その二 触
その二 触
彼方の稜線を夜明けの太陽が黄金色に染め始めた時刻から、風を切り裂く鋭い音が絶え間なく続いている。
始まりの一音から千を越えた今に至るまでわずかな狂いもなく、一定の間隔で続いていたが、その中には時折細い吐息も混じっていた。
肌の下で脈動する血管が青く透けて見えるほど透き通って美しい白い肌を、うっすらと桜の色に上気させて、美貌の妖剣士、四方木鬼無子は鉄芯仕込みの重さ十貫(約三十七・五キログラム)にもなる木刀を、只管に振り続けていた。
朝夕の日課となっている素振りである。
最初から鬼無子を観察している者がいたら、最初の一本から今に至るまでわずかな狂いもなく全く同じ軌跡を描いて振り続けられる木刀の軌跡に、驚きの声の一つも挙げただろう。
大上段に振り上げた十貫もの木刀を全力で振り下ろせば、鬼無子を支える軸となる足の親指にかかる重量は、ゆうに百貫(約三百七十五キログラム)に達する。
二千本目を振り終えた鬼無子の親指の触れる地面はその親指の形に抉れ、摩擦によってわずかに焦げくさい匂いを立ち昇らせていた。
いまは裸足で素振りを続けているが、履き物をしていたら摩擦によって生じる熱によって火を起こしていたかもしれない。
あるいは実際にそういった経験をしたがために裸足であったのか。
頬や首筋に透明に輝く汗の珠粒を滴らせながら、鬼無子は半刻(一時間)で二千本を振り終えた事を確認し、昨夜そうしたように首に掛けた手拭いで顔や首を中心に汗を拭う。
「うむ。今日も気持ちの良い朝だ」
まるで包み込むようにして世界を照らしあげる朝陽を満身に浴びて、朗らかに笑む鬼無子の顔には、重い疲労の影はまるでない。
朝の一番から尋常ならざる体力を誰も見ていない所で発揮しながら、鬼無子は日課をこなした達成感を噛み締めて、背後にそびえる樵小屋の外に置かれている水甕へと足を向けた。
冷え込み始めた夜の素振り後は中で湯浴びを、爽快な空気の心地よい朝は身と心を引き締めるために、外で水浴びをする、というのがここ最近の鬼無子のお決まりであった。
周囲に人の気配がない事を念のため確認してから、鬼無子は上衣を諸肌脱ぎにし、苦行を耐え抜いた僧の理性を熱した飴のように蕩かす柔肌と胸をさらけ出す。
ひなのみならず密かに凛も多大な羨望と嫉妬の眼差しを向けている豊満で妖艶な体は、一刀を手に数多の妖魔や外道に落ちた人間達を相手に戦い抜いた百戦錬磨の剣士の体つきではない。
だからといって鬼無子が決して鍛錬を欠かしているというわけでもなかった。
鬼無子はその身に妖魔の血肉を宿す出自であるためか、どれだけ鍛えてもそれが肉体に反映されず、蝶よ花よと育てられた姫君の様にたおやかな細腕のままなのである。
岩石のごとく堅く六つに割れるはずの腹筋は慎ましく臍の窪んだ柳腰のままであり、筋肉の瘤を集めて人型にした様な筋骨隆々となるほどの鍛錬を重ねても、鬼無子の肉体は変わらず細くしなやかで美しさと艶めかしさを失う事がない。
その武芸者らしからぬ体つきから、鬼無子は武者修行中訪ねた剣豪や兵法者の一部に、ろくに剣も振るった事のない武家の娘が親への反発かなにかで家を飛び出た、というような解釈をされてまともに相手にされなかった事も何度かあった。
もっともそういう手合いは、鬼無子の身のこなしから一流以上の武技の持ち主と見抜けなかった二流か半一流という程度ではあったが。
鬼無子は片膝をついた姿勢で、水瓶から水を移した桶に手拭いを浸し、背筋がひやりとするほど冷たい水を吸った手拭いで上半身を清める。
