その五 虚失
その五 虚失
――『雪輝様の子供が欲しい』
血の繋がった実の妹同然に慈しむ少女の真摯な思いの込められたこの言葉に、四方木鬼無子は、当代随一の人物画の巨匠でもなければ紙上に再現出来得ない美貌に、うっすらと懊悩の化粧を刷いていた。
柔らかく優しく抱きしめたひなの衝撃的な発言を耳にしてから、先に戻ってもらった雪輝と合流し、鬼無子自ら仕留めた大猪と山鳥の解体を終えて一息を吐いた後である。
鬼無子は囲炉裏の前に正座の姿勢で座り込み、左肩に三尺二寸三分の愛刀崩塵を持たせかけながら、腕を組んで既に四半刻(約三十分)ばかりうんうんと唸っていた。
一月にも満たない短い月日ながら、すでに鬼無子は共に暮らしているひなの事を家族として想い、慈しみ、愛している。
そしてまた、ひながあの心優しいがどこかすっとぼけた所のある白銀の狼を、心から慕っている事も理解している。
だからひなが雪輝の事が大好き、と言った時には別段動じることもなく、ひなが正直に自身の想いを口にした事とその内容を受けれいる事も出来た。
鬼無子自身、この国で至尊の存在たる帝のおわす都の霊的守護を担っていた頃には、ごく稀にだが妖魔と人間とが恋仲に陥った事例を、同僚や先達たちから聞かされた事があったし、直にこの目で目撃した事もある。
また鬼無子の所属していた神夜南方を支配する朝廷は、妖魔に対しても比較的歩み寄りを見せる風潮があり、妖魔と人間が一緒に暮らしている村落なども数えるほどではあるが存在している。
人外の存在である妖魔と人間との婚姻は、根本的に人倫にもとる話と言えば話なのだが、現在神夜国を三分している国々の中で最も歴史の古い南方の朝廷では、神代の時代にまで遡れば鳥獣や魚貝の神々が人間に化けて、美しい人間の男女と契りを結ぶ話も多々存在しており、幼少の頃からその様な話を子供の寝物語にされている。
加えて退魔省の中には四方木の一族以外にも妖魔の血を引く者がおり、純粋な人間である他の同僚達と変わらぬ待遇を受けていて、別段冷遇されるような事もなかった。
その様な環境にあった鬼無子は妖魔と人間の婚姻――いわゆる妖婚に対しては両者の間に確かな愛情があるのなら別に結ばれても良いのではないか、とさほど抵抗と禁忌の念を抱いていない。
なのでひなが雪輝を慕う気持ちを口にする事自体は、鬼無子にとって別段問題ではなかったのである。
実際には鬼無子以外の人間が耳にしたら、ひなに翻意するよう説得するような話であるのも事実だが、常人とは違う感性で生きている鬼無子なのでこれは仕方がない。
簡潔にいえば、鬼無子はひなと雪輝が恋仲になる事自体は全く問題がない、むしろ歓迎する気持ちでさえある。まあ、今の関係とそう大差がない様に感じている所為もあるだろう。
しかし
(子供か。子供は……うぅむ)
田舎で暮らしていれば犬猫や牛馬の交尾くらいは目にした事はあるだろうし、農作業の手を休めた男女が人目を忍んでそこらの草むらや山中で睦言を交わしている場面に、不意に遭遇する事があってもおかしくはない。
後者はともかくひなも前者の場面くらいは知っている、と鬼無子は仮定してひなが子作りに必要な行為を漠然と理解しているものと考える。
(とりあえずひなにはまだ体が小さいからもう少し待つように、というべきか。そういえばひなは初潮を迎えていたであろうか? いや、たとえひなが大人になっていようといまいと、そもそも雪輝殿の身体が大きすぎる)
閉じていた瞼を開き、鬼無子は星々を全て取り払った夜空の色をした瞳で、ひなと戯れている雪輝を見た。
鬼無子がこれまで目撃して来た狼や犬、狐に狸と言った獣の妖魔達の中には雪輝どころか小山のごとき巨躯や千の軍勢を容易く屠る力を誇る大妖魔もいたが、外見の美しさで言えば雪輝に及ぶものはただの一体も居なかった。
