せて、彼が進む出口への道を開ける。
足に着いた鎖と、石の床の擦れる音。足を引きずるように三番の少年は歩き、ボソボソと掠れた呟きと共に牢から出て、護衛達が担いできた檻の中に入れられる。
その小さな後ろ姿には影が差し、全身で己の絶望を表していた。
「運べ」
少年を己の中へと入れた鳥籠が、二人の護衛に持ち上げられて動き出す。
牢屋の閂が閉まり、再び錠が掛けられた。それにつられて牢屋の子供達も視線を落とし、暗く沈んだ空気が部屋の中に戻ってくる。
ぐすぐす、すんすん。子供達の嘆く様な、訴える様な泣き声の中、その中で唯一人――ハルアキだけが、彼等に連れて行かれて去っていく少年の背中を見えなくなるまで、静かに見つめていた。
どうやら、この奴隷売買はオークション形式らしい。
先程少年が運ばれた先、その奥の方から「――貨でました!」や「三十ニ番様、千三百金―と――銀―す!!」と司会と思われる人物の声が薄く小さく、牢屋内に響く様に聞こえてくる。
「千五百金貨出ました!千五百金貨です!他に誰か――!!」
悩んでいる内に、どうやら先の競売が終わりに近付いたのか、先程の男性が同じ様に護衛を引き連れてハルアキ達の牢屋にやって来た。
「六番、か……」
ハルアキの左胸についたプレートの表面を、カリ、と爪で軽く引っ掻いた。
プレートは金属を薄く延ばしたような物で、見た限りではきれいな円の形をしている。中心部分に大きく数字彫られており、その番号は六番。因みに学生の頃の出席番号は十五番である。が、はっきり言ってそんな事はどうでもいい。
どうでも良くない事は、プレートに彫られた数字を表す文字が、ハルアキの知っている文字だった事である。当然、彫られた文字は英語や仏語、ましてや日本語でも無い全く別の体系のもので。
つまり、この世界はハルアキが来た事がある“異世界”の可能性が限りなく高いという事だ。
まあ、だからと言って何かしら行動を起こせる事は無く、結論としては何も状況に変化は無いのであるのだが。
(……あれ? これも今は然程重要じゃなくないか?)
焦りが、募り出した。
「――――次」
都合四回目、籠は再び、ハルアキ達の牢屋の前に降ろされた。
先程の子供の番号は“三”。自分が呼ばれるにはまだ時間がある。それまでになんとか名案を……。と考えていたハルアキに、ここで予想外の事が起きた。
「“四番”と“五番”。出てこい」
「…………ぉぉう?」
ハルアキの口から、思わず変な声が出る。
どういう事だろう。いきなりの二人呼びである。
ハルアキが一人混乱する中、しかし誰も立つ者はいない。
「……おいっ、早く出てこい!!」
番号を呼んだのに出てこないのに焦れたのか、男性は苛立ったように怒鳴る。牢屋に居る少年少女達はビクリッ、と肩を震わせて身を縮込ませた。因みにハルアキも類に洩れずに、肩を震わす。
「あ、あの」
檻の中から少女が一人だけ立ち上がる。
彼女は先程まで抱き合う様に寄り添っていた少女の一人――恐らく、姉の方だ。
恐らく十四、五歳。背中まで伸びている薄汚れた金髪を持ち、肌が生気を感じられない程青白い。彼女の緋色の瞳は美しく、思わず見とれる。しかしハルアキは見た。彼女の瞳に宿っている、諦観の意志を、絶望の色を。
「……す、すみませんが」
「黙れ。お前は五番だな? 四番はどこだ?」
姉、五番が男性に何か伝えようと口を開くが、男性の命令により思わず口を閉じる。
「早く出てこい。殴られたいのか?」
「ッ」
びくり、と彼女の肩が跳ね、彼女の双眸は怯える様に綴じられた。
が、すぐに目を開き、力強く握り締めた両手を解くと、彼女は真横に三角座りしている幼い少女の肩を叩く。
「エル、立って。お願いだから……」
「…………うん」
姉妹が連れていかれ、数分が経った頃だろうか。
未だに記憶を思い出せないハルアキは、情けないが自分の頭では妙案は生まれてこないと諦めて、身の回りの情報収集をする事にした。
幸い、一回の間隔につき、十分程の時間がある。
足掻けるだけ、足掻こう。
ハルアキは立ち上がる。
鉄格子の隙間は、ハルアキの腕だけならば、優に通り抜けられたのだが如何せん、手首に填められている錠によりそれは封じられている。足首も同様であり、頭部はそもそも入らない。
ガンガンッ、と二回程思い切って手錠を鉄格子に叩き付けるが、結果はどちらもほんの少しも凹まずに、ハルアキの腕が痺れるだけに終わる。
(腕がジンジンする……)
腕に填められた手錠はそこまで大きくなく、精々三センチ程の幅を持った枷の様なものだ。鍵穴や繋ぎ目は見付からない。果たして一体どうやって填めたのかが気になる。
鎖は精々十五センチ程度で殆ど開かず、しかも首輪にまで鎖がY字状に繋がっている。そしてそれがそこまで長くないので、腕が背中にまでやれないのが辛い所だ。
足にも枷が付いていて、此方は然程短くも無いがやはり制限されると中々辛い。
さてどうするかと考えて、ハルアキは一つ違和感に気が付いた。
(…………?)
