表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/52

その七 前夜

その七 前夜


 冷たく心地よい秋の風が頬を撫でた。

 つい先日までの熱湯の中に放り込まれているのかと錯覚するほどの、暴力的なまでの熱は遠い旅路の果てに出て、いまは外気に晒した肌がぶるりと震えてしまう冷気が親しい隣人となっている。

 遊んでおくれよとようやく順番の回ってきた秋の精霊が、人恋しさに頬や耳に悪戯っぽく触れて誘っているのかもしれない。

 黄ばんで枝から舞い散った木の葉を巻き込み、くるりくるりと秋風が渦を巻いているのは、その風に毛筋ほども注意を払おうとしない佳人のあまりにつれない態度に対して拗ねているのだろう。


 濡れ滴るような月光が人の形に凝縮し、仄暗い闇夜にうっすらと輝きを放つ美女と化したかの如き美貌――四方木鬼無子である。


 時刻は陽光が傾き始めるほんの少し前。

 日差しを満身に浴びて、鉄灰色の羽織を纏うしなやかな鬼無子の影が、川辺に長々とその影を伸ばしている。

 蒼い組紐で首筋の後ろで纏めた栗色の長髪が、あるかなきかの風に揺れていた。

 大の大人が六、七人ほど目一杯に手を伸ばせば抱え込めるような巨岩が、鬼無子の前に鎮座している。


 鬼無子は半眼に瞳を開き、腰帯に佩いた三尺二寸三分の愛刀崩塵の柄に、花を手折るのが精いっぱいなのではと訝しむ位に細く美しい繊指を添えていた。

 目の前の動かす事も馬鹿馬鹿しく思える巨岩を斬るつもりなのであろう。

 常人が目にすれば一笑に伏すか、呆れたまなざしを向ける所業であるが、これを行うのが鬼無子となるとこれはさしたる難事とはなりえない。

 元より色街の太夫と大差のない細腕でありながら、暴れ狂う猛牛や巨熊をやすやすと片手で縊り殺せる膂力の持ち主である。

 雪輝と同居暮らしを始めてからはその妖気の影響を受けて、鬼無子の体内の妖魔の血も活性化し、さらにその身体能力は日に日に向上している。

 剛力の主を百人力と例える言葉があるが、鬼無子の場合はこれが比喩でも何でもない状態にあると言っても過言ではない。


 純粋な身体能力に加えてほぼ年齢と等しい年数を人外の妖魔や亡者を相手に命と魂のやり取りをした経験から、心と技の方も超の一文字が着く一流の域にある。

 岩の一つ二つ、斬って見せる事など鬼無子にしてみれば豆腐を斬るのとそう大差のない事であったろう。

 鬼無子は血で染めた赤い桜の花びらを幾枚も重ねて形作ったとしか思えない美しい朱唇から、紙縒りの様に細くした息を吐いた。


 撓めた細腕に込めた力と技術の解放を前にしての必要最低限の脱力が、鬼無子の全身の筋肉の瞬発力を最大限に引き出す。

 崩塵の柄に添えられていた鬼無子の繊指が動いた。

 この世ならぬ邪悪な妖魔の因子を孕む細胞と、ひたすらに闘争に明け暮れ続けた一族の歴史が培った戦闘技術が可能とする剣速は、呆気なく音の壁を切り裂いて銀刃は灰色の巨岩へと迸る。

 抜刀から振り抜いた姿勢に移るまでの過程が一切合財省かれた様な、筆舌に尽くしがたい超音速の一振りだ。


 小さく、かっ、という硬質の物体が断たれる音が短く鳴り響き、巨岩のみならず斬撃の延長線上に生えていた欅やブナを、真空の刃が纏めて両断した。

 音の数倍の速さで振るった崩塵の刃応えに小さく満足し、鬼無子は振り抜いた崩塵が大気との摩擦によって加熱し、赤熱しているのを見て、冷却のために数度軽く振るう。

 鬼無子からすれば何という事はない、それこそ手を挙げて挨拶する程度の行為に過ぎないが、それでも纏った鎧兜ごと人体を頭頂から股間まで骨と内臓を纏めて両断する一振りである。

