表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/52

その十九 魔弓

その十九 魔弓



 五指の間に投げ刃を挟む影馬、三節槍の穂先を地に向けて斜めに構える影兎。

 両名の堂に入った構えと小柄な体から放たれる闘気に、ほう、と雪輝は細長い口の中で感嘆の息を飲み込んだ。

 幼いと見える二人だが。数十にのぼる妖魔や外道魔道の人間の命を奪ってきた歴戦の猛者でなければ、こうは行かない。

 凛と同じかともすれば年少と見える双子の姉妹の顔立ちに、雪輝は多少の戦いにくさ――より正確に言うならば殺しにくさを感じていたが、どうやらその様な感傷を忘れて戦わねばならぬ“敵”と認めねばならない様だ。

 腰を落として眼を細める雪輝よりもなお小柄な影兎と影馬は、一心同体の妖魔狩人となって雪輝へと迫る。

 無論雪輝の敵は影兎と影馬ばかりではない。第一の輪を構築していた妖魔改の残りの者ども、特に雪輝と狗遠が揃って使い手であると判断した籠手使いも残っており、彼らは雪輝の方から潰しに掛る動きを見せている。

 雪輝の青い瞳は影馬と影兎を鋭く射抜いていたが、警戒の意識は全方向へと知覚の枝を伸ばしている。

 すぅっと細く息を吐いた雪輝は右から左へと首を振る。白銀の体毛が陽光を燦然と弾き、空中に眩い軌跡を描くのと同時に、きぃん、と硬質の物体同士が衝突する甲高い音が雪輝の口の中で連続して発生した。

 陽炎に包まれた様に掻き消えた影馬の手から放たれた十本の投げ刃をすべて、並び揃う真珠色の牙で咬み止めたことで起きた音である。

 毛先ほどの小ささの退魔文字がびっしりと刻み込まれた投げ刃は雪輝の口内をずたずたに切り裂こうと青白い霊気を発しているが、雪輝が牙に妖気を通して軽く力を込めると同時に、熟練の極みに達した職人が打ちあげた鋼鉄の投げ刃は、砂で出来ていたかのように砕け散る。

 雪輝が口内のそれを吐き出すよりも早く、雪輝の眉間に影兎の三節槍の穂先が射し恵む秋の陽光を貫きながら迫っていた。

 雪輝と影兎の距離はまだ二間半(約三・六メートル)があったが、三節槍が届く距離ではない。

 それがなぜ雪輝の体に届いたかと言えば、影兎の三節槍がそれぞれの節を伸ばして間合いを伸ばしていたのだ。

 三つの節と節の間はそれぞれ髪の毛ほどの太さの鋼線によって繋がれている。その鋼線の距離だけ影兎の三節槍は、その間合いを自在に延長させるのだ。

 だがこの手の仕込み武具は凛を相手にさんざか経験した雪輝である。敵の携える武具の間合いが倍になろうが、今更驚きに目を見張る事は無い。無論、間合いが自在に変化する武具というのは、いささか戦い辛くはある。

 穂先の刃が雪輝の眉間に直角に突き立つ寸前に、雪輝は軽く首を捻って角度をずらし、軽く穂先を弾く。

 槍は軽く影兎が手首をこねるのに合わせて引き戻された事で元の長さへと戻り、軽やかに地を掛ける影兎の手元に。

 一気に間合いに飛び込むかと雪輝が考えた時には既に二波目の投げ刃が、雪輝の眉間、喉元、胸、肢先を狙って放たれている。

 神速と呼ぶにふさわしい一連の投げ刃は地を這う蛇のごとく軌跡を描き、異なる五か所へ目がけて迫る。

 雪輝は既に三方を囲む他の妖魔改の動きと合わせて、防御と回避の選択肢の内、前者を選択して影兎をめがけて跳躍する。

 重装の鋼鉄の鎧に匹敵する硬度を持つ体毛と、体表を高速で対流する妖気の防御圏を合わせた雪輝の防御力の前では、正確な狙いで投げつけられる影馬の投げ刃といえども脅威にもならない。

 元々瞬発力や運動能力に長けるイヌ科系統の妖魔の中でも、雪輝の身体能力はずば抜けて高いが、それ以上に鋼鉄以上の硬度を誇る体毛や防御圏からなる防御能力もまた、雪輝の戦闘能力の一端を大きく担う要素である。

 特に白猿王や怨霊との戦いで致命的な負傷を負わされた雪輝は、最近では脚力の強化以上に防御面に重点を置いていた。

 影馬の投げ刃は雪輝の防御圏に触れると同時に呆気なく、黒い粉末状になるほど微細に砕け散り、雪輝の高速移動が巻き起こす大気流に流されずにそのまま雪輝の巨躯に纏わりつく。

 雪輝の瞳の先で影馬が五指を絡みつかせ複数の印を瞬き一つの間に組み、呟きを一つ漏らすや砕かれた筈の投げ刃の粉末は、そのまま呪術の触媒として機能して目に見えぬ力場を生み出して雪輝の巨躯をその場に固定する。

 この時、雪輝の体重は実に五十倍にまで増幅させられて、天突く巨人に押さえつけられているかのような負荷を強いられていた。


「っ味な真似を」


 確かに雪輝は凛との戦いで仕込み武具を相手にする経験を積んではいたが、このように呪術を併用した戦いというものはほぼ初めての事であり、呪術混じりの戦い方をする敵の行動の予測を正確に行う事が出来ないという欠点が、白日の元に晒されたといっていいだろう。

