その十一 二人の想い
その十一 二人の想い
初秋の風の冷たさを、怜悧な刃の様に降り注ぐ陽光を、自分を守るために左右に居る二人の姉と慕う女性達の存在を、この時だけはひなは忘れた。
自分でも気付かない内に鬼無子と凛と繋いでいる手に力が籠る。
きゅっと小さなひなの手が、全幅の信頼を寄せる二人の少女らの手を握り込む。
固く強張って青褪めるひなの顔から、その心情を推し量った凛と鬼無子は、風が吹けば簡単に散ってしまう花弁の様に儚い少女を励ます為に、ひなの手を意識して握り返す。
ひなの頭越しに、凛が鬼無子に視線と唇の動きで問いかけた。
(こいつら、ひなの?)
質問というよりは確認と言う方が正確であったろう。自分達の目の前に居る農夫はひなの名前を口にし、ひなはその農夫の名を口にした以上は顔見知りである事は間違いない。
そして妖哭山に来るまでは生まれた村を唯一の世界としてきた少女の知る人間など、答えは限られている。
凛の視線に頷き返し、鬼無子も同じように唇だけを動かして、その形の変化で凛に答える。
(うむ。苗場村の者達だ)
鬼無子がどこかで見覚えがある、と感じたのは間違いではなく、今は亡き大狼の噂を聞きつけて苗場村を訪れた際に、村の少女を生贄として奉げたという話を聞かされた時に、その場に居合わせた顔がいくつかある。
話を聞くやすぐさま鬼無子は義憤に駆られて村を出たので、村人達一人ひとりの心情や人柄までを正確に推し量れたわけではないし、ひなとどのような関係を築いていたか、と言う様な事は知らない。
しかしひなを前にした彼らと彼らを前にしたひなの反応を見ればその関係が良いものでない事は、一目瞭然である。
ましてや鬼無子は村を訪れた際にひなを犠牲にした事をまるで気に病んでいない苗場村の住人達の態度を見ているし、凛にしてもひなから村での暮らしが、掻い摘んだ内容で、ではあるが地を舐める様な惨め極まりないものであった事は聞いている。
苗場村の住人全員が窮乏状態に在ったのは確かだが、その中でも親を失い村長の家で奴隷同然の扱いを受けて数年を過ごしたひなが、貧困にあえぐ村の中でも最底辺の生活を送っていた事は紛れもない事実。
いまでこそ生まれ持った溌剌とした陽性の活力と、その場が華やぐ輝く笑みを取り戻したひなであるが、雪輝に拾われた当初は生まれ持った器量など影も見えぬほどやつれてみすぼらしい姿をしていたのだ。
ひなを慮る一方で、鬼無子と凛は苗場村の村人達が起こす次の行動に対して、それがどんなものであれ対処できるように、着こんだ衣服の下で重心をずらし全身の筋肉の必要な箇所に力を込め、警戒していた。
村の窮状を救うべく山に住まう恐ろしい妖魔に捧げたはずの生贄が、どうようにしてかこうして目の前で無事に生きており、更にはその姿も生贄に捧ぐ前の時とは比較にならぬほど健康なものになっている。
うっすらと桜の色に染まる頬は人並みのふくらみを取り戻しているし、傷つき放題であった黒髪は、毎日鬼無子が湯浴の時に丁寧に洗い、櫛を通している甲斐もあって陽光を浴びて無数の真珠をちりばめた様に輝いている。
狼の妖魔に貪られる運命を迎えたはずの少女には、決してありえぬ姿である。
いるはずの無い娘が目の前に存在する事への不理解と疑念は、村人たちの胸に黒々とした猜疑心と恐怖心を芽生えさせるのには十分な出来事だった。
ひな同様に強張っていた村人たちの顔に恐怖と疑惑の色がうっすらと滲み始めるのを認めて、鬼無子と凛は揃って不味いな、と心中で同じ言葉を紡いだ。
困惑と恐怖から正常な判断力を失った村人たちが、短慮的にひなに対して暴力を振るう、というのは単に防ぐだけならどうということはない。
鬼無子と軽装とはいえ凛の二人ならば、目の前の村人達が十倍の数になろうが、二十倍になろうがひなに傷一つ負わすことなく叩きのめせる。
だが自分に暴力を振るおうとする村人たちの姿は、消し去りたい過去の惨めで悲惨な日々を思い起こさせ、ひなの肉体よりもその心の方をこそ苛むだろう。
鬼無子や凛、この場に居ない雪輝にとってはひなの心が傷つけられる事の方が恐ろしいのだ。無論、毛筋ほどの傷でもひなが肉体的に傷つけられる事とて、許容できない事であるのはもちろんだ。
ひなの手を握ったまま、それぞれ崩塵と袖口に仕込んだ小柄を瞬時に抜き放てるように、肉体と意識を警戒体制に移行する鬼無子と凛の目の前で、権兵衛とひなに呼ばれた男が恐る恐る口を開いた。
膠で張り付けた様に固まっていた権兵衛の唇はわなわなと震え、自分の腹ほどまでしかないひなと、その背後に存在するであろう大狼という今は存在していない妖魔の影に怯えている事が見てとれる。
「ひな、お、お前、なぜこんな所に居る? お前は大狼めに喰われた。そのはずだ、そうでなくてはおかしい。お前は、お前は、もうこの世にはおらぬはずなのだ……」
いまはまだ恐怖に打ち震える権兵衛や村人たちがその恐怖に突き動かされ、どんな暴言を吐くか分かったものではない。
これ以上権兵衛達と顔を突き合わせている事さえひなには害となる、そう判断した鬼無子がひなを背に庇おうとした時、ひなが下がるどころか一歩前に出た。
鬼無子と凛が制止の言葉か、あるいは手を引いてひなを止めようとするよりも早く、ひなはその桜を同じ色合いの薄い唇を動かした。
見るがいい。
蘇る過去の記憶によって青白く変わった顔は、心の強さを表す様にいま一度陽光の祝福を受けた色に戻り、穏やかにしかし確かな芯の強さを秘めて輝く幼くも美しい瞳の、その神々しさよ。
