表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/52

その四 この子何処の子誰の子うちの子

その四 この子何処の子誰の子うちの子


 白銀の狼の足元でちょこちょこと跳ねまわる小さな毛玉の塊と見える生き物の動向に、七尺近い大猪を肩に担いだままの鬼無子とひなの視線は嫌が応にも集中している。

 無理もあるまい。

二人のどちらにとっても命の恩人であり、生活を共にしている大切な家族も同然の存在である雪輝と、目の前の小さな小動物とがはたしてどんな関係があるのかと、疑問を抱かずにはいられないのだ。

 怨霊との戦いに前後して、雪輝の言動を大らかに受け止める事が出来るようになってきたひなにしても、流石に目の前のこればかりは鷹揚に受け止めるのが難しい様で、狼狽の二文字が心を支配しているのが容易に見て取れる。

 流石に締まらないと思ったのか、担いでいた大猪と山鳥を地面に下ろした鬼無子が、衝撃的事実を前にして動けずにいるひなの肩に、年長者の余裕で持ってとても優しい所作で手を置く。

 大輪の椿の花を思わせる艶やかさと、月光に濡れる白百合の清楚な美しさを併せ持った類稀なる鬼無子の美貌には、驚きに襲われているひなの心を気遣う優しさに満ちた笑みと、根拠の伺えない余裕が浮かんでいる。


「ひな、まずは落ち着くのだ。ほら、深呼吸深呼吸」


 見本を見せるようにして、鬼無子が心地よい森林の空気を深く吸っては、ゆっくりと吐いて見せる。


「で、でも鬼無子さん。ゆ、雪輝様、雪輝様が」


 しかしあまり効果はなかったようで、鬼無子を振り返るひなの瞳は困惑と動揺の荒波に乱れ、雪輝の身体の匂いを嗅いだり、逆に体をこすりつけている仔獣を指さす人差し指も大いに震えている。

 別にひなの心配を誘う様な怪我を雪輝が負ったわけではないのだが、その様な危機的事態に匹敵する動揺を、ひなに抱かせるに値する状況であるのは間違いない。

 それは鬼無子にも十分に理解できた。

 雪輝は鬼無子にとってもひな同様に命の恩人である上に、その性格や在り方には好意的な感情を抱いている相手だし、つい数刻前などは鬼無子にとって初めての接吻まで奪われている。

 ひなほどではないにせよ、鬼無子にしてみても雪輝が非常に気を掛ける相手であるのは確かなのだ。


「ふふ、流石に雪輝殿の事ではひなが落ち着いてはいられないのも無理はないか。しかしそれは落ち込み損の慌て損というものだぞ、ひな」


「え?」


 あまりに自信満々に告げる鬼無子に、この女剣士に対する信頼の厚さから、ひなは鬼無子の言葉の続きをじっと待った。

 ふふん、とこの謙虚な所のある女性にしては珍しく、自慢げに小玉の西瓜を思わせる大きさの胸乳むなぢを揺らして、艶やかな赤い唇を開いてこう告げる。


「あの可愛らしい毛玉の生き物は狼ではない。まだ小さいから判り辛いかもしれぬが、落ち着いて見れば判る。あれは…………」


 これまた珍しい事に、真正直と素直の両親から産まれたような性格の鬼無子が言葉の続きを勿体ぶり、ひなはごく、と生唾を呑む音と共に一瞬が千の秋にも感じられる思いで待つ。

 そして、神の啓示を受けた預言者の様に威風堂々と鬼無子は言う。


「あれは、狐だ!!」


 くわっと眼を見開いてこれ以上ないほど力強く告げる鬼無子の言葉に、はっとひなは改めて雪輝にまとわりついている、何とも可愛らしい小さな生き物を仔細に観察する。

 犬ならば何度か見た事はあるが、狼は雪輝以外に見た事のないひなには、あまり自信が持てなかったが、鬼無子への信頼という色眼鏡もあって、仔獣が狼の子供ではない別の生き物に見えてくる。

 あの子は狼の子供なのかな、でも鬼無子さんは狐だと言うし、狐、なのかな? うん、鬼無子さんがあんなはっきり言っているのだから狐に違いない、とまあこのような具合にである。どちらにせよ仔獣が可愛いのは変わらないけれど。


「た、確かに鬼無子さんが仰られる通りに、あの子は狼じゃないですね」


「ふ、であろう?」


 なるほど言われてみれば、雪輝の子供というには毛並みの色が茶褐色で四本の肢先は黒みがかっているし、まだはっきりとは容貌には出ていないが、狼とは異なる別のイヌ科の生き物の片鱗を顔立ちや体つきの端々に伺わせている。

 美少女と美幼女の話題の的となっているとは知らず、ほたほたと短い肢を動かしてあっちへこっちへと歩きまわりながら謎の仔獣は、はるか頭上の雪輝となんだか自分を見ている人間の雌達との間で、視線を忙しなく動かしている。