 白猿王が蘇らせた女陰陽師の使った重力制御の術式と同じ現象だが、あくまで雪輝だけを対象にしている為に、周囲の地面それ自体が陥没する様子はない。

 雪輝がその場に固定されている間に影兎は節を伸ばさずとも槍の届く間合いにまで詰め寄り、渾身の一突きを見舞う姿勢を整えている。

 いや影兎のみならず風と雷の魔力を迸らせる武具を手にした者や、籠手使いもまたそれぞれが雪輝に渾身の一撃を見舞う距離にまで詰めている。

 しかしながら窮地を前にして雪輝の口から出たのは、追いつめられた事に対する悪罵の言葉ではなかった。


「好きなだけ私を怨むがいい!」


 これから自分が生命の花を手折る者達への叫びであった。

 先ほどまでの人間を殺すのは後味が悪そうだ、などという感傷は単なる思い上がりに過ぎなかったと、雪輝は己の浅慮を罵りながら、自身の妖気を周囲へ波濤のごとく放出し、それに氷結の属性を帯びさせる。

 法術や呪術などとは異なって雪輝の意思一つで瞬時に発動できる熱量操作の異能を、雪輝は自身の周囲から迫りくる妖魔改への攻撃に使う。

 突如として雪輝を中心として大地に咲き乱れる巨大な氷の花に、妖魔改達は咄嗟に踏み込んだ体を捻って急停止、あるいは跳躍の方向を転じて美しくも死そのものである氷の花の花弁から逃れようと動く。

 雪輝が氷結させた妖気は周囲の大気を巻きこみながら次々と氷結の範囲を広げて、雪輝を中心として氷の花畑を広げてゆく。

氷の花弁は一枚一枚が恐ろしく鋭く研ぎ澄まされて、触れた者の肌を裂き、切り口から敵意の込められた冷気が侵入して体の内側から凍らせる魔性の氷花だ。

 咄嗟に回避しようと動いた妖魔改達の武具や衣服の一部に触れた冷気は、見る見るうちに氷結の範囲を広げて、武具や衣服からそれぞれの妖魔改の隊士たちの肉体を覆い尽くして、氷の棺の中へと次々と閉じ込めて行く。

 隊士たちが常に携行している対火、対冷、対毒、対雷など各種の呪符が、雪輝の妖気に抗おうと書き記された文字が淡く明滅するもそれもわずかな間の事で、呪符の加護と生来の対魔防御力を突破されて、隊士たちは悲鳴を上げる間もなく氷の中に飲み込まれた。

 穂先が雪輝の妖気圏に入り凍りつかされた三節槍を捨てて、影兎は咄嗟に腰裏の帯に差しこんでいた短刀二振りを抜き放ち、後方に跳躍して雪輝から距離を置く。


「影馬!!」


 鏡合わせの様に自分と同じ顔の同胞の名前を叫び、雪輝を抑制している呪術の強化を命じようとした影兎であったが、悲痛といってもいい影馬の声が、それを遮った。


「駄目、術が破られる。力づくで!?」


「があああああああ!!!」


 雪輝を抑え込む見えざる重力の枷を、雪輝は四肢に妖気を巡らせて筋力を爆発的に上昇させ、影馬の言葉通り力づくで引きちぎる。

雪輝が氷結の妖気を放出した事によって緩んでいた呪力の枷は、呆気なくはじけ飛び、雪輝を縛るものは一瞬で失われる。

 予想以上の力――とそこまで考えた影兎は、唐突に視界が急変した事に気付く間もなく、その小さな体を高速で背後にあった巨木の幹に叩きつけられて、食道の奥からこみ上げてきた熱い何かを、思いきり吐瀉した。

 かはっと小さく息を漏らし、影兎は自分の口から溢れたモノを目に映して、それの名前を口にする。


「あ、れ? これ赤い……血? わ、たし……の」


 呪術による枷を力づくで破壊するのと同時に、雪輝は跳躍して防御圏を纏ったまま影兎に体当たりを敢行したのだ。

 特殊な素材と製法から成る妖魔改の衣服と身体強化をはじめ様々な効果を持つ呪符を全身に忍ばせた影兎であったが、雪輝の目にも映せぬ速さと巨躯からなる体当たりを受けては無事でいられる筈もなく、脊髄をもろに粉砕されて、砕けた骨が臓器を著しく損傷させている。

 むしろ即死しなかっただけ、影兎の鍛錬を重ねた肉体と装備の頑丈さを褒め称えるべきだろう。


「えい――――!!」


 産まれる前から母の腹の中に共に居た半身の名前を言いきる前に、影馬は自分の傍らを恐ろしく早い何かが通り過ぎて、その衝撃に吹き飛ばされて大きく地面の上を跳ねまわらされた。

 咄嗟に頭を庇い二転三転する視界の中で、影馬はいくら半身と思う影兎を傷つけられたからと言って、意識を乱した己を恥じる。妖魔との戦いの中で意識を乱す事は、まさに致命の隙を生み出す最大の要因だ。

 何度も派手に転がることで衝撃を逃がした事を確認し、影馬はようやく膝立ちの体勢に体を立て直す。

 先ほどまで自分が印を組んでいた場所に立ち、こちらを睨み据えている雪輝の姿に気付いた影馬は、肉親と仲間を傷つけられた怒りと憎悪の炎を小さな胸の内で燃やしながら、あくまでも意識は冷徹に攻撃性の呪術を発動せんと両腕を胸の前に持ってくる。

 そうして、左腕だけが自分の視界に映らない事に気付き、ぐらりと視界が揺れて横倒しに倒れた。急速に自分の体から熱と霊力と、そして命が失われつつある事を、影馬は理解する。

 体の左側を地面に押し付ける形で倒れ込んだ影馬は、雪輝の足元に根元から骨込めに噛み切られた自分の左腕が転がっている事を。

 左腕の根元からも自分の左肩からも赤い血が次から次へと溢れ出て、赤い水溜りを作っている。


「私の、腕……」


 影馬は衝撃のみに吹き飛ばされわけではなかった。雪輝は影兎を体当たりで吹き飛ばした直後、前衛を務める者達ばかりで構成されていると思っていた第一の輪の中に紛れていた術使いである影馬の排除に動き、その左腕を付け根から噛み切ったのだ。