先ほどまでの怯えて震えた哀れでちっぽけな少女がひなであるのなら、雪輝や凛、鬼無子達との出会いを経て、成長し強く逞しくなって、自らの内面の輝きによって心を立ち直らせたのもまた、誰あろう他ならぬひな自身であった。
「私は、たしかに権兵衛さんや皆さんの知るひなです。あの夜、妖哭山の主、大狼に捧げられたちっぽけなひな」
これが先ほどまで驚愕に顔を強張らせ、脳裏によみがえる忌まわしい記憶に震えていた少女か。
明瞭に言葉を紡ぐひなの凛烈とした雰囲気に、鬼無子と凛は驚きに見舞われながら小さなひなの背と肩を見つめた。
自分達が声を掛けるまでもなく自らの成長と心の強さを示して、村人達を前に一歩も下がる様子を見せず、自分の言葉を紡ぐひなを鬼無子と凛は黙って見守ることにした。
自分達の目の届かぬ所でこの少女が確かに心の強さを育んでいたひなに、鬼無子と凛は母か姉の様な暖かな気持ちになる。
いまはまだ、ひなの思うままにさせてあげよう。この娘は自分達が思う以上に強くなっていたのであるから。
恐怖に震える事はなく、過去の記憶に萎縮する事もなく、自分を虐げていた村人達へ、ひなは今の自分を誇る様に胸を張り言葉を続ける。
「詳しい事情は申し上げられませんが、あの夜、私は権兵衛さんの仰る通りに大狼の牙に掛るはずでしたが、奇縁の巡り合わせの甲斐あって、こうして生きております。ひょっとしたら亡き父母が守ってくれたのかもしれません」
ひなの言葉を受ける村人たちの唾を呑む音が大きく響いた。いまや世界はひなを中心とし、空気は凍えて動く事を忘れた様に硬直している。
動かざる世界を動かせるのは、ただひなのみであった。
この場に居合わせた者達の中で最も非力で、ちっぽけで、小さな少女だけが。
「だ、だがお前を喰らったと、大狼が言うのを聞いているぞ。ならば、なんでお前が無事でいられる。おかしいではないか?」
「詳しい事情は申し上げられませんと言いました。ですが御安心ください。大狼の祟りが村の皆に再び降りかかる事はもう二度とないでしょう。山を降りた大狼が人々に災いを成す事も今後一切ございません。私の身命と父母に誓ってお約束いたします」
「おまえ、お前は大狼になにかされのか? 大狼の下僕にでもなったのか? ほ、ほん、本当にお前があのひなだというのか、し、信じられん」
それはひながこうして生きている事が、かあるいはまるで別人の様な、いや別人と化したひなの雰囲気と在り方が、か。
権兵衛の瞳を真っすぐ見つめてくるひなの澄んだ瞳には、怯えた様子はない。後ろ暗さを感じて腰の引けている様子もない。
しかるに権兵衛をはじめとした村人たちは大狼と言う存在への恐怖も大きくあるだろうが、まるで超常的な存在をその身に降ろしたかのような荘厳さを纏うひなに、心底圧倒されている。
あくまでも落ち着き払い、冷厳な言葉遣いを続けるひなであったが、本音を言えばひなの心の中では人間が有する負の感情が一つも余すことなく渦を巻き、その暗黒性を増している。
いまにも苗場村の人間たち全員に対する罵倒の言葉が口を突いて出そうになっているのが、正直な所であった。
両親を失った幼子を、その境遇を憐れんだ村長が引き取り養った。
この言葉だけを聞けば詳しい事情を知らぬ者には美談の様に聞こえるだろう。
なるほどたしかに親戚の類のいない箸にも棒にもならぬ幼子を、これ幸いとばかりに人界に売り払うでもなく、引き取り育てるのであればそれは善行と言える。
だがその実、引き取ったその日の内から身ぐるみを剥ぎ、残された家財の全てを奪い去り、粗末な襤褸一つ与えて十にもならぬ子にありとあらゆる雑事を押し付けていたのが、村長夫婦の実態である。
家畜の餌やりや掃除、洗濯、野良作業と、大人でも根を挙げる様な重労働を十にもならぬ子に強要して、どれか一つでもささやかな失態を犯せばすぐさま村長夫婦の枯れ木を思わせる手に握られた棒が振り下ろされる。
湯を零した事を責められて、ひながある雪の降る冬の夜に家の外に放り出されて、寒さに手足や唇を紫色に変えながらもかろうじて凍死を免れたのは、家畜達の所にもぐりこみ糞尿と獣臭に塗れながら藁にくるまって寒さをしのいだ事と、生まれつき頑丈な身体とわずかな幸運のお陰である。
ひなに加えられる酷い仕打ちは冬の日だけではなかった。
春も、夏も、秋も、巡る四季の移ろいに関わりなく村長達はひなを棒で叩く事を休める事はなく、与えられる食事は常に貧しさの底を行くものであった。
村長と言うものは村と言う狭隘な閉鎖社会に置いて、なによりも村とそこに住まう人々にとって指標となりうる中心的存在である。
その村長がひなに加える仕打ちの数々は村人全員の目に留まっており、最初は憐みの目を向けていた者達も、村長の非道が毎日続くのを見れば憐みの心は麻痺し、日常の一部として受け入れてしまう。
そればかりか村長の行動を真似てまずひなと同年代の者達が、ひなに石を投げたり親のいない事を揶揄する悪口を投げかけ、それを親達は窘める事はなく、ひなを汚物か何かの様に扱って子供達に関わらぬよう注意するばかり。
薪を運んで前が見えにくくなっていた所を足を引っ掛けられて転ばされ、地面に倒れ込んだ所を踏まれ、蹴り飛ばされ、髪を掴まれて唾を吐きかけられた事も何度もあった。
中に子供ばかりでなく大人の姿もあった。
ひなの全身に出来た大小無数の傷の手当てなど村長がするわけもなく、怪我だらけのひなを見ても詰まらぬものを見たとばかりに、一瞥するきりだ。
そんな事が何日も何日も続き、ただただひなは全身を苛む痛みに歯を食い縛り、目を瞑って絶え続けるしかなかった。
