その三 予兆
その三 予兆
人間の姿も悪くないものだ、と雪輝は胡坐をかいた自分の膝の上に小さなひなを乗せて、傍から見ても明らかな笑みを浮かべ悦に浸っていた。
元の狼の姿をしている時にひなの背もたれや椅子の代わりをするのは、ひなの存在を身近に感じられて大変によかったものだが、こうして膝の上に乗せる行為も、ひなと見つめ合う事は難しいがすっぽりと自分の腕の中にひなを包み込む事が出来て、非常に具合がよろしい。
雪輝は室内に気心の知れた相手しかいない事で気を抜いて、狼の耳と尻尾をそのまま出しており、袴の布地の下に隠れている尻尾や白銀の髪から飛び出ている狼の耳はしきりにぴこぴこと揺れ動き、雪輝の機嫌の良さを周囲に知らしめている。
人の目のある所をひなと共に行く為に人型に変化する術を学んだのだが、思っても居なかった副産物に雪輝は機嫌を良くしていた。
だが雪輝のその上機嫌も仲居が夕餉の膳を運びこんできてから、いささか雲行きが怪しいものに変わる。
仲居の足音が近づいてきた時に一度はしまい込んだ耳を、膳を置いた仲居が退室した後しばらくしてから再び出して、雪輝は自分の目の前に置かれている膳に険しい視線を向けている。
食事の為、既にひなは雪輝の膝の上から後ろ髪をそれはもう大変引かれながらも降りていたが、雪輝の機嫌が急下降しているのはそれだけが理由ではなかった。
狼の姿から人間の姿になる事で生じた思わぬ問題が、雪輝の目の前に立ちはだかり悪戦苦闘させていた。
夕餉の品は焼き魚と漬物とみそ汁、ご飯、人参や大根、茸の煮物、摩り下ろした生姜の乗せられた豆腐と極平凡なものとなっている。雪輝は左手に茶碗を持とうとしたが、そもそも左腕がなくなってしまったので膳の上に置き、右手に箸を握っている。
さて雪輝の眉間に小さな皺を寄せている理由は、まさにその右手に握られている箸にあった。
そう、箸である。
以前から人間の文字や歴史、算術などはひなと共に天外や鬼無子から学んでいた雪輝であるが、食事の作法に関して言えばこれまでは狼の姿で通していた為に、鬼無子やひなの食事の風景をよく観察していた程度で、作法は愚か箸の使い方などを正式に教わっているわけもない。
その為に雪輝は、握り箸などをするような真似こそしなかったが、箸を上手に開いたり閉じたりすることや食べ物を掴む力加減などは、一から学習しなければならず悪戦苦闘する羽目に陥ってしまったのである。
焼き魚や煮物に箸を刺して口に運ぶようなはしたない真似はしていなかったが、雪輝はかろうじて摘んだ焼き魚の身や漬物を何度も落としそうになり、摘んだ箸は生まれたての小鹿の様に震えっぱなしだ。
雪輝が整い過ぎているほどに整った顔立ちをきりりと引き締めて真剣なまなざしを向けながらやっている事はと言えば、食べ物を口に運ぶという、子供でもできる単純極まりない事というあまりの落差に、ひなと鬼無子は申し訳なさを感じながらも浮かびあがる笑みを堪え切れなかった。
口に運ぼうとした豆腐が箸から零れ落ちて左手の茶碗の上に落ちた時、雪輝は一つ嘆息を零しす。
「仕方ない、地道に練習して覚えるほかあるまい」
気を取り直した雪輝が一度置いた箸を手に取ろうとした所で、雪輝の左隣に座っていたひなが、先ほどからせっせと箸を動かしていた事に気付いて視線を下げると、ちょうどひなが雪輝の顔を見上げる所であった。
「まだお魚を綺麗に食べるのは難しいでしょうから、私が骨を取りました」
自分の食事を後回しにしたひなは、雪輝の膳の中でも豆腐と並ぶ二強の片割れであった焼き魚の骨取りをしており、狗遠と雪輝が話をしている間に雪輝の焼き魚は、皿の上で綺麗に解されていた。
ひなはその魚の身を自分の箸で一口分摘んで、雪輝に向けて差し出す。