 ぎしり、と軋む音を立てて雪輝の牙に噛み切られた左腕と左肩の両方が氷に包みこまれて、影馬の体から熱と生命を無慈悲に奪い去り、影馬を死への旅路に追い落とす。

 雪輝は影兎に続いて影馬もまた意識を失うのを確認して、次の獲物を狙い定めるべく視線と意識を巡らせる。

 口の中に残る双子の淫姉妹の血の味に眉を顰め、雪輝は首を右に倒した。完全に雪輝の死角から、魔銀ミスリル製の籠手をはめた籠手使いが振り抜いた右の鉤打ちを、気配と匂い、風切り音から感知して回避し、雪輝は背後に居る籠手使いへ旋風の勢いで振りかえりざまに、右の前肢を叩きつける。

 不意打ちが空振りに終わった瞬間には、すでに両腕を交差させて胸部と顔面を庇っていた籠手使いであったが、容赦を捨てて敵対者であると妖魔改達への認識を改めていた雪輝は、攻撃用の凶悪な妖気をたっぷりと乗せた爪で魔銀の籠手を薄紙のごとく切り裂いて、交差していた丸太の様に太い両腕を切り落とし、更に鍛え抜かれた胸板をも切り裂く。

 籠手使いの瞳が驚愕と痛みに見開かれ、仰向けに地面に倒れ込んで程なくして動かなくなったことで無力化したことを認めた雪輝は、第一の輪を構成していた妖魔改の精鋭たちは壊滅、と判断する。

 残る第二の輪と狗遠が突っ込んだ第三の輪を構成している術師達の迅速な殲滅を行い、更に鬼無子が斬り結んでいる夕座を葬らねばならない。

 瞬く間に妖魔改の隊士たちを殲滅した雪輝を、第二の輪の隊士たちが新たに包囲する為に動いていた。


「命を無駄にする」


 圧倒的強者の傲慢と憐憫を交えて、雪輝はやるせなく呟く。だが、だからといって見逃すつもりはないのだと、その呟きは語っていた。




 頬を掠めた刃風に雪色の肌に一文字の切り傷を刻み込まれ、更に数本の髪を断たれた事を感じ、鬼無子は間合いの見切りを誤まったかと、叱責の念を脳裏に浮かべる。

 雪輝と狗遠らが妖魔改の隊士達を相手に優勢の戦いを進める中、鬼無子と夕座の戦いは一進一退の攻防を繰り広げていた。

 殺意を隠さぬ殺人の太刀を数十合以上交わし合いながら、互いに傷と言えるだけの傷はまだなく、着物の端や肌に小さな斬痕を新たに刻むに留まっている。

 夕座の右頸部に振り下ろされた崩塵の刃は、かねてから打ち合わせていた様に紅蓮地獄の刃に受け止められて、霊気と霊気の火花を散らすのと同時に弾かれる。

 刃が弾かれた勢いを利用して迅速に崩塵を引きもどした鬼無子は、地面と水平に刃を倒して稲妻の迫力と威力を秘めた突きを放つ。

 銃口から放たれた弾丸に数倍する超音速の刃を、夕座は左脇に抱えるかのような紙一重の動きで躱して、一歩下がるのに合わせて鬼無子の首をめがけて紅蓮地獄を振るう。

 四尺という長刀身を誇る紅蓮地獄は、当然ながら鬼無子と崩塵の間合いから外れた距離から襲い来て、鬼無子に有効となる斬撃を放つために必要な踏み込みを阻む。

 人外との戦闘経験が大半を占める鬼無子にとっては、一尺や二尺の間合いの差などは気にもならぬが、力量が同等かそれ以上の夕座相手では城門を締め切った城塞のごとき攻め難さがある。

 嘲笑としか映らない微笑を浮かべたまま、夕座は右手に左手にと紅蓮地獄を持ち変えて、猫が鼠をいたぶる様にして鬼無子へと斬撃を重ねて行く。

 人の領域を超えた鬼無子の身体能力でなければ、到底受ける事も躱すことも、そもそも瞳に映す事さえできない夕座の斬撃の連続であったが、鬼無子はこれが夕座の全力ではない事を、夕座のにやついた顔から看破していた。

 街中を歩けば男と女の区別なく、老いと若いの区別なく見惚れて頬を赤らめる途方もない夕座の美貌ではあったが、すでに心と操を奉げるのは雪輝殿のみ、と決めている鬼無子には夕座の見え透いた下衆な欲望が鼻につき、嫌悪の念ばかりが募る。


「その、にやついた顔を止めんか!」


 裂帛の気合いと怒号を伴って放たれた崩塵の刃は、蛇の様に横合いから絡みついてきた紅蓮地獄に斬撃の方向を転換させられて夕座の体を大きく外れ、鬼無子から見て右上の虚空を斬る。


「ここまで私の顔を嫌われたのは初めての事よ。それ、その様な事を言い重ねてはまた影馬と影兎に罵られよう。なあ、乳おばけ」


 くっ、と夕座の唇がつり上がる。おかしくておかしくて仕方がないと物語る、その唇の動きに鬼無子は自分でも驚くほど簡単に頭に血が昇るのを意識した。


「貴様はっ!」


 あらぬ方向に刀身を泳がされた崩塵はそのままに、鬼無子は空の左手の五指を揃えた貫手を夕座の懐に飛び込み様、夕座の右脇腹へと突きだす。

 紅蓮地獄は崩塵の刀身にぴたりと吸いついて遠い位置にある。

 四尺もの刀身はその長さゆえに懐にまで潜り込めば獲り回し難いものになる。それを夕座が理解していない筈もないが、戦況の変化を望んだ鬼無子は無謀の色合いが強い事を理解したうえで、強敵の懐へと飛び込むことを決めた。

 ここまでの戦いで剣技はほぼ互角、身体能力もほぼ互角、おそらくは潜った修羅場の経験も互角か夕座の方が上、では組み打ち技術は?

