魔業姉妹編 その一 不穏な旅路
第四部開始とさせていただきました。お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
少女の愛した狼 第四部 魔業姉妹編
その一 不穏な旅路
伸ばした手の指さえも見えない様な暗闇に閉じ込められた場所に、ソレは五百年の昔から繋がれていた。五百年とはいってもこの場所の外で流れた時間を計ればの話だ。
暗闇の濃度が変わる事もなく、湿った土や淀んだ空気の臭いも五百年前と変わらぬ状態が維持されているこの場所では、時の流れを計る事は極めて難しい。
四方を分厚い岩盤で覆われて光が差し込む余地のまるでない閉ざされたこの環境は、常人なら三日と持たず発狂しかねぬものであったが、ソレは身も心も人間とは違う作りを持って誕生した存在であり、五百年の暗闇が齎す孤独や停滞、退屈にも耐える事が出来た。
五百年の昔、うっすらとした紫の色を交える夜の空を駆け、ソレは厳重な霊的結界によって守護されていた大和の都に住まう人々に、夜な夜な挙げる咆哮や月光や星明りに照らしだされる異形の姿をもって恐怖をばら撒いていた。
七日に一度地上に降り立っては腹が満ちるまで人々を襲って喰らい、都に吹く風の中に濃い血の匂いと恐怖に塗れた断末魔の悲鳴の残響を乗せ、誰阻む者の無い暴虐の王者の如く君臨していた。
だが当時のソレにとって無力でちっぽけな、それでいて極めて美味な食糧であった人間達の中にも力ある者達が居た。
無謀にも己に挑んでくる人間に対して嘲笑と怒りを持って迎え撃ったソレは、三日三晩に及ぶ戦いの末に捕縛され、挙句その強大な妖力を利用した霊的結界の要として地下深くに設けられた祭儀場――つまりこの洞穴に封じられてしまった。
強力な妖魔を利用した結界の為に徹底的に清められた上で設けられた祭儀場には、鼠はおろか蜘蛛や百足といった小さな命が入り込む事は無く、ソレは完全なる孤独に押し込められている。
それが五百年。
流れた時を正確に知る事は出来なかったが、己が封じられる事となった最後の戦いで相対した人間達の事を思い返し、それらを飽きることなく残虐に殺し尽くす空想を描き続け、心中の憎悪の炎の猛々しさを維持しながらそれは五百年の時を過ごし続けている。
五百年と言う期間は人間が何世代も変わるのに十分なほどの長い時ではあったが、ソレを利用して作り上げられた結界は僅かも綻ぶ事は無く、結界が時の流れの果てに効力を失い、ソレが自由を得るにはまだ千年余りの猶予が本来であれば存在していた。
不意に、ソレは淀み切り動く事を忘れた大気がゆるやかに流れている事を知覚する。実に五百年ぶりに嗅覚が感じ取る外の匂いや、聴覚が聴き取る外の音。
兎や猫や犬といった獣たちの臭い、様々な花々の香りが幾重にも混ざり合いむせ返るほどの濃さを持ち、忙しない小鳥の羽ばたきや大地の上を駆けまわる大小無数の足音。
暗く湿り、ソレの放つ妖気に満たされた冷たい祭儀場の空気とは異なる太陽と月と星の祝福を受けた外の空気が、急速に流れ込んできて祭儀場の汚れきった空気を清めている。
理由などはまったくもって不明ではあったが、ソレにとっては待ち望んだ解放の時を予感させるには十分な変化であった。
いまだ四肢は呪符と鎖と楔によって封じられていたが、それから解き放たれて外に出た時、願い続け思い描き続けた殺戮劇を現実のものにできるのだと思い至り、ソレはかつてない昂りによって心身を満たされて全身からより凶悪な殺気と妖気を放出し始めていた。
ソレの耳と鼻がまた新たな変化を感知する。規則正しく繰り返される足音とかすかに聞こえる呼吸の音。数は一つ。人間だ、とソレは経験から導き出し、そして直感が否定する。
否、断じて人間ではない。足音や呼吸音、大気の流れからソレが脳裏に再現した正体の知れぬ来訪者の姿形は紛れもなく人間のものであったが、姿形以外の何かは、いやそれ以外の全てが人間ではないと、告げる直感にソレはかすかに困惑する。