どうして自分がこんな目に遭うのか、どうして村長は自分を引き取っていながら助けてはくれないのか、どうして村の人たちは自分をこうも毎日虐めるのか、どうして父と母は自分を置いて死んでしまったのか。
どうして自分は、人間扱いされない辛い日々を過ごしているのに、いまも生きているのか。
いっそ死んでしまえばいいのに。そうすればこの生きる事の苦しみから解放されるのに。そうすれば死んでしまった父と母と同じ所にいけるかもしれない。
例え同じ所にいけなくてもこんな場所よりはずっと近いはずだ。
ああ、けれど、自分で命を断つのはあまりにも恐ろしくて。
ひなはいままで何度も包丁や剃刀、釘を手首や咽喉に当てながら一度もそれを使う決断を下す事が出来なかった。
そうして五年近い月日を、ひなは苗場村の村長の下で過ごしたのである。いつ死んでもおかしくない、生きていることの方が不思議な五年間を。
そのような人間としての尊厳も何もかもを踏みにじられる日々を過ごして、例え十歳にもならぬ子供といえども恨みの一つも抱かずにおれようか。
父母を除けば村人全員を足しでもはるかに及ばぬほど自分を大切にし、慈しんでくれるひなとの出会いをきっかけに、ひなの心の中の負の感情はなりを潜めて行ったが、怨嗟の念のすべてが消えたわけではない。
ひなの影に滅びた大狼の姿を見て恐怖に竦む権兵衛達に呪いの言葉を吐けば、積もり積もった恨みの丈を叩きつければ、権兵衛達はひなの憎悪に大狼の脅威を勝手に感じ取り、際限のない恐慌に見舞われるだろう。
そうすればきっと無様にひなの足元に首を垂れて、泣き喚きながら命乞いの言葉をがむしゃらに並べ立てるかもしれない。
醜態を晒す村人達を見下ろす事は、さぞや胸のすく思いがすることだろう。積年の怨恨が暗く冷たい愉悦に慰められることだろう。
しかし、ひながいまそれを口にしないのは両手のから伝わる鬼無子と凛のぬくもりが、ひなの心にここひと月の間の優しい記憶を思い起こさせ、心中で荒れ狂おうとする黒い感情の嵐が慰撫されているからだ。
苗場村の人間達にいまさら罵倒の言葉をぶつけた所で、自分の過去が変わるわけではない、とひなの心の冷めた部分が囁いていたし、なによりもひなにとって自分の居場所はすでに苗場村ではなく、あの優しい白銀の狼の隣であった。
父母の墓と共に過ごした幼少期の記憶がある事を除けば、ひなにとって苗場村は既に価値の無い色褪せた過去の世界なのである。
ああ、そうだ、とひなは、既に自分にとって過去となっていた人々を前にして、改めて気づく。いまの、そしてこれから自分が生きて行く世界は雪輝の傍ら以外にない。
自分がどれだけ雪輝を慕っているのか――愛しているのかを悟り、ひなはどこまでも柔和に微笑んだ。
それは憎しみや恨みなど欠片もない透き通った笑み。
人間がだれしもこのような笑みを浮かべる事が出来るのなら、世界から争いは消えてなくなるだろう。
その笑みを向けられる誰もが心に安らぎを覚えて、思わず同じような笑みを返す無償の慈しみと無限大の愛に満ちた微笑。
怨嗟に塗れ絶望に膝を着き生きる事に疲れ果てた少女は、いま、恋を知り、愛を悟り、蛹がいつかは美しい羽を広げて空を優雅に飛ぶ蝶になるように、その心を美しく優しく羽化させていた。
ひなの心はもう過去の記憶の鎖に縛られる事はない。ひなは真に心の自由を得たのだ。愛する者の傍らに居る自由、愛する者と共に生きる自由、そして愛する者の傍で生涯を終える自由を。
「権兵衛さん、私は今とても幸せです。村長の下で暮らしていた時とは比べ物にならない位に。本来生贄として奉げられて終わるはずだった私の運命は、まるで考えもつかなかったものになりましたけれど、この運命に感謝しています。
そしてそれは私が大狼への生贄として選ばれた事で始まった運命。ですから私は私を生贄に選んでくださった事にさえ、感謝しているほどなのです。そうでなければ私はあの方と出会う事はなく、村長の下でいつ死ぬとも知れない生活を送っていた事でしょう。
私は、私を捨てた村の人たちを恨んではおりません。憎しみの言葉を吐くつもりもありません。ただ、もう二度と村を訪れるつもりもありません。私は残りの生をすべてあの方の傍で過ごします」
「あ、あの方とは大狼、の、事か……?」
過去の記憶の中のひなとは全く異なる今のひなの姿と、ひなの言葉を半分ほども理解できぬままに、権兵衛は臨終の床に在る病人の様な声で問うた。
何を聞けば良いのか、何を知るべきなのか、まるで判断できずにいるのだろう。死んだはずの少女が現れ、その少女はまるで別人と化し、村への決別の言葉を口にしている。
唐突な事態の連続の最中に在って、平凡な村人に過ぎぬ権兵衛達にまっとうな判断などできようはずもなかった。
ただ、ひなの一語一句、一挙手一挙動に怯える様に耳を傾け、目を向けるばかり。
「いいえ。既に大狼はこの世におりませぬ。私が共に在りたいと願う方は大狼とは別の存在」
ひなは、かつて自分に拳を振り下ろした時に感じた権兵衛の大きさと恐怖を、まるで感じない事をただ静かに受け入れていた。
あんなに巨大で恐ろしく見えた権兵衛が、いまはなんと小さく弱々しく見える事か。ひなの心には、ようやく灼熱と渇きの地獄から解放されたはずの苗場村の人々への憐みの情ばかりがあった。
「権兵衛さん、どうか村の皆にお伝えください。ひなはもう二度と皆の前に姿を見せません。生贄に選んだ事へ恨み言を言うつもりもありません。ただ、生を授かった村の皆が日々を穏やかに過ごせる事をお祈り申し上げると」
ひなは一度、鬼無子と凛から手を離し、太ももの上の辺りで手を重ね、腰を曲げて深く頭を下げる。