 十分に刀身が冷めた事を確認してから、鬼無子は右手に崩塵を握ったまま左腕を伸ばして、緩やかに自分が斬った箇所の上部分を押し出す。


 擦過音と共に崩塵の斬閃が通り過ぎた後に沿って、岩が鬼無子の指に押し出されてゆく。

 徐々に露わになる巨岩の断面は何千回も何万回も磨き抜かれた鏡の様に研ぎ澄まされ、陽光を反射して眩いまでの無数の煌めきを放っている。

 在る程度押し出してから蓋の様に斬った岩の上部分を片手で持ちあげて、鬼無子はなるべく音を立てずに巨岩の傍らに置いた。

 軽く見積もっても二十貫以上はあるだろうに、鬼無子にとっては鍋のふたを持ち上げるのと大して変わらないようである。

 それからしげしげと残った巨岩の方に視線を巡らせて、ふうむ、となにやら呟きながら寸法を測る様にして観察し続ける。


 なにか家具を作る前の大工染みた鬼無子のふるまいは、実際その後の行為と照らし合わせれば、そう間違いというほどのものではなかった。

 とん、と軽く足元の砂利を蹴って巨岩の断面に飛び乗った鬼無子は、歪な楕円形を描く巨岩の内側に、崩塵の切っ先を突き込んで直径五尺ほどの楕円を刻む。

 対妖魔を想定して鍛え上げられた崩塵の切れ味は、精々包丁くらいしか手にした事のない女性に握らせても、簡単に石灯籠を二つにするほど凄まじいが、そう言った事情を知らぬ者が見たら呆気にとらわれる行いであったろう。

 豆腐か水を斬るように何の抵抗を受けた様子もなく巨岩の内側に楕円を刻み終えた鬼無子は、左腰の鉄鞘に崩塵を納刀しておもむろに五指を揃えた指を巨岩へと突き立てる。

 突き立てた指がぽっきりと音を立てて折れそうなものなのに、鬼無子の指は泥や砂を相手にしているように簡単に巨岩へと突きささる。


「ん!」


 そのまま鬼無子は自分の手を使って巨岩の掘削を始める。

 爪が剥がれ落ち、皮は破けて肉が覗き、骨が折れて痛みに襲われるのが当たり前であるはずなのだが、鬼無子は幼子が夢中で泥遊びでもするように巨岩に穴を掘り続けてゆく。

 腕の一掻きごとに驚くほど大量の砕けた巨岩が外に放り出されて、巨岩の周囲に掘削された石屑が山を築いている。

 そのまま作業を続けて瞬く間に目的に適した深さと広さになるまで指で掘削し続けてから、鬼無子は中腰の姿勢を正して一作業終えた達成感に口元を綻ばせる。


 清廉な人柄と武骨一筋に生きてきた愚直とも言える雰囲気が相まって、鬼無子の浮かべる笑みはそれを向けられた者の胸に、一服の清涼感を与える爽やかな春の風に似たものを持っている。