柔らかで甘く薫る女脂肪がたっぷりと乗り、艶やかに輝く肌は汗も水も尽く弾いて、十代の若さのみが持ちうる張りと弾力、更には年不相応の妖しいまでの色香を持ち合わせている事を存分に知らしめている。
うなじから耳の裏まで丁寧に拭い、適度な運動で火照った体の熱を冷えた水気が吸い取って、鬼無子の全身を心地よさとぶるりと震える位の冷気とが包む。
南方出身という事もあって鬼無子は雪の降り積もる様な寒さに対しては慣れてはいなかったが、生家に居た頃は春夏秋冬の移ろいを問わず、毎日清めの水垢離を行っていたからこのくらいの冷たさは鬼無子にはむしろ馴染みのあるものだった。
全身から程よく熱が消えて運動をした後のかすかな疲労感と、清めた後の清涼感に鬼無子はうむ、と小さく頷いた。
後は日に三度の楽しみである朝の食卓に赴いて、空腹を訴え始めている胃の腑を満たすことに専念するのみである。
既に樵小屋の中ではてきぱきとひなが朝餉の用意を始めている音が、鬼無子の耳に届いていた。
山中に無数の食材があり、周辺の主である雪輝(自覚はない)の庇護下に在るお陰でいくらでも採り放題という環境であるから、人との交わりが少ない山の中にしては食事は割と豪勢なものだ、と鬼無子はしみじみと感心していた。
一塩に、三食の度になにかしらの工夫を凝らそうとするひなの絶え間ない努力の賜物だ。
「ひなの分まで食べてしまわぬように自粛せねばな。年長者としての面目が立たぬ」
人の三倍も五倍も食欲が旺盛な鬼無子は、供される料理が美味である事も相まって、時折危うくひなの分まで食べつくしてしまいそうになった事が、これまでに数度あった。
幸いにして寸での所で箸を止める事にかろうじて成功していたが、流石に何度も繰り返してはひなに対して申し訳がなく、鬼無子はたかが食事一つを前に妙に気合いを入れていた。
また、食べ過ぎそうになるたびに、ひなが愛らしい笑みを浮かべて鬼無子さんのお好きなように食べてくださって結構ですよ、というものだから尚更鬼無子は自分が情けなくなって、穴があったら入りたくなるほどの羞恥の念を覚えていた。
――旱魃に見舞われて満足に食べる事の出来ない辛苦を骨身に味わったはずであるのに、その様な事を口にできるとは、なんと出来た娘である事か。それに引き換えそれがしは、欲望の赴くままに食を進めるなど情けないにも程がある――
とまあ、この様な具合である。正直に言って鬼無子はその様な行いをしてしまった過去の自分を、その都度頬を引っ叩いてやりたいほど悔いていた。
そして同じ事を繰り返し、同じような事を考え、結局また繰り返す自分に心底からの怒りと罪悪感を覚えてもいた。
融通が利き柔軟な所もあるが、基本的に芯は真面目にできている分、鬼無子は思いつめるとたいてい好ましくない方向に悩んで、視野が狭くなる傾向にある。
ひなはまるで気にしていないし、むしろ気持ちのいい食べっぷりを披露する鬼無子の事を好ましく笑って見ているのだから、さほど気にしなくてもよいだろうが、妙な所で融通の利かない鬼無子であった。
それだけ食事という行為に対して真摯なのだ、といえば聞こえもいいかもしれないが、要するに食いしん坊が食べる量を自制しようとしているだけであり、第三者が感心するような事でないのは事実である。
鍛えても鍛えてもそれがまるで反映されない肉体を、鬼無子は時に厭わしく思った事も一度や二度ではなかったが、どれだけ食べても下腹一つ出ずまるで太らないという体質だけは天からの授かりものと気に入っていた。
そのため自分の世話だけしていればよかった武者修行中は、財布の中身と相談する必要こそあったものの、自分の気の向くままに食べて食べて食べまくっていた食生活であったために、いまだに鬼無子は食事量の配分に関して他者への配慮が存在しない武者修行時代の癖が抜けていなかった。