ひなは雪輝が狼の姿の時にも同じように食べさせて上げた事はあったが、狼の耳と尻尾がある事を除けば完全に人間の姿になっている雪輝に食べさせる事には、恥ずかしさを隠しきれなかったが、それでもひなは大好きな相手への奉仕に対する喜びを噛み締めていた。
雪輝はそっと差し出されるひなの箸と、その先に摘まれている焼き魚の身をしげしげと見つめてから、にっこりと笑みを浮かべて首を伸ばして口の中に運んだ。
ひなに食べさせてもらった焼き魚の身をよく咀嚼してから飲み込み、雪輝は太陽の様に輝く好意を放出する笑顔を作り、ひなにお礼の言葉を口にする。実に律儀な事である。
「ひな、ありがとう」
「はい。さ、雪輝様、次は何をお食べになりますか」
焼き魚だけでは終わらないようで、ひなは雪輝にも負けぬ笑みを浮かべて次に食べさせてあげようかな、とうきうきとした雰囲気を醸し出している。
雪輝はひなが嬉しそうにしている上に、自分もひなに食べさせてもらえるのが嬉しかった事もあって、袴から零れ出た尻尾をぱたぱたと振りながら次に食べたい物のお願いをした。
尻尾の動きだけを見ていると大好きな飼い主に構ってもらえて喜んでいる犬にしか見えないが、雪輝とひなの間でなら頻繁に見かけられる光景である。
「ふむ、では次は豆腐を頼もうか。この白いのはどうにも力加減が難しい」
「お豆腐は柔らかいですから、まだ雪輝様には難しいのも仕方ありません。はい、ではあ~んをしてください」
雪輝とは違って綺麗に豆腐の角を箸で摘み取り、ひなは自分の口を開いてあ~ん、の実例を示して雪輝を促す。ひながそうすれば当然雪輝は親の言う事に従う幼子のように――と言っても実年齢五歳ではあるが――素直に従ってあ~ん、と口を開く。
ひなと雪輝はこの世には幸せしかないといった空気を室内に充満させていた。
鬼無子はというとこんな空気にも慣れたもので、ひなが雪輝に食べさせ始めた頃から、こちらもせっせと箸を動かし始めていた。
ひながまん丸く切った人参の煮物を雪輝の口に運び終えた所で、用意を整えた鬼無子が意気揚々と声を張り上げる。
「雪輝殿雪輝殿!」
いつだったか雪輝が自分を好きに触って良いと鬼無子に許可を出した時と同じくらいに、鬼無子はひなにも負けずうきうきとした心情を隠さぬ声で、雪輝を振り向かせた。
雪輝とそろって視線を動かしたひなの瞳に映ったのは、少し恥ずかしげに、それでも大輪の向日葵を思わせる笑みを浮かべて雪輝に向けて箸を差し出しているではないか。
箸の先には白い米粒が挟まれており、鬼無子の意図は明らかであった。ひなは、まあ、という顔を作ったがすぐにくすくすと金鈴を鳴らす様な笑い声を零す。
普段は朗らかで親しみやすく、博識で頼りになる鬼無子だが、雪輝が関わると時々ひなよりも幼いような言動をする事があり、そういう時の鬼無子は普段とはまるで違って妹の様に可愛らしいものだから、ひなはそれをとても微笑ましく思っていた。
「それがしも食べさせて差し上げたく思いまする。でありますから口を開いてくださりませ!」
「気遣い感謝する。では甘えさせて頂くとしよう」
ひなにそうしたように雪輝が口を開いてあ~んとすると、鬼無子は黒瑪瑙の瞳をきらきらと輝かせて、えへへとはにかんだ笑みを零しながら箸を動かした。餌付け気分である。
十分に雪輝への餌付けを行って満足した鬼無子は、残っていた六人分の食事を瞬く間に片付けた。
*
床に入った雪輝はふむん、と一つ嘆息を零す。
食事を終えた後風呂に入って旅の汗とほこりを流した後の時間である。既に灯りは落として部屋の中は暗闇に満ちている。
人の姿のまま布団に潜り込んだ雪輝の右隣にはひなが寝ていて、雪輝の右手と自分の左手の五指を絡ませたまま状態で眠りの国に旅立って健やかな寝息を立てている。
