その二十 死生前途
その二十 死生前途
ぷかり、と青の口紅がひかれた唇から丸い煙の輪が零れる。ぷかり、ぷかりと続けて煙の輪が青く澄み渡った空に昇っては消えている。
濃厚な血の匂いの薫る中、岩の上に腰かけた紫色の着物を洒脱に着崩した、少々奇抜な格好の色男が、懐から取り出した煙管を咥えては離して、煙を吐いている。
織田家の保有する妖魔殲滅機関“妖魔改”の一人、伊鷹である。腰まで届く艶やかな鴉の濡れ羽色の髪を後頭部で結わえ、眼もとには紫の黛、唇は青の口紅、咥える煙管は瀟洒な細工が施された金細工。
肩に掛けた弓はまるで巨大な水晶から彫刻した様に、降り注ぐ陽光を照り返している。
同じ妖魔改の一員である黄昏夕座に助力する為に妖哭山を訪れた伊鷹であるが、その目的を忘れてしまったように煙管を吹かす事に熱中している。
周囲で呻き声を上げる夕座配下の妖魔改の隊員達を助ける素振りも見せず、大狼と思しき妖魔の後を追って、木立の群れの中に消えた夕座を追う様子もない。
夕座に肩を並べるであろう強者であり、また大軍を相手にする場合においては夕座以上の戦力となる技を持つ食わせ者だが、まさかこのまま夕座ただ一人を、千とも万ともいわれる妖魔の住まう山の奥へと向かわせるつもりではあるまい。
「伊鷹殿」
ぷかり、とまた煙の輪を吐く伊鷹の左横に、頭からつま先まで忍び装束に身を固めた小柄な人影が膝を突く。夕座の忠実なる従僕の筆頭である影座だ。
夕座の命によって雪輝と狗遠に壊滅させられた妖魔改の同胞達を診断していたはずだが、すでに治療を終えたのだろうか。
「はやいねぇ、影座。まぁ、夕座殿のお気に入りの伽女だけ治せばいいんだから、あなたの腕なら驚くほど速いというわけでもないかな。それでもま、お見事だけど」
雪輝と狗遠が相手にした数十名の妖魔改の者達は、その全てが夕座の閨の相手を務める多種族の女性ばかりではなく、ほとんどは夕座の要請によって派遣された実動部隊の者達だ。
雪輝らの後を追う際に夕座が影座に死なせるな、と告げた対象はあくまで夕座の伽女を対象にしたものである。
夕座に仕えて長い影座は夕座の短い言葉の中から正確に夕座の真意を察し、片腕を失った影馬や臓器、脊髄、肋骨を破壊された影兎のほか、二頭の狼の妖魔の牙に掛って命の灯を消す寸前に追い込まれた伽女だけを治療している。
影座の適切な処置と暗闇の歴史の中で培われた妖魔改に伝わる秘薬や治療法の成果もあり、双子の姉妹のほか伽女達は弱々しくではあるが安定した呼吸を維持している。
その代償としてその他の隊員達は影座以外の者達からの治療を受けているが、伽女達に施された治療に比べれば数等劣り、少なくない数が命の灯を消している。
公平に傷の深い者からあるいは治療を施せば助かる者から順に治療していれば、より多くの者達が冥府に落ちる事もなかっただろうが、同胞の命よりも夕座の命令の方こそが影座にとっては鉄なのだろう。
「お褒めの言葉、光栄に存じます。卒璽ながらよろしゅうございますか」
質問の是非であるが慇懃に問う影座の様子からして、妖魔改の組織内部において影座と伊鷹ではそうとうに位階に差があるようだ。
「なんだぃ? それにしてもあなたの方が私よりも長く妖魔改を務めているのだから、先達としてもっと口調を崩してくれていいのにねぇ」
「はっ、善処いたしまする。伊鷹様は夕座様の後を追われないので?」
影座の問いに伊鷹は一瞬ではあるが、きょとんとした顔を拵えてから、不意にぷっと噴き出すや口元を手で隠してからからと笑い声を弾けさせた。
「あは、あははははは。いやいや、それはない質問だねえ。私が夕座殿に助力する必要なんてないこと、貴方が一番良く理解しているのにぃ。いつも気まぐれでやる気のない夕座殿が、あんなに楽しそうにしていたんだよ?