妙に、静かだ。
いや、殆ど喋っている子供などいなかったのだが今はそう、その代わりに存在していた音が無い。
何か違和感を感じて振り返ると。
無数の瞳が、ハルアキの事を見つめている。
ハルアキは、気付いた。
牢屋の中に泣き声や、鼻をすする音などが、していなかった事に。
「…………す、すみません」
思わず謝ってしまうのは、元日本人の性なのだろうか。
ニ十四以上の瞳の重圧に耐えられずに、ハルアキは腰が引ける。
「お、おまえ……な、に……やってんだよ……」
ずり、とハルアキを見る子供達の一人が、足を引きずり幽鬼の様に近付いて来る。
蝋燭の火に照らされた顔は、表情が失われていた。
「……さ…い……めん……なさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい」
何人かの少年少女が、体を丸めるように縮こまり、全身をガタガタと震えさせて、歯の音混じりに謝り始める。
「え……。え、何これ」
「――なっ、にやってんだよお前ッ!!」
ハルアキに近付いて来た子供――赤色の短髪の少年が、何が起きたか分からず混乱しているハルアキに掴み掛る。
その表情は、先程の無表情ではなく、怒りを露にしている様で。
一体何が、と呆然として立ち尽くしていたハルアキは、その力に何の抵抗も無く、そのまま押され、ガツンと頭を鉄格子に頭をぶつけてしまう。
ハルアキの目の奥が、チカりと光る。
後頭部にはしった痛みと衝撃に「ッてぇ!」とハルアキは声を出す。
「ひっ」という恐怖を含んだ声が、誰かの口から漏れ出した。
掴み掛った少年はその手を放し、ハルアキはずるりと鉄格子の壁に崩れ落ちる。
「お前はッ! お前はッ!!」
怒りで顔を歪めながら赤髪の少年は、痛みが走った後頭部に手を当てようとするハルアキ目掛け、手錠がされた両手を組んで振り下ろした。
「ッくぬ!」
瞬間、ハルアキは両手を頭上に突き出し、自身の頭部を狙った暴力を掌で受けて防ぎ、その腕をしっかり握る。
少年の両腕の肉に、ハルアキの余り伸びていない爪が食い込み、頭部に当たる寸前に、振り下ろした腕の勢いが止められた。
「ラアァ!!」
即座に赤髪の少年は掴まれた両腕を振り回し、ハルアキの両手を払おうとする。が、ハルアキは勿論両手を放さないで、少年を抑えるために力を込める。
力と力の鍔競合い。
しかしたとえ運動が出来なくとも、ハルアキは十九歳。ならば見た目十四、五歳位のこの少年を抑える事など容易いもの。
「んぎぎっ……!」
「はな、放せッ!」
の、筈なのだがこの少年、華奢な体をしているくせに見た目以上に力が強い。ハルアキが力を込めて掴んでいるのに、少年の腕がハルアキの手をほどこうと動かしている事がその証拠だ。
右へ、左へ、四本の腕が振り回されて、それでも放さないハルアキに、その腕ごとぶつけようしたり、鉄格子の壁に打ち付けようと暴れまわり、ジャラジャラジャラと、二人の腕輪の鎖と鎖がぶつかり合って激しいダンスが宙を舞う。
「――このッ!!」
ぐい、と少年が腕を引き、自分の元へと近付けた。
瞬間、ハルアキの両手が彼から放される。
「っ!?」
“放れた”ではなく“放された”。
全力を込めて腕を引いたせいで、少年は軽くバランスを崩し、数瞬の隙がつくられる。
それをハルアキは見逃さない。
自身の両手の指と指とを組み、小さく固めて握り締める。そして組んだ拳は下から上へ、全力を込めて引き上げた。
ハルアキの狙いはバランスを崩して無防備になった、彼の顎を打ち抜くアッパー。
ではなく、その手前。
ハルアキは少年の腕と腕の間に拳を通し、組んだ拳を鉤状に、力を込めて引き寄せる。