ひなの右側には些細な異変ですぐさま覚醒する浅い眠りに着いた鬼無子が横になっており、その枕元には崩塵が置かれ枕の下には投げ刃が何枚か忍ばせてある。不意の襲撃者に対する最低限の備えは済ませてある状態だ。
暗闇に慣れた右目で十を数える時間だけ天井を見つめて、この呑気でのんびり屋な所のある狼には珍しい事に考えに耽る。
(ひなやが私に向けてくれている感情は、愛情という奴だろう。私自身がひなや鬼無子に向けているのも、たぶん同じが似たような感情に違いあるまい。
愛、か。恋人や番い、家族となるのに最も必要なものだと以前主水と朔は教授してくれたが、少なくとも私はひなと鬼無子とは家族になりたいと願っているのは間違いない)
ちらりと雪輝は自分の右側で眠りに就いている二人の少女達の横顔を見つめる。雪輝が生命のみならず魂を賭してでも守ると願う二人だ。そう願う理由に二人に対する愛情がある事は間違いない、と雪輝は改めて自己の心情を分析する。
雪輝がふと出来た自分だけの時間にこの様な事を考える様になったのは、ひなと出会ってからの日々の中で、徐々に育んでいた感情や精神がようやく人並みの状態にまで至った証拠であるだろう。ようやくこの狼も人並みになってきたのである。
(家族になりたいという願いは何も問題はないだろう。では恋人、あるいは番いになるというのはどうであろうか。私は狼の妖魔だ。それは変えようもない。
ひなが人間である事も鬼無子が妖魔の血が流れているとはいえ人間であることも変えようがない事実。人間の二人と私とではいくら姿を似せる事が出来ようとも、そもそも種族が違う。
人間は人間と交わるのが世の道理ならば、ひなもいつかは人間の男と結ばれるべきなのだろう。それまで私がひなを守ればよい。ひなもやがては大人となり私の事を忘れて人間の男と恋のひとつふたつもしよう)
考えても仕方の無い事なのだろうか、と雪輝がうとうととしはじめた時、誰にも言ってはいないが雪輝にとって現在最も懸念となっている事を自分でも気付かぬうちに口に出していた。
「なにより、鬼無子の体をなんとかしなければ……」
天外の言っていた鬼無子の残された寿命は一年余。長いと言うにはあまりにも短く、何もせずにいるにはあまりにも長い時間。しかしながら雪輝にはその時間の間に何が出来るのか、まるで分からぬ有様だった。
雪輝は自身の無力さと焦燥感に包まれながら、深い眠りの底へと堕ちて行った。
思考がまとまらずいつのまにか眠りの淵へ落ちる曖昧な浮遊感と、意識の覚醒を認識するのはほぼ同時であった。
確かに眠りに就いた筈、と雪輝が考えた時、自分の居る場所が布団の中ではない奇妙な世界である事に気付く。人間への変化が解かれた本来の狼の姿で、雪輝は白一色で染め上げられた世界に居たのである。
太陽も月も星も、空も大地も海もない。ただただ白色だけが世界の全てに広がっていて、奇妙な事に足元にだけは確かな足場となる感触がある。
なにものかの術中に落ちたのか、と雪輝はこの現象の可能性の一つを頭の中で浮かべたが、その割には自分の第六感と本能がまるで警告を発する事もなく、むしろひなや鬼無子と共にあの樵小屋に居る時の様な安心感が胸を満たしており、危険な状況にあるわけではないと結論付ける。
狼の姿に戻るのも随分と久しぶりな気がして、雪輝は少しばかり精神を弛緩させて周囲の光景から何かしらの情報を探ろうと太い首を巡らせる。
白、白、白。前も後ろも右も左も上も下も、雪輝の周囲全方位が白の色ばかりに満たされている。敵意や悪意こそ感じはしないがこの状況が延々と続くのなら、それは永遠に醒めぬ夢の牢獄に捕らわれる様なものだ。
体ばかりでなく勘の方も鈍ったかと雪輝が首を捻ると、その時を見計らっていたかのように、雪輝の真正面にようやく白以外の色彩が生じる。