助力するしないの話以前に私が横から手を出そうもんならこっちの首が落とされてしまうよ。ああなった夕座殿は人の話なんて聞きゃしないし、とびっきり強くなるからねぇ」
あまりに笑いすぎて目尻に浮かんだ涙の粒を細く美しい指で拭い、それでもまだ笑い足りないのか伊鷹はくっく、と咽喉の奥から小さな笑い声を零す。
「いやぁ、それにしても不幸なのはあの四方木の姫君と大狼だねぇ。夕座殿がああなっちゃ冥府の底の底まで追いかけてくるよぉ。飽きっぽい分手に入れるまではとんでもない執念を燃やす御仁だから」
「お言葉の通りかと」
「ほら、やっぱり。私に問うまでもなく分かっているじゃないか。さて、私らはここで夕座殿のお帰りをじっくり待つとしようじゃないか。寄ってくる三下の妖魔共は私が全て射るから安心おしな」
そしてまた、ぷかり、と煙の輪が天に昇る。
妖魔化による心身両方の消耗を強いられた鬼無子を背に乗せて、夕座らから遠く離れた位置を走っていた雪輝と狗遠は、巨大な木々が伽藍のように蓋をしている場所で足を止めて、鬼無子を降ろした。
雪輝の背にうつ伏せになっていた鬼無子は、雪輝の背から降りるや体をよろめかせ、咄嗟に顔を伸ばした雪輝に支えられながら巨木の幹に背を預けて腰を降ろす。
頬の血色を青に変えた鬼無子の呼吸は荒く、全身の血肉が妖魔のものへと変わる激痛は消えていたが、その痛みの名残はいまだ全身を苛んでおり、鬼無子は変容した肉体が元の人間の物へと戻る激痛にもまた耐えなければならなかった。
神経系や血管にも異常が生じたのか、血の混じる赤い汗を滴らせる鬼無子の頬を、雪輝は案じる気持ちを乗せた大きな舌でなめた。
舌だけでなくふんわりとした毛に包まれた頬もすり寄せられて、その暖かさに苦痛が和らぎ、鬼無子は微笑を浮かべる。
「ご心配なく。雪輝殿、それがしはまだ大丈夫です」
「まだ、か。含みのある言い方だな」
硬い雪輝の声音に、自らの失言を悟った鬼無子は微笑を取り払い、口元を固く一文字に結んで俯く。
鬼無子の失言に加えて舐め取った鬼無子の血の味の中に、人間の血以外の味が濃くなっている事を感じたのも、雪輝が声音を固くした理由の一つであった。
「言葉の綾でございます。お忘れください」
短く言い捨てて鬼無子は帯に括りつけていた印籠の蓋を開けて、中から一寸ほどの丸薬を取り出し、口の中に放り込むとすぐに咀嚼し始める。
まるで本当に石でも噛み砕いている様な硬質の音が鬼無子の口の中から零れてからしばらくすると、鬼無子はそれを一息に飲み込み、白い咽喉がごくりと音を鳴らす。
一噛みするごとに口の中に広がる言葉にし難い苦味や酸味、辛味に鬼無子の眉間に深い皺が刻まれるが、同時に体中で疼いていた妖魔の血肉が静まってゆくのも感じる。
先ほどの丸薬は四方木家や百方木家などの妖魔の血肉を宿す家が抱える医師達が調剤した、一時的な効果しかないが即効性の高い妖気鎮静剤であった。
調剤の内容や材料を知る医師達も皆死に果てて、鬼無子が所有するわずかな量しか残っていない貴重な薬だが、今は使用を躊躇っていられるような状況ではなかった。
荒かった呼吸が見る間に元の落ち着きを取り戻し、滲んでいた血混じりの汗も止まる。体調は万全からは程遠いとは言え、それでも生半可な妖魔には遅れを取らぬ程度には戦える状態にまでは持ち直している。
しかし、あの恐るべき妖剣士・黄昏夕座や妖哭山の妖魔の長といった面々を相手にするのは、自殺行為と言うしかあるまい。
「雪輝殿」
決意の色を宿して自分の瞳をまっすぐに見つめてくる鬼無子が、それ以上口を開くよりも先に、雪輝が機先を制した。鬼無子がどんな理屈を並べたてようとも譲るつもりがないと分かる、確たる語調で告げる。
「それ以上は何も言うな。私は鬼無子を見捨てぬ。私は鬼無子を守る。そう決めた。そしてこれは覆らぬ。天地がひっくり返ろうとも、だ。故に何を言っても無駄だと思うておけ」
ひなと鬼無子と共に過ごしている時には滅多に見せぬ、大妖魔としての威風を纏い厳かに告げる雪輝に気圧されて、鬼無子は息を呑んで無言になったがそれでもまだ異論はある様子であった。
「鬼無子、黄昏夕座がどうした。妖魔改がどうした。妖哭山の妖魔がどうした。立ちはだかる者達がいかに強大であろうとも、私は私自身に誓った事を破りはせぬ。鬼無子にどのような事情があろうとも、それがどうしたと私は君を助ける」
「しかし、それがしを置いていけば、少なくとも夕座めはこれ以上は追っては来ぬでしょう。あれは恐るべき手錬の主です。雪輝殿といえども……」
「負けぬと言っている」
雪輝の言葉は変わらず厳然と断じるものであった。
「雪輝殿……」