当然、少年の腕に填められた腕輪同士を繋ぐ鉄の鎖に引っ掛かり、そこでハルアキの腕は一瞬止まる。
が。
「ォぉりゃあァ!!」
ハルアキはそこで止まらず、全力を込めて右回転。
足首に填められた鎖が張るまで足を開き、十の指に力を込めて。
腹に力を入れて声を出し、腰を捻って勢いを付けて腕に食い込んだ鎖を引っ張って。
結果、少年の華奢な体は引き摺られる様に投げ飛ばされた。
鈍い音を出して、少年はハルアキが背にしていた鉄格子に背中からぶつかり、「ぐうッ」と唸る。
そして倒れた彼にハルアキは跨り、両手で襟を掴んで彼の頭を持ち上げた。
「……ふぅー。…………えっ……と」
「――放せよッ! 重い、降りやがれッ!」
「そ、それは、ムリ」
息も切れ切れに、ハルアキは答えた。
ハルアキは身を退かして殴られるのは嫌である。自分はM属性では決して無いのだ。
乱れた息を整えて、少年を掴んだ両手を放さないままゆっくり下げる。
顔を上げて周りを見ると、先程の混乱は未だ収まっておらず、何人かは頭を抱えて脅えていた。
「……………」
それにしても、何でこんな事になっているか、やはり分からない。
ではどうするべきか。答えは至極簡単である。
考えても分からないなら、事情を知っている者に聞けばいい話だ。
と言うわけで早速、ハルアキは下を向いた。
「ねえ君」
「……………何だよ」
「何でこうなってるのか、教えて欲しい」
「…………はぁ?」
変な目で見られた。
けれどもしょうがない。ハルアキ的にはここで致命的な何かをやらかしてしまったのならば、それはそれで対策を練らねばならないし、錯乱していた子供達にもちゃんとした謝罪をしたいのだ。
故に、原因を知らなければならないし、その際に発生する年上年下に関する矜恃など有って無いようなもの。多少口が上から目線なのは、理由も分からぬ内に暴力を振られたからとかでは決して無いのである。
赤髪の少年は暫し“何言ってんだコイツ”みたいな言葉がだだ漏れの視線で、腹の上を陣取っているハルアキの顔を見つめた後。
「……………え、はぁ?」
やっぱり信じられないのか、再び奇怪な声を洩らした。
彼の視線がハルアキの心に突き刺さる。
「だから、何で君が殴り掛って来て、他の皆は阿鼻叫喚してるのか。その理由を教えてって言ってるんだけど」
「…………まさかお前、何も聞いてなかったのか?」
「…………えっと?」
ハルアキは何かあったっけ。と脳内を探り、そういえば、と該当してそうな記憶を思い出した。
(…………確か豚野郎の奴が何か言ってなかったっけ?)
豚野郎とは、ハルアキ達を連れてきた中年肥満の奴隷商人の事、ではなくて、ハルアキ達をそいつから引き取った、もう一人の肥満体型の男の事だ。
出来物で膨れた顔。脂ぎっていた肌。豚の様な鼻に、顎が沈む程の贅肉。奴隷商人と共に牢屋に連れていかれる最中に何も無い場所で転び、その腹癒せにハルアキ達の一人を殴った彼は、内面も外見に違わず酷いものであった。
そんな彼は眉間に寄せて、豚の様な鼻をヒクヒクと動かしてハルアキ達、及び他の 牢屋に入れられた人達に大声で何かを言っていたのを思い出す。
確か――――
『――いいか屑共! もしも此処から出ようとしたら八つ裂きにして他の者達にも地獄を見せるぞ!! 煩くしても同じだッ!! いいか、決して人間様に盾突くんじゃねえ塵共が!!』
――――ハルアキの記憶に因れば、こんな感じの事だった筈だ。
そういえば、手に持っていた鞭でべシーンと壁を叩いていた様な。
ハルアキは自分が何をしたかを考えて、今思い出した事を照らし合わせてみる。
(……………あれ? あれこれ俺悪くね?)