 特に怯えた様子はなく、この仔獣の思考を言葉にするなら、なんのお話をしているの? といった所だろうか。

 その正体に関して大いに興味を魅かれるが、そのあどけない動きがなんとも可愛らしく、鬼無子とひなは二人揃って目尻を緩めて微笑を浮かべる。

 そうしていると、それまでじっと黙って静観に徹していた雪輝が口を開いた。


「鬼無子こそ落ち着け。この子は狼ではないし狐でもない。狸だ。そうだな?」


雪輝は、自分と比べればあまりに小さなその生き物を見下ろして、今日の天気を告げるようなのんびりとした調子で確認し、それに


「くう!」


 うん、と答える代わりに謎の仔獣こと子狸は元気よく一声あげる。

 あらまあ、なんて可愛い、と鬼無子とひなは同時に思ったが、その前に聞こえてきた雪輝の言葉を脳が理解するのにつれて、徐々に表情筋を硬直させ始める。

 特に顕著だったのは仔獣こと子狸を狐であると断言した鬼無子であった。


「は?」


 鬼無子は、雪輝と子狸とが交わした言葉に、自慢げだった表情を凍らせてひどく間抜けな声を出し、鬼無子の傍らのひなも同じように鳩が豆鉄砲を食らった様な表情を、大輪の花を咲かせる前の蕾を思わせる幼い顔の上に浮かびあげる。

 狼ではないという鬼無子の意見は間違ってはいなかったのだが、狐であるという意見は外れていたらしい。

 しばしひなと鬼無子は時の流れから取り残された様に固まったままだったが、いつまでもそうしているわけにもゆかず、先に正気に帰ったひながひどく気まずそうに口を開く。

 深い黒の色をしたひなの円らな瞳は、思い切り恥をかいた形になった鬼無子に対する憐みやら呆れやらが混ざっており、鬼無子にとってはこの世のあらゆる刃よりも鋭い視線となっている。


「鬼無子さん、あの、なんというか……」


「……うむ、まあ、その、それがしの間違いだ。すまない……本当にすまない」


 一応狼ではないという事で半分は当たっていたのだが、残り半分を外した鬼無子は無垢な瞳で見つめてくるひなの視線に悼たまれなくなり、なんとも恥ずかしそうに赤面して視線を逸らす。

 というよりもこちらを気遣う心の動きがひなの瞳から伺えて、その事がより一層鬼無子の心を深く抉り、視線を合わせるのすら辛いのだ。

 自分の子供ではないと告げるまですっかり困惑していた様子のひなと鬼無子に対して、雪輝は心の底から不思議そうに首を捻り、足元の子狸に優しく声を掛けた。


「こんなに違うのに私の子供と見間違うとは、おかしな話だな」


「くうくう」


 そうだそうだ、と子狸が雪輝に同意する。

 冷静になって改めて観察すれば確かに似ても似つかない個所は見受けられるが、人間の眼には違いと映らない程度の違いの方が多いだろうから、雪輝の言葉はいささか無茶を要求するものであろう。

 呆れているというわけではなく、思った通りの事を口にしただけの雪輝の言葉であるが、間違いを責めているわけではないその言葉に、ぎくりと鬼無子は肩を震わせた。

 いくら動揺していたとはいえ、子狸を雪輝の子供と勘違いしたのはひなも同じなのだが、それを自信満々に狐と断じた自分自身に対して、鬼無子は猛烈な恥ずかしさと情けなさ、そして後悔の念を抱き、熟した林檎を思わせる色に頬を染めて俯き黙る。

 これ以上鬼無子に間違いを言及するのは良くない、と悟ったひなが話題を別のものに変えるべく、慌てた様子で小さな桜貝を思わせる小振りな唇を開いて雪輝に問うた。


「あ、あの雪輝様。その子がお子様ではないという事は分かりましたが、ではどうして狸の子供をお連れになっているのですか?」


 雪輝の気性と生態を考えれば流石に食べるためという答えは返ってこないだろうが、どうにも雪輝の意図が読めないのは確かだった。


「ん? ああ、それはな、この子の親に話があると話しかけられてな」


 何か不思議な事があるのか、と言った調子の雪輝の言葉が切っ掛けとなったのか雪輝と子狸が顔を覗かせた茂みの奥からがさがさと葉の擦れ合う音を立て、新たに二匹の獣が姿を覗かせる。

 ずんぐりとした体つきに四本の肢は短く、尻尾はふっくらとしている。全体的には子狸と違って灰褐色で、目の付近や四肢の先は黒色に染まっている。

 体長は四尺(約百二十センチ)ほどと標準的な狸の倍はあるが、その隣に標準的な狼の倍どころか四倍から五倍はくだらない雪輝が立っているため、むしろそれでも小さく見えてしまう。

 私もそうなのかな、とひなは一つ感想を抱きながら、改めて二匹の狸の姿を観察する。

 片方は額の中心部に白い斑点があり、もう片方は尻尾がそれこそ団栗どんぐりのように丸くふっくらとしていて、触り心地の良さはひょっとしたら雪輝の毛並みにも匹敵するかもしれない。