雪輝が自分を想い守ると告げる言葉に、鬼無子はこれ以上ない喜悦に心が弾む事を自覚していたが、同時に雪輝が自ら窮地に進まんとする選択肢を選んでいる事に対する不安と失うかもしれないという恐怖に、心の中をかき乱されてもいた。
そんな鬼無子の心情の複雑さを見てとり、雪輝はそれまでの厳然とした雰囲気を一変させてにっこりと巨大な狼の面貌に笑みを浮かべる。
「なに、私も最近自分と言う妖魔がどのような存在か分かって来たからな。昔よりは強くなっている。再び夕座が姿を現したなら、鬼無子の心配が無用の物であると証明して見せよう。だから、私に任せよ」
その様子を狗遠は黙って見守っていたが、生粋の妖魔として産まれ育った狗遠からすれば、雪輝らの為に自己の犠牲を許容する鬼無子もそれを許さずにわざわざ荷物にしかならない鬼無子を見捨てようとしない雪輝も、どちらも理解する事の出来ない異形のモノでしかなかった。
狗遠個人としては足手まといにしかならないだろう鬼無子など、ここに放り捨ててさっさと愚弟を血祭りに上げて一族の長の地位に戻り、他の妖魔共を雪輝と共に尽く殺し尽くす、と考えている。
とはいえその目的を素直に口にした所で雪輝が鬼無子を見捨てる選択肢を選ばない事は、匿われていた数日と今のやり取りからも明らかだ。
雪輝が鬼無子の思考を理解する事は出来なかったが、ある程度反応や傾向というものは学習出来たので、狗遠は自身の言動を目的に沿う様な反応を得られるものにする程度の事はできた。
この流れでいけば結局雪輝は鬼無子を連れたまま妖哭山内部を目指して、あの妖魔改とかいう者達を誘いこむだろう。
その過程でどれだけの妖魔と妖魔改達が衝突して命を散らすかは、狗遠の知った事ではなかったが、愚弟の喉元を噛みちぎってやる為には雪輝の助力は何としても必要であるから、余計な事を言って機嫌を損ねる事の無いようにと、狗遠は殻を閉ざした貝の様に口を噤んでいる。
沈黙こそ維持していたのだがお互いを見つめあって一人と一頭の世界を作っている雪輝と鬼無子の様子は、面白くないことこの上なかったので、狗遠は胸中の苛立ちをわずかでも紛らわす為に、ふん、と鼻を鳴らす。
そんな風に狗遠が色々と言いたい事をぐっと飲み込んで、雪輝と鬼無子を睨み殺すかのごとく険しい視線で見ていたが、唐突に雪輝が真正面から鬼無子を見つめていた姿勢から首を伸ばした。
不意を突かれた形になった鬼無子は雪輝の動きに対応するのが遅れて、見る間に視界の中で大きくなる雪輝の顔を躱す事が出来なかった。
雪輝が桃色の舌を伸ばして鬼無子の唇をぺろ、と舐めて鬼無子がへ? と呆気に囚われている隙に更に雪輝の口先が鬼無子の唇に押し付けられる。
湿った肉と肉とが触れる水音が小さく一つ、雪輝と鬼無子の口の間でした。
鬼無子が緊張と衝撃に体を硬直させている間に、雪輝は唇を離してはまた付けるという行為を、小鳥が啄ばむように数度繰り返す。
この一連の行為に狗遠は当初、ぽかんと口を開いてその場から足を動かせずにいたが、雪輝が何度も鬼無子に口付けるのを見ているうちに、自分でも理解できぬほど激しい感情が燃え上がって、雪輝の尻尾の付け根に噛みついて雪輝の行為を止めていた。
「痛っ、狗遠、何をする?」
裏切ったか? という様には疑わずなにか機嫌を損ねたかという問い方である。突然自分に噛みついてきた狗遠を相手に、雪輝もほとほとお人好しに出来ている。
狗遠は雪輝の一本一本が長くたっぷりと空気を孕んでふわふわとした毛並みに包まれた尻尾を、がじがじとそれなりに力を込めて噛みながら、どす黒いほど変色している胸中の感情に突き動かされて低い声で恫喝するように答えた。
「貴様こそこの状況が分かっているのか。毛無しの雌猿を相手に何をしている……」
狗遠の機嫌が最悪と言う名前の奈落の底へと急下降している事が雪輝には不思議であったが、何を、と問われれば素直に答えるのがこの狼である。
「無事を祈るおまじないだ。ひ……ある者に教わったものでな」
ひなに、と言いそうになるのをぐっと堪えて、雪輝はあっけらかんと答える。口付けて無事を祈るまじないとする、という慣習や行為を見聞した事のない狗遠はそれでも納得のゆく様子は見せず、噛んでいる雪輝の尻尾を更に二度三度と噛む。
流石に本気で狗遠が噛みつこうものなら雪輝の尻尾は付け根から噛み千切られていただろうが、幸いそこまで狗遠も力を入れてはいなので雪輝もそう強くは咎めないが、眉根を寄せて困った顔を造る。
その一方で雪輝に不意を突かれて唇を何度も奪われて、頬を上気させて真っ赤に染めていた鬼無子はと言うとおまじないという単語に、以前目撃したひなと雪輝の接吻の光景を思い出し、雪輝がその時と同じ意味合いで口付けをしてきた事を理解する。