 常人だったら傷跡が傷跡を埋める様な鍛錬を積んだ鬼無子の細指は、染みも傷も一つもなく白い肌に覆われた美しい繊指であったが、貫手の形を取ればその殺傷能力は銘刀の切れ味と戦鎚の破壊力を兼ね備える。

 人間の体など水に腕を突き立てる程度の抵抗を示すのが精いっぱいだろう。

 夕座は紅蓮地獄を握っていた右手を柄から手放して、自身の右脇腹に迫る鬼無子の左手首を掴み止めた。死角から放たれた火縄銃の鉛玉三発を、見る事もなく弾き返した夕座であればこそ、鬼無子の貫手をかくも容易く止め得たと言える。

 万力の圧力というよりも最初から繋がった状態で産まれて来たように、夕座の手は鬼無子がどれほど力を込め、技によって力の流れを転じて夕座を投げ飛ばそうとしても、掴んだ鬼無子の手首を離そうとはしない。

 手首が駄目なら崩塵をと考えた鬼無子であったが、そちらもまた紅蓮地獄が刃を溶け合せた様にして崩塵を固定している。

 どちらも縁ぎりぎりまで注いだ水の様な危うい拮抗によって保たれているが、それを実行している夕座は変わらぬ余裕の笑みのままだ。

 鼻と鼻がもう少しでくっつくかという近い距離で自分を見下ろす夕座の顔へ、鬼無子は視線で殺せるのなら百万回も殺せているだろう殺意の目を向け続ける。


「良い目をする。だがこれまでの戦いでお主が私に勝てぬ事は分かっておろう? いまのままのお主では勝てぬ。いまのままのお主では、な」


 ぎしり、と鬼無子の米の様に白い歯が砕けんばかりに噛み合わされて、軋む音を立てる。いまのまま、という言葉の意味を夕座以上に理解しているのは誰よりも鬼無子だ。

 そうせねば夕座には勝てまい。だが払わねばならない代償は決して安くはない。

 かつて夕座は腹心の忍びである影座に、今度会う時鬼無子が人間であれば力づくで我がものとし、妖魔に堕ちていれば撃ち滅ぼした後にその骸を犯し嬲ると告げたが、いまもまた同じ心であったのか。

 このまま鬼無子が人間であり続ける事を選んで敗れるのなら、弱った心と体を存分に蹂躙し、妖魔に堕ちる事を選ぶのなら容赦なく息の根を止めてその骸を穢し尽くすつもりなのだろう。

 鬼無子が生きようとも死のうともその存在を穢す事で暗い悦びを得る事は、夕座にとって確定事項となっていたのだ。

 そして鬼無子は、あろうことかこの至近距離で瞼を降ろして瞳を閉じる。米神には一筋の汗が滴って、肌理細やかな肌を伝って形の良い顎先に沿い、やがて一滴の粒となって滴り落ちる。

 鬼無子が瞼を閉じたと言ってもお互いに両腕が塞がった状態である。主導権を夕座が握っているとはいえ、そう簡単に戦闘の趨勢を変える行動に移れるものではない。


「さあ、選ぶが良い。鬼無子姫よ。人として生きて私に股ぐらを開くか、妖魔として死して屍を私に弄ばれるか」


 乙女の心を惑わす美しい魔物の様に優しく囁く夕座に、鬼無子は低く凍えた声で答えた。耳にした途端、心臓が脈動する事を忘れてしまう様な、決して人間が出して良い声ではなかった。

 こんな声を出せるのは、人間では断じてありえない。例え人の姿をしていようと、その中身は人ではない。人の形をした名状しがたい邪悪なものに違いない。

 そんな声を、鬼無子は血を吸って育った大輪の椿を思わせる唇から零していた。


「貴様のものになってまで人として生きようとは思わぬ。例え妖魔に身と心を堕落させようと貴様には触れられたくもない。故に、私はどちらの道も歩まぬ。お前はここで滅びよ、黄昏夕座」


 鬼無子が閉ざしていた瞼を開いた時、夕座は鬼無子の左手首を握る自分の腕に伝わった感触に、咄嗟に握りしめていた手首を離して後方に二間も跳躍していた。

 背中に見えない翼があるかのように軽やかに跳躍し、音もなく降り立った夕座はしげしげと自分の右の掌を見つめはじめる。

 国一つを傾かせる絶世の美女も思わず嫉妬に駆られるだろう肌に覆われた夕座の右の掌は、鬼無子の肉体が発した凶悪な妖気をまともに受けて、見るも無残に糜爛して肉と肌と血管が融け合って、桃色の肉汁と化している。


「私の体をこうまで簡単に崩すか。流石はおぞましき妖魔食いの生き残りよ」


 夕座は右手を一振りし、右掌のぐずぐずに溶けていた血肉を振り払う。鬼無子と斬り結び始めてから愉悦の光だけを浮かべていた夕座の瞳に、人型の妖気と化しつつある鬼無子の姿が映る。


「肉体の変容は引き起こさず妖魔の力だけを引きだすとは、なるほど百代に渡る四方木家、妖力抑制の術には長けておるようだな」


 かつて白猿王の一派に追い詰められた時は、生命の危機に瀕した状態から無意識に妖力封印の意識の枷が解けたが、いまは違う。鬼無子自らの意思で魂と血肉に混ざる妖魔の力の抑制を解いている。

 鬼無子の人間としての魂と血肉の部分が産み出す錬磨された霊力と、枷を解かれて荒れ狂う妖魔の血肉が発する荒ぶる妖力が、互いを蝕みあい貪りながら鬼無子の艶めかしい体から黒白の陽炎となって立ち昇っている。