鬼無子と凛は静かに見守り言葉を口にする事もしない。
それはひなが苗場村との静かな、しかし、これ以上ないほど厳しい決別を告げる為の儀式でもあると悟り、自分達がすべき事はないと分かっていたから。
頭を上げて半生との別れを終えたひなの顔には晴れ晴れとした色が浮かんでいる。再び鬼無子と凛と手を繋ぎ直すと、ひなはもう権兵衛をはじめとする村人達は眼中にない様子で、その傍らを過ぎ去っていく。
ひなは自分が口にした通り、もう二度と苗場村を訪れる事はないと、権兵衛達を振り返る事はなかった。
小さな少女の瞳は過去ではなく、現在とそこから繋がる未来をまっすぐに見つめていた。
ひな達三人の姿が芥子粒ほどの小さなものになってからようやく、ひなとの在り得ぬ再会によって心身を硬直させていた村人たちの緊縛が解ける。
冥府から現世に蘇ってきた死者を目の当たりにした恐怖に震えていた村人たちの第一声は、権兵衛のこんな言葉であった。
「二度と村には姿を見せない? 恨み事を言うつもりはない? あんな仕打ちを受けた娘がそんな事を本心から言える筈がねえ。きっとあいつは大狼か山の妖魔にかどわかされるかして、人間じゃなくなったに決まってらあ。あの傍に居た女どもも妖魔が化けたものに違いない。
化け物が人間様の世界に降りてくるなんざ、あっちゃなんねえ事だ。ひなよ、お前は大狼に喰われて死んだのだ。だったらなにをとち狂ってこの世に戻ってきおった? わしらを呪うため以外にあり得ん。待っていろ、わしらに山の妖魔を討つ力は無くともちゃあんとそれが出来る人間はいるんだ。大狼ごと皆殺しにされるがいいわ」
人間とは、人と獣の間、という意である。
いままさに権兵衛の浮かべる凶相は、人間を作り出した造物主が、人間が永劫に“人”にはなれぬと嘆き絶望するには十分すぎるほど醜悪なものであった。
在りもしない悪意を他者に見出し、狭隘な見解と思い込みによって、自らの中に疑惑と恐怖の山を築く。
そうして築かれた恐怖を打ち消すために、往々にして人間は過程は違えども同じ結論に至る。
憎しみが故に滅ぼす。恐ろしいが故に滅ぼす。死にたくないが故に滅ぼす。おぞましいが故に滅ぼす。滅ぼされたくないが故に滅ぼす。
ああ、人間の世界から放逐され妖異満ちる世界に足を踏み入れた少女が人らしさを得て、人間の世界の輪に囚われた人間はその業とでも言うべき悪意によって、醜悪さを浮き彫りにする皮肉よ。人間の世界から離れた少女の方がより人らしくあるとは。
そしてこの時の出会いが切っ掛けの一つとなり、雪輝と、ひなと、鬼無子と、凛それぞれに過酷な運命が血臭を漂わせながら訪れる事になろうとは、まだ誰も知る術はなかった。
万に一つの可能性としては確かにあり得たとはいえ、想定していなかった苗場村の住人達の邂逅を終えてから、鬼無子と凛はひなに話しかける事はあっても苗場村の者達との会話について何か問う様な事や慰めの言葉を口にする事はなかった。
それを真っ先にすべき者は彼女達以外におり、ひなもまた村人たちとの会話で抱いた恐怖や改めて悟った自分の心を一番最初に告げたい相手は鬼無子と凛ではなかった。
三人の少女達が仲良く手をつないで歩く姿に、街道をゆく旅人や行商人達が暖かな微笑を浮かべて見つめる中、ひなが不意に顔を挙げて街道を外れた木立の群れの方に視線を向ける。
それに遅れること二拍子ほどで鬼無子と凛がひなの視線に追従する。三人にだけ感じられるように蜘蛛の糸の様に細められた気配が放たれているのだ。
その源を辿ればひなの視線が注がれている街道外れの木立に辿り着く。
ひながいまもっとも正直な心を伝えるべき相手が、そこにいるということだ。
鬼無子と凛がひなの頭の上で視線を交わし合い、共に首を縦に動かす。言葉にせずとも互いにすべき事を理解し合っているが故の行為である。
鬼無子と凛はそっと、ひなとつないでいた手を離した。きょとんとした顔で二人の顔を交互に見上げるひなに、鬼無子が優しい声で言う。
鬼無子がひなに注ぐ情の深さが良く分かる声であった。周囲に人の目がない事は確認済みだ。
「お行き。雪輝殿とたくさん話したい事があるだろう。それがしと凛殿はゆるりと参ろう」
「あ、はい! ありがとうございます」
鬼無子の言う言葉の意味を理解したひなは、その場に小さな太陽が生じたかのように輝く笑みを浮かべて、小走りに街道を外れて木立の方へと向かう。
その背を見つめながら、頭の後ろで両手を組んだ凛が、嘆息しながら口を開いた。
「あ~あ、雪輝の馬鹿にはひなは勿体無いと思うんだけどなあ」
嘘偽りの全くない凛の言葉に、鬼無子が苦笑しながらも窘める為に口を開いた。苦笑を浮かべていることから、多少なりとも凛に同意する所はあるらしい。
「そう申すでない。互いが好き合っている以上は余計な横槍は無粋というもの。ただ雪輝殿が御自身とひなの感情を正確に把握していない様子であるのは、傍で見ていて歯痒いものがあるとは思う。そういう意味では確かに雪輝殿は馬鹿であるかな。いや、狼だから馬鹿ではなく阿呆とでも言っておくか」
微笑こそ浮かべているものの常になく雪輝に対して厳しい鬼無子の言葉に、凛は不思議そうな表情を浮かべて首を捻る。
どうにも以前出会った時と比べて今日の鬼無子の雪輝に対する態度や言動の一部に、大きな変化が感じられるのだ。
また雪輝が何かやらかしたのだろうが、鬼無子が雪輝に対して抱いているのが単純な怒りではないように凛には思えた。
なにか、ひなと雪輝との関係に対して鬼無子なりに複雑なものを覚えているのだろうか?