 後はこれを持って帰るだけだな、と一息吐いた鬼無子は川下の方からこちらへと近づいてくる物体に気付いて、そちらに黒い視線を向けた。

 それは、少々奇妙な光景であった。

 鬼無子が形を整え、内部を掘削した巨岩に匹敵する大きさの岩が、一定の調子でこちらへ向かって近づいてきている。

 たとえば其れが山肌の崩落によるものであったり、鬼無子いる側が坂の下に位置し、岩が転がり落ちてくるというのなら、まだ在りうる光景ではあったろう。


 しかし、鬼無子に向かって迫ってくる岩は速度が一定でまるで変化がなく、また傾斜で言えば鬼無子のいる側の方が上側になる。

 となれば岩が鬼無子のいる側に向かって迫ってくるというのはいささかならず奇妙な事だ。

 鬼無子のいるこの場所が妖魔の住まう魔性の山である事を考えれば、岩それ自体が年月を経て妖魔と化した存在であってもおかしくはない。

 ただ鬼無子に特別警戒しているような様子は見られない。この川辺が雪輝の縄張りの中である事を除いても、肩から随分と力を抜いている。

 それでも殺気の成分をわずかなりとも感じれば、即座に精神と肉体が戦闘体勢を取るのだから、この女武者がその身に宿す業も相当に根深い。


 鬼無子は警戒態勢を取る代わりに若干視線を彷徨わせて、所在なさげにしはじめる。

 その理由はすぐさま知れた。近づいてくる岩を仔細に観察すれば、岩が地面から浮きあがっており、岩と地面との間に白銀の毛皮に包まれた狼の四本の肢とその後ろでぷらりぷらりと揺れる尻尾が覗いている。

 更にはやや下がった位置に艶やかな黒髪を長く伸ばし、見事なまでの大輪の花を咲かせるだろう美貌の片鱗を覗かせる少女が一緒であった。

 数千とも数万とも言われる膨大な数の妖魔と、山の民と呼ばれる多種多様な特殊な技術を持つ民族が住まう妖哭山といえども、白銀の色彩に飾られた狼と、その狼に寄り添う人間の童女の組み合わせはたったひとつしかない。


 鬼無子の同居相手にして、心中では家族として慈しんでいるひなと雪輝である。

 はにかんでいる様にも困っているようにも見える複雑な表情を浮かべていた鬼無子だが、とりあえず巨岩から降り立ち、こちらに向かってくる雪輝とひなを迎える事にした。

 鬼無子に気付いたひなが手を振るのに、鬼無子もまた手を振って応える。

 やがて鬼無子のすぐ目の前まで来た雪輝は、自分の傍らに運んできた岩を置いた。

 置かれた岩を観察すればそこにいくつかの穴が並んでいる事に気付くだろう。雪輝が牙を立てて持ち上げて、ここまで運んできたのである。


 鬼無子も異常な腕力の主であったが、川下で見つけてきた百貫(約三百七十五キログラム)以上はあるだろう岩を、口に咥えて運んできた雪輝もおよそ尋常な生物とは言えない。

 よっこらせ、といささか爺むさい言葉一つを漏らして、雪輝は鬼無子の顔を真っすぐに見つめてくる。

 声質が二十代前後の青年である事を考えれば、いささか声の印象とは釣り合わない台詞であったが、この狼は時折ひどく年寄りめいたことをする癖があった。


「愉快な事でもあったかね」


「いいえ。せっかく持ってきていただいた岩ですが、丁度いましがたそれがしの方で良い具合のを作り終えたものでございますから、少々申し訳なく」


「ああ、そうだったのか。なになに、気にする必要などなかろうよ。ならばせめてそちらの岩を持って帰ることくらいは私がしよう」


「かたじけない。よろしくお願いいたします」


 鬼無子の背後の巨岩に歩み寄った雪輝は、ここまで岩を運んで来た時と同じ要領でその大きな口を開き、噛み易い位置を探してからぐっと噛みつく。

 崩塵がいとも容易く斬ったように雪輝の牙もまた、何の抵抗を受けた様子もなく巨岩を貫き、心持ち下げられていた雪輝の首が持ち上がるのに合わせて巨岩も浮き上がる。

 鬼無子とひなを振り返ろうとし、そうしたら二人に持ち上げた巨岩がぶつかりかねないと途中で気づいた雪輝の首が止まる。


 中途半端な姿勢のままで雪輝が何か言おうとしている気配に気づいたひなが、鬼無子の左手の袖を掴みながら代弁する。

 ひなは視線を交わして会話するのみならず、雰囲気や仕草で雪輝の言いたい事や意図する所を正確に把握できるようになっていたようだ。


「今日はもう戻りましょう。お魚もたくさん採れたんですよ、ほら」


 そう言ってひなは魚籠を握っていた左手を持ちあげて見せる。中に活の良い魚が居る証拠に、時折魚籠が内側から揺らされている。

 そのまま抱きしめて撫で回したくなる、庇護欲を大いに刺激する笑みを浮かべてこちらに向けるひなに、鬼無子は満面の笑みを送り返して、自分の着物の左袖を握るひなの小さな手を改めて握り直す。