 相反する二種の力が反発しあう事で生じる力は、単純に二倍化する以上の莫大な力を産み出すが、それ以上に鬼無子の魂と肉体に与える負荷の方が大きい。

 それを妖魔の血の活性化による治癒能力の増大で誤魔化して、鬼無子は星明かりの無い闇夜の色をしていた瞳を、内側から切り裂かれた様に鮮血の色に変え夕座を睨み据える。

 妖気の混じる吐息を紙縒りの様に細く零す唇から覗く歯を見れば、雪輝の口に生え並ぶ牙と同様に鋭く尖り、咽喉の奥からは血に狂った獣の唸り声が零れている。

 骨と筋繊維と神経と血管とが膨張と縮小と変貌を繰り返して、肉体の内側で小規模の爆発が毎秒数千単位で起きているかのような苦痛が鬼無子を蝕み、言語にし難い痛みと共に自分の肉体が妖魔へと変わる快楽が全身を満たしている。

 人間の肉体に妖魔の血肉を取り込むことで妖魔へとその存在を近づける事は、圧倒的な身体能力や妖魔の特異な能力を得る大小に、精神と肉体を妖魔へと堕落させる事を代償とするが、同時に生命としてより強靭な妖魔へと変わる瞬間には、途方もない苦痛とそれに等しい快楽が襲ってくる。

 その快楽に負けて自ら進んで妖魔へとその存在を堕落させた者も、四方木家やその宗家たる百方木家の者達の中には少なからず存在していた。

 鬼無子は全身を細胞単位で腑分けされるような痛みと共に、脳髄を蕩かせる快楽にも耐えなばならなかった。

 これまでに四方木家が時に交配し、時に飲食し、時に血肉を移植することで取り込んできた四百四十四種の妖魔の異能と頑健な肉体が、我先に鬼無子の肉体を乗っ取らんと狂奔している。

 妖魔化の影響は鬼無子の肉体と魂のみならず、右手に携える崩塵にも表れていた。刀身に刻み込まれた三千字超の退魔真言が青白く発行し、柄尻から切っ先に至るまでが赤黒い妖気と青白い清浄な霊気に包まれて、炎を噴き出しているかのよう。

 鬼無子自身が反発しあう霊気と妖気を利用して身体能力を爆発的に向上させているのと同様に、崩塵もまた主の発する妖気を浴びて宿す霊気が反発して対消滅を起こすことで、刀身に纏う破滅的な霊的攻撃力を高めている。

 刀と剣士とが諸共に妖魔化に伴って戦闘能力を爆発的に向上させているのが、今の鬼無子だ。

 四方木家のような妖魔混じりの退魔士が、その生命の炎の最後の燃焼の際に見せる最後の切り札。

 それが本来の妖魔化の意味する所だが、百代にもなる歴史の長さと深さ、そして潜在的に霊力の高い血脈である事が、四方木家に人間の意思を保ったままでの妖魔化を可能としている。

 鬼無子の踏み出す一歩によって地面が黒煙を噴き上げながら妖気に汚染されて腐敗し、次の瞬間には高純度の霊気によって穢れを払われて、元の土色を取り戻す。

 聖と邪、光と闇、正と負、陰と陽、人と魔。相反し、反発し、否定し、混じらぬままに完結する筈の属性が、鬼無子の体内では相争いながら共存している。

 夕座の口元から初めて笑みが消えた。左手一本で握っていた紅蓮地獄の柄に皮と肉を溶かされた右手を添えて、夕座は左八双に紅蓮地獄を構え直す。

 鬼無子と斬り結び始めてからほとんど初めて夕座が見せた構えらしい構えである。

 鬼無子の変化を前に夕座もまた心構えを変えたのか、妖刀紅蓮地獄の長刀身からは氷結地獄を思わせる凍えた霊気が立ち昇り始める。

 神夜国に古来より伝わる武具の中でも崩塵と並び称される魔剣妖刀の一振りたる紅蓮地獄は、主の戦意と目の前に存在する半人半妖の気に充てられてか、刀身から発する霊気はもはや物質化寸前にまで凝縮されている。


「夕座よ、お前はいまのままの私ではお前に勝てぬと言った。ではこの私ならばどうか、その身でとくと試すがよい」


 言い終わるが早いか、鬼無子は崩塵の切っ先を地面に向けたまま二間の距離を詰める一歩を踏み込む。迎え打つ夕座の体は意識ではなく無意識――無想の剣で応じていた。

 崩塵の刃圏に夕座の体が入ると同時に鬼無子が崩塵の切っ先で地を擦りながら夕座の左腰から右肺上葉を斜めに断つべく振り上げた一刀は、左八双から地面に対して直角に振り下ろされた紅蓮地獄の刃が受け止めて見せたのである。

 しかし、両刃の交錯が生む拮抗はわずか一瞬にも満たず、夕座の体は紅蓮地獄を構えたまま後方へと、思いきり蹴り飛ばされた毬の勢いで吹き飛ばされる。

 風切る音も凄まじく吹き飛ばされる中、夕座はくるりとまるで猫の様に器用に身を捻るや、完全に勢いの方向を転換して垂直に地面に降り立つ。

 骨を何千匹もの蟻に一斉に牙を立てられたなら、こうだろうという痺れが夕座の両腕に蔓延している。

 ほお、と夕座の唇が短く動き心の底からの感心を露わにし、眉間めがけて突き出された崩塵の切っ先を首を傾けて躱す。

 風のみならず空間をも貫くかと見える凄絶な突きの刃風が、夕座の左頬に一文字の切り傷を刻み込んだ。

 突き出された崩塵の刃が引き戻されるのに合わせて、夕座は紅蓮地獄で左横一文字を描く。人間の胴体をまとめて十人も二つに出来る一振りは、鬼無子の体をすり抜けて刃応えをなんら夕座に与えはしなかった。

 鬼無子が崩塵を引きもどす動作に合わせて紅蓮地獄の刃圏をぎりぎり外れる位置まで下がり、紅蓮地獄の刀身に空を切らせたのである。

 魔獣の牙と変わった歯の並ぶ口を開き、鬼無子の咽喉から悪鬼羅刹の怒号が迸る。


「殺っ!!」


 怒号が大気を震わせ風に宿る精霊達を尽く狂乱させる中、鬼無子の腕が唐突に無数に増えた。いや、そう見えてしまうほどの神速で鬼無子の腕が動いたのだ。空間の一角を銀の光が埋め尽くす。