さぁ、とハルアキの額に冷や汗が吹き出て、顔から血が引き青ざめた。
ハルアキ達は一応商品の筈なので恐らくは単なる脅しだとは思うが、本当に八つ裂きにされるのならば終わりである。何せ自分のせいで此処の全員に罰を掛けてしまうのだ。ハルアキの心はそういうのに堪えられる様な造りはしていない。
考え事していて忘れていましたは言い訳にしかならないし、実際、これは凄くまずい状況なのではないかとハルアキは焦り、思考を出来る限り回転させる。
しかし、この少年が殴り掛って来たのは確かにしょうがないかもしれないが、それでもさらに騒ぎを大きくして受ける罰とやらが酷いものになるんじゃないか、という言葉は、心の内に仕舞って置く事にしといた。
とりあえず、謝ろう。
ハルアキは未だ組伏せている赤髪の少年と目を合わせて、頭を下げる。
「ごめんなさい。俺が悪かったです」
「…………あぁ? 分かったから退けよッ!」
「殴らない?」
「ふざッ…………分かった。殴らない」
「本当に?」
「殴らないって言ってんだろ!! この裏切り者が」
少年はむぎーとか言いながら、ハルアキに悪態をついた。
まあ、見方に因っては馬鹿とも裏切りとも取れる行動を取ったのでそんなに否定できないし、子供の言う事だからとハルアキは多目に見る事にする。
とりあえず彼の言葉を信用し、少年の腹から少し腰浮かし――。
「おい、ディルクッ! “四番”と“五番”を後にするように彼奴に言っとけッ!! 先に“六番”を出す!!」
―――ガシャァン。
廊下の奥から、先程聞いたばかりの声と、金属音が聞こえた。
銀色の鳥籠の中に入れられ、幾つかの部屋を素通りし、ハルアキが連れていかれたのは競売ホールの舞台裏。そこは客席からは見えないように幕が下ろされ、何人かの男性が部屋をうろついている。
舞台裏の中心にハルアキが入っている鳥籠が置かれ、入れられた本人はあぐらを掻いて座っていた。
「二千八百金貨! 二千八百金貨と二百銀貨!! 他に誰かいませんか!」
壇上に立つ、丸眼鏡をかけた細身の男性。指に填めた指輪が青く光り、その手に掴んでいる物は、杖にも見える細くて長い棒。
司会者だと思われる彼は、声を張り上げ客席へ呼び掛けていた。
複数の声が飛び交い、それに合わせて彼の値段も吊り上がる。金額を告げる声は太い声や高い声など、男性に限らず女性もいるようだ。
「へっへ、あのガキはそろそろだな。もう少しで出番だぜ?」
舞台裏、ハルアキの後方から声が掛る。
上半身を捻って振り向くと、二人の男性がにやにやと嫌な笑みを浮かべて、檻の中で座るハルアキの事を見下すように覗いていた。
スキンヘッドと、濃い赤色の短髪。
身長はどちらも同じ位で、年齢はスキンヘッドの方が老けてみえる。ガタイはよく、どちらも腰に剣を差し、胸には鉄の鎧を装着していた。
舞台裏にいる人影は、ハルアキを除いて全部で五人。客の反応を見ている人が一人。舞台裏を片付けたり小道具を整理している人が一人。舞台裏に入る扉の前に木で出来た簡易な椅子に座っている人が一人。そしてハルアキの檻の周りに立つこの二人である。そしてへらへらと笑うこの二人を注意する者はいなく、またそれを止める者もいない。
スキンヘッドは茶色の顎髭に片手で触りながらハルアキを観察し、にやりと笑う。そして此方から視線を外さないハルアキに、とある話を持ち出した。
「なあガキ」
「…………なんでしょうか」
「お前、何で此処にいるんだ?」
ハルアキは一瞬きょとんとし、スキンヘッドのにやついた笑みを見てすぐに顔を無表情に変えた。
成程、悪趣味だ。
要は暇だから、不幸話を聞かせろという事である。
触れたくない過去や噂、素性等は誰にでもある。その殆どが良い話ではなく、大抵は悪い方向の話に近い。そしてそれらが奴隷なら尚更で、しかし彼はそういう話を求めている。
他人の不幸は蜜の味。
対岸の火事を肴に、自分は哂う。
これを悪趣味と言わずに、何をいう。
檻の外側で此方を見るスキンヘッドの表情は、ハルアキが昔よく見た表情によく似ていた。
さてどうするか、とハルアキは考える。
どういう話をすれば、彼等からより多くの情報を得られるか、という事を。
情報は得たい。これはハルアキが牢屋から出ても変わらない。寧ろ相手は大人なので、より正確な情報を持っている可能性が高いのである。
しかし単に話し掛けても相手にされないだろうし、可能性は低いが暴力が振られるかもしれない。故に、向こうから話し掛けるという行為は、ハルアキにとっては会話を繋げる数少ないチャンスなのであった。