やがて視界の彼方に雪洞を手にした人影が、ソレの目の前にあった石段の上からゆっくりと姿を露わした時、ソレは己の直感の正しさを心底から理解した。
ソレの目の前に姿を露わしたのは確かに人間に間違いなかったが、憎悪の塊と化していたソレを気圧する底知れない雰囲気は、断じて人間の纏い得るものではなかった。
雪洞の灯りが照らし出す朧月の様に美しい顔に、来訪者は笑みを浮かべる。無垢と称しても良い、あどけなさの残る笑みであった。
「貴方を自由にしてあげる。その代わり一つ、私のお願いを聞いてもらう」
ソレは、腹の奥底が急速に冷えて行く事を感じながら、目の前の来訪者の言葉を固唾を呑んで待った。自分を封じた人間達の事を例え一時とはいえ忘却したのは、この時が初めての事だった。
「鬼無子お姉様を私のものにする為の手伝いをね」
にこりと、来訪者は更に深く笑んだ。どんな偏屈者でも思わず心からの笑みを返してしまうほど、魅力的で朗らかな笑みなのに周囲の暗闇が更にその深さと暗さを増す様な、言葉では表しきれない邪悪さが笑みの奥底に秘められていた。
*
神夜国を三分する織田家が、かつて神夜全土統一の際に張り巡らせた膨大な交通網を構成する無数の街道の一つに設けられた、どこにでもある茶店になんとも目立つ一行が腰を落ち着けていた。
織田家と大和朝廷の国境沿いから七里(約二十八キロメートル)ほど大和領に進んだ場所にある、街道がいくつか交差して宿場町として賑わう与謝という町を目指す旅人達が、最後に休憩を取る場所で、冬の冷たい風が吹く街道をゆく旅人の数はそれなりの賑わいと言える。
旅する者達の顔触れは圧倒的に男が多いが、その茶屋の店先に腰かけてお茶と団子に舌鼓を打っている一行に目を惹かれるのに、男も女も老いも若いも関係は無かった。
男一人と女二人という一行である。
女の内一人はまだ十歳になるかならないかと言う子供だが、絹のような光沢を放つ烏の濡れ羽色の髪とあどけなさの中に目の覚めるような美貌の片鱗を伺わせ、甘味に笑みを浮かべている姿は、目にした者達の胸に暖かいものを抱かせた。
名前をひなと言い、かつて生まれ育った村の人々に近隣の山に住まう妖魔への生贄と差し出された、という悲惨な過去を持っているのだが団子を頬張ってはふにゃ、と柔らかな笑みを浮かべる姿からは、そのような過去の持ち主とは見えない。
ひなの隣に腰かけているのは珍しい女性の武芸者である。普段は腰に佩く刀を腰かけている長椅子の上に起き、先ほどから団子を口に運んでは空の皿を山積みにしている。
こちらも精々が二十歳に届くかどうかという若さで、腰にまで届く長さの栗色の髪を、首の後ろの辺りで青い組紐を使って無造作に束ねて流していて、年頃の女性らしい飾りっ気はほとんどない。
しかしながらわずかな化粧も刷いていないその顔立ちは、色街の太夫でさえ羨望と嫉妬に身を焦がしてもおかしくないほどに美しく、どこか艶やかであった。
白粉の方が黒ずんで見える様な白磁の肌に、心臓が送り出したばかりの血を塗った様に異様に赤く濡れて淫らな唇、流れ星の尾の様にすっきりと流れる典雅な鼻梁、舌を楽しませる甘味に細められている瞳は黒瑪瑙を思わせる。
姿だけを見れば刀など振りまわす事さえも覚束ない、蝶よ花よと育てられた大国の姫君を連想する気品と美貌を合わせ持った女性だ。
それでいて着物の上下を押し上げる肉感的な体は豊かなもので、清廉な印象を与える美貌と裏腹にその美駆は男の淫らな妄想の理想形と言っても差し支えの無いものだった。
四方木鬼無子といい、その身に四百四十四種の妖魔の血を宿す特異な一族の最後の裔である。元は大和朝廷の霊的守護を担う退魔士であったが、今は紆余曲折を経てひなと共に生きる道を歩んでいる。