行為の中に恋愛的な成分を含まぬ事であったのは、鬼無子の胸にかすかな寂しさを抱かせたが、それでも口付けるという行為はとても胸躍るものであったから、鬼無子はほぅ、と蕩けた吐息を零す。
鎮静剤の効果以上に雪輝の口付けの衝撃によって全身の痛みを完全に忘れ去り、もじもじと左右の指を絡めながら雪輝の顔を見上げて請い、願い、望んだ。
「あの雪輝殿……」
「うん?」
相変わらず狗遠は雪輝の尻尾にかじりついていたが、雪輝は多少の痛みは無視して鬼無子の声に応じて振り返る。
豊かすぎるほどに豊かな乳房の前で握り拳を作った鬼無子は、そのまま潤んだ瞳で雪輝を見上げる。異種である魔性の狼に心奪われた乙女の頬は恋の熱に浮かされて朱に染まっていた。
「も、もう一度まじないをいただけませんでしょうか?」
うっとりとした表情のまま鬼無子は瞼を閉ざし、唇を結んで雪輝へと自分自身を差し出してまじないを――口付けを乞うた。
卑しいな、と心の中で囁く自分の声が聞こえたが、鬼無子は構うものかと雪輝が今一度自分の唇を奪う事を強く願った。
そしてそれを拒む理由は雪輝の中にただの一片たりとも存在していなかったので、雪輝がもう一度鬼無子の唇に触れるのは当然の結末であった。
また暖かな感触が自分の唇に触れるのを感じて、鬼無子は緩みそうになる目尻を必死に抑え込み、心の中を歓喜で満たす。
もっと欲しい、もっと深く、もっと激しく、もっと根こそぎ自分と言う存在を奪って、もっと貴方のなにもかもを奪ってしまいたい。
もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと……。
女としての欲望と数多の強大な妖魔を取り込んできた四方木家の妖魔を喰らう本能が同時に強く表出して、鬼無子は本能に突き動かされるままに雪輝の首に腕を回そうとし、その腕が空を切った。
腕が空を切るのと同時に自分の唇に触れていた雪輝の口の感触が遠のき、痛い、という雪輝の声が聞こえてきたものだから、鬼無子は頬を火照らせたまま瞼を開いて状況を把握に掛った。
「雪輝殿?」
「狗遠、突然なにをするのだ?」
「うるさい。なぜかは知らぬがひどく気に入らぬのだ。貴様も狼のはしくれなれば毛無しの雌猿などと過剰に馴れ合うものではない」
鬼無子の瞳には仰向けに転がされて腹のあたりを滅多やたらと狗遠に蹴り飛ばされている雪輝の姿が映し出された。
雪輝は尻尾を噛まれていた状態のまま鬼無子と熱い接吻を交わしている隙を突かれて、狗遠に転がされたようだ。
すぐさま体勢を立て直して狗遠の足蹴りから逃れた雪輝は、自分の主観では理不尽に暴力を加えて来た狗遠に抗議の目線を送っている。
先端がやや丸みを帯びた二等辺三角形の両耳をぴんと直立させて、やや頭を下げた姿勢を取り、雪輝はじぃっと狗遠を見つめる。
狗遠は先ほどよりもはるかに強い怒りと鬱憤と苛立ちを抱いていたが、雪輝の青い満月の瞳に見つめられるのは大の苦手で、真っ向から雪輝の視線を受け止める事が出来ずに顔を背ける。
「狗遠よ、お前は毛無しの猿などと言うが私からすれば人間を毛無しの猿とは見えぬし、鬼無子はとても美しいと思うぞ」
美しいと褒められて鬼無子が恥ずかし気に顔を俯むかせれば、狗遠は逆にますます不機嫌さの度合いを強いものに変えて周囲に負の感情の微粒子を撒き散らしている。
鬼無子を褒めると狗遠の機嫌が悪くなる、という事を両方の感情の変化から理解した雪輝は、ならば狗遠を褒めるとどうなるかと言う事を検証する為と狗遠の機嫌を取り繕う為にこう言った。
「鬼無子は学もあり信義に厚く頼りになる上、とても美しい。そして狗遠、私はお前の事も美しいと思う。私がいままで目にした事のある雌の狼達の中で、お前ほど凛々しく美しい狼はいなかった」
「……ふん、言葉ではなんとでも言えよう」
「私の言葉を信じるかどうかはお前の好きにせよ。偽りを口にするのは、私の苦手とする所であるがな」
それきり狗遠は雪輝を蹴り飛ばす様な事はせずにふん、とまた鼻を鳴らしてそっぽを向くが、その尻尾がかすかに左右に振られているのを雪輝は見逃さなかった。
とりあえず褒めておけば狗遠の機嫌はなんとか取り持たせる事が出来るようだ。さて問題は狗遠を褒めた時の鬼無子の反応である。
情緒的な面においてあらゆる経験値の乏しい雪輝は、遭遇した事のない場面や人間関係に直面するとこうしていちいち手探りで確認するという、手間のかかる手順を踏まなければならなかった。
そして雪輝の視線の先の鬼無子はと言うとこちらはこちらでにこにこと笑っていた。