 流石にひなにはどちらが母親でどちらが父親なのかまでは分からない。

 この二匹の大狸が雪輝にやたらと懐いている子狸の両親なのであろう。

 雪輝に上半身を中心に舐め回された時とは異なる羞恥の色に頬を染めていた鬼無子は、微量ではあるが親狸達から立ち上る妖気を感知し、即座に担いでいた猪を放り投げて腰の崩塵の鯉口を切った。

 鉄鞘から覗いた霊験あらたかな白刃が陽光を跳ね返し、その輝きだけで万物を斬断出来るかのような鋭い光を煌めかせる。

 刀身が発する霊気のみでも、凡百の怨霊妖魔の類なら、たちまちのうちにその存在を消滅させられてしまう崩塵である。

 その霊力を所有者が制御し指向性を持たせればその破邪の力は劇的に高められ、また逆に全く影響が及ばないようにもできる。

 崩塵の霊力と自身の妖気を放射する寸前の戦闘態勢を光の速さで整えた鬼無子の姿に、親狸二匹が慌てた様子を見せて、雪輝の方を見上げた。

 とりなしを求めているのだろう。親狸の力では鬼無子に敵意を向けられただけで昏倒位は簡単にしてしまうだろうから、すぐさま雪輝は鬼無子を宥めに掛った。


「これ、鬼無子。この者らは危険な妖魔の類ではないよ。私の……ふむ、なんであるかな。知己かな? うむ、知己だ」


 どういう関係であるかという事は、これまで考えた事がなかったようで、雪輝は親狸を自分の何と言えば良いかわからず、しばし舌の上でいくつかの言葉を転がしてから、とりあえず知己ということにした。

 雪輝が少しばかり言葉に迷っていた間に、鬼無子も普段の肝の太さと冷静さを取り戻したようで、崩塵を鞘に納め直し、全身に走らせていた緊張を解きほぐす。


「ああ、いや失礼いたしました。妖魔とは戦う事の方が多かったものですから、どうにも不意を突かれると構えてしまうもので。いや、言い訳ですな。驚かせてしまって申し訳ない」


 普段の落ち着き払った精神状態の鬼無子であれば、妖気こそ纏うものの悪意の欠片もない親狸達を前にしても、崩塵の鯉口を切るなどという警戒を露わにした真似をすることはなかっただろう。

 しかし親狸が姿を見せた瞬間の鬼無子は、これまでの人生を振り返っても一、二を争う羞恥の念を抱くほどの大失態をやらかした最中であり、その精神状態は乱れに乱れたものになっていた。

 そのため、妖魔の存在を探知するのと同時に戦闘態勢を取る、という半ば本能と化した習性を抑える事が出来なかったのである。

 羞恥の大嵐の中に精神が放り込まれたのと、近くに全幅の信頼を寄せる雪輝が居る事も、鬼無子の気を若干緩めてしまっていたのだろう。

 そもそも雪輝がひな達の前に連れて来たという時点で、安全な相手であったろうし、実際目の前にしてみても悪意や害意といった感情が欠片も感じられず、慌てた様子などどこか道化じみていて笑みを誘うものがある。

 鬼無子はふぅむ、と一つ、十七歳という年齢の割にはいささか年寄りじみた声を零して、不躾にならない程度に抑えた視線を、親狸達に向ける。


「白斑点の方が妖魔で……もう片方は経立ふったつでありますかな」


「鬼無子さん、経立ってなんですか?」


 どうやら鬼無子が平時の精神状態に復帰できたらしい、と判断したひなは、ほっと安堵の息を吐きながら、鬼無子が口にした未知の単語について問う。


「雪輝殿の様に生まれついての妖魔なのではなく、歳月を経る事で霊力や妖気を纏って、妖魔と化した獣のことだ。年月を経るほどに強さと知恵を増す特性があってね。個体によっては途方もなく強くなるのだよ。神夜国三大妖魔の中にも経立が居たはずだな」


 三大妖魔というまた新しい単語が出てきたが、これは自分には関わり合いがなさそうだな、とひなは判断して鬼無子の知識の豊かさにたいして素直に感嘆の言葉を漏らした。


「へえ~、鬼無子さんは博識でいらっしゃいますね。でも、見た目では大きいけど普通の狸さんですけれど、どうして区別できたんですか?」


「発生の仕方が根本的に異なるから、わずかながら妖気の質が違うのだよ。それがしは嫌というほど妖魔とは戦ってきたから何となくという程度ではあるが、生まれついての妖魔と年経てから妖魔となった経立の違いが、勘と肌でわかる」


 感心しているのはひなばかりでなく、雪輝も同じだったようで、妖魔の違いが分かるという鬼無子の染み一つない木目細かな肌を見つめてから、ほお、と一声零す。


「その経立という言葉は私も知らなんだな。まあ、いずれにせよこの者らは鬼無子やひなに害を与える様な物騒な相手ではないよ」


 自分に、とは言わず鬼無子やひなに、という辺りがこの白銀の狼にとって目の前の少女達の方が自分より優先される存在である事を、暗に告げている。

 雪輝の言葉に、白斑点の狸と団栗尻尾の狸が揃ってこくこくと首を縦に振る。胴長短足の体型にふんわりとしている尻尾と、笑みを誘う姿の狸がそんな動きをしていると、なんとも微笑ましい。