「……今日こそは!」
鬼無子は、ひなと雪輝が知ったら呆れて苦笑する様な事に対して、覚悟を決めるべく一つ気合を入れた。
そして
「…………それがしは」
隣に座っている人間がかろうじて聞き取れるかどうかという小さな呟きを零し、鬼無子は打ちひしがれた様子で空になった茶碗を、どんよりと曇った瞳で見つめていた。
今日も今日とて決して豪華とは言えない材料を、工夫を凝らして美味しく作り上げたひなの料理を前に、鬼無子は己の中の欲望に対して勝利をおさめる事が出来ず、四杯、五杯、六杯とおかわりを重ねてしまった自分に、鬼無子はしくしくと涙を流している。
食事前に自分自身に誓った鬼無子の誓いのことなど露とも知らぬひなと雪輝は、にこにこと笑みを浮かべながら食を進めていた鬼無子が、唐突に影を背負ってなにやらぶつくさと言い始めた事に、揃って顔を見合わせて首を捻っていた。
いつもこの世の幸せを噛み締めるようにして箸を進め、空になった茶碗を差し出す鬼無子が、いきなり瞳から輝きを失わせて聞き取れるかどうかというくらい小さな声で呟き始めたのである。
これはいくらなんでもおかしいと思うのが当たり前であるだろう。
「鬼無子さん、どうかなさいましたか? なにかお口に合いませんでした?」
不安げに問うひなの声音に、すぐさま鬼無子は反応して見せた。完全に自分の世界に入りきっていたわけでもないようだ。
「いや! それは断じてない。今日も実に美味であった。火の通し具合、塩加減も繊細なまでに整えられ、文句のつけどころもない。しかし、しかし、それ故に、それ故にそれがしは己を裏切ってしまったのだ! 済まぬ、ひな。許してくれ、それがしはっ」
ぬおおおお、と唸り声を挙げながら今にも手の中の箸と茶碗を壊しそうな勢いで、拳を悔恨で震わせる鬼無子を前に、雪輝は心底心配そうな調子で隣のひなに問いかけた。
「……ひな、妙な茸か変な草でも材料に使ったのかね?」
先端がやや丸みを帯びた二等辺三角形の両耳を、少しばかり前方に傾斜させて心配そうな表情を拵える雪輝に対して、ひなは小さな首を左右に振り、目一杯否定してみせた。
「とんでもありません。畑で採れた豆とお芋、赤茄子に、干しておいた川魚と山菜を使っただけです。いつもと変わらない材料のはずですよ」
本日の朝食は豆と芋の赤茄子煮込みと、焼いた川魚と山菜の塩漬け、それに茄子と葱の味噌汁、雑穀混じりの玄米飯である。
健啖家である鬼無子の事を考慮して、ひなは自分一人分だけを用意していた頃の六倍の量を用意してある。
鬼無子はそのひなの予想を全く裏切らず、用意した分すべてをぺろりと毎回平らげ、時にはそれでもなお物足りなそうにさえしていたのだが、今回の様に何の前触れもなく突然気落ちするのは初めての事である。
「確かに、私もいつもと変わらぬ材料を使い、同じように調理していたのは見ている。妙な匂いもしていなかったから料理に問題はないとは思うのだが、しかし、この鬼無子の反応は、な」
「そうですねえ、鬼無子さんがお稽古を終えて戻られてから、雪輝様が何か変なことをおっしゃったという事はありませんよね?」
前例があるとはいえ真っ正直なひなの言葉に、雪輝はしょぼんと肩を落とした。自覚がある分、好いている相手に何気なく言われると相当に応えるらしい。
最近では何気ない日常の会話の中でひなの雪輝に対する遠慮というものが、随分と薄れはじめていた。
雪輝が口を滑らせて他者の機嫌を損ねる事が多いというのは正しい認識ではあるが、雪輝の耳には痛い発言で有る以上は、以前の関係性のままであったらひなは決して口にはしなかった台詞である。