狗遠に対する褒め言葉は確かに耳に入ってはいたのだが、それよりもまず雪輝に美しいと褒めて貰えた事が鬼無子の心を満たしきっており、狗遠に対する雪輝の褒め言葉など右の耳から左の耳へと抜けていたのである。
はて? と雪輝は首を捻る。狗遠を褒めたならば今度は鬼無子が不機嫌になるか、と雪輝自身は予測していたのだが、その予測を見事に裏切って嬉しそうに笑みを浮かべているではないか。
鬼無子を褒めると狗遠は不機嫌になるが、狗遠を褒めても鬼無子は不機嫌にならない。これは一体どういう事であろうか。雪輝はこの両行為の結果の違いがさっぱり理解できずに、心中でしきりに首を捻っては疑問符を浮かべていた。
これが狗遠を褒める時に鬼無子の事も褒めていたと言う事に気づいていれば、まだ雪輝の疑問も解決したのだが、この狼の思考形態は所々で巨大な穴があき、更には螺子の締め方を間違えている箇所が散見される為に、凛に阿呆だの間抜けだの言われても仕方がない面が確かに存在している。
しかも鬼無子が機嫌を損ねた時にどうやって取成すかを考えていたわけではないのだから、この狼は時々救いようがないほど愚かであった。
とはいえいつまでもこうして一人と一頭の女性の機嫌を伺う事に熱中するわけにも行かないのは、自明の理である。というよりも既にだいぶ時間を無駄にしていると言ってもいい。
ただこれまでのやり取りは雪輝や鬼無子自身も気づかぬ事ではあったが、鬼無子の精神を安定させて、ひいては妖魔化を抑制する結果に繋がりこの場の誰もが知らぬ所で鬼無子の容態を良い方向に向けていた。
上機嫌な様子の二人に雪輝は、再び気を引き締めた声をかける。
「鬼無子、調子はどうだ? いつまでもここにこうしていては夕座に追いつかれよう。そろそろ動くぞ」
いざ闘争となれば百戦錬磨の鬼無子である。それまで惚気が占め尽くしていた思考を切り替えて、自身の肉体の状態を正確に把握して雪輝に報告する。ただし思い出の棚の中に厳重にしまい込み、いつでも思いだせるようにしてはいたが。
「普段のざっと八割ほどは動けるかと。白猿王ほどの力を持った妖魔までならなんとか対等に渡り合えるかと存じまする」
「そうか。それと二度と妖魔の血を使うな。使う様な事態にもさせぬ」
「……はい。心に留めておきます」
実際に妖魔の血を使うかどうかは、これからの事態の推移による為、鬼無子にも絶対に使わずに済むかどうか確約できるものではなかったが、力強く断じる雪輝の言葉が嬉しくて、鬼無子は柔和な微笑を浮かべながら首肯した。
外見上からは不機嫌なのかどうかわからない狗遠が、面倒臭そうに口を開く。議題にあげるのは鬼無子の事であった為、本来ならば口にするのも鬱陶しいのである。
「それでこの毛無しはどうする。いちいち休んでいては足手まといにしかならぬわ」
鬼無子の事は毛無しと呼ぶ事に決めたらしい。む、と鬼無子は不愉快そうに顔を顰めるモノの、確かに足手まといになっている事は否定できず、口を噤む。
「ふむ。とはいえ鬼無子一人を置いていっても安全な場所は、現状、ほぼない。それゆえ唯一残っている安全かもしれぬ場所を目指し、鬼無子を休ませつつ山で暴れておる飢刃丸や夕座を討つ」
「安全かもしれぬ? 妙な言い方をするな。どこの事だ、雪輝よ」
「お前も知っておろう。妖哭山内部に唯一住まう仙人、天外の事だ。あやつは色々と胡散臭い老翁ではあるが、実力は疑いの無い本物だ。妖魔除けの結界ひとつをとっても、それは分かるだろう」
「あのしわくちゃの事か。あれとの親交があったのか」
天外の事を妖哭山の妖魔がどう思っているのかを、苦々しく吐き捨てる狗遠の様子が良く表している。
骨と皮ばかりの皺まみれの老人などは腹の足しにもならぬ所であるが、高位の仙人の血肉であれば、わずかな量でも滋養となり力となるから、妖哭山内部の妖魔の多くは、何とかして天外を喰らおうと目を光らせている。
しかしながら狗遠の祖父母の更に祖父母と遡ったはるか昔からこの妖哭山に住まい、今に至るまで怪我一つ妖魔達に負わされた事のない天外は、極上の獲物であると同時に妖魔達の爪や牙の届かぬ存在でもあるのだ。
妖哭山内部の妖魔では、善の性質を持って産まれた雪輝位しかまともに会話をした事のある者はいないだろう。
「妖哭山のこの荒れ具合でも天外は変わらずに庵で生肉でも齧っているだろう。それに仙人ならば鬼無子の身に良く効く薬かなにか知っておるやもしれぬ」
鬼無子の知識の外にある術法なども修めている天外であれば、確かに鬼無子の体の奥底に根付く妖魔の血を緩和させる某かの知識を持っているかもしれないが、雪輝とは逆に鬼無子はそれほど期待してはいなかった。