 ひなと鬼無子が揃って頬が蕩けた様な笑みを浮かべると、団栗尻尾の狸がやにわに口を開いた。

 常に妖魔と関わっているような人生を送っていた鬼無子は、狸が口を利いたからと言って表情に驚きのさざ波一つ立てず、ひなもまた人語を解し流暢に口にする狼、つまりは雪輝という存在が身近にいるために特に驚きはしなかった。


「どうも、おれは主水もんどと言います。で、こっちが連れ合いの」


 思わず抱きしめたくなる外見に反した冴えない三十男を連想させる声の主水は、自分の横に立つ雌の狸に顔を向け、自己紹介を促した。

 団栗尻尾の狸の名前が主水という厳ついものであった事や低い声質に、ひなと鬼無子が内心でがっかりしたのは二人だけの秘密である。


「こんにちは、お伺いも立てずこのような形になって申し訳ございません。主水の妻、さくと申します。どうか御無礼をお許しくださいませ」


 ちょこんと頭を下げる母狸の声は、気弱の所の伺える夫には勿体無いとしか思えない、夏の涼風に揺れる風鈴の音の様に慎ましく可憐だった。

 この二匹が人間に化けたら、どこか気弱そうでうだつの上がらない印象の三十男と、花の精が気まぐれに人の姿になったかのように楚々とした美貌の少女という、どう見ても釣り合いのとれない夫婦の姿になるだろう。

 掌中の珠のごとく育てられた貴人の姫君が、運悪く狡っからい小悪党に騙くらかされた果ての運命といった所だろうか。おそらく夫婦の姿を見た百人が百人とも朔に同情を寄せ、主水に殺意を覚えるのはまず間違いない。

 とはいえ現実には両者の関係はとても良好なようで、寄り添い合う二匹からは穏やかな親愛の情が見受けられ、本当に仲の良い夫婦なのだろうと鬼無子とひなは、初見ながらも根拠はないが信じる事が出来た。

 鬼無子の印象としては夫である主水は、妖魔としてはお世辞にも強いとは言えない、というかむしろかなり弱く、妻である朔の方が数段上といった所だ。

 主水の方が尻に敷かれていてもおかしくないというよりかは、その方が当たり前のようにも感じられるが、お互いを思い合う仲の良い夫婦であるらしい。

 いいなあ、とひなが自分でも気付かぬうちにそう思う。無論自分を妻とする夫が誰であるかは、改めて語るまでもあるまい。

 ひなの視線が自分に吸い寄せられている事に気付いた雪輝が蒼い瞳で見つめ返すと、ひなはどぎまぎとしはじめて視線を虚空に彷徨わせる。

 見つめ返された事で、自分でも恥ずかしさに似た感情を覚えてしまい、ひなは自分でもどうしてかわからなかったが、雪輝と瞳を合わせる事が出来なくなってしまった。

 このようなひなの反応が極めて珍しく、雪輝は瞼をぱちくりと開いては閉じ、両耳を左右にぴくりと動かして、視線を逸らすひなの小さな顔を凝視する。

 雪輝とひなとが不可思議なやり取りをしている間も、主水の家族の紹介は続いていた。


「それからこいつがおれと朔の子で、たけってんです。おれら夫婦の一粒種で」


「くう」


 初めまして、と子狸こと嶽。にしても随分と見た目と名前が似合わぬ子であるが、まあそれは両親譲りということだろうか。

 子狸の名前がわかった所で、雪輝の視線から逃れていたひなが、渡りに船と言わんばかりに口を開いて、嶽の方へと視線を移す。

 雪輝はまだ不思議そうな顔をしていたが、特に言及する様な事ではないと考えたらしく、こちらもまた嶽の方へと視線を移していた。


「嶽ちゃんですか」


「ふぅむ、この子は生まれつきの霊狸れいりかな? まだ幼いが大器の片鱗を伺わせるものがある」


 これまで数千単位の妖魔を見てきた鬼無子であるから、きちんと落ち着いた精神状態で相対した相手の力量を測れば、正確な所を推測する程度の事は出来る。

 尻尾を振りながらこちらを見上げている嶽を見つめて、鬼無子はお世辞ではなく心の底からと分かる様子で、しきりに頷いて感心している。

 しかし緩みっぱなしの頬や、時折零れる笑い声を考えると、鬼無子の場合、小さな小さな子狸の秘めたる可能性に感心しているというよりは、その可愛らしさに打ちのめされているのかもしれない。


「へへ、ありがとうございます。嶽、褒められてんだぞ」


 我が子が褒められるのが嬉しくて仕方がないとばかりに、主水の方も狸なりに笑顔を浮かべて、雪輝の方から自分達の方へと歩いてきた嶽に言う。夫婦にとって初めての子であるから、可愛くて可愛くて仕方がないのであろう。