 飢餓に見舞われていた頃とはまるで別人の柔らかで暖かな肉を纏ったひなの手を、剣士ではなく琴の弦を爪弾くために生まれてきた様な鬼無子の染みも傷も一つとしてない手が包み込む。

 掌中に飛び込んできた羽の傷ついた小鳥を抱く様に優しく暖かく。それはどこまでも慈愛に満ちた挙措であった。

 無償の親愛を自分に注いでくれる鬼無子の事を、ひなは姉の様に母の様にも慕っていた。

 どこまでも優しい鬼無子の手をきゅっと握り返して、ひなははにかんだ笑みを浮かべる。


「鬼無子さんの手はとっても暖かくて優しくって、お母さんみたいで、私、大好きです」


「はは、嬉しい事を言ってくれるな。ひなの御母堂に似ているというのは、これ以上ない褒め言葉だよ。ひなの手も小さくて愛らしくて、それがしは大好きだよ」


「まあ、ありがとうございます」


「わふぁひも、ふひゃりがらいふひだよ」


 と、仲の良い姉妹然とした雰囲気の二人を見守っていた雪輝が、なにやらあやふやな発音で何事かを口にする。

 ひなには一歩譲るものの雪輝の言動に対する理解を深めている鬼無子にも、これは何と言っているか分かった。

 雪輝は鬼無子とひなに対して


「私も、二人が大好きだよ」


 と口にしたのである。

 雪輝の言っている事が分かったひなも、鬼無子同様に頬を赤らめて喜びと幸せという言葉の似合う笑みを浮かべた。


「雪輝様、私も雪輝様の事が大好きでございますよ。鬼無子さんも、ね?」


「んん、そうだな。雪輝殿のご気性はそれがしにとって……うん、非常に好もしいし、もふの極みと言って良い毛皮の感触も、大変素晴らしいからね。うん、まあ、うん」


「鬼無子さん?」


 表面上はいつもと変わらぬ落ち着きはらった微笑を浮かべている鬼無子であったが、心の整理が着いていないようで、艶やかな朱色の唇から出てくるのは支離滅裂な言葉の連続であった。

 はっきりと言う事がよほど躊躇われる様子で、口籠り続ける鬼無子ではあったが、いつまでもこうして誤魔化し続けても埒が明かないと悟ったか、自棄になってしまったのか、鬼無子ははっきりと雪輝の瞳を見つめて、声を大にして宣言した。

 ええい、と吐き捨ててから


「ああ、そうだとも。ひな、それがしは雪輝殿の事が大好きだ!」


 大好きだ、の『だ』の残響が辺りの木々に広がる中、言い放ってから鬼無子は盛大な羞恥の念とやってしまったという思いに心臓を握り潰されて、頭を内側から爆ぜられるかのような気持ちに陥った。

 宣言するまでの流れを考えれば鬼無子が雪輝に対して恋慕の情という意味で、大好きだと言ったわけではないと受け取れるが、そこまで考える余裕がようやく恋心を自覚したばかりの鬼無子に在る筈もなく。


(い、言って……しまった。ふ、不覚。穴があった入りたい気分だ……。狼の妖魔が相手とはいえ、殿方を相手にふしだらではなかっただろうか? ううむ)