このチャンスを逃さない為にハルアキは彼等が提示した話を繋げ、会話を弾ませる。その為には、今まで彼が聞いた事の無いような話を話さなければならないのだ。
しかし、今までに聞いた事の無い話とはなんだろうか。
自らを売った。
親から売られた。
友に裏切られた。
拉致されてしまった。
こんなものは恐らく五万と聞いているのだろう。では何が――――。
――――知るか。ハルアキは思考を放棄する。元々こういう駆け引きは得意ではないし、喜ばせる事も癪に障る。
時間もないし、どうせ一時の出会いだ。ハルアキは口を開いた。
「なんで、こんな事をするんですか?」
「んぉ? 何言ってんだお前」
スキンヘッドが殆ど無い眉毛をハの字に曲げて、隣で腕を組んで笑っていた赤髪は、吊り上げていた口の端を下げて顔をしかめた。
だが、ハルアキは気に止めない。
「だから……」
「あー? 聞こえねぇぞ」
「――ッだからなんで、人を売ったりするんだって聞いてるんだよッ」
ハルアキは多少自棄になって彼等に問うた。
今まで感情の表に出て来なかっただけで、いきなり自分が置かれたこの状況に、憤りを感じなかった訳では決してないのだ。
だが、そんな事は彼等は知らないし、関係も無い。故に、反抗的な態度をとった“もの”に対する対応は一つである。
思ったより大きな声が自身の口から放たれた後、ハルアキは殴られる事を後出しながら気付く。しかし、予想された暴力は降ってこない。
代わりに、ハルアキの頭の上に片手をぽん、と置かれただけ。
「はっ、そりゃおめぇ――」
もう片方の手は赤髪の方に向けて制止を促し、スキンヘッドがハルアキの上に乗せた手を動かし撫でる。
気味が悪い感触。
ハルアキが頭を振り、放そうとした瞬間。彼は力を込めて、ハルアキの頭を掴んだ。
ミシリ、という音が直接響いた。
「ぁぐぅうぅ――――!!」
「お前等が―――」
頭蓋が圧迫され、骨が軋む。
神経が痛みを告げて、腕は無意識に頭を掴む彼の腕に。
彼は先程とは違う獰猛な笑みを見せて、ハルアキの頭を掴んだまま引き寄せる。
「――――高く売れる“物”だからだ、よ!」
そして、突き出す。
ガシャァン、と音をたててハルアキは檻の柵にぶつかった。背中と後頭部を強く打ち「かふっ」と肺に取り込んだ空気が抜け、咳き込んだ。
「生意気なガキが。商品は黙って言う事聞けば良いんだよ。分かるか?」
よっ、とスキンヘッドは腰を上げ、両手を軽く叩いて払う。
そして咳き込むハルアキを見て「へっ」と鼻で笑う赤髪の方に振り向き、もう興味が無いとばかりに喋り始めた。
「ったく気分が悪い」
「ま、所詮ガキだからな。身の上が分からないっていうのはご愛敬ってヤツだな」
「ハッ、よく言うぜ。お前だって俺が止めなきゃ殴っていたくせによ」
「おいおい――だっ――」
「――――」
彼等は振り向かない。
檻の方を見ずに、普段通りに二言三言。他愛の無い話で盛り上がり、そして話は自らの商売について。
舞台に立つ司会者の声は、最早指で数えられる人数しか番号を呼ばずに、競りは終局を迎えている。
商品番号“三”の売値を聞いて、思わずスキンヘッドは口を吊り上げた。
「こんなボロい商売が始められたのも、“勇者”様々だぜ。なぁ?」
「全くだ」
だから彼等は気付かなかった。
その言葉を聞いて、ハルアキの目が見開いた事を。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
大陸の中心のから見て、中央に近く、西に位置する小国、リシュカ王国。
この世界で俗に言う魔界――否、“元”魔界側に存在しているその国の南方。バリアロロの森と呼ばれる森とは王都を挟んで逆に位置する平原で、第三回目となる奴隷競売、通称が開催されていた。
半年に一度行われる国内で最大規模の奴隷売買の催し。それは奴隷を国自体で公認しているリシュカ王国で瞬く間にを反響を呼び、周国にまでその評判は広まる事となった。そして今回、ウルの月第二週目の終わりに開いた《イースリッション》では、王国でも有力な貴族の他、他国の貴族や有名人等が参加し、第一回、第二回目を上回る膨大な通貨の動きが予想されている。
そして今。《イースリッション》の一つの特徴である、魔族の競売が行われていた。
「三千四百五十金貨と八百二十銀貨!! 商品番号“三”、『魔族、獣人のオス』は二十三番様の落札で決定致しました!!」
ガンガン!