凛はてっきり鬼無子はひなと雪輝との関係を好意的にのみ考えているとばかり思っていたのだが。
疑問にばかり囚われていたがために、木立の中に隠れている雪輝のもとへと走り急ぐひなへと向ける鬼無子の視線の中に羨望の色が混じっている事に、凛は気づけずにいた。
だから次の言葉は凛にとってはほんの冗談のつもりで、他には何の他意もないものであった。
「なんだか随分と棘があるね。なに、鬼無子さん、ひょっとして雪輝の奴に惚れたの? だからひなの事が羨ましかったりして。なんてね、ははは、まあただの冗談だから許してよ」
「……………………」
笑い飛ばすなりすこしは怒るなりするかと思っていたにも関わらず、鬼無子が口を噤んで何も言わない事に、凛は、はん? とひとつ漏らして横を歩く鬼無子の顔を覗き込んだ。
するとどうであろうか。
鬼無子は同性から見ても羨望と憎悪の眼差しを向けるしかない造作と、清冽な精神性が纏わせる清廉さと気品が眩いまでの美貌を、鮮やかな赤に染めてそっぽを向いているではないか。
着物の襟から覗く元は白磁の色をしていた首元から耳の先に至るまで真っ赤に染めて、鬼無子はそれでも赤く変わった自分の顔を見られないようにと、横を向き続けている。
横を向いているという事は、自分が顔を赤らめている事を自覚しているという事だ。つまりは凛に言われるまでもなく自身の雪輝に対する感情を知っていたという事になる。
そこまで考えが及んだ凛は、絶句するほかなかった。
「え、え、なに、冗談だよ、鬼無子さん。ねえ、冗談だってば、なにか言い返してよ」
「…………」
鬼無子は凛に答える事もなく黙々と足を動かし続ける。沈黙はすなわち肯定を意味していた。
「き、鬼無子さん!? え、嘘でしょ、ほほ、本当に惚れちまったの、あの雪輝に!!」
「り、凛殿、そう何度もほ、惚れただの惚れてないだの年頃の女子がみだりにくちにするべきではない。は、はしたない!」
全身の血が顔に昇っているんじゃなかろうかという位に顔を赤に染める鬼無子の返事に、凛は、ああ、この人は本気であの狼に惚れたんだなと否応もなく理解させられた。
「きき鬼無子さん、なにか雪輝にされたの? どうしちゃったのさ。じゃ、じゃあ、森で雪輝と別れる時に変な態度を取ったのって、ひなと雪輝が口付けしたのがうう、羨ましかったりしたわけ!?」
「う、うらや、羨ましいなどと、そそそそのようなことは、なな、ないぞ!」
鬼無子は口を開けば開くほど自分が泥沼に入り込んでいる事に気づいていない様であった。凛は、ますます自分の中で確信に変わっていく鬼無子の恋慕の情を理解し、思わず声を大にして叫んだ。
「羨ましいんだ!?」
断定である。太陽が西から上り東へ沈むもの、そう言うのに等しいほどの断定だ。鬼無子は反論の言葉を口に出来ずに、咽喉の奥で珍奇な声を一つ挙げることしかできない。
「あぅ」
窮地に追い詰められた小動物か何かの様な可愛らしい事は可愛らしい鬼無子の声に、凛は目をまんまるに見張って硬直する事しばらく、肺の中の空気を全て絞り出すような大きな溜息を吐きだす。
「はああああ~~~~~~~~」
「し、仕方なかろう、きき、気付いたら、雪輝殿の事が、その、す、すき、す……きになっていたのだ! 元々雪輝殿の穏やかで度量が大きく無邪気な御気性はそれがしの好みの真ん中を射抜いていたし一緒に居るとあのもふっとした毛を好きなだけ触れて気持ち良いし心地よいし暖かいし昼寝には最適だし枕代わりにしてよし布団代わりにしてよし敷布にしてよしと非常に多様性に富んでいて……」
恋心の自覚は済ませたものの他者にそれを指摘される事は予測していなかったようである。
鬼無子は雪輝殿の事が好きか、という自問に、好きだ、と自答する分に関してはもう自分の中で決着がついていて、素直に認める事が出来るのだが、それを他者に指摘されるとこれはもうどうしようもないほど気恥かしく感じる様であった。
鬼無子はまともな思考を心の中の地平線のはるか彼方に放り投げて、勝手に自分が雪輝に惚れたと思しき理由を並べ立て始める。