 前職にあった時に死闘で精魂尽き果てて瀕死の体に陥った時に勝るとも劣らぬ勢いで精神を追いこまれて、鬼無子はがっくりと項垂れていた。


「でふぁゆおう」


 では行こう、と言ったのだがいささか締まらない。とはいえそれも雪輝らしいといえば雪輝らしい。どこか間の抜けているのがこの狼の持ち味と言えば持ち味なのだから。


「鬼無子さん、行きましょう」


 雪輝が巨岩を咥えたままいそいそと歩き出すのにつれて、ひなも愕然としている鬼無子の手をひっぱり声を掛ける。

 鬼無子はうん、と迷子になった所を保護された小さな子供の様に頷き返して、ひなに引っ張られるがままについていった。



 わざわざ巨岩を斬り裂き指で掘削して形を整えて樵小屋に運び込んだわけは、夕闇が訪れてから知れた。

 普段であれば竈の並ぶ土間の一角に盥が置かれる所にでんと巨岩が置かれて、抉られた内部には白い湯気をもうもうと噴き上げる大量のお湯が波々と満たされている。

 いままでは大きめの盥を二つ並べて鬼無子とひながそれぞれ湯を張った盥に身を沈める形で湯浴をしていたのだが、どうせ湯浴をするのならもっと広々とした浴槽を用意しよう、と鬼無子が数日前に発案したのが事の発端である。


 例によって雪輝が樵小屋の外でひなと鬼無子の風呂が済むのを待っている間、ひなと鬼無子は生まれたままの姿となって岩風呂の中にいた。

 雪輝の加熱能力を応用して一切薪を使わず、瞬時に水をお湯へと沸かす事が出来るようになったのは、思った以上に便利だった。

 料理にしろお湯を沸かすにしろ部屋を暖めるにしろ雪輝の異能は日常のあらゆる場面に置いて、非常に役立っている。


 樵小屋の一同の大黒柱であると同時に、愛玩動物めいた位置に落ち着いていた雪輝であるが、ここ最近では湯沸かし器のような役割も追加されていた。

 相当の分量の水が必要になるのだが、これには雪輝が水を凍らせて持ち込み、それを岩風呂の中に淹れてから溶かせば、あっという間に必要量のお湯が確保できるわけだ。

 鬼無子好みの熱い位のお湯の温度は、陽に焼けたひなと真白い鬼無子の裸身をうっすらと桜色に染め上げている。

 お互いに足を延ばして向かい合うように岩風呂の中に腰かけて、ひなと鬼無子は冷えていた体を温める湯の心地よさに、気の抜けた様子で頬を緩めている。


「盥も悪くなかったが、やはり足が伸ばせると随分と楽になるな」


 風呂好きなこともあって嬉しそうに呟く鬼無子に、ひなが同意した。


「はい。お湯も雪輝様のお陰ですぐに用意できますし、これからの季節には重宝しますね」


 手拭いで耳の裏や頬を拭いながら、ひなは健康的な桜色に染めあがった顔で言う。


「雪輝様は暑さや寒さを感じないそうですが、こんなに気持ち良いのだから、一緒に入ってくださるようにお願いしようかな?」


 雪輝がこの場にいない事が心底残念な様子でひなの呟いた言葉に、鬼無子は思わず噴き出しそうになるのを堪えなければならなかった。

 以前、凛も一緒に川で水浴びをした際に裸身を晒した時に、大中小と評価されて以来、鬼無子にとって雪輝の視線は、心の奥底の方に埋もれかけていた女を意識させられるものになっている。


「雪輝様のお背中を流してあげたら喜んでくださいますでしょうか?」


 ひなにとっては父親の背中を流すのと恋い焦がれる相手の背中を流すのを合わせたような感覚なのだろう。

 恋愛としての意味合いでの愛情を雪輝に向けているのも確かだが、同時に父親や年の離れた兄に向ける家族愛も、雪輝に向けているのは確かだ。


「え、ああ、うむ。雪輝殿ならなんにつけひなに何かしてもらえれば喜ぶだろう。心底ひなの事を大切にしていらっしゃる方だし、構ってもらいたくて仕方のない甘えたがりの所もある様に見受けられるしね」