それをこうも簡単に口から出る辺り、そういった歯に衣着せぬやり取りができるほどに雪輝とひなの仲が深まった証左であるといえるだろう。
「……うむ。言ってはいないはずだ。いつもと変わらぬ。精がでるな、おはよう、ぐらいのものだ」
「私の耳にも届いておりましたし、雪輝様が失言なされたという事はなかったと思います。では、だとしたら鬼無子さんは一体どうされたのでしょうか」
「さてな。なにやら随分と悔いている様子だが、鬼無子の中でよほど許し難い失態を演じたのではないか?」
失態を演じて後悔することに関しては、ここ最近で連続して経験している雪輝であるから、そういった負の感情に対しては洞察が行き届くらしく、今にも床に額を打ちつけはじめそうな鬼無子の心情を、この愚鈍な狼にしては珍しい事に半ば言い当てていた。
もっともそこから先をまるで推察できない辺りが、人間の心情に対していまだに疎いこの狼の限界であった。
それに対してひなは、というと朝食後の現状で空になった茶碗を親の仇を睨む様な眼で見ている鬼無子の様子から、なんとなく鬼無子の暗雲となって発生しそうなほど濃密な後悔の理由を大まかにだが察する。
「鬼無子さん、ひょっとして食べ過ぎたと思っていらっしゃるのですか?」
「……」
無言を通す鬼無子ではあったが暗い地の底から轟く様な唸り声はぴたりと止み、代わりに一度だけ大きく肩を揺らす。やはりこの御人、根っから嘘のつけないようにできている。
鬼無子の様子からひなの疑問が正解らしいことまでは分かったが、どうして食べ過ぎると鬼無子が気に病むのかまではさっぱり分からない雪輝は、しばらく様子を静観する事にした。
「あのお気に障ったらすみません。鬼無子さんのお体は、その、全然太くなられてはいないと思います。気になされるような事はないと思うのですけれど」
確かに鬼無子が気にしたのは食べ過ぎた事であったが、その理由が体に余分な肉が着いて太くなったから、というひなの考えは生憎と正鵠を射る事が出来なかった。
女性は少しふくよかな方が健康的好まれる風潮にあったが、鬼無子の場合は社会の美醜観の変化などものともしない美貌の主であるから、単に太るのが嫌なのだろうとひなは考えたわけだ。
流石に、食べ過ぎてひなの分まで食べてしまいそうになった事が申し訳ないから、とまで推察できなくても、仕方のない事であるだろう。
「いや、それも違うのだ。それがしは幸いというべきか、猪一頭を骨ごと食べても少しの間腹がわずかに膨れる程度でしかないし、米を一俵食べようが二俵食べようがまあ腹八分目といったところで別段体が肥えて余分な肉が着く事もない」
いくら愚鈍かつ無知な雪輝も、それだけ食べたらいくらなんでも鬼無子の腹の中に入りきらないだろうと疑問には思うが、鬼無子は至って真面目な顔で口にしている。
とりあえず食べ過ぎて体の線が太くなり肥える事は、人間の女性にとって好ましくないのだな、と雪輝はしっかりと記憶に刻み込み、これで余計な事を言ってひなや凛の不興を買わずに済むだろうか、と心の片隅で安堵していたりする。
ひなはというと、鬼無子さんは以前はそんなにお食べになっていたなんて、とこれまで鬼無子が食欲を相当抑え込んでいた事実を知り、密かに戦慄していた。
ひなは鬼無子の胃袋が許容する食事量を自分の五、六倍程度を見込んでいたが実際には、十倍を軽く超えているだろうことは今の話から推し量れば確実である。
幸い、鬼無子の胃袋が納められる量と食欲が欲求する量では開きがある様で、常に満腹にしなくても支障はないらしいのが、救いであった。