確かに傷は癒せるだろうが、四方木家の宿業はそう容易くこの身から消える事は無いだろう、と既に自身の結末に関しては受け入れていたし、助平で諧謔に富んだ扱い難い天外ではあるが、一応悪人ではないようだから鬼無子を助ける術があるのなら既に提示していただろう。
それはまた別にしても確かに本調子ではなく足手まといになりがちな今の自分が、身を寄せられる唯一の場所ではあるだろうから、鬼無子としては反対の意見を口にする事は無い。まあ、露骨に好色な視線を寄せてくるので、天外の事は好きではなかったが。
「天外を頼るのは良いとしてそれまでの道のりが少々厄介だな。あやつの庵はほぼ中心に建てられている。何度かは戦わねばなるまい」
「我らならば長共と出くわさねばどうとでもなる。毛無しの雌猿を庇わずに済むなら尚更な」
「確かに本調子とは行かぬが、そこらの雑魚妖魔になど遅れはとらぬ。灰色の毛並みをした雌狼とかな」
「ほほう?」
言うや否や目線を合わせて目に見えない火花を散らす狗遠と鬼無子に、雪輝はこの二人の仲はどうにかならぬものかと思案したが、自分自身が二人の不仲の理由の一つである事に気付いていない以上は、どれだけ頭を悩ませたところで妙案を思いつく事は無いだろう。
雪輝は鬼無子と狗遠には気づかれぬようにそっと溜息を吐いた。こうして言い合いを重ねている間にも周囲の状況は変動しており、実際雪輝達の頭上には翼長二丈はあろうかと言う巨大な猛禽十数羽が翼を羽ばたかせている。
狙いは雪輝達ではなく、蝙蝠の翼を背中から生やして臀部からは大蛇が伸びている獅子面の混合魔獣の群れと一戦交えているようだ。時折両者の血や肉、千切れた羽などが落ちては周囲の木々を騒がせている。
急がねば余計な戦いを強いられよう。雪輝は視線を妖哭山内部へと向けた。目指すは天外の庵。
しかしそこに至るまでに一体どれだけの激戦を経ねばならぬのか。
この判断がはたして正しいものかどうか、雪輝には見通せぬ霧の中に迷い込んだような不安の塊が、心中に在った。
雪輝の不安は雪輝自身にとっては悪い方向で的中した事は、もはや語るまでもないだろう。妖哭山の内外を隔てる山頂部を目指して走る雪輝と狗遠を道行きには、ほとんど休む間もなく連続して妖魔達が姿を見せて、雪輝達を阻んだのである。
邪妖精や悪霊、経立、妖魔と生息域や種類を問わずにありとあらゆる妖魔達が山中を跋扈して殺し合う異常事態が、妖哭山全体に広がっており、雪輝達は血の霧が立ち込める様な酸鼻極まりない戦場を進む他なかったのである。
疾風の速さで木々の間をすり抜けて走る雪輝の背に跨った鬼無子は、雪輝が作りだした氷の薙刀を振りかざして、左右の大樹の枝から飛び掛かって来た劣鬼の胴を薙いだ。
雪輝の熱量操作によって造り出された七尺ほどの長さの妖気混じる氷の薙刀は、白い冷気を全身から立ち上らせながらも、握る鬼無子の手に凍傷や霜焼けを起こす事はなく、抜群の切れ味を持って劣鬼の臓物と骨を纏めて上下に断つ。
刀剣の扱いは言うに及ばず武芸百般に至るまで幼少期から叩き込まれた鬼無子にとって、薙刀も扱い慣れた武具のひとつである。鬼無子が十代前半の頃共に過ごした宗家の少女が薙刀を最も得意な獲物としていたことも理由の一つだ。
紫色の血を撒き散らしながら劣鬼の四つにされた肉体がどん、と音を立てて地面に落ちた時には、既に鬼無子を背に乗せた雪輝と狗遠ははるか彼方を走っており、地面の下から振動を頼りに姿を見せた巨大な蚯蚓の妖魔の頭部を、前肢の一振りで四散させていた。
上空での混合魔獣と魔鷹との戦いは激化の一途を辿っており、周囲にはばらばらにされた両方の飛行妖魔の死骸が落下して、臓物や半分しかない頭部などが枝にぶら下がっている。
「血の雨が降り注ぎ、臓物や死骸の破片がぶら下がる森か。酒池肉林、しかしこの場は血の池と骸のぶら下がる林と来た。風情など欠片もないな、これは」
先ほどから雪輝の嗅覚は多くの妖魔達の体液が混ざり合った凄まじい悪臭が届いており、聴覚が捉えるのも争い合う妖魔達の唸り声や断末魔の悲鳴の多重奏である。
まともな神経の人間が現状のこの妖哭山に放り出されたなら、一瞬で発狂に追い込まれてしまう。
ひっきりなしに姿を見せる妖魔や猛獣の類を退けながらの道行きは、ひどく時間を要して雪輝達にもそれなりの消耗を強いている。
雪輝の首筋の毛を左手で握り締めながら、鬼無子は氷の薙刀にこびりついた酸性の劣鬼の血を振り払い、移動速度の速さから融けた絵の具の様に後方の流れてゆく景色の中に襲い来る妖魔の姿が無いかを警戒していた。
馬上ならぬ狼上の状態では崩塵よりも長柄物の方が良いと即興で作ってもらった氷の薙刀は、下手な霊的処置を施した武具よりも切れ味鋭く、込められた雪輝の妖気の強力さから物理的にも霊的にも高い殺傷能力を有している。