つらつらと続けられる鬼無子の惚気に、凛は頭痛を覚えながら鬼無子の眼前に掌を突きつけて遮った。
聞くに堪えないというか聞いていて体がむず痒くなってきそうな惚気の連続である。人の惚気話ほど聞いていて鬱屈とする話も他にそうはない。
鬼無子本人が惚気を口走っていると気付いていないのが、なおさら性質を悪くしていた。
「はい、もういいから。鬼無子さんが雪輝に惚れちまったのは動かし難い事実なんだろ?」
「………………う、うむ」
たっぷりと間を空けてからの鬼無子の返答に、凛は今度は短いが重たさでは先ほどの長い溜息にも匹敵する溜息を吐く。
雪輝にひなはもったいないというのは紛れもない凛の本音であるが、鬼無子だって雪輝にはもったいないにも程がある女性である。
ひなはあと数年もすれば女としての幸せを望めば幾らでも手に入れられるであろう美貌の蕾の持ち主だし、鬼無子に至っては今現在の時点で絶世と例えて何ら差し支えのない美女である。
しかも揃って容貌のみならずその精神もまた美点に富んだものを有している稀な例だ。
それが
「なんであの狼に。あいつそういう力でも持ってたのかねえ。本当にいいの? あいつ狼で妖魔だよ。犬畜生だよ。そんで馬鹿で阿呆で間抜けで鈍感だよ。そりゃまあ確かに結構格の高い妖魔だから強いのは認めるけどさ」
「そこまで言わなくても……いや、確かに雪輝殿は確かに四足の獣である事は否定できぬが。正直それがしも自分の心の動きに関しては、いまだに驚きを禁じ得ぬものがある。だが、まあ、気付いた時には手遅れと言うか、な」
そう言って恥ずかし気に微笑む鬼無子は、胸の中で燃え盛る恋の炎によってより一層美しく輝いていた。こんな笑顔を見せられては他人がどういった所で無粋な真似にしかならないだろう。
鬼無子が言うとおりに今更翻意を促した所でもう手遅れなほど、鬼無子は雪輝に対して惚れ抜いているという事だ。
凛はこれ以上ないと言うほど顔に皺を刻みこんで渋面を拵える。凛の中での雪輝に対する評価が、一目で窺い知れる顔であった。
確かにあの狼がこの世のものと思えぬほどに完璧に調和のとれた美しい獣である事は認めるし、その腕っ節に関してもそこらの人間など千人集まろうが簡単に蹴散らせる実力がある点も評価できる。
性格も他人を思いやる優しさや力の弱いものに対する慈しみを持った、好感を抱くに値するものではあるだろう。
しかし、なんといっても雪輝は狼であり妖魔であった。
凛はひなの雪輝に対する好意を咎めようとは思わないし、鬼無子が雪輝に惚れてしまった事実を今更どうこう言った所でどうしようもないのも認める他ないが、どうしても、どうしてもこう思わずにはいられない。
「もったいない、もったいないよ、鬼無子さん」
「ほ、惚れたものは惚れてしまったのだから、仕方なかろう」
拗ねた子供の様に言う鬼無子の頬は、先ほどから赤く染まって元の白色に戻る事を忘れている。凛はこの世の不条理にただただ嘆くことしかできなかった。
だが、ここで凛は肝心な事に気付き、恐る恐る口を開かねばならなかった。あるいは聞かなければよかったと、思う事になるかも知れぬ質問である事が、凛に若干の躊躇を抱かせた。
「あの鬼無子さん」
「ん、な、なんだ?」
これ以上羞恥心を掻きたてられる事を質問するのは勘弁してほしい、と赤く染めた美貌に大きく書いて、鬼無子がわずかに警戒した表情で凛を見つめた。
「いや、まあ、鬼無子さんが雪輝を好きなのは、まあ、これは仕方ないからこれ以上言わないけどさ」
「だから、そういう、その、それがしが雪輝殿の事が好きだの惚れただの、言われるだけでも、それがしには、は、恥ずかしいというか、できれば止めてもらいたいのだが……」
「ああ、うん。分かったよ。あー、それで、だ。鬼無子さんがそういう気持ちだってんならさ、ひなに対してはどう思っているのさ。こういっちゃなんだ、っていうか、悪いっていうか、ああもう、面倒くさい!