しかしそこまで食べられるとなると、太らない体質が羨ましいという段階を越えて、つくづく人間離れしていらっしゃる、とひなは半ば呆れながら感嘆するほかない。
ひなと雪輝にそれぞれ呆れられているとは気づいていない鬼無子は、正直に自分が打ちひしがれていた理由を、きつく問い詰められたわけでもないのにつらつらと喋りはじめる。
それだけ後ろめたさを抱えていたと考えるべきか、観念して何もかも白状し始めたと取るべきか。
いずれにしろ鬼無子にとっては重大ごとであっても、客観的に見ればどうでもよい些事であるだろう。
「とはいえ別に普通の食事量でも十分に満足できるし、ひなの料理の量に不満があると言わけではない。ただ食事をしているのはそれがしだけではない。ひなも一緒に採っている。
だというのに、どうだ。これまでそれがしはついつい箸を進め過ぎてひなの分まで食べてしまった事が何度もあった。何度もだ。これは果たして年長者として正しいふるまいであったと言えるだろうか? いや言えない。むしろ恥じるべき行いであるだろう。
それがしは強く心に決めたのだ。今後はこのような事がない様、卑しい己の食欲など制し、きちんと食事量を節制するのだと、つい先ほど。だというのに!」
ここで鬼無子は箸と茶碗を握ったままの手で、正座している自分の両膝を思い切り叩きつけた。
傍から見れば癇癪を起した女性の細腕であるから大したことはなさそうに見えるが、実際には猛牛の頭部を頭蓋骨ごと粉砕する化け物染みた腕力を誇る細腕だ。
拳が叩きつけられたのが鬼無子の膝でなく普通の人間の膝であったら、破城槌でも叩きつけられたように血肉と骨が叩き潰されて、赤黒い挽肉に変わっている。
これまで冷静に観察していた雪輝が、鬼無子の言葉の接ぎ穂を取った。
「自制しようと心掛けたにも関わらず結局は六杯もお代りを要求してしまい、自分自身の誓いを破ってしまった事を悔いていた、というわけか」
「左様、雪輝殿の申される通りにございます。この四方木鬼無子、今日ほど己の意志薄弱なることを痛感し、未熟なる己を恥じた事はありませぬ!!」
くぅう、と米粒の様に輝く白い歯を噛み砕かんばかりに噛み締めた歯の奥から、悔しくて情けなくて仕方がない、と主張している。
ひなと雪輝はまた顔を見合わせて、お互い困ったように首を傾げて目線を交わし合う。
――これはなんと慰めればよいと思う?
――ううん、確かに鬼無子さんがつい食べ過ぎてしまって申し訳なさそうにされた事は、これまで何度かありましたけれど、お好きなだけ食べてくださいといつも言っていたのですが、ずいぶん気にされていたみたいですね。
――あの様子はどうも自分で自分を許していないように見える。これは私やひながなんと言っても無駄かもしれぬ。鬼無子の生真面目な所がよくない形で出たな。
――ほんとうにどういたしましょう。
いつの間にか雪輝とひなは、言葉を使わずに目線だけで会話を交わせるようになっていたらしく、鬼無子に気付かれぬように瞬きや目線の動かし方で鬼無子をどう慰めるかについて論議を交わしていた。
とはいえ妙案がであるわけでもなく、ひなは頬に手を当てて少し眉根を寄せて困った表情を作り、雪輝はというと白銀の毛に包まれた両耳を直立させながら、時折左右に動かしている。悩んでいる時の癖らしい。
ぴらぴらと少し耳を動かしてから、ふたたび雪輝はひなと目線での会話を行う。
――こうなったら雪輝様のお身体で鬼無子さんをお慰めするしかないのではないでしょうか。
――私なぞで役に立つというのなら好きなだけ触ってもらって構わぬが、それで大丈夫だろうか?