だがこの場合で問題なのは外見上の美しさや妖力の多寡ではなく、その身体の大きさである。雪輝の体躯は四本肢を地に着いた姿勢でさえ、六尺(約百八十センチ)にも達するものだ。
それが巨体ゆえの歪さなど欠片もなく、一つ一つの部位が狼として理想的な合理性と美しさを兼ね備えた形状をし、それらすべてが見事な調和で持って構成されているのだが、やはりどれもが大きい。
目も口も牙も耳も尻尾も、前肢も後肢もそして……
(うん、ま、まあ、その…………男…………根…………も、おおお、大きくていいい、いらっしゃる。あううう)
ちら、と視界の端に映った雪輝の股間部から慌てて目を逸らし、鬼無子はなんとはしたない事を考えているのか、とあまりに情けないやら恥ずかしいやらで頬に血が昇るのを感じた。ここ最近羞恥の念にごく短い期間で襲われてばかりいる。
(た、た、たとえ雪輝殿と、こ、こ、こ、事をいいいい致すのがそれがしであっても、あれ、あれ、あれは無理、無理だ。ただでさえ小柄なひなでは言うまでもないというか考えるまでもないというかそもそも挿入らないというか裂けてしまうというか……。ああもう! なんでそれがしはこんな事を考えているのだ!?)
鬼無子が男性経験のない清らかな乙女であることや自慰経験もほとんどない事は前述したが、対淫魔対策として艶事や閨房術に関する知識と実践方法は叩き込まれているのである。
いわば実戦経験は欠片ほども持っていないが、知識ばかりは蓄えに蓄えてしまった素人なのだ。
人に害なす妖魔や悪人が相手であれば、艶事を前にしても鬼無子がここまで動揺することはなく、鉄壁の精神を維持できただろうが、この場合は身内同然に大切にしている少女と狼の話である。
鬼無子にしてみれば可愛がっている愛妹が子供を産みたいと言い出したようなもので、増してや相手がその人格に対しては、鬼無子自身も全幅の信頼を置くとはいえ狼の妖魔と来たものだ。
自分の人生でこんな事が起こるとは夢にも思っていなかった鬼無子には、動揺するなという方が無理があるだろう。
鬼無子はうんうんという唸り声から、どれだけ知恵を振り絞ってもまるで答えの浮かばぬ途方もない難題を前にして、今度はぬおおおという地獄の底から吹いてくる亡者の怨嗟を思わせる唸り声へと変える。
雪輝にとってもひなにとっても良い結末を迎える事の出来る答えを知っている者が目の前に現れたら、鬼無子は恥も外聞も捨てて地面に額をめり込ませるほど土下座して、答えを乞うただろう。
鬼無子のそれはそれは深くて浅い苦悩を知らず、鬼無子に雪輝への慕情を吐露した事で改めて自分の気持ちを自覚したのか、ひなは樵小屋に戻ってから頻繁に雪輝にくっついてまわり、その毛並みに顔を埋めたりしきりに雪輝の身体を撫でまわし抱きつくのを繰り返している。
雪輝はひながやけに自分に触れてくる事を不思議そうにしてはいたが、雪輝からすれば諸手を挙げて大歓迎する事であったから、ひなの好きなようにさせているし、また自分の方からひなの頬や首筋を舐めたり、しきりにひなの身体の匂いを嗅いでいる。
ひなが終始満面の笑みを浮かべ、雪輝も嬉しげな表情と雰囲気を隠さずに浮かべているから、鬼無子は何も口にする事はなかった。
普段ならば一人と一頭の戯れる姿に、鬼無子はただただ仲睦まじさに微笑を浮かべるだけなのだが、ひなが真剣に雪輝の子供を宿す事を願っていると知ってしまった以上は、素直にその戯れる姿を微笑ましく見る事が出来なくなっていた。
鬼無子がうんうん唸って思い悩んでいるのにも気づかぬ位に、触れ合うのを楽しみ夢中になっている様子の一人と一頭を見ながら、鬼無子は脳裏に過去知り得た妖婚関連の知識を陳列する。