狗遠を迎えに行く時に長柄物を使わなかったにも関わらず、いまは使用しているのは崩塵を鞘に納めている状態の方が、鬼無子の体内の妖魔の血肉の顕在化を抑制する効果が高まる為だ。
崩塵のみならず鞘の方にも対妖魔を想定した結界を展開する為の真言が刻み込まれており、崩塵の霊気と合わさることで妖魔の血肉を抑制する効能が増すように作られた特注品なのである。
妖魔化から人間の肉体へと戻りつつある鬼無子の肉体の負荷を抑える為にも、いまは崩塵を納刀している状態が鬼無子には好都合なのである。
上空から一直線の軌道を描いて流星のごとく急降下してきた双頭の蝙蝠の首を、上空に半月を描く薙刀の一振りで斬り飛ばし、ざあっと首から溢れだした双頭蝙蝠の血が霧雨の如く降り注ぐよりも早く雪輝が駆け抜ける。
既に二十以上の妖魔を屠り、鬼無子は妖魔改が足を踏み入れたことで加速度的に妖哭山の内部が、狂ったように闘争の渦中に巻き込まれている事をひしひしと感じていた。
予想をはるかに超えて狂奔している妖哭山の妖魔達の現状に感じる焦燥に突き動かされて、雪輝は白銀の眉間に皺を寄せ、四肢を動かす速度を緩めて狗遠と鬼無子に声をかけた。
「このままちまちまと相手にするのも面倒だ。山頂部まで一気に道を開く」
「それはその通りですが」
「どうやる気だ」
「森を焼き払っては山火事になるのでな。一気に凍らせる」
言うが速いか疾走の速度を完全に落として足を止めた雪輝は、周囲の山そのものが放つ妖気や討ち滅ぼした妖魔達の残留妖気を一気に喰らい集めて、体内で自身の妖気と混ぜ合わせて莫大な妖気を蓄える。
本来は天地自然の清浄な気によって肉体を構築している雪輝にとって、他者の放つ妖気を収束し、一時的にとはいえ体内に蓄える事はそれなりの負担が掛る行為であったが、このままちまちまと戦い続けての消耗の方を雪輝は嫌った。
雪輝の胸がぐっと膨らみ、咽喉を通じ進行方向に向けて雪輝の咆哮が放たれた。前方に広がる木々のみならず山肌それ自体と大気そのものを大きく震わせる大音量は、尋常な生物ではなく妖魔である雪輝ならではの魔性の咆哮であった。
音速で雪輝の咆哮が響き渡るのにやや遅れて次々と山の木々が巨大な氷の中に飲まれていって、雪輝達の現在位置から山頂部まで一直線に冷気が包み込む。
雪輝達が走り抜ける幅三間ほどの道行きの左右に巨大な氷壁がそそり立ち、地を駆ける妖魔達の侵入を拒む壁となる。
さらに天へ向けてぐんぐんと伸びる氷壁はその横壁の部分から槍穂のごとく先端の鋭い小さな氷柱が無数に伸びて、上空の妖魔達の侵入を拒む氷の天蓋を作りだした。
通常の氷ではなく雪輝の妖気によって造り出された氷は鋼鉄と同じかそれ以上の硬度によって、破壊しようとする妖魔達の侵入を拒んで弾き返すだろう。
視界の大部分が一瞬で氷が埋め尽くす光景に変わった事に、流石に鬼無子と狗遠もしばし言葉を忘れた。
天地の気を食べて滋養に変える雪輝の特性を活かした雪輝ならではの、局所的な天候操作と称しても誇張ではない現象である。
流石にこれだけの事をすると疲労を感じるのか、雪輝が自然に纏っている妖気の量が減少し、心なしか疲れた様子を見せている事に気付き、雪輝の背に跨ったままの鬼無子が元気づける様に優しく首筋の毛並みを撫でる。
「雪輝殿、それがしが言うのもどうかと思われるかもしれませぬが、あまり無理をされませぬよう、お気をつけください」
「大したことではない。それよりも急ぐぞ。内部の強力な妖魔もこちら側に顔を見せるようになっている。下手をすればこのまま長かそれに近い力を持った者達と顔を合わせてしまうかもしれん。それにこの氷壁を見て私かそうでなくとも強力な妖魔が居る事に気付き、寄ってくるだろうしな」
確かに雪輝の氷壁生成は途方もなく目立つ行為であり、妖魔達の注目を否応なく集めてしまうものだ。
「そういう危険性のある事をするのならば、事前に断りぐらいはいれろ、雪輝」
「むぅ、すまぬ。鬼無子も」
「その事は後で。それよりもせっかく作った道です。早く行きましょう。そうせねばわざわざ雪輝殿が作られた意味もなくなってしまいますぞ」
確かにそうなってはわざわざ妖気と体力を幾許か消耗してまで氷の道を作った意味がない。雪輝はすぐさま疾走を再開する。
雪輝の妖気を含んで展開された氷壁は期待通りの頑健さを見せて、天空や地上から襲いかかろうとしている妖魔達を完全に遮断し、雪輝達にその敵意を浴びさせるだけで終わらせている。
振動や妖気を探知して、地中からも主に虫型の妖魔達が襲いかかろうとしているが、それも雪輝が地面にも張り巡らせていた氷が厚い壁となった立ちはだかり、出現を尽く阻んでいる。