木と木を叩く音が、魔術を掛けたシャンデリアに照らされる会場内に大きく響いた。
プロセニアムアーチに縁取られた円形劇場。貴族達が座る階段状の客席からの視線を一斉に浴びたのは舞台の上、正面から見て左寄りに立つ小振りの木槌を右手に持った細身の男性。
衿に銀色の小さな記章を付けた黒いスーツを身に纏い、白が混じった淡黒色の頭髪。目には丸眼鏡を掛けた彼は、外見に身合う若い声を出して、舞台上を歩く。
丸眼鏡を掛けた彼――司会者が進む先にあるものは、舞台中央に置かれた銀色の鳥籠。
ゲージの中には、子供が一人。敷かれたクッションの上に崩れる様に座っている。
商品番号三、と呼ばれた彼は先程、牢屋に入っていた時とは大分違う。
肩まで伸びている砂と土で汚れていた灰色の髪は水で洗われ少し輝いている様にも見え、同じく汚れていた顔には泥等付いていない。頬は未だ窪んでいたが、牢からここまでの間に水でも飲まされたのか、その唇は潤いを取り戻していた。
そして何より、その服装。
今彼の肌を隠しているのは、上下共に襤褸だった服ではなく、黒を基調とした大きめのドレス。赤いリボンに、白いフリル。そこかしこに付けられたそれは、その服のボリュームを一回り程倍増させていた。登頂部には黒のカチューシャ。これまた小さめのフリルで飾られている。両手には肘まで届く白い手袋を着けており、汚れが大分落ちた白磁の肌によく似合っていた。
蒼色の瞳は光を失い、伏せられた髪より濃い灰色の耳と垂れた尻尾はピクリとも動いていない。
しかしどうやら、彼を巡る競売は決まった様だ。
放射状に並んだ客席から、二人の人物が立ち上がる。
一人は女性。顔を隠せる婦人帽子に、豪華な飾りを付けたフレアスカートのドレス。
一人は男性。光沢を見せる銀の鎧に、肩で止めた紅のマント。金色の糸で細かい刺繍がされている。
彼女達は舞台の上に上がり、三番の少年が入っている鳥籠と共に客席から見て左側の舞台裏ヘと消えて行った。
そして、壇上から彼女達がいなくなり、残った司会者らしき男性が身を翻す。
「さあ、次の商品にいきましょう!!」
そう言った所で彼は一度口を閉じた。
そして、表情を変える。眉をハの字にして、目を閉じ、所謂「残念だ」と言いた気なものに。
「――と言いたい所なのですが、皆様申し訳ございません。商品番号“四”の『魔族姉妹』は此方の不手際で、少々時間が掛りますので、少々後ろの方に送らせて頂きます。どうか御理解して頂けるようお願い致します」
ざわ、と客席からどよめきが洩れたが、それもすぐに止む。中には「ふざけるな!」やら「いいから早く出せ!!」と文句を挙げたものがいたが、周囲の者達に抑え込まれていた。
《イースリッション》は未だ始まったばかり。ここで騒ぎ立てても興が削がれ、増々催しが遅れるだけであり、それすらも分からない馬鹿は当然、周りから排除される事となるのだ。
響動きが止むと「ありがとうございます」司会者は深く礼をした。そして勢いよく顔を上げ、大袈裟に腕を大きく開き、客席からは見えない、舞台裏の方に顔を向ける。
それを合図に商品を入れた檻は、坊主頭の男と赤色の短髪の男に運ばれ、舞台の上に登場する。
運ばれて来たのは先程とは違う、黒髪の少年。
年は十五、六歳だろうか。身に着ている七分丈の黒ズボンと半袖のシャツから出ている肌は、特別に白くも無く、又痩せてもいない、いたって健康そうな体。
頬も窪んでいおらず、しかし彼の唇は、何かをボソボソと呟いている。
「商品番号“四”飛んで“五”!! 『若い人間族、オス』! 見た目もそこそこ悪くなく、五体満足、健康体! 黒髪が多いヒノ国でも中々お目にかかれない純粋な黒髪黒目!」
檻が舞台の中央に降ろされる。それを確認した司会者が、魔族ではない少年の簡単な紹介をし、彼をかけた競売の開始を宣言する。
「それでは三百銀貨! 三百銀貨から始めます!!」
ガンガン!