多少の美談こそあれ妖魔と人間との婚姻というものは悲哀の泥濘に塗れた話がほとんどで、かつて見聞きしたそれらの話を思い起こす度に鬼無子の顔は暗いものに変わる。
酷いものになれば愛情を交わすどころ人間の女を浚って凌辱の限りを尽くし、我が子を孕ませることを習性としている妖魔も存在し、あるいは一時の快楽の為だけに男女を問わず心と体を汚し尽くし、飽きればそのまま食い殺すものもいる。
雪輝に限ればその様な事には絶対にあり得ないと断言できるが、気懸かりなのは仮にだが雪輝の精をひなが受けた時どうなるのか、という事であった。
妖魔の精というものは、血液と同様にそれだけでも人間の身体が精神に強い影響を与える場合が多い。
子供だけが親である妖魔の影響を受けて半妖にこそなれ、母胎となった女性や交わった男にはなんら変化が起きない場合。
妖魔と交わる事で人間の方にも心身に変化が生じ、徐々に妖魔へと変わる場合。あるいは外見上には変わりがないものの、身体能力の増幅や長寿化などの影響が見られる事もある。
雪輝の場合、そもそもが善性を帯びて発生した妖魔である事と肉体が天地万物の気で構成されているために、その妖気を何の耐性も持っていない人間が浴びても、身体的精神的障害を発症することはなく、人間に対してまったく害とはならない。
鬼無子の場合は代々宿している妖魔の血が強力な雪輝の妖気に反応してしまい、発熱や微痛を伴う妖魔化を促しているが、これは極めて異例であるから例外と言える。
雪輝はどうも精神状態と感情に妖気が呼応して性質を変える様であるから、もしひなに精を与える様な事になったら、それはもう溺れるほどの愛情を込めるであろう事は想像に難くない。
ひなに対して雪輝の精は毒薬どころか、どんな怪我も万病も癒す百薬に勝る霊薬になってもおかしくはない。
こればっかりは実践してみない事には分からないものだが、鬼無子の歴戦の退魔士としての勘は、ひなにとっては好ましい影響を及ぼすと囁いている。
結局、ひなに何をどう言えばよいやら、分かるわけもなくて鬼無子は深々と溜息を吐いた。
艶やかに咲き誇る大輪の椿を思わせる鬼無子の朱唇から零れた溜息は、そのまま鉛の塊となってごろりと音を立てて落ちそうなどほどに重々しい。
「鬼無子、どうしたのだね。なにか悩みごとがあれば相談に乗ろう。私でもなにか力になれるかもしれぬ」
小さなひなに大樹の幹に等しい太い首回りを抱きしめられて、そのぬくもりを満喫しながらの雪輝であった。
鬼無子の心を慮っての善意から発せられた言葉である事は確かであったが、ひなのぬくもりと香りに包まれて至福としか例え様のない表情を浮かべているのを見ると、流石に鬼無子の心にも苛立ちのさざ波が起きる。
こちらの悩みも知らず、この御方は何を幸せそうに少女に抱きつかれて喜んでいるのか、とこの時鬼無子は、初めて白銀の狼を小憎らしいとさえ思った。
だから少しばかりこの狼を落ち込ませてやろうか、と思ったのも無理のないことだったろう。
鬼無子はこちらを見つめる雪輝を見つめ返してから、やれやれと言わんばかりに大仰に首を横に振りこう言った。
「雪輝殿、せめて三回り、いえ二回り小さく産まれては来れなかったのですか」
はあ、と止めに盛大な溜息を一つ追加する。言うまでもないが効果は劇的であった。
「!?」
雪輝自身気にしている体の大きさを信頼する鬼無子にああも露骨に指摘され、なおかつ残念がられている口ぶりと来たものだから、満身で感じているひなのぬくもりを押しのけて、驚愕の表情を雪輝は浮かべる。
その反応に、鬼無子の心はしてやったりという達成感と予想以上の雪輝の驚愕に、少々やり過ぎてしまったか、という後悔の二つを抱いていた。純真な雪輝の傷つきやすさというものをいささか見誤っていたようだった。
<続>