 雪輝ならひなの誘いにホイホイと応じて、にこにこと笑みを浮かべながら岩風呂の中に入るなり背中を流してもらうなりするのは明白である。

 なにしろ自分の存在理由がひなの幸せを守るためにある、と心底考えるようになっている位だ。


「雪輝殿と一緒に入るのならその時はそれがしは席を外しておく事としよう」


「鬼無子さんは一緒にお入りにならないのですか?」


 寂しそうに言うひなの声と顔に鬼無子は罪悪感を大きく揺さぶられたが、意見を曲げる事はしなかった。

 怪我の治療の時などはともかくとして、いかんせん私生活で殿方に裸身を晒した経験は鬼無子には無い。

 湯船の中に長々とたゆたう栗色の髪に湯の滴を纏わせて、鬼無子は穏やかな笑みを浮かべたまま細首を横に振るう。


「二人の邪魔をしては悪いからね。それに、正直に言うと雪輝殿に裸を見せるのはそれがしにはちと恥ずかしく思えるのだよ。だから雪輝殿と風呂に入ると言うのなら、ひなだけでお入り」


「鬼無子さんも一緒が良かったのですけれど」


「はは、まあ、流石にそれがしとひなと雪輝殿が一緒に入るのはちょっと無理があるだろうから、そのうちに、ね」


「残念ですけれど鬼無子様がそう仰るのなら、仕方ないですね」


 残念そうに笑うひなをそっと抱き寄せて、鬼無子は悲しむ幼子を慰める母の顔をする。

 まだ子を産んだ事もなければ男性と契った事もない鬼無子であったが、ひなという小さな少女は、鬼無子の中の眠れる母性を大いにくすぐる存在であった。

 湯面にぷかりと浮かび上がっている円やかな曲線を描く鬼無子の乳房に、ひなは抱き寄せられるがままに顔を埋めた。

 ようやく膨らみ始める前兆

を見せているひなのまだまだ未成熟な蕾の身体と違い、鬼無子の身体はまだ二十歳を迎える前にして、成熟の極みに達したように豊かに実りを迎えている。

 片手では持ち切れないほど大きく張っている大きさの乳房、まるで絹の様な滑らかな肌触り、安堵を誘う人肌のぬくもり、そしてどこか乳のように甘い香りが白い乳肉からほのかに昇り立ち、その頂点に色づく淡い朱鷺色の乳首もひなには美しく見え、鬼無子の乳房はただそれだけでも一個の芸術品の様であった。

 未成熟な少女の青さと成熟した女の妖しさとが混同した鬼無子の身体は、見た目の美しさと実際に触れた時の素晴らしい感触だけでなく、ただ触れているだけでもうっとりとした心地になるほどの快楽を誘う妖しさがあった。


 もとよりこれ以上ないほどに完成された美躯の持ち主である鬼無子だが、雪輝の傍らにいる事で妖気を受けて、体内に流れる数多の妖魔の血の中の一つ出る淫魔の血が活性化している。

 その影響を受けて鬼無子の身体はより妖しい美しさを増し、男のみならず同性であろうとも関係なく色香の煙に巻いて褥の中に誘い込み、淫らな性の快楽に狂わせるものへと成長し続け、淫らな魔と称される妖魔に相応しいものに変貌しつつある。

 さながら抗いがたい芳香を放って虫を誘いこむ食中花にも似て、いまの鬼無子は本人の意識していない所で、人間を誘いこまれれば二度と抜け出す事の出来ない淫楽地獄に落とし込む人型をした魔性の花にも等しい。

 普段は鬼無子の理性と精神力に加えて崩塵の霊力によって抑え込まれてはいるものの、いまの様に湯船に身を浸して心身ともに緊張の糸を緩めていると、体の中の妖魔の特性が漏れ出してしまうのだろう。


 幸いにしてひなは常に雪輝の傍らに居続けた影響もあって在る程度妖気への耐性を有していたから、鬼無子の身体から溢れる淫魔の気配を間近で浴びても、すこし頭がぼうっとして体の奥底がぽかぽかとしてきて、肉付きの薄い太ももを擦り合わせてもじもじとしてまうくらいである。

 まだまだ幼いひなの身体に性的な快楽を与えてしまうのだから、鬼無子の身体の中に流れる淫魔の力が、相当に強いものとなっている証拠だろう。


 鬼無子にそのような意図がなくともこれだけの影響力があるのだから、淫魔の力を意識して行使すれば、見つめられただけで男はたちまちのうちに股ぐらをいきり立たせて息を荒げ、女は小水を漏らしたように股間を熱く濡らして悶えるに違いない。