つまりは、雪輝の一番はひなだよ。これは間違いないと思う。その事で鬼無子さんはひなの事をどう思うのさ。やっぱり、羨ましいってだけじゃなくて、その、嫉妬とか、さ?」
「いや別に。確かに羨ましくはあるが、それがしはひなも大事だからな。自分でも心配はしたのだが、ひなと雪輝殿が目の前で仲良くしていても別段、嫉妬の念は覚えぬな」
即座にひなへの嫉妬を否定する鬼無子に、凛は少々拍子抜けする思いだった。これで実は嫉妬している、などと言われようものならそれこそ凛も何も言えなくなっていた所だが、当の鬼無子は凛の危惧などまるで的外れと言わんばかりの態度である。
「そうなの? 普通はさ、自分の惚れた相手が別の女と仲良くしていたら少しくらいはむっとするもんだっていうよ?」
「まあ、それがしも人づてに聞いた話ではあるが、男女の仲と言うものはすべからくそう言うものらしいのだが、雪輝殿とひなに限ってはそれがしはそう言うようには感じられぬな。ひなに邪な感情を抱かずにいられるのは、正直なところ、とても安堵しているよ。
それがしにとってひなは実の妹も同然であるし、初めて在った頃からひなと雪輝殿の睦まじさは目のあたりにしていたから、今更、嫉妬などする余地もないと分かっているのかもしれんなあ」
自分がひなと雪輝の間に入る余地など、もうどこにもないかもしれないと考えると、それはそれで寂しいものを覚えるのは確かであったが、鬼無子は今の自分達の関係を壊さぬ為にはそれが一番なのだろうと、かすかに覚える胸の痛みを無視してそう考えている。
悲しげではあるが鬼無子が、自身の恋慕の情にある種の見切りをつけている事を、漠然とではあるが察した凛は、冗談を口にする事で話題を変えようと試みた。
だが、却ってそれが事態をややこしくすることになろうとは、この時、凛は露ほども思ってはいなかった。
「そっか。変な事を聞いてごめんよ。でもまあ、鬼無子さんがひなにそういう考えを抱かないってのは、ひょっとしたら鬼無子さん、雪輝の事だけじゃなくてひなの事も好きなのかもね、なんちゃって。はははは」
「はははは、凛殿、滅多なことを口に出すものではないよ。狼の外見をしておられる雪輝殿の事を、まあ、そのお慕いしているという事に気付いただけでも、それがしにとっては驚天動地の出来事であったというのに、この上それがしがひなに懸想しているなどと、それがしは一体どれだけ奇怪な嗜好の主だと言うのだ」
「そうだよねえ、あははははは」
冗談が通じて笑みを浮かべる鬼無子の様子に、凛は安堵で胸を撫で下ろす思いで秋の空に高く響き渡る笑い声を挙げる。
「いやいや、まったく。確かにひなは気立てが良く、何事にもよく目が届いて気が利く上にとても聡明な子だ。それがしにもあのような妹がいたらと常日頃思うて止まぬのは事実だけれど」
「うんうん。ひなは本当によく出来た子だよ。村の連中を前にしてあんな風に返事出来るんだからね。あの時は黙っといたけど良く言ったって拍手したかったね」
「うむ。全くだ。あの時のひなは立派だった。いつも立派だが、格別にな。今頃雪輝殿と話をしているだろうが、時折二人の仲の良い所を見ていると、それがしが雪輝殿に変わりたい時があるよ」
「へえ。ああ、でも分かるなあ。なんていうかひなはいつも一所懸命だからさ、見ているとこう、褒めてあげたくなるんだよね」
「その通り。ひなはなにをつけてもする事一つ一つが可愛らしくてな。こう、ぎゅうっと抱きしめたくなる時が、一日の内に何度もあるのだよ。その様な時はまず雪輝殿がひなの事を可愛がるが、たまにはそれがしが雪輝殿に代わってひなを可愛がりたくなるのだ。
まったく、雪輝殿と言いひなと言い、こうもそれがしにとって好もしい人間と出会えるとはまこと僥倖。ただ思い残す事が増えてしまったかもしれないけれど」
そう呟く鬼無子の横顔が、ひどく寂しげなことに気づいて、凛はどういう意味かと問いただそうとしたが、それを遮る様にして鬼無子が口を開いた。
「さて、雪輝殿とひなの所へはゆるりと参ろう、ゆるりとな」
「え、あ、うん」
そういう鬼無子の顔がいつもどおりに見えて、凛は結局問いかける事は出来なかった。
まばらな人の流れからはずれ、緑の色彩が広がる大地を掛けて、ひなは林というにはいささか狭い木立の中へと勢い良く駆けこんでいった。
風に靡く髪や振り乱される袖に木の葉を纏わせながら、雪輝の目の前で足を止めたひなは、はあ、はあ、と息を荒く乱して紅潮した頬を笑みの形に変えて、雪輝の名を呼ぶ。
「雪輝様」
「うむ。しかしそんなに急がなくとも良かったろうに」
巨体を伏せて緑の茂みの奥に隠れていた雪輝であったが、口を吐いて出た言葉とは反対に、目尻は緩み尾は緩く左右に動いて、纏う雰囲気は和やかなものになっている。
ほんの一時の別れでもその間の寂しさが、お互いが傍に居る時の充実さを証明していると言えるだろう。
ひなは雪輝の首に細い腕を回して抱きついて、特にふわふわとした感触の首回りの毛並みに顔を埋める。至福の瞬間であった。
抱きついてくるひなの感触に狼なりの微笑を浮かべて、雪輝はわずかに巨体をよじってひなに自分の体をこすりつけてひなの抱擁を受け入れる。
そよそよと顔や首筋をくすぐる雪輝の毛並みのくすぐったさや心地よさに、慎ましく鈴を鳴らしたような笑い声がひなから零れて、雪輝の耳を楽しませる。
「だって少しでも早く雪輝様にお会いしたかったのです」
少し拗ねる様な、あるいは甘えるように言うひなの言葉に、雪輝は嬉しさについ尻尾を左右に振って答える。
「嬉しい事を言ってくれるものだ。だが、それは私もおなじこと。荷を置きに行く時もひな達を迎えに行く時も随分と急いだ」
「普段、雪輝様とずっと一緒に居るから離れるまで、こんなに寂しくなるなんて分かりませんでした」
「全くだ」