それは赤みを帯びた肌色とも桃色とも言える色をもったほんの指先ほどの大きさの小さな生命であった。雪輝は初めて目にしたそれの正体を半分は直感、残り半分は失った知識から理解する。
「人間の胎児か?」
雪輝の目の前に現れた白以外の色彩を持ったそれは、間違いなくまだ母親の子宮の中にいる段階の胎児であった。
雪輝が訝しげに見つめるその先で、胎児は瞬きをする間に成長して言って、あっという間に赤ん坊になったかと思えば二本足でしっかりと立てる少年となり、成長の盛りを迎えた青年となり、徐々に老いの影が差して壮年の男性となり、遂には肌に多くの皺を刻んだ老人となる。周囲の世界と同じ白色のゆったりとした長衣を纏っている。
十を数えるよりも早く胎児はその一生分の成長を終えて、人生の終わりを迎えるに相応しい老人となって、雪輝と同じ高さで穏やかな視線を向けてくる。
若かりし頃は人種や年齢、性別の壁を越えてあらゆる老若男女の心を蕩けさせたであろう美貌の名残を留める老人は、友好的な雰囲気のまま口を開く。
『――――――――――――――――――――』
「ん? ……すまぬが、ご老人、私には貴方が何を言っているのか聞きとれぬ」
老人の口から出てきた言葉は雪輝にとって未知の言語であり、まるで理解の及ばぬものであった。ただの一語も老人が何を言っているか、さっぱりと分からない。
老いの影が全身を覆い尽くしても針金でも入れている様にしっかりとした立ち姿の老人は、雪輝の言葉が聞こえていないのか、それとも元から言葉が通じない事を知っていたのか、雪輝の戸惑いを無視してゆっくりとした口調で喋り続ける。
『――――――――――――――――――――――――――――――――――――』
老人の言葉は理解できなかったが、その雰囲気やこちらに向けてくる感情は友好的であると判断出来るものであったから、雪輝は老人の言葉を遮る事もなくその場に腰を降ろした姿勢のまま、老人が喋り終えるのを待つ。
『―――――――――――――――――――――――――――』
じぃっと雪輝が老人の理解できぬ言葉に耳を傾け続けて半刻か、あるいは一刻ほども経過しただろうか。ようやく老人は一方的なお喋りを中断し、辛抱強く待ち続けていた雪輝に対して、手を伸ばして白銀の体毛に包まれている左肩を軽く叩いた。
雪輝の事を慰めている様な、あるいは励ます様な力強く親しみに満ちた叩き方であった。老人の意図がさっぱり分からず雪輝が唖然としている間に、老人はさっさと雪輝に背を向けて歩き出し、白い世界の彼方へと消えて行った。
なにがしたかったのだ、と雪輝はつい愚痴を零したが老人の正体について、ほぼ間違いの無い答えを得ていた。胎児から老人へと成長してゆく過程の中で垣間見た青年期の顔立ちは、雪輝が人間へと変化した時の姿と全く同じだったのである。
そして天外に告げられた、狼の器に納められた雪輝の魂が異世界の存在の者である事と、その魂が本来の記憶や知識を喪失したからこそ、現在の雪輝が成り立っている事を合わせて考えれば、ごく自然とあの老人の正体に辿り着く。
「この世に来る前の私、というわけか。紅牙との戦いでこの器たる肉体と私の魂の調和がとれた影響と言う事なのか? 前世の私よ、いまになってなぜ蘇る? 私に何を求めるのだ?
そして失った記憶と知識を取り戻した時、私は雪輝のままでいられるのか、それとも雪輝は消えてお前になるのか?」
雪輝の青い瞳はすでに白い世界の果てに消え去った前世の自分の姿を追い求める様に、はるか遠くを見つめていた。
失われた記憶と知識を取り戻した時、この狼の器に宿る魂が備える精神が、一体誰のものであるのか。雪輝は自分しかいない世界の中で、自己の存在の喪失という可能性をただ静かに受け止める他なかった。
<続>