氏素性から種族まで異なってはいたが、その容姿が見目麗しいものである事は疑いなく、女性達だけでも街道をゆく旅人達の耳目を惹きつけるのには十分すぎるほどであったが、旅人達の視線を引き寄せて離さないのは黒髪の少女の右隣に腰かけている黒一点の青年であった。
純銀の輝きも色褪せて見える白銀の髪、青く濡れた満月がそこにあるかのような深い色合いの瞳、神夜国の人々よりも彫りの深い顔立ちは、夢にさえ見る事の出来ない人間の想像力を越えたこの世のものと思えない造作。
この世界に八十八万存在する神の中でも造形と美を司る神の中でも最高位の神が、手を取り合ってこの世に産み落としたとしか思えない、一目で魂まで奪われる絶世の美貌である。
編笠をかぶったままでその顔立ちは半分ほど隠れていたが、それでも残る半分の美貌だけでも、道行く人々の足をその場に縫い止めて頬を桜色に染めるには十分すぎた。
身に纏っているのは良く晴れ渡った空を思わせる水色の袴の上下で、足元には大きく膨れ上がった風呂敷包みが置かれている。
青年は左に座っている少女と言葉を交わしながら団子や茶を口に運んでは、口元に穏やかな微笑を浮かべて街道をゆく旅人や空を見上げている。
名前を雪輝と言い、この一行の中心人物となっている青年だ。だがその正体は人間ではなく、狗遠同様に妖哭山で発生した狼の妖魔である。天地の気によって血肉を構成する特殊な妖魔であり、始祖に相当する個体で同族を持たない天外孤独の身の上でもある。
元より狼の姿を取っても調和のとれた完璧と言う他ない姿であったが、人に化けた時の雪輝もまた狼の時同様に途方もない美貌の主となっている。
理由あって織田家の対妖魔殲滅組織である妖魔改から逃れる為に織田家領内を出ようと、鬼無子の生まれ育った西国大和の地へ向かう旅路にあった。
妖哭山での最後の戦いで左腕を根元から失い、左目と左耳の視力と聴力もまた失った為に、雪輝の左袖は風に靡いて左目は固く閉ざされている。自由になる残った右腕で皿の上の団子を口に運ぶ。
「ここの団子は甘いな。前に七風の土産に買ってきてくれた菓子も甘かった」
「甘いのはお嫌いですか?」
雪輝を兄の様にも父の様にも弟の様にも慕うひなが、頭二つは高い位置にある雪輝の顔を見上げて尋ねる。
「嫌いではないよ。ただ私は鬼無子やひなほど腹に入れる気にはならないな。もともと私は食事を必要としていない所為もあるだろうがね」
天地の気を取り込む事で生命を維持している雪輝にとって、食事は必要な行為ではなく嗜好の類になる。そもそも初めて食事を取ったのもほんの少し前の話であり、雪輝は味覚が未発達な部分が残っている。
傍らに置いていた湯呑を持ち上げて口に運び一口啜る雪輝の頭の上で、がさ、と物音が一つ。編笠の下で雪輝の耳が動いた音である。
雪輝はまだ人間への変化に慣れてはおらず人間の姿になった時に、狼の尻尾や耳が残ってしまう事が多々ある。普段は隠せているのだが、ちょっとした拍子や驚いた時などに耳や尻尾が出てしまう。
編笠を被っているのは雪輝が気を抜いた時に狼の耳が出てしまっても、周囲には分からない様にする為の配慮である。先ほど頭頂部の狼の耳が動いてしまったのは、和やかな空気に気持ちが緩んでしまい、変化が一部甘くなってしまったのだろう。
冬の寒さにも負けない熱めの茶で咽喉を潤してから、雪輝はひなを挟んで隣に座る鬼無子に声を掛ける。
「所で鬼無子、こんなにのんびりしていて次の宿には間に合うのかね?」
食欲が人五倍ほどは逞しい鬼無子はにこにこと笑みを浮かべて空の皿を積み上げ続けていたが、雪輝の声に正気に返って恥ずかし気に頬を染めて答える。
「ええ。後一刻もすれば宿場町には着きます。夜が更けるよりも早く間に合うでしょう」
「ふむ、しかし彼らに追いつかれはしないか。国境を越えたとはいえあまりのんびりと構えてはいられないのでは?」
鬼無子は周囲をそれとなく一瞥し、他者の目と耳を確認してから声を潜めて雪輝に答える。