「く?」


 父親の言っている事が分かっているのかいないのか、雪輝から離れて母に甘え始めていた嶽は、なあに、と父親の方を振り返っていた。


「ところで主水殿と朔殿は、雪輝殿にどのような用向きがあったのですか。もう済まされたので?」


 微笑ましさばかりが漂う狸親子の姿に癒されて、すっかり羞恥の念から立ち直った鬼無子に話の矛先を向けられた雪輝は、首を横に振った。


「いや、話を聞くついでにひなと鬼無子にも紹介しておこうと思ったのでな。ここまで案内したのだよ」


「狼の旦那には随分前におれと朔共々命を助けて貰った縁があるんですよ。嶽が産まれた時も、やばい妖魔が近くに来ないように気を遣ってもらったりしたもんで」


「あの時は本当にありがとうございました」


 夫婦そろって雪輝に向けて頭を下げて礼を述べる姿からは、この二匹の狸がこの妖哭山で生きるにはまるで向いていない穏便な性格である事が伺える。

 なるほどこれなら、争いごとを嫌い呑気な性格であり尚且つ一切食物を摂取する必要のない雪輝とは――狸と狼ではあるが――馬も合うだろう。

 一方でひなと鬼無子は、雪輝ならそれくらいの事はするだろうな、と極自然に雪輝と狸親子達との関わり合いについて納得していた。この自t年で雪輝の最大の理解者がこの二人であることはまず間違いない。

 雪輝は特にその時の事を恩に着せたとは考えていないようで、気にした風もなく小さく笑う。

 この狸夫婦は、雪輝にとってひなと鬼無子に出会うまではこの妖哭山で気兼ねなしに付き合える数少ない相手で、それは今も変わらずであり、沢爺同様に得難い希少な存在であった。


「別に構わんよ。私がそうしたいからそうしただけの事であるし、それに君らは私の命を狙ってくるような相手ではなかったからな」


 雪輝はその誕生当初、妖哭山内部の殺して殺されてが当たり前の妖魔連中とばかり出くわした所為で、自分に殺意を向けてこないというたったそれだけの事で、相手を好意的に捉えるのが癖になっていた。


「それで今日はどうした。大きくなった嶽を私に見せに来ただけではあるまい」


 ひなと鬼無子の隣といういつもの定位置に移動してから腰を降ろした雪輝が、今度こそ主水達の話を聞くべく促すと、主水と朔は居住まいを正す。

 といっても、雪輝同様に腰を降ろしただけであるが、獣同士で相手に正座を求めるわけにもゆくまい。


「はい。いやあ、最近やけに物騒な事が重なっているもんですから、どうなっているのかと思ったんですよ。この間は猿連中が大挙して来たかと思ったら、今度は人間の亡霊みたいのが徘徊していたでしょう? こんな事、おれがこの山に産まれてから初めてのことばっかりで」


「それで、内側からこちらにお住まいを移された狼様ならなにか御存じではないかと、夫ともども考えた次第でございます。なにぶん、嶽もまだ小さく、危険な事はなるべく避けたいのです」


「自分勝手なことと呆れられても仕方ないんですが、旦那が何か知っている事があったら教えていただけませんかね?」


「ふむ。確かに小さな子供を抱えた君らにとっては、あやつらは危険極まりない相手だったからな。その心配もやむなしといえよう。私も同じ立場だったらひなの事が心配でたまらず、夜も眠れぬ」


 根っから正直者の雪輝がしみじみと呟けばこれはもう疑う余地のない信憑性がある。雪輝の言葉を耳にしたひなが恥ずかしそうに、それ以上に嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべていた。

 狸夫妻はこの巨大な狼が人間の子供を養っている事情について、道すがらかいつまんだ内容を聞かされてはいたが、それほどまでに大切に思っていた事に、少し驚いた様子でお互いの顔を見つめ合わせていた。

 妖哭山の内側で生まれたのが何かの間違いとしか思えないほど、白銀の狼が大らかな性格をしているのは初対面の時から知っていたが、よもや生贄に差しだされた人間の童を世話するほどだったとは。

 恐る恐る朔が口を開いた。


「その口ぶりからすると、狼様は最近の出来事に何か心当たりが御有りなのですか?」


 連綿と血を継承し、歴史と品格を兼ね備えた貴種の令嬢を思わせる、耳に心地よい涼やかな朔の声に鬼無子は、狸の妖魔の中にはこのような者もいるのか、と妙な関心の仕方をしていた。

 人間よりも妖魔と顔を突き合わせた時間と回数の方がいくらか多いという、普通の人間からすれば異常としか思えない人生を送ってきた鬼無子であるが、朔の様な礼儀正しいのみならず気品さえ漂わせている様な狸の妖魔は、初めて出くわしたらしい。

 朔に問われた雪輝は、と言えば朔の問いに小さく首肯する。それはそうだ。心当たりがあるどころか実際にはその渦中の中心に居たのが雪輝に他ならない。

隠す事でもなし、と雪輝は正直に白猿王一派との戦いとその後の怨霊達との死闘について要点を纏めて説明した。

 雪輝の話を一語一句逃すまいと至極真面目な顔で話に聞き入っていた狸夫妻は、話が進むにつれて徐々に口が開き始め、狸なりの呆然とした表情を作り始める。

 普通の人間からすれば危険な妖魔が跋扈する雪輝の縄張りの外側で暮らしている彼らにしてみても、妖哭山内側に住まう妖魔連中は言葉通り住む世界の違う化け物どもなのである。