――大丈夫です。雪輝様のお身体はただ触っているだけでもとても気持ち良いですし、鬼無子さんも雪輝様のお身体が大好きですから、絶対に喜んでくださいます。
にっこりと笑むひなに後押しされて、まあ、それならと雪輝はむくりと横たえていた体を起こして、いまだに打ちひしがれて自責の念に駆られている鬼無子の方へ足を向ける。
しかし、当人達に自覚はないにしろ、ひなと雪輝の目線による会話は解釈の仕様によっては何ともけしからん内容である。
鬼無子か凛がその内容を知ったら変な方向に勘違いして、赤面くらいはしたかもしれない。
鬼無子の横に腰を降ろした雪輝は、覗きこむように鼻先を鬼無子の頬に寄せて、幅広く長い桃色の舌を伸ばしてぺろり、と柔らかで絹の様な肌触りの鬼無子の頬を舐めた。
鬼無子はよほど自責する自分に意識を埋没させていたらしく、雪輝に不意を突かれる形で頬を舐められてから、ようやく雪輝が自分の隣に居る事に気付いたようで、思わず舐められた頬に手を当てながら、目を丸く見開いて隣の雪輝に視線を合わす。
「雪輝殿?」
「鬼無子や、私はあまり言葉を操る事は得意でないから上手く言えぬが、君の言う失態など私がこれまで犯した過ちに比べればどうという事はない。第一、ひなとて気にした様子はまるでないのだぞ。
あまり鬼無子が自分を責めてはかえってひなや私がいたたまれぬ。無暗に己を叱責するのは止めなさい。いつもの君らしくない」
「し、しかし、雪輝殿。たかが食事一つと思われるかもしれませぬが、自分で誓いながらそれを破ってしまった事は武士であるとか、そういう以前に人としての問題なのでございます。そう容易く己を許すわけには……」
「本当に鬼無子は妙な所で生真面目であるのだな。も少し肩の力を抜いて生きてよいと思うがね」
雪輝は、鬼無子が舐められることに関しては特に嫌悪を示さなかったのをいいことに、このまま誤魔化し通してしまえとぺろぺろと鬼無子の頬や首筋を舐めたり、鼻先を押し付けてくすぐり始める。
「ゆゆ、雪輝殿、く、くすぐっとうございます」
「あまり気に病むでない。ほら、私の体などでよかったらいくらでも好きなだけ、好きなように触ってよいから、元気を出しなさい」
慰めようと体を寄せてくる雪輝に対して、愛犬にじゃれつかれて困ったように笑顔を浮かべていた鬼無子であるが、雪輝のその言葉を耳にするやいなやまるで雷に打たれたように体を強張らせて、雪輝の顔を真正面から凝視する。
視線の先に穴が開くんじゃないかというくらいに力の込められた鬼無子の視線のあまりの迫力に、見つめられている側である雪輝は、思わず息を呑んで鬼無子の反応を待った。
以前に鬼無子に一閃を浴びせられた時の、剣気だけでこちらを斬り裂くような威圧感とは異なる、別種の異様な鬼無子の迫力である。
「雪輝殿」
いやに低く抑えられた鬼無子の声音に、雪輝は心の中のどこかで悪寒とはまた異なる嫌な予感が鎌首をもたげるのを感じていた。一応、命の危機は感じないのでさほど気には留めない。
多少、言葉が過ぎたのかもしれないと、雪輝が後悔した時はすでに手遅れであった。
箸と茶碗を握りしめていた鬼無子の両手はいつの間にか雪輝の両頬に添えられて、ふんわりと柔らかで繊細な雪輝の毛並みに指を沈みこませている。
白魚のような、と例えるのも虚しいほどに細く美しい鬼無子の指は、しかし、唐突に万力と変わって雪輝の顔を固定する。
指を揃えて手刀の形にして突きこめば、人体など水を詰めた革袋の様に貫くであろう、途方もない力の入り様であった。
鬼無子から何の害意も感じられず、その人となりを信頼している事もあって、雪輝は特に抗うような素振りを見せなかったが、仮に鬼無子が全力で持って雪輝の頭を左右から挟み込めば、卵を握りつぶす様にして雪輝の頭蓋は潰れるかもしれない。