「あまり声を大きくしては言えませんが、織田と大和の間には表に出ない条約もありまして、討魔省や妖魔改の者が他国の領内に足を踏み入れるのにはそれなりの手順を踏まねばなりませぬ。
それがしの様に職を辞したならともかく、正規に所属している者達が大和に足を踏み入れるのには手間を取られるでしょうから、今少し時は稼げます」
「なるほど、余裕を持って構えているのはそういう理由か」
そう言って懸念に対する答えが得られた事に安堵し、雪輝はまた茶を啜った。何気ない仕草一つをとっても、その美貌の効果もあってか茶店の前で肢を止めている旅人達や客達からは恍惚と蕩けた吐息が無数に零れる。
共に行動する少女達の心ばかりでなく、意識せずともすれ違っただけの人々の心を惑わしてしまう何とも罪作りな狼である。
茶屋での休息を終えて再び街道を歩きだしてからも、雪輝や鬼無子達の顔立ちを目にして思わずその場に足を止める旅人達は後を絶たなかったが、当の雪輝達はそれを気にせずと穏やかに言葉を交わしているばかり。
ひなを真ん中に雪輝がひなの左手を握り、鬼無子がひなの右手を握って歩き数歩下がった位置を取り、妖哭山を旅立ってからこの構図が今に至るまで続いている。
開けた草原の中に大の大人四人が手を広げて歩けるほどの幅の道が整えられており、冷気の成分を増す風に、揺れる葉を全て枯らした木々や花弁の落ちた花の茎が寂しげに街道の脇で揺れている。
夜ならばともかく昼をいくらか過ぎた今の時刻では野の獣が顔を覗かせる様子もない。雪輝達が茶屋を出立した時刻が丁度次の宿場町に着くのに適当な時刻だったようで、やや急いだ様子で足を動かす者も散見される。
人の手が入った街道の上とはいえ、昼はともかく夜は人間の時間ではない。青い空に墨をぶちまけて染めた様な夜になれば、今は姿を見せずにいる野の獣や妖魔の類が跋扈し、夜の旅路を急ぐ旅人達を胃の腑に納めようとする。
獣避けや妖魔除けのお守りを持つ旅人もいるだろうが、なにも旅人に襲い掛かる不幸は獣や妖魔ばかりではない。同じ人間である野盗の類も当然姿を見せて、不用意で愚かな旅人を狙うだろう。
身ぐるみを剥がれて命だけでも助かれば御の字というもので、大概はそのまま命を奪われて野晒の死体になり、獣や鳥に死肉を啄ばまれて無残な姿に変わり果てるのがオチだ。
もし旅人が女でしかもうら若い女性であったなら、待ち受ける運命はある意味殺害されるより悲惨なものになる。
野獣よりも卑劣で低俗な連中の欲望の捌け口としてさんざか慰み者にされて、使いものにならなくなるまで奴隷にされるか、人買いに売り飛ばされる運命が待っているだけだ。
ただそう言った多くの旅人を悩ませる野盗や妖魔と言った危険に関して、雪輝ら一行には一切危険視する必要は無い。
そもそも雪輝自身が強力な妖魔であるし、鬼無子もまた並みの武芸者などまるで歯牙に掛けない妖美な姿に反する人間離れした戦闘能力を有する魔性の剣士だ。
雪輝と鬼無子なら低級の妖魔や野盗の集団など百単位の数が襲いかかって来たとしても、纏めて皆殺しにしてのける戦力である。
唯一ひなだけが外見の通りのごく普通の少女であるだけで、男と女の性別を問わずに惑わして獣欲を刺激してやまない美貌を持った二人は、その美貌の奥に途方もない力を隠し持った化け物なのだ。
唯一妖魔改からの追跡だけが一行の危惧する所であり、街道で襲い掛かってくるかもしれない野盗や妖魔に対する危機感は欠片もないのである。
茶屋を出て半刻ほど歩いた頃、少し年の離れた姉妹の様に仲良く手を繋いだまま、ひなが鬼無子の横顔を仰ぎ見て訪ねる。
「西を目指して旅をするのは良いのですけれど、目処みたいなものはあるのですか鬼無子さん」
妖魔改の追跡を振り切る事と妖哭山で世話になっていた山の民に迷惑を及ぼさない為に、妖哭山を離れて旅を始めたのは良いのだが明確な目的地などは特に聞かされていなかった為、ひなは疑問に思っていた様だ。