雪輝と狗遠の足で一直線の最短距離を駆け抜けるだけなら四半刻と掛るまい。実際、鉄の様に硬い黒い山肌が続く山頂部に至るまでの間、道の左右と下に広がる氷壁は一匹たりとも妖魔の侵入を拒み通している。
少なくとも内外を隔てる境界線である妖哭山の山頂部までは、雪輝達は確かに無事妖魔達との戦いを避ける事が出来た。そう山頂部までは、である。
雪輝達が最高速度を維持して山頂部まで駆け抜けていたその視線の先に、不意に巨大な黒い影が姿を見せたのである。
雪輝と狗遠の嗅覚に気付かせず、かろうじて聴覚が聴き取っていたが、その正体にまでは気付けずにいた雪輝達は、自分達の目の前に立ちはだかったその妖魔の威容に、かすかに息を呑んだ。
まるで小山の様な巨体に緑色の体毛を生やし、口元からは城門を破る巨大な鎚を思わせる牙が大小様々伸びている。猪だ。ただし猪と呼べるかどうか怪しいほど巨大な猪である。
本来ならば妖哭山内側で熾烈な勢力争いに終始しているはずの妖魔七勢力の一つ、“魔猪”の長である破岩だ。
四つ存在する緑の瞳で雪輝らを睥睨していた破岩は、その巨躯に見合う重厚な妖気を迸らせながら、ぐうん、とそれこそ小屋くらいなら一踏みで壊せてしまうほど巨大な前肢を振り上げて勢いよく足元の地面へと振り下ろす。
破岩の前肢が地面を踏み砕くや同時に巨大な地震かと思わせる振動が大地を揺らし、衝撃と振動が山頂部の鋼鉄のごとき大地と雪輝の氷壁を薄氷のごとく粉砕せしめる。
それまで妖魔達の牙や爪にもわずかな傷を刻まれるだけという堅牢さを見せていたが、魔猪の長から見れば肢の一踏みとその余波だけで破壊できる他愛のない代物に過ぎなかったようだ。
衝撃と振動が左右の氷壁と地面を砂状にまで砕く寸前に、雪輝と狗遠はその場から跳躍して虚空を踊り、振動波の範囲から離れた位置に着地してすぐさま腰を落として戦闘態勢を取った。
雪輝の背に跨っていた鬼無子も、雪輝らが跳躍中に離れて雪輝の傍らに着地して氷の薙刀の切っ先を、破岩へと向ける。
ぶふう、と破岩の平たい鼻から毒素混じりの吐息が零れて、破岩が悠々と歩を刻む雪輝が作った氷壁を目印に待ち伏せをしていたということだろうが、雪輝の行動は思い切り悪い方向に働いてしまったと言う他ない。
いまだ本調子ではないがそれでも強力な退魔士としての戦力は維持している鬼無子が、視線は破岩から外さずに雪輝に問うた。
「雪輝殿、こやつらは?」
「見れば判るが猪だ。名を破岩と言い、猪の長を務めている。一撃の重さなら妖哭山でも三指に入るだろう。奴の突進は紙一重では躱してはならぬ。奴の突進と共に押しのけられる風に奴の妖気が混じり、その風に触れるだけで肉が爆ぜて骨が砕ける」
「承知いたしました」
問いはそれきりで、鬼無子は眼前の猪を殲滅すべき敵と認識して、完全に意識を戦闘態勢に整える。三百六十度あらゆる方向からの奇襲にも反応してのけるだろう。
鬼無子とは反対の側で雪輝同様に狼の戦闘態勢を整えていた狗遠は皮肉を聞かせた言葉を雪輝に投げかける。
「お前の氷が目印になったな」
「全くだな。だが、正面からのぶつかり合いだ。不意を突かれなかった分良しと思うておけ。どうせなら飢刃丸が出てくれば色々と手間も省けたのだがな」
「はん、余裕を見せるではないか。ならばさっさと猪の首を噛み切るとしようか」
破岩は確かに強敵である。それは狗遠も認めよう。だが同時に強敵であればあるほど、血肉を喰らった時の力の上昇値は大きく、また傷を癒す助けにもなるだろう。
妖魔改達を幾名か屠り、その血肉を少量ではあるが胃の腑に納めたことで、狗遠の傷は大幅に癒えており、これで破岩ほどの力を持った妖魔の血肉を喰らう事が出来れば、完治が見込めるうえに更に力を増大させる事も出来るだろう。
そういう意味では裏目に出たような雪輝の氷壁生成も、悪い面ばかりではない。
破岩の背後からは破岩の一族と思しい気配がいくつも感じられる。一族で最も強力な個体が長を務める妖哭山の妖魔達にとって、長は勢力を維持する為にも決して欠かす事の出来ない存在だ。
どれほど強力であろうとも長が単独で行動する事は滅多にない事だ。更に言えば狗遠は元は妖狼族の長であり、雪輝もまた妖哭山屈指の強力な妖魔である。
鬼無子の戦闘能力は知り様がないにしても、破岩が待ち伏せするにも警戒して一族を引き連れているのは当たり前だろう。
「前から思っていたがこやつらはなかなか美味そうだな」
「猪鍋は美味かったが、こやつらではまずそうだ」
噛み合っている様な噛み合っていない様な会話を交わして、雪輝と狗遠は揃って破岩に視線を向ける。決して油断はできない強敵を前に、二頭の狼と一人の女剣士の総身からは適度に緊張した闘争の気配が立ち昇っていた。
<続>