 その格の違う化け物の一派と交戦して生き延びたのみに留まらず、あまつさえ返り討ちにしてこの世から葬り去ったというのである。

 気の弱い所のある主水など白猿王一派に襲われた、と雪輝が口にした時点で軽く半失神状態に陥ったほどで、更に続けて語られる雪輝の話はにわかには信じ難い驚天動地のおとぎ話の様な印象さえ受けた。


「はあ~~~、旦那がおれからすりゃ雲の上に居るみたいな方だとは知ってましたけど。猿連中を纏めて返り討ちですかい。こりゃおったまげた」


 主水は団栗尻尾と目をまん丸いお月さまの様にして、大げさなほど驚いた様子を隠そうともしない。温厚な所もそうだが、正直者である事とどこか呑気そうな性格という点でも、雪輝とこの父狸は似通っているのかもしれない。


「そう言ってくれるな。この山で私とまともに話をしてくれる者は少ない。君らとの付き合いが疎遠になってしまうのは、私にはとても残念な事だ。なにはともあれ白猿王との因縁は完全に断った故、こちら側は元通りの静寂を取り戻すであろうよ。これからは元通りの暮らしが戻ってくる」


「それはようございました。これで私も夫も、それに嶽も安心して暮らしてゆく事が叶います」


「私のせいで色々と騒がしくてしまった事、改めて詫びる。済まぬな。関係の無い君らに余計な心労を抱かせてしまった」


 真摯に謝罪し頭を下げる雪輝にかえって朔と主水は慌てて、首を横に振る。


「いやいやいや、頭を上げてくだせえ、旦那。旦那の所為じゃありませんて。それに猿連中や亡霊も全部旦那が片づけたんでしょう。ならもう安心でさあ」


「良人の申す通りでございます。狼様が気に止まれる事はありませぬ。狼様はただ御自分の命を守ろうとなさっただけの事。私も夫も嶽も、幸いにして傷一つ負わずに済みましたし、私どもから狼様に文句の一つもあろうはずがありません」


「そう言ってくれると助かる。白猿王はまこと、私にとって災い以外の何ものでもなかったよ。君らにまで害が及ばなかった事はせめて不幸中の幸いと言うべきであろうな」


 人の良い狸夫婦の言葉に、それに輪を掛けてお人好しの雪輝はあからさまな安堵の顔を浮かべてほっと息を吐く。好意的な関係を築けている相手が少ないがために、その相手との関係が悪化してしまう事が、この狼には恐ろしくあるのだろう。


「とにかく、これからは元通り暮らせるだろう。時折ここら辺りまで私達も足を延ばす事があるだろうから、その時はよろしく頼む」


「いえいえこちらこそ。嶽の顔を見に来ていただけるんなら喜んでお迎えにあがりまさあ」


「ひなさんと鬼無子さん、夫と子供共々、今後ともよろしくお願いいたしますね」


「はい。嶽ちゃんはとっても可愛いですからまたお顔を見に来ますね」


「なにか困った事があったら、山中の樵小屋を訪ねて来られよ。雪輝殿とそれがし達はそこを住まいとしている。微力を尽くして御助力いたす」


 狸親子と雪輝ら一行との対面は、周囲が敵ばかりのこの山の環境を考えれば、両者にとって実に幸福な出会いと言えただろう。

 お近づきの印という事で、ひなが採取していた松茸をはじめとした多くの茸と木の実を譲り、狸親子達はしきりに頭を下げながら出てきた茂みの向こうへと消えて行った。

 よっぽど嶽のふわふわとした毛並みと主水の団栗尻尾が気に入ったのか、鬼無子に至っては雪輝の毛並みを前にした時と同じくらいに瞳を輝かせながら、手を振って狸親子達を見送ったほどである。


「いやあ眼福眼福。しかし雪輝殿と気の合いそうな狸達でしたな。雪輝殿ももっと早くに紹介して下されば良かったのに」


 そうしたら嶽を思い切りまさぐってあのふわっふわの毛を楽しめたのに、と鬼無子さんは思っているに間違いないな、とひなは口にせずに思う。

 一緒に暮らしてみてすぐに分かったが、この美貌の剣士も雪輝同様に分かりやすい性格をしているのだ。


「言われてみればそうだな。とはいえ恥ずかしい事に私の交友関係は狭いのだよ。内側から来た妖魔というだけで私を避ける者がほとんどであるし、主水達も最初私と出くわした時は自分達が食べられるか、嬲り者にされてから殺されると心底恐怖したそうだからな」