「妖魔に対する理解があるとはいえ、流石に雪輝殿ほどの妖魔を都に入れるわけにはゆかぬから都まで行く予定はないな。一度大きな街に入って、それがしの元同僚と話を繋げて妖魔改の追跡を振り切るつもりだ。流石に他国では妖魔改といえども好き勝手はできまいよ」
鬼無子に対して絶対的な信頼を寄せるひなはそうですか、と納得して頷いて返したがまだ不安に思う所がある様で、少し眉根を潜めて小首を傾げてまた鬼無子に問う。
そんなひなの様子を見て、雪輝と鬼無子が内心で可愛いものだな、と和んだのはひなの知らぬ事である。
「鬼無子さんがそう言われるならそうなのでしょう。ただ妖魔である雪輝様の事を受け入れていただけるのでしょうか」
ひなの生まれ育った苗場村をはじめ織田家領内において、妖魔に対する姿勢は利用価値が存在するならばともかく、よほどの事がなければ徹底殲滅が基本的な姿勢である。
政治を司る者たちのみならず民間にもそういった姿勢が浸透しているから、織田家領内出身のひなにとって、雪輝達がこれから向かう先で受け入れられるかどうか不安で堪らぬのだ。
妖魔である事を隠して過ごすにしても鬼無子の様に力を持った人間と出くわす事があれば、妖魔であることを看破されてもおかしくは無い。
「なに、雪輝殿ならまず間違いなく問題ない。このご気性であるし性質が善である事は調べればすぐに分かるし、むしろ討魔省に誘われるかもしれないな。
例え妖魔であれ人と共に生きられる妖魔であるなら、受け入れる事も吝かではない場所だからね。ひなと雪輝殿は一緒に居られるよ」
「はい」
鬼無子としてはかつての同僚と連絡を取れれば、雪輝の気性と善妖である事実と鬼無子が口を利く事で、討魔省から危険な妖魔として認定されずに済ませる事も出来るだろうし、場合によっては本当に討魔省に誘われる事もあると考えている。
討魔省に所属する事になれば命の危機もあるだろうが、大和にいる限りは朝廷の保護も受けられるし、生活に困る様な事もないだろう。
それに鬼無子が死んだ後も事情を伝えておけば雪輝とひなに便宜を図ってもらえるだろう。
幸い、朝廷に対して四方木家の宗家である百方木家を筆頭とした反乱が起きた際に、四方木家が朝廷側に就き、かつての仲間達を相手に鬼無子を残して一族が死に絶えるほどの激闘を繰り広げた事で、朝廷からの鬼無子に対する覚えは目出度い。
多少の事には融通を利かせてくれるだろう。
それまで黙ってひなと鬼無子のやり取りに耳を傾けていた雪輝が、おもむろに口を開いた。
「随分と妖魔に理解のある場所らしいが、鬼無子の生まれ育った場所ならさもありなん、と言った所だな。ふむ、人に馴染む為に私も芸の一つでも覚えたほうが良いかね?」
雪輝の性格なら特に人間受けの事を考えていないいまでも、見知らぬ人間にお手と言われながら手を差し出されれば、差し出された手に自分の前肢を重ねる位は気にせずにするだろうし、ひなと安寧に暮らす為とあればいくらでも雪輝なりに愛嬌を振りまく事は想像に難くない。
そんな雪輝の姿は決して見たいとは思わなかったので、鬼無子はやんわりと否定する。人懐っこく社交的なのは良いのだが、もう少し自尊心というか自身を大切にして欲しいものだと、鬼無子は思わずにはいられなかった。
「いえ、雪輝殿はそのままの雪輝殿であれば問題はありますまい」
「そうかな?」
「はい」
もう少ししっかりして下されば、それがしも安心して後の事をお任せする事が出来るのに、と鬼無子は咽喉の奥まで出かかった言葉を飲み込む。妖哭山で自称仙人である天外に受けた治療のお陰もあって、現在鬼無子の肉体に混じる妖魔の血肉の蠢動は沈静化している。
この分ならばまだいくつかの季節を雪輝達と共に過ごす事も出来るだろう。その間に雪輝にもっと人間の世界の常識を教えこんでおかねば、心配のあまりに冥界に行けず霊魂となって現世を彷徨う事になりそうだ。
<続>