「ほ、本当に、好きなように触ってもよろしいのですか?」
鬼無子にとって一体どれだけ魅力のある提案であったのか、鬼無子の声はかすかに震えている。
割と普段から好きなように私の体を触っているだろうに、と雪輝は思ったがそれを口にすれば鬼無子が更に落ち込む事は、なんとか理解できていたので心の中にそっと仕舞い込んだ。
鬼無子にとっては雪輝の許可を得たうえで自分の好きなように雪輝の体を触りまくれるという事が、非常に重要であるらしい。
ともかく他者に対して口にすべき事とすべきではない事を判断出来るようになり、思った端から素直に口にしなくなった事を鑑みるに、この狼もきちんと学習は重ねているようだ。
「構わぬ。ただしこれ以上無暗に己を責めるのは止めるように。ひなも私も鬼無子の食べている様子は見ていて気持ちのいいものだと思っている。ひなも鬼無子には思う存分食べて貰いたいと思っているのだ。よいな?」
「わか、わか、分かりもうした。こここれ以上自分を責めてひなや雪輝殿に迷惑を掛けるのは止めまする。ですので、よ、よ、よろしいでしょうか?」
「ふむ。好きにしなさい」
ごくり、と鬼無子の唾を呑む音がひと際大きく小屋の中に響いた。
そんなに良いものかね、と自分の毛並みに対して無頓着な雪輝。
鬼無子さん、ますます雪輝様のお身体が好きになっていらっしゃるのね、と先ほどから固唾をのんで見守っているひな。
一方で鬼無子は軽く唇を開いて頬を上気させ、傍から見ると少し怖いくらいに気合の入った顔つきに変わっていた。
元々が美女でなかったら世界中のほとんどの美女が美女でなくなるというほどの美貌の主であるから、傍から見ていて少し引くほどの情熱を込めて睨んでくると、妙な迫力と凄味が生まれる。
鬼無子は雪輝の頬から両手を一度離してから恐る恐るといった様子で、力の入れ方を間違えれば簡単に壊れてしまう繊細な細工ものを扱うように、微動だにしない雪輝の首筋から、まずはゆっくりと撫で始めた。
雪輝が言葉通りに大人しくじっとして、鬼無子の指が好きなように動くのに身を任せていると、全身の神経を指に集中させた鬼無子は、手櫛で雪輝の毛並みを何度も何度も往復して梳き始める。
「はうぅ、こ、この、けしからんもふめ」
と鬼無子はこの世の極楽と言わんばかりに蕩けた表情を浮かべ、口元をだらしないの一歩手前程度に崩れた笑みに形作る。
なんともはや幸せそうな鬼無子の笑顔に、ちらりとひなの方に視線を向けた雪輝は、ひなと瞳を見つめ合わせた。
――これでなんとかなるか?
――ええ。鬼無子さん、もう先ほどまで落ち込んでいたのが嘘みたいですよ。
――やれやれ、まあ、これくらいなら安い代償か。
思いもよらぬ所で妙な心労を覚えた雪輝はそっと息を吐いた。
配慮が足りず知識や常識に乏しい事に自覚のある雪輝は、日々の生活の中で頻繁に鬼無子を頼る事が多く、前からこの様な素振りや傾向はあったものの、いまの鬼無子の変貌ぶりには少なからず驚かされるものがあった。
雪輝がそう思う間も鬼無子の指は休むことを知らずに雪輝の身体の上を縦横無尽に動き回っており、時折鬼無子のうわあ、とか、うふふ、という童女のようにあどけない笑い声も混じっている。
まあ、鬼無子が嬉しそうで何よりだ、と雪輝は自分を納得させることにした。なんだかなあ、と失望の様な残念な様な呆れた様な感情を覚えないでもなかったが、それが最近の飼い犬の様な雪輝の姿を見るたびに、凛がまっ平らな胸の内に覚えている感情と同じものとまでは分からない。
「雪輝殿雪輝殿」
そのままそこらじゅうを飛び跳ねだしそうな鬼無子の弾んだ声に、雪輝はわずかばかり面食らった様子で、まっすぐ自分の目を見つめてくる鬼無子に返事をする。
ふたたび雪輝の両頬を鬼無子の手が挟み込み、一人と一頭の鼻先がくっついてしまいそうな至近距離にあった。