 降り注ぐ陽光を反射して振るわれる崩塵の軌跡。映した網膜さえも切り裂くかと見える斬撃の軌跡を新たな斬撃の軌跡が塗りつぶす様にして重ねられて、夕座の体のあらゆる場所に銀の軌跡が殺到する。

 剣術の型に当て嵌める事の出来ないまさしく人外の剣。しかしそれは鬼無子のみならず夕座もまた同じであった。

 夕座へ殺意の具現と化して迫る崩塵の刃を尽く迎えうち、拒絶し続けたのは紛れもなく紅蓮地獄の刃とそれを操る夕座の魔性の業。

 筋力、反応速度、瞬発力と妖魔の血を活性化させた鬼無子の方が上回っているはずであるのに、それでもなおいまだ黄昏夕座の肉を斬るには及ばずにいる。

 鬼無子はあくまで人間として戦っていた時とは、まるで比較にならない体の中に満ちる力の凄まじさと、拡大した知覚が強制的に収集する情報量に精神を飲み込まれまいと意識を保つ作業と戦闘を並行して行っていた。

 その最中かすかに意識を裂いて夕座の戦闘能力の高さを、否が応にも上方に修正せざるを得ない事を認めた。

 鬼無子自身が可能な限り使うまいと決めていた妖魔化の手札を切っても、いまだかすかな傷一つ負わせるのが精一杯とは。

 どくん、と鬼無子の体が内側から胎動する。妖魔の血がまた一つ、鬼無子の中の“人間”を食らい、代わりに力を与えたことを示す胎動。

 肉が、骨が、血が、神経が、細胞が人間でなくなってゆく感覚。全く異なる生物へと、より強靭で残虐で邪悪な生物へと変貌してゆく背徳感、苦痛、そして快楽。

 精神の立ち位置を間違えれば瞬く間に自分が二度と人間に戻れなくなる。精神と肉体と魂の均衡は、鬼無子の中で極めて繊細な危うさで保たれている。

 自分の精神の中を混沌とさせるモノすべてを吐き出す様に、鬼無子は自分でもわからぬまま血を吐くかの如き叫びを上げて、夕座の頭頂めがけて大上段から崩塵を振り下ろした。

 人間など比較にならない肉体の頑健さを誇る鬼族の猛者だろうと容赦なく両断する一撃であるが、放つ鬼無子も受ける夕座も共に鬼族を鼻で笑える人の姿をした化け物といっていい。

 崩塵と紅蓮地獄の激突は、もはや刀と刀の激突の領域を超えた現象であった。

 刀の主の膂力はすでに超人の域。二刀の纏う霊的な力の激突は青と白と赤の三色の光を周囲に撒き散らし、触れるモノを圧倒的な密度の霊力と妖力で破壊している。

 例え霊感を持たぬ者であっても鬼無子と夕座が三色の光の嵐の中に居るかのように見えたことだろう。

 夕座と鬼無子が互いの獲物を振るう度に周囲の樹木が真っ二つに切り裂かれ、大地には深き一文字の斬痕が刻み込まれ、千に砕けた妖気が触れたモノすべてを腐敗させれば、万に散った霊気は妖気に淀んだ大気を半ば強制的に浄化する。

 ぎぃん、と天まで届くかのごとく鳴り響く刃と刃の交錯音は絶え間なく続いて、一連なりの音楽と化して鬼無子と夕座の周囲を取り纏い、両者が虚空に描く剣戟の軌跡は幾重にも折り重なって二人の姿を銀光の中に包み込んでいる。

 鬼無子の体がまた一つ、速さと強さと撒き散らす妖気を増す。

 袈裟斬り、と見せてその途中で強引に軌道を捻じ曲げて逆袈裟に変えた鬼無子の一刀を、夕座は太刀筋の変動に惑わされることなくこちらも受け太刀を合わせて、百人力、いやに百人力はあろうかという剛力は紅蓮地獄の刃に触れるや虚空へ吸い込まれる様にして消えてしまう。

 崩塵の刃越しに感じられる力の消失と同時に、鬼無子は手首の動きで刃を突っぱずし、左手一本に握り直した崩塵を流星の刺突と変えて夕座の咽喉へ。

 これは受けられないと悟った夕座は後方へ数歩分飛んで距離を取り、合わせて崩塵を突きだしたまま突撃を敢行する鬼無子の足を止めるべく、その右肩を狙って左手一本で紅蓮地獄を突きだす。

 風の悲鳴が聞こえる様な両者の刺突。

 左右に身を傾けるか下に沈めるか、あるいはその場に踏みとどまるかと夕座が踏んだ鬼無子は、紅蓮地獄の切っ先を回避する動きを一切見せずに、構わずそのまま踏み込む足を更に前へと進め、その右肩に容赦なく紅蓮地獄の切っ先が潜り込む。


――肉を斬らせて骨を断つか!


 思考が意識を掠めた時、夕座は鬼無子の右肩の筋肉が紅蓮地獄の切っ先を締め上げて刀身を固定している事に気付く。

 すでに筋繊維や細胞の段階で人間の物ではなくなっている鬼無子の肉体は、とてつもない圧力で紅蓮地獄の切っ先を挟みこんで引く事も押す事も許さない。

 夕座は咄嗟に空いている右手で崩塵の刀身を掴み止めるが、掌の肉を崩されていた右手では完全に崩塵の勢いを止める事は出来ずに、崩塵の切っ先が一寸ほど夕座の白い咽喉に潜り込み、どす黒い血が貫かれた咽喉から溢れて崩塵の刀身を伝う。