 初遭遇した時の主水達の反応は雪輝にとっては相当に悲しいものだったようで、それなりの月日が経過した今でも、思い出せば眉根を寄せる程度には引きずっているらしい。

 もともと感情の発露を抑えるという発想が雪輝の思考形態に組み込まれていないことと、ひな達との同居暮らしとの中でも感情を隠す必要や嘘を吐く事がなかったので、嘘偽りを口にするだとか感情を表に出さないという発想の育つ余地がないのだ。

 悲しげな雪輝の顔を見て、そして声色を聞くと、自分も同じように悲しくなり、ひなは雪輝を慰めるためにつとめて優しい声を出し、しょげる雪輝の頬を椛の様な小さな手で撫でる。


「そうなのですか、雪輝様はこんなにお優しいのに悲しいですね。でもそういえば私も雪輝様と初めてお会いした時はそれはもう緊張した物ですから、あまり言えませんね。あ、でも落ち込まないでくださいましね。驚いたのは確かですけど、それ以上に雪輝様のお姿がとってもお美しくて、これから食べられてしまうんだなっていう事を忘れる位見惚れたのですよ」


 ひなに褒められて素直に嬉しいと思う反面、自分はそんなに落ち込み易いと思われているのか、と雪輝は内心で首を傾げた。

 雪輝本人に自覚はないが、もしひなが後半の言葉を口にしなかったら、まず間違いなくこの大きいだけが取り柄の狼は、耳と尻尾を絞首刑に処された様に垂らして失意の泥沼にはまり込んだだろう。

 雪輝の性格は、雪輝自身よりも共に暮らしているひなや鬼無子の方がよほど理解している。


「そういえばあの狸夫妻ですが、主水殿はまあともかくとして朔殿はかなり霊格が高いようですね。嶽の潜在能力の高さは母親の血が濃いからでしょうな」


「主水はこの山で産まれて、色々と苦労しながらも幸い長生きして妖魔となったそうだ。朔はなんでも他所から来た妖魔で、たまたま主水と出会い意気投合して話をしたり、一緒に食べ物を探したりしているうちに懇ろな仲になったと言っていたな」


「ふぅむ、朔殿の妖気には長らく血を継いだ古い妖魔特有の雰囲気も感じられましたから、おそらくは名の知れた狸妖怪の血縁なのかもしれませぬ。まさに主水殿は逆玉の輿といった所でしょう」


 聞き様によっては主水の事を軽んじているようにも聞こえる鬼無子の言葉ではあったが、本人としては至って真面目に、主水が幸運にも良妻を得たものだと感心しているのだ。

 ひなも雪輝も若干人とずれた感性を有している所為で本人には自覚がないが、鬼無子もまた一般的な感性からは、いささか外れた感性で生きている女性であった。


「でも玉の輿とかそういう事は関係なくって、主水さんと朔さんはとっても仲の良い御夫婦ですよ。嶽ちゃんの事も大切に思っていて、嶽ちゃんも主水さんと朔さんの事が大好きみたいでしたから」


 羨望の色を隠さずに言うひなの横顔を見て、鬼無子は小さく笑う。あの親子の姿にひなが自分と雪輝の姿を重ねて見ているのが、手に取る様に分かったからだ。

 これまではただずっと一緒に暮らしてゆきたいと思っていたひなにとって、あの狸親子達の姿は、もう一歩踏み込んだ想いを抱かせるきっかけになったのだろう。

 主水親子と別れてから、大猪を雪輝の背に括りつけて樵小屋に帰る道すがら、先を行く雪輝の後ろを数歩分下がって歩いていた鬼無子の横を歩いていたひなが、不意にこう口を開いた。


「鬼無子さん、教えていただきたい事があるのです」


 これ以上ないほど真摯な、見ようによっては思い詰めているようにも見えるひなの表情を見て、鬼無子もこれはよほど深刻な質問が来ると腹を括り、ひなの瞳をまっすぐに見つめ返して先を促す。


「あの、その……」


 もごもごと唇を動かして噤むひなの視線が、先を行く雪輝の背に向けられている。あまり雪輝には聞かれたくない話ということだろうが、ひなにしては極めて珍しい事と言える。雪輝に対して何か隠し事をする様な少女では決してないはずだ。

 鬼無子はこの場はひなの意を汲み、ぷらぷらと尾を揺らしながら歩いている雪輝の背に声を掛ける。


「雪輝殿、それがし、ちとひなと話す事があります故、先に戻っていただけますまいか。そう長い話にはならぬかと存じますので、あまりご心配はめさるな」


「珍しいな。まあ女性二人だけで話したい事もあるだろう。あまり遅くならないようにしておくれ。どうしても心配になってしまうからな」


 こういう時は気遣いを見せて言われたとおりにするものだ、と雪輝は以前沢爺に教えて貰っていたので、素直に鬼無子の言葉に従う。雪輝自身の本音としては自分も話に加わりたいという欲求と、寂しいなあ、という二つがあった。