ひなは雪輝に対してどこまでも従順であるが、雪輝もまたひなに対して従順だ。お互いの関係を客観的に見られないのは、当人同士ばかりと言ったところであろうか。
半日も離れていないと言うのによほどひなと離れた事が寂しかったことを表す様に、雪輝は、自分の頬を撫でるひなの手や頬、首筋をしきりに舐めたり、ひなの身体に鼻先を突きつけて匂いを嗅いでいる。
雪輝の鼻先や舌が触れてくる事にひなは何の抵抗も見せず、くすぐったさに新たな笑い声を零す。
単に体の大きさで言えば雪輝の方がはるかにひなを上回るとのに、この光景を見る者がいたら、ひなという母に雪輝という子供が甘えているかのように映ったことだろう。
それほど雪輝はひなに対して無邪気無垢に心を許し、ひなもまた雪輝に対して無償の愛情を示している。
そうして暫くの間、離れていた時間の寂しさを埋めるためにじゃれあってから、ひなが雪輝の瞳をまっすぐに見つめ、真剣な表情を作る。
ひなの表情と心情の変化を悟って、雪輝もじゃれつくのを止めてひなの紡ごうとする言葉を待った。
「雪輝様、私、さきほど村の人達と会いました。皆さん、元気そうでした。私が生贄に選ばれた甲斐は……ありましたね」
咄嗟に、雪輝は何と言うべきなのか、まるで分からなかった。どこか笑みを含むひなの言葉ではあったが、そこに自嘲の響きはないし、悲嘆の様子もない様に聞こえる。
確かに苗場村の住人達の生命を救うために、ひなは大狼への生贄として選ばれたのだから、村人達の生活が好転しなければ、ひなが生贄の運命を受諾した意味は無くなってしまうだろう。
どんな言葉をひなに返す事が相応しいのか、雪輝には結局分からず、口を吐いて出たのはこんな言葉であった。
「そうか」
雪輝が短い言葉と同時に表情のみならず全身に悲しみとひなの身を案ずる気配を纏うのに、ひなは自分を思う雪輝の心が嬉しくて、つい口元を綻ばせる。
さあ、はやくこの優しくて大きくて愛おしい方の心を安心させてあげなければ。
「雪輝様、心配なさらないでください。ひどい事を言われたり手荒い事をされてはおりませんから」
「それはなによりだ。鬼無子と凛がいるから大丈夫とは思っていたが」
雪輝が何より心を砕くのはひなの心の安寧と幸福である。
出会った当初のひなの惨めな姿を知る雪輝にとって、その原因となった苗場村の住人たちとの再会は、ひなの肉体以上に精神に刻まれた傷を疼かせるのではないか、と危惧を抱いていたのである。
幸い、落ち着き払ったひなの雰囲気と言葉から、雪輝の危惧は無為に終わったようではあるが、それでもやはり雪輝は心配する気持ちを静める事は難しい。
ひなとの出会いは突きつめれば苗場村の村人達が、ひなを生贄に選んだからこそではあるが、それでもひなの体に残っていた無数の傷を作ったのも村人たちである事を考えれば、雪輝にとって苗場村の住人達は悪感情しか抱けない。
「本当に大丈夫か? 私を心配させぬようにと無理をしてはいないか?」
「はい、大丈夫です。無理などしておりませんよ。鬼無子さんと凛さんがずっと手を繋いでいて下さりましたから、私はとても心強くいられました。お二人にはいくら感謝しても足らないほどです。それに、村の人たちと出会って、私はとても大切な事に改めて気づけました。その事に気づけた事の方が、私には村の人たちに出会った驚きよりもとても大事で、とても嬉しかったのです」
「そこまでひなが言うと、なにやら興味を惹かれるな。良い事だったのかね?」
そう問う雪輝に、ひなは大好きな人にだけ見せるとっておきの笑顔を浮かべて答えた。
「はい、とっても」
ひなが笑顔ならそれだけ嬉しい単純極まりない雪輝である。ひなの笑顔を見てころっとそれまでの心配を放り捨てて、ひなと同じように大好きな相手にだけ見せる笑顔を、狼面なりに浮かべる。
実に幸せな思考の持ち主である。
「ひなの笑顔は良いものだな。見ていると私まで嬉しくなる。ひながずっと笑顔を浮かべていられるようにと、私もなにかやる気が出るものだ」
「まあ、ありがとうございます。私も雪輝様が喜んでくださる事はなんでもしてあげたいと思っているのですよ。私に出来ることなんてほとんどないでしょうけれど」
「そう言うな。前にも言ったが、ひなは私の傍に居てくれるだけでも、色々な事を私に教えてくれるのだ。そうでなくともひながいるだけで私は安らぎを覚える。ひなが共に居てくれる、ただそれだけで私は幸福を感じられる」
嘘偽りなど雨粒一粒ほども存在しない雪輝の素直な心情の吐露に、ひなはこの方は自分で分かっていないのだろうなあ、と思う。
こうも自分を喜ばせる言葉を無意識に告げてくるのだから、ますます好きになってしまう。
ひなは、自分がもう雪輝の元から離れられない事を、改めて理解した。自分が雪輝の傍を離れる時が来るとしたら、それは最期を迎える時だけだろう。
「雪輝様」
「なんだね?」
雪輝を呼ぶひなの声も、ひなに答える雪輝の声も、優しさに満ちている。
「私、雪輝様に出会えて本当に幸せです。雪輝様に出会えて、私はたくさんの嬉しい事、幸せな事に恵まれたのですから。雪輝様、私は雪輝様の事が大好きです。お慕いしております。ですから、どうか、ずぅっとお傍に居させてください」
雪輝は、ひなの言葉の意味をどこまで理解できたのか、目をぱちぱちと瞬かせてから答えた。少なくとも偽りではない事、そして真摯な愛情が込められていることだけは紛れもない返事であった。
「私もひなと同じように思う。ひなには永く私の傍らに在って欲しい。私も、ひなのすぐ傍に在り続けたい」
ひなは、雪輝の首筋にもう一度抱きついた。豊かな白銀の毛並みを通して雪輝の体温が伝わってくる。確かな心臓の鼓動が聞こえてくる。雪輝の存在を、ひなは全身で感じ取る。
「はい。ずっとお傍に居ます。雪輝様とずっと、ずっと一緒です」
「ああ」
雪輝の返事は短かったが、しかし万の言葉でも足りぬ想いが込められていた。
<続>