「丁度良い気つけ薬だな?」


 右肩を貫き、更に肉の内側で鬼無子の中の妖魔を滅ぼすべく霊力を注ぎ込み紅蓮地獄に途方もない苦痛を与えられながら、鬼無子は凄艶に笑んでみせる。

 紅蓮地獄が齎す苦痛は全身の細胞が発する快楽の嵐を吹き飛ばして、皮肉にも鬼無子の人間としての意識を保つのに一役買い、それゆえに気つけ薬と評したのである。

 大輪の椿を思わせる赤色の唇の端から、同じ色合いの赤い血が一筋零れて、血の紅を鬼無子の唇に刷いた。

 夕座もまた崩塵の刀身が纏う妖気と霊気の混沌とした力を全身に流しこまれ、途方もない美貌に初めて苦痛の色を浮かべている。

 じりじりと崩塵の切っ先がわずかずつ夕座の咽喉の奥へ奥へと入り込み、まずは夕座の食道へと崩塵の切っ先が届きつつあった。

 鬼無子は肩を貫かれたままの右手で紅蓮地獄の刀身を掴み、紅蓮地獄の霊気に充てられて右手から白煙を噴き上げつつも、これを捉えて離さない。

 このままわずかずつ鬼無子が崩塵の刀身を押し込んで夕座の咽喉を貫くか、夕座が紅蓮地獄を振るって鬼無子の肉体を縦に断つか。

 均衡が破れた途端にどちらの命が失われてもおかしくはない危うい状態である。 体の中から聞こえる肉体変貌の音を聞きながら、鬼無子は刻一刻と増してゆく膂力に任せて崩塵を突きこまんとし、そして唐突に理屈を超越した直感が最大限の危機を告げた。

 この場に居てはいけない。そうしてしまったなら確実に命を失うことになると、直感が盛大な警鐘の音を鳴らす。

 このまま行けば夕座を討てるかという好機を逃す事を選ばせるほど、警鐘の音は大きい。

 鬼無子の肉体は意識や思考を超越した速度で反応する。紅蓮地獄の刀身を挟みこんでいる右肩の筋肉の弛緩と後方への跳躍、夕座の咽喉を貫いている崩塵を引きもどす動作、それら全てを一連の動作として遅滞なく行う。

 音の壁を超える踏み込みと同じ速度で後方へと跳躍する鬼無子の上方に、一つの影があった。鬼無子をめがけて弧を描く矢であった。

 赤い光だけで矢羽根も鏃を構成した不可思議な矢だったが、それが鬼無子の瞳の中でわずか一瞬で、一本から実に千本もの数に増える。

 五感のみならず六感に至るまでが強化された鬼無子には、その千本の矢の全てが殺傷能力を備えている事を理解した。幻術か気や霊力を具現化する術によるものか、千本の矢は独特の甲高い風切り音と共に鬼無子へと降り注ぐ。

 柄尻に血の伝う右手を添えた鬼無子は視界を埋め尽くす赤い光の矢をめがけて振り抜く。青白き霊気と黒みがかった赤い妖気が、剣風と共に放たれたことで二色の嵐となって千本の矢の大半を飲み込んで消滅させた。

 しかし既に第二波目となる二千本目の赤い光の矢が、放たれて鬼無子の頭上を天蓋となって塞いでいる。

 今一度青赤の斬撃を放とうと構える鬼無子の耳に、白銀の魔狼の叫びが震わせる。


「鬼無子!!」


 鬼無子の鼓膜が揺れるのとほぼ同時に、鬼無子の視界の先で千の矢が巨大な氷壁の中に飲み込まれる。鬼無子を中心に半円を描く様に氷壁が囲い込み、夕座と矢から遮る絶対の防御となる。

 雪輝が洪水のごとく放った妖気を媒介にした熱量操作で造り出した氷壁であるが、並みの家屋なら五つも六つもまるごと飲み込めるほど巨大な氷壁を、一瞬で造り出した事から雪輝も熱量操作の異能を習熟し始めたようだ。

 雪輝の声を耳にした途端、体内の妖魔の血が沈静化し、全身から迸らせていた妖気を潜めて瞬く間に純人間化した鬼無子は、自分の傍らに駆け付けた雪輝に驚きを覚えながら声をかけた。

 妖魔改の隊士たちと死闘を繰り広げたはずであるが、雪輝の白銀の体や口元には返り血一つ付着していない。戦いの始まる前と変わらぬ美しい大自然の芸術のごとき威容のままであった。


「雪輝殿!?」


「こちらはあらかた片づけた。一度退くぞ」


「しかし」


 ここで禍根を断ちたい鬼無子は雪輝の言に抗うが、雪輝はこの狼にしては珍しく反論を許さぬ強い語調で鬼無子の言葉を遮る。


「先ほどの矢の使い手、夕座に近い力の主であろう。いささかこちらの想定を悪い方向で裏切られた。こちらの土俵に引きずり込んで奴らの消耗を狙いながら迎え打つ。それに」


「なんでございますか」


「これ以上鬼無子に無理はさせられん。次から夕座の相手は私がする。鬼無子は下がっておれ」


「雪輝殿、それは」


 いまだ全身に妖気の名残と妖魔化が齎した苦痛と快楽の疼きに、雪輝が気付いた事を鬼無子は理解した。

 だが、それでも、自身を代償としてでも夕座は自身が討たねばならない。例え雪輝といえども夕座が相手では必勝とは行かない。

 愛する男が生命の危機に瀕するかもしれぬと言うのなら、自分がその代わりに危機に立ち向かう事を選ぶ。鬼無子はそういう女であった。

 そして雪輝は愛する家族の危機を黙って見過ごす様な男ではなかった。


「だめだ。私は鬼無子を失う事には耐えられん。私に任せよ」


 真っ直ぐに鬼無子の瞳を見つめ、そして力強く断じる雪輝に鬼無子は返す言葉を失った。あるいは惚れ直したと言っても良かったかもしれない。


「相当な苦痛であろうに、本当に無理をする」


 二等辺三角形の耳を垂らし、悲しげにつぶやく雪輝の雰囲気に、鬼無子はひどく罪悪感に襲われた。まるで動物虐待をしているかのような気分であった。


「そうせねばならぬ相手でございましたゆえ」


 答える鬼無子の言葉は後ろめたさがあってか弱々しいものであった。だが感傷に浸る暇は鬼無子と雪輝には与えられない。

 雪輝と鬼無子が話している間にも氷壁には新たな矢が次々と放たれて、徐々に白い罅が透明な氷壁に領土を広げて砕かんとしている。


「話は走りながらするとしよう。鬼無子は私の背に乗れ。狗遠!!」


 第二の輪を構成していた妖魔改の隊士たちを退けた後、雪輝が援護した甲斐もあって狗遠は既に第三の輪を構成していた術師達をほぼ殺し尽くしており、こちらは雪輝と違って口元も牙も全身も返り血に濡れそぼって、殺戮の興奮に喜んでいた。