またたびの実をたっぷりと与えられた猫のように、目尻をとろりとしたものに変えた鬼無子の姿は、まるで恋に恋い焦がれた乙女の様に初々しい。
「なんだね」
内心の動揺はおくびも出さず、雪輝は努めて穏やかな声で返事をする。
愛娘のお願いに応える優しい父親を思わせる声音は、ひなに対しては頻繁に雪輝の口から出る事はあったが、鬼無子相手に出すのはこれが初めての事であった。
少しは恥じらいを覚えているのか、鬼無子は頬をうっすらと赤林檎の色に染めながら、雪輝の瞳を見つめてくる。
綺麗な瞳をしているな、と雪輝は場違いな事を考えていた。
「こ、今度は、だだだ、抱きついてもよろしゅうございますか」
それもいつも鬼無子が私にしている事なのに、と雪輝は思うが、これも口には出さずに首を縦に振った――と思った時には、既に鬼無子が真正面からひしと抱きついてきていた。
雪輝の眼をもってしてもいつ鬼無子が動いたのかまるで分からない速さである。
人間、欲望に突き動かされている時は実力以上の者を発揮するという事であろうか。
鬼無子は両手を雪輝の首筋に絡みつかせて、ひと際毛並みのふんわり具合と厚みが格別な、獅子のたてがみを思わせる雪輝の首筋に思う存分顔を埋めて、その感触を楽しんでいる。
少し苦しいくらいに力の籠っている鬼無子に、雪輝は何度目かになる溜息をぐっと呑み込み、ある重大な事実を思い出しておそるおそるひなの方を再度見る。
以前、鬼無子にいまほどではないが好きなように触らせた日、どういうわけでかひなの機嫌がすこぶる悪くなった事がある。
いまもそうなるのではないかという事実に、雪輝はまたやってしまったかと臍を噛む思いであったが、幸いにしてひなが怒っている様子は見られなかった。
雪輝を好きなよう触れる事にはしゃぐ鬼無子の姿が珍しく、少し驚いたようではあったが、いまはひょっとしたら自分よりも小さな子供の様な鬼無子が微笑ましいのか、ころころと笑って見守っている。
ひなは小さな花弁を集めた様な唇を動かした。
――先にお片付けしておきますね。
――ああ。
ひなは鬼無子が綺麗に平らげた鍋や空になった皿をてきぱきと片づけ始めるが、鬼無子はまるで気付いた様子もない。
「雪輝殿雪輝殿」
まだまだ弾んでいる鬼無子の声からは、鬼無子が童心に帰っている事がわかる。
「今度はどうした?」
「肉球を触らせていただいてもよろしゅうございますか」
満天の星空が中に入っている様な鬼無子の輝く瞳に、雪輝は拒絶の選択肢を全力で心の中の地平線の彼方に放り捨てた。元から拒否するつもりはなかったにせよ、この瞳が相手ではお人好しなこの狼が否と言えるはずもない。
「君の好きなようにしなさい」
「ありがたき幸せにございます!!!」
雪輝が許可を出すや否や、右前肢をもちあげて雪輝の巨躯に見合った大きさの肉球を、鬼無子はぷにぷにと押して、その感触を十分に楽しみ始めている。
十七歳という年齢から、十を引かねばならぬほど天真爛漫な様子である。鬼無子の違った一面が見れた事は、良かったかな、と肉球をぷにぷにと突かれながら雪輝は思う。
「おお、ぷにぷにしておりまするなぁ、うふふ」
ひなは、雪輝が少しばかりげんなりし始めているように見えて、鬼無子の事を羨むのと同時に雪輝の事が気の毒に思えてきた。
「雪輝様もそうだけれど、鬼無子さんも可愛らしい御方」
暖かく見守るひなの笑みは、まるで我が子の健やかなる事を見て微笑む母のようだった。
少なくともこの時、鬼無子とひなの関係は普段とは逆転したものであったろう。
鬼無子はまるで飽きる様子はなく、今度は雪輝を仰向けにして思う存分そのお腹の毛にうつ伏せに倒れこみ、全身でその感触を堪能していた。
まだまだ雪輝は鬼無子に身を預けなければいけないようであった。
<続>