 いずれは視線ひとつ、指先ひとつで男も女も老いも若いも問わずによがり狂わせて、性の快楽のことしか考えられない肉人形に変えられるようになるだろう。

 だがそれは、同時に鬼無子が人間でなくなっていく事の証明でもある。


 鬼無子にとっては自分の身体がより豊かに淫らに、そして美しく変わっている事実は、喜びの念をわずかも喚起させない忌まわしい現実に過ぎない。

 自分がただ触れているだけでひなにまだ知るには早すぎる性の快楽を与えているとは知らず、鬼無子は溺愛する妹を抱きしめている微笑ましい気分であった。

 一方で未知の感覚に溺れそうになっていたひなは本能的な危機感に突き動かされ、朦朧としていた意識のままに、そっと鬼無子の身体から離れる。

 おや、と鬼無子は名残惜しげに自分から離れるひなに視線を送ったが、ひなは二、三度首を横に振るって、朦朧としていた意識をはっきりとさせる。


「ごめんなさい、湯あたりしたのか、少しぼうっとしてしまいました」


「そうか、少し湯が熱かったのかもしれないな。そろそろ上がろうか」


 そう言うや鬼無子はざばりと音を立てて立ち上がる。

 透明な湯の衣を纏った淫らな体は、姦淫の罪に溺れて地上に落とされた天女のごとく妖艶で、まだわずかに鬼無子の放つ淫気の影響が残っていたひなは思わず頬を林檎色に染めて、喉を鳴らして生唾を飲み込んだほどだった。

 鬼無子を見つめるひなの股ぐらが、湯以外の何かで濡れていたかどうかは、ひな自身にも分からぬ事であった。



 風呂を出て身体に纏う湯の名残を拭き取ってから二人揃って寝間着に着換えてから、外で待っている雪輝を中に呼び込む。

 いつもまだかな、と二人が湯浴を終えるを待っている雪輝は、お呼びの声がかかるとすぐに小屋の中へと入ってくる。


 火照った体が冷える前に囲炉裏で燃えている火に当たり、雪輝のふっくらとした毛皮に包まれて、もふりもふりとその感触とぬくもりを楽しめば、秋の冷風はまるで気にならない。

 とはいえ食事を済ませ、就寝前の勉学を終えた後にいつもお風呂に入っているから、お風呂から出れば後はもう明日に備えて眠るだけである。

 雪輝の身体の感触を楽しみ、雪輝が暖房代わりになって樵小屋の中の気温に干渉して加熱させ、ほどよい温度まで温めるのを待ってから布団を敷く。


 以前に雪輝の毛皮を斬りとって造った布団は一式分だ。二人分を用意するにはいささか雪輝の体毛が足りなかったのである。

 もう一度雪輝の毛皮を斬れば二人分を用意するのは簡単な事であったが、二人と一頭はあえてそれをしなかった。

 というのも


「んん、今日も暖かいです」


 にこやかに告げるひなは布団の中にすでに潜り込んで横になった姿勢だ。そしてその右側に雪輝が横たわり、反対側にはひなと密着する形で鬼無子が布団の中に入っている。

 一つの布団をひなと鬼無子が、体温を分け与える様にして抱きしめあったままの体勢で使っているのだ。

 雪輝と鬼無子に挟まれた川の字で眠るのが、ひなは大のお気に入りだった。右手側には大好きな雪輝がすぐ傍にいて、反対側ではやはり大好きな鬼無子と体を寄せ合ってぬくもりを共有して眠る事が出来る。

 枕元の近くに置いた蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がるひなの笑みを浮かべた横顔に、鬼無子は同じように笑みを浮かべる。

 こうして一緒の布団で眠った記憶は、鬼無子の過去の中には本当に幼い時に父母と一緒に寝た時や、自分を姉と慕っていた従妹が我儘を言って布団に忍んで来た時くらいのもので、そのどちらとも優しい記憶だった。