司会者が、手に持った木槌を叩いた。
――――――と、同時。
かたん。
「…………?」
「…………お、おい、何か……」
客席が、静まる。
かたかた、カタカタ。
配られたグラスの中身が、波打ち始める。
天井にぶら下げられたシャンデリアが、鳴る。
どよめきが、大きく。
「ゆ、ゆれてる………?!」
誰かが、言う。
呟きだったその言葉は、百人以上は優に越える会場内に、恐ろしい程よく響いた。
混乱の捌け口を見つけた彼等は、確信も得られないまま、誰からも答えを返されないまま、自身の不安を吐き出していく。
「ま、魔術なのか……?」
「まさかそんな!!」
「――誰だ! 誰の仕業だ!?」
ガタガタ、ガタガタ。
揺れが大きくなる。
グラスが倒れ、注がれた葡萄酒が溢れた。
地に落ちた杯は高い音をたてて割れる。中身が敷かれた絨毯にぶちまけられた。甲高い悲鳴が何処かから上がり、又つられる様に複数の箇所から悲鳴が響く。
ギィッ、ギィッ。
鎖や縄でぶら下げられたシャンデリアが、振り子と化した。
「と、とと、とまれぇ、止まれェ!!」
誰かが震えた声で叫ぶ。
だが、そんなものは無力に等しく。
徐々に、徐々に、揺れが、大きく。
既に何かに捕まらないとまともに立つ事さえ不可能。
誰かが、叫んだ。
「―――これは、“地震”だ!!!」
大地が、爆発した。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
《ファンタジア》、と呼ばれる世界がある。
其処は近代科学の影等見えず、代わりに魔術という奇跡が飛び交う世界。
緑が生い茂る大地に、広がる海の水平線。
澄みきった蒼の空に飛ぶのは巨大な翼を持った竜の群れ。
そんな世界に、《異界大戦》と呼ばれる様になる、巨大な戦争が起きた。
【魔界】と【人間界】、自らの領土と国の存亡を賭けた戦争は“魔王”、“勇者”そして“異世界人”の存在が運命を分ける事となった。
《ファンタジア》に存在する大陸を縦に二つに分けた、その左側――通称【魔界】と呼ばれる大地、その最西端には、とある魔王が統治する国が存在した。
その国の名は〈アリュテミス〉。
其処は数々の実力者達を屍に変える事となり、『禁断の境地』『混沌の巣窟』と呼ばれるようになる。
その国は人間界の最東端にまで轟く事となり、人々の興味と関心を惹き付けた。
そして、その国の姿を知る者達はその国をこう呼ぶのだ。
地獄の入り口―――【地下国家】と。
――――それも、今は終えた話だ。
アルラ暦七〇四年。魔界に存在した最後の国〈アリュテミス〉が無くなり、数多の国が潰えた《異界大戦》は、人間界の勝利で終結する。
◇■◇■◇――――――――――――――◇■◇■◇
――――それから三年後、アルラ暦七〇七年。
「うぅ…………」
「……ぁあ…………が……」
大陸のほぼ中央にあるリシュカ王国――そこで開かれた《イースリッション》の会場内に、呻き声が響く。
会場内は崩れていないが、先程の大地が破ぜたかに思われた震動は、荒事等に慣れている筈である護衛ですら肝を冷やし、また気分を酔わせる程であった。
それは当然、荒事を慣れない貴族達にとっては一層強烈なもので、中には泡を吹いて失神している者や、外聞を気にする余裕もなく、床に手をついて嘔吐している者まで見える。
「ぐぅぅぅ……!」
リシュカ王国の低級貴族の彼もその類に洩れず腰を抜かして、絨毯の上に倒れていた。
履いているズボンには股間を中心に染みを作り、それは絨毯にまで広がっている。
護衛の声が、耳のすぐそばから聞こえるが、右から左。気にする余裕など彼には存在していない。
「ひ、ひぃぃ…………」
震える腕で、自らが座っていた椅子に手を掛け、身を起こす。
ガクガクと、痙攣するかの様に、産まれたばかりの小鹿の様に力が入らない脚を使い、無理矢理体を持ち上げ、弱々しくも己の両足で、立つ。
そして、辺りを見渡した。求めるのは、出口の扉。
右へ、左へ。焦点が少しづつ合い始め、ぼやけた視界が回復する。
――――あった、あそこだ!