 幸い素直に聞き入れて少し歩調を速めて去ってゆく雪輝の後ろ姿が見えなくなってから、鬼無子は改めて傍らのひなと顔を見合す。


「それでそれがしに聞きたい事とは何かな?」


 滅多に頼ってこない妹に頼られて嬉しいと感じている姉の顔と声で、鬼無子はひなの言葉を待つ。ひなが躊躇う素振りを見せたのはほんのわずかな間の事だった。


「……鬼無子さん、人間と妖魔がその、夫婦になる事ってやっぱり珍しいんでしょうか」


 ひなの言葉を耳にし、わずかに鬼無子が体を硬直させる。来たか、とそしてやはり、という二つの想いが鬼無子の胸に去来する。

 いつかのこの少女に聞かれることになるだろうと、覚悟はしていたつもりだったが実際にこうして聞かれると思った以上に動揺が心を襲った。

 それを戦闘に臨む直前と同じ気構えにすることで平静さを持ち直し、鬼無子は表面上は変わらぬ笑みを浮かべて答えた。

 頭の中でこう言う時の為に考えていた解答例を必死に記憶の棚から引っ張り出して選別していたが、幸いひなには鬼無子の内心の動揺は分からなかったようで、じっと鬼無子の瞳を見つめて返答を待っている。


「ふむ、そうだな。怪我をしている所や命の危機を助けられた恩返しに、人間に姿を変えた妖魔や動物と家族になったり、あるいは恋人になった話などは探してみれば国のあちこちにあるものだよ。それがしは職業柄そう言った話を集めた怪奇本などもよく目を通したが、人である夫と子供を為した雪女や猟師に助けられた蛤が美女に化けて嫁に来た話もあったよ」


「妖魔と結婚した人たちは、幸せになれたんですか」


 鬼無子は口ごもった。それがひなの問いに対する答えでもあった。悲しげに目を伏せるひなの姿を見ていられず、鬼無子は気休めにもならないと分かっていたが、何か言わずにはいられなかった。


「嘘偽りはひなの望むものではないから、正直に言うが悲しい結末を迎えた話の方が多いのは事実だ。ただ、子を為し幸福な家庭を築いた者もいるし、末永く暮らした夫婦の話もある。必ずしも不幸になると決まっているわけではないよ」


「はい」


 そのまま消えてしまう様な儚い笑みを浮かべるひなの姿が、あまりに痛々しくて鬼無子は反射的に小さなひなの身体を抱き寄せて、赤児をあやす様に艶やかな黒髪を撫でる。

 ひなはいつもなら恥ずかしがる所なのに、自分を抱きしめる鬼無子の背に腕を回して、縋りつく様に体を押し付ける。柔らかくどこか甘い良い匂いのする鬼無子の身体のぬくもりが、ひなには泣きたくなるほど優しかった。

 自分の頭を撫でてくれる鬼無子の手の優しい手つきに、もう二度と会えなくなってしまった母の事を思い出し、ひなは瞳の奥から熱いものが込み上がってくるのを抑えられなかった。

 鬼無子は、ひなにとって母でもありまた同時に姉としてこの上なく暖かな存在になっていた。

 ひなの黒髪を撫で続けながら、鬼無子は聞くべきか否か少し迷ったが敢えて口を開き、ひなの真意を尋ねる。答えは分かっていたが、はっきりと言葉にする事に意味があった。


「雪輝殿をお慕いしているのだね」


 ひなの肩が揺れる。ひなの気持ちが落ち着くのを待つ間、鬼無子はただただ優しくひなの身体を抱きしめ続けた。


「……はい。雪輝様の事が、大好き、です」


「うん。そうか、雪輝殿の事が好きか」


「はい。ずっと、お傍に居たいです」


「居られるよ。雪輝殿もひなの傍にずうっと居たいと願っているに決まっているからね」


 大輪の花を咲かせた向日葵を思わせる笑みを浮かべる鬼無子の顔が、目尻に涙を浮かべたひなの瞳が映る。それはひながこの世で二番目に大好きな笑顔だった。

 ひなの心はこの上ない安堵感に包まれて応える様に暖かな笑みを浮かべる。


「まったく、こんなに可愛いひなに慕われるとは、雪輝殿も本当に罪な方だ」


 やれやれと苦笑を浮かべる鬼無子に、ひなが少し恥ずかしげに口を開く。


「鬼無子さん」


「うん? 今度は何かな?」


 ひなは頬を赤らめてこう言った。


「私、雪輝様と夫婦になりたいです」


「…………うん、そうか。うん」


 鬼無子は自分の浮かべている笑顔が凍りついた様に固まったのを自覚しながら、心の中でこれまでの人生を振り返っても数えるほどの、特大の溜息を吐いた。


「本当に雪輝殿は罪な方だ。本当に……」


 そんな風に鬼無子に言われているとは知らぬ雪輝はと言えば、


「きゃん! んん、誰かが噂をするとくしゃみが出るというが、さて誰が私の噂などしたのか」


 と妙に甲高いくしゃみをひとつして、ひなに教えてもらったくしゃみの出る理由を口にしていた。

 共に暮らす少女の痛切な願いを知らず、ひな達に先行して樵小屋に戻った雪輝は、大好きなご主人様の帰りを待つ犬のように、早く帰って来ぬものかな、などと呑気な事を考えていた。


<続>


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