 雪輝の声に振りかえった狗遠は、あからさまに不機嫌な顔を拵えるが、それでも雪輝のすぐそばまで寄る。

 雪輝の背に跨った鬼無子に意味ありげに視線を向け、狗遠はふん、と苛立ち混じりに鼻を鳴らす。

 鬼無子が雪輝の背にいる事への理由のわからない苛立ちと、鬼無子の全身から発せられている妖気と霊気の凄まじさに、少なからず気圧されたのである。


「なんだ、雪輝」


「山の奥へと下がる。やつらをこちらへ引きずり込んで山の妖魔共と戦わせる」


「気に食わん戦い方だ。お前と私で倒せぬ相手ではないだろう」


「手強いのが増えたようだ。それに鬼無子に無理をさせられん」


「ふん。どこまで退く気だ?」


 くるりと踵を返し、打倒した妖魔改の隊士たちの挙げる呻き声を引きちぎりながら、雪輝と狗遠達は山の内側へと向けて走り出している。

 雪輝の背中に跨った鬼無子は、妖魔化の苦痛に必死に耐えながら雪輝の背中にうつ伏せに倒れこんで、雪輝の身体にまわした腕に力を込めていた。

 噛み締めた鬼無子の歯の奥から零れる苦しみの声に、雪輝は改めて鬼無子にこれ以上夕座と戦わせてはならないと誓った。


「どうせだ。内側近くまで退く。その方が強力な妖魔共がやつらとぶつかるだろう。上手くいけば飢刃丸もな」


「逆に私達が飢刃丸とぶつかるかもしれんぞ?」


「ならばどちらも私が手を下す。お前は私を見捨てても構わんぞ」


 当然、その時は鬼無子の身もどこかに隠して、単身で妖魔改も妖哭山の妖魔もすべて相手にして、皆殺しにする覚悟を決めていた。

 雪輝の気性からすればここまで強く殺戮の意思を固める事は希有な事であったが、雪輝にそうさせるだけの脅威が夕座にはあると、雪輝自身が認めた証拠に他ならない。

 胸中に揺るがぬ殺戮の意思を固めた雪輝の横顔を、狗遠は初めて雪輝の妖魔らしい面をみた事に驚きを覚えながら答えた。


「お前を見捨てるかどうかは、私が決める事だ」


 どういうわけでだか、狗遠はそうなった時、自分が雪輝を見捨てはしないだろうと思えてならず、その事がまたあまりに自分らしからぬから、ますます不愉快な気持ちになるばかりであった。




 氷壁が降り注ぐ矢の前に砕け散った時、既に雪輝と狗遠の姿は消えて、妖気の名残から妖哭山の奥へと退いた事を示すきりだ。

 当然、それが罠である事は分かりやすいほどわかりやすい。

 既に傷跡の消え去った咽喉を撫でつつ、夕座は苦笑を零した。


「ふぅむ。また逃げられたか。よくよく縁のない事よな」


 咽喉のみならず鬼無子の妖気を浴びて崩れた右手の肉も元通りになり、激戦の痕跡がまったくなくなった夕座に、背後から若い男の声が掛けられた。

 腰に矢筒を下げて右手には巨大な水晶から削り出したような弓を携えている。瀟洒な銀糸の刺繍が施された紫地の着物を洒脱に着崩して、腰まで届く黒髪を後頭部で結わえて鷹の羽飾りを刺した色男だ。

 目元には紫の黛、唇は青の紅を刷き、あまりにちぐはぐな色彩に包まれた姿は、希代の女形を思わせるほど色香があるのに、妙な芸人めいた奇抜さばかりが目立つ。


「黄昏夕座に目を掛けられるなんて、不幸な妖魔達だねぇ」


 心底から同情している声である。妖魔に対する嫌悪の念がひと際突き抜けている織田家の配下にしては、いささか奇妙な性格の主といえよう。

 同じ妖魔改に属する胞輩を振り返り、夕座はにやりと深い笑みを浮かべる。


「であろう? 私は欲しいものは是が非でも手に入れる主義でな。しかし見事であったぞ。お主の千幻矢」


「そいつぁ、どうもぉ。ところで、貴方の下僕、虫の息だけど。どうするの?」


「影座」


「ここに」


 弓使いのからかうような声に表情を引き締めて、夕座は木陰の一角へ向けて腹心の名を呼び、どこまで夕座に忠実な影者の声が答える。

 夕座の視線は弓使いを離れて血の池に倒れ伏す影馬と、糸の切れた人形の様に崩れ落ちている影兎を見つめていた。


「死なせるな。私が言うのはそれだけだ」


「必ずや」


「おや、意外にお優しいんだねえ。夕座殿は」


「私の物ゆえな。伊鷹いたか、私は大狼を追う。お主は好きにせよ」


 伊鷹と呼ばれた弓使いは、口癖なのかまた、おや、と呟いて颯爽と歩きだす夕座の背中を見つめた。伊鷹の知る夕座は飽きっぽく気まぐれで、こうもなにか一つの事に執着を見せる事は珍しい。


「これはぁ、本当に不幸な妖魔達だねぇ。地獄に落ちた方がましかもね」


 伊鷹は夕座が本気になっている事を悟り、心から追われる立場である妖魔への同情を口にした。


<続>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