それを見つけたと同時、彼の足は動き始める。
ふらふらになりながらも、ブルブルと震えながらも、恥じも外見も気にせずに、何か叫びながら彼は走った。
後ろから誰かが何かを叫ぶ。彼の耳には入らなかった。
足の下から悲鳴が聞こえる。彼はそれを踏み抜いていった。
そうして、つんのめりになりながらも扉に向かい走って、走って――――着く。
すがるように彼は扉にもたれ、体全体でぶつける様に開けた。
簡単に扉は開く、そして駆け出そうと一歩踏み出し――――不思議な感触に、足を止める。
そして、気付く。
土の中から鋭利な牙など、生えていただろうか。
松明の光で照らされた外は、こんなにも暗かっただろうか。
まだ暖かくなってきたばかりだというのに、てらてらと光る赤黒い闇の奥から、生温い風が吹いているのは何故なのだろうか。
足で土を踏んだ感触はこんな、グニ、という、柔らかくも芯があるものだっただろうか。
そう、これはまるで先程の――――。
「―――――ヒュ」
暗転。
大地の爆発の直後。
《イースリッション》の会場自体は先程の揺れでも大丈夫であった。が、しかし、天井のシャンデリアは幾つか地に落ちており、その際に護衛によって砕かれたのか、その破片が絨毯の上に散乱していた。
「――っ皆様方!! 大丈夫ですか?!」
舞台上から、司会者の声が響き渡る。
四つん這いになった彼はしかし、右手に持った巨大な円柱テーブルの様な楯で、上から落ちてきた物を防いでいた。
幾つかの呻き声が上がり、中には立っている者が出始める中。
「あああ! うわああああああ!!」
と、一人の男性がおぼつかない足取りで、護衛役の者を振り切りながら、客席の最奥――出口への扉に向かい始めた。
「ま、まて!! おれを、私を置いてくなぁ!!」
倒れている彼等の中から、悲鳴の様な声が上がり、その人物もまた、出口に向かって走り始める。
理性による境界線が、決壊した。
一人、また一人と、次々と出口に向かう者が増えていく。
気を失い倒れている者達など踏み潰し、木造の扉へとなだれ込んでいく彼等は宛ら、くもの糸に群がる亡者の様であった。
「ヒィッ、ヒィッ」
亡者の先頭を行く貴族が出口へ着き、もたれかかりながらも、扉を開ける。否、開けた筈なのだ。
ならば当然、その扉から見える景色は――――。
「…………は?」
呆けた声が、何処からか漏れる。
扉の奥には、外の景色など欠片も無かった。
それは、牙が生えていた。
それは、舌が伸びていた。
それは、涎を垂らしていた。
それは、異形の口だった――――!
「…………ぁ」
ばくん、と口が綴じられた代わりに、扉を開いた貴族の体が、片足だけを残して消えた。
パキバキ、ゴリ、グチュ、クチパキョ、ガリコリ―――――――。
一拍、静寂。
直後、爆発。
「ま、魔物だぁぁぁぁーーーー!!!」
混乱が、会場内を埋め尽し――――。
「『展開』」
舞台の上、転がった銀色の檻の中で、小さく声が紡がれた。
ウルの月の第二週目の終わりの日、ハルアキは都合三度目の生を迎える。