 そしてひなを抱きしめて眠る今も。組んだ前肢の上に顎を乗せた雪輝が何気なしに口を開いた。


「そろそろ冬の備えを本格的にしないとならんだろう。なにか足りていないものはないのか?」


 生まれつき周囲の気温を適温に保つ事を無意識に行っていた雪輝にとっては、夏の灼熱も冬の氷雪もさして変わらぬもので、たいして苦労した覚えはないのだが、これがひなや鬼無子であったらそうもいかないことくらいは理解している。


「そうですねえ、そろそろ穀物にお塩とかが心許無いです。凛さんのご厚意で色々と融通していただいていますけれど、私達の方でも服や食べ物を別に用意した方がいいと思います。

 お肉やお魚にお野菜を干したり、燻製にしたり、塩漬けにして長く保存できるようにはしていますけれど、初めての冬だから備えをして損と言う事はないでしょうから」


 首まで持ち上げた布団にくるまり、中では右を向いた鬼無子に抱きしめられたまま、ひなが言う。

 ひなが雪輝の方を向き、その後ろから鬼無子が抱きすくめる様な体勢である。

 鬼無子の右腕を枕代わりにし、鬼無子の瑞々しい肌の太ももがひなの足と絡み合い、鬼無子の股間をひなの小振りなお尻に後ろから押しつけて、鬼無子の左手がひなの腰にまわされている。

 横向きになって強調するかのように突き出される鬼無子のそれはそれは大きな乳房が、丁度ひなの背中に当たって、心地よい弾力と質感がひなの背中に伝わっている。


 鬼無子の身体から薫るかすかに甘い香りは、ひなの心を穏やかなものにする。

 入浴している時と違って、すぐ傍に雪輝が居る影響でわずかに緊張しているために、鬼無子の身体から淫気が発せられておらず、ただただひなは大好きな人たちとの触れ合いに喜んでいた。

 ひなの背中に乳房を、尻には腰を押し付けて抱きすくめる体勢になっている鬼無子が、ひなの頭越しに自分の意見を口にする。


「それなら一度山を下りて近場の町にでも買い物に出かけるのはいかが? 近場とはいえ旱魃の影響がありますから物価が高騰していますし、いくらか距離を置かねば満足にものも置いていないのが難でありますね」


 鬼無子が口を開く度にかすかに零れた吐息が耳の裏にかかるので、ひなはくすぐったいのを堪えなければならなかった。


「私には山の外の事はまるきり分からぬから、鬼無子だけが頼りだな。しかし金銭は大丈夫なのかね」


「そうですな。旱魃の影響があっても十分に物品が流通する地形で、なおかつ金子を用意できそうな町が、ここから北西にざっと二十里(約八十キロメートル)ばかりいった所にございます」


「二十里か。私の肢なら往復してもそう時はかからぬな」


 雪輝が妖気の制御に長けている事でひな達が受けられる恩恵は、冷却と加熱の異能ばかりではない。

 雪輝が自身の妖気を制御することで背中に跨った人間を保護する不可視の膜を構築し、雪輝がどれだけ早く駆けまわり、出鱈目な三次元てきな動きを行っても、ほとんど負荷のかからない様にする事が出来る。

 武人として人間の限界を忘れ去るほど鍛え上げた鬼無子はともかく、そうでもなければひななど雪輝がほんの少し本気を出しただけで、簡単に雪輝の背から放り出されてしまう。


「その町の近くに森がございますから、そこで雪輝殿にお待ちいただいて、それがしとひなとで買い物を済ませるのがよろしいかと」


「私、苗場村以外の所に出かけるのってほとんど初めてです。どんな所なんですか?」


 鬼無子の後ろから抱き締められた姿勢のまま、ひながかすかに後ろを振り向いて、わくわくとした顔で聞いた。

 これはしばらく質問攻めになるかな、と思いながら鬼無子はひなが満足するまで丁寧に答えてあげた。


<続>

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