表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/52

その十 待つ

その十 待つ


 咽喉を潤す温いお茶の味に、凛はほう、と息を吐いた。

 夏の盛りを幾日か過ぎようかとしていたが、蒼穹の空の支配者のごとく燃える太陽は季節の流れなど知らぬ様子で大地に陽光を降り注いでいる。

 その最中を鎧武者の怨霊と精魂尽き果てる寸前まで追い込まれた死闘を繰り広げた所為で、薄い液状の鉛が血液の中に混入しているように重い体が、ようやく一息つくことを許されて、凛の身体から緊張が解け消えた。

 長時間の着用も考慮して縫製した妖虎の革服ではあったが、全力での運動を長時間続けた事もあって、凛の身体は熱く火照っていた。

 雪解け水のように咽喉に痛いほど冷えているのも悪くないが、ちょうどひなの出した位に温い方が飲み干すのにはちょうどよく感じられた。

 ひなが趣味がてら妖哭山特有の草花を乾燥させたり、粉末状にして日々調合を繰り返している草花茶は、時に外れもあるが今回は当たりを引いたようで、爽やかな香りが凛の喉と鼻孔を心地よくくすぐっていた。


「もう一杯もらえる?」


「はい。ちょっと待っていてくださいね」


 一度に大量に淹れられた草花茶は、樵小屋の土間の片隅に置いてある、子供が抱えられる位の大きさのいくつかの水甕に保存されている。

 凛の湯呑を受け取ったひなは、凛の求めに答えるべくぱたぱたと水甕の方に歩いてゆく。

 要領の良いひななら、予め鉄瓶か鍋にでも小分けにしておいて、すぐにおかわりが飲めるようにするくらいの配慮はしそうだけどな、と凛ははて? と小さく首を捻った。

 そんな凛の横に、崩塵を鉄鞘に納めて右手に提げた鬼無子が自分用の『鬼』の一文字を彫り込んだ湯呑を片手に腰かけた。

 四方木家伝来の霊刀によって長かった白銀の毛を切られて、ずいぶんとこざっぱりとした外見に戻った雪輝も、一通り毛刈りないしは毛斬りが終わった事もあって、鬼無子の傍らまで歩いてから改めて腹ばいの姿勢になる。

 持たれるとちょうどよい具合の高さと大きさで、鬼無子はひなが席を外している事もあって、こっそりと雪輝の短くなってもふんわりとした柔らかな弾力のある体に少しだけ体を預けた。

 居間の片隅に集められた眩く輝く狼毛は、ちょっとした小山を築いており、布団にするよりもそのままその毛山に頭から飛び込んで、思う存分その感触を楽しみたいと思わせる魅力を発している。

 雪輝にもたれかかりつつ凛と向かい合った鬼無子は、ちら、と名残惜しそうに毛山と隣の雪輝に視線を送りつつ、んん、と自分自身の緊張の紐を貼り直して、かろうじて真摯な表情を形作る事に成功する。

 とはいえ、すでに凛は、雪輝の毛並みに心奪われてその美貌を恍惚と蕩かせていた鬼無子の姿を目撃した時に、鬼無子に対する評価を下方に修正していた為、既に手遅れではあったし、そもそもほんのわずかとはいえ雪輝を抱きしめるようにもたれかかった姿勢ではあまり格好のよろしいことではない。

 いや、もたれかかるというよりは初めて客席に呼ばれた遊女が、なんとかして上客の気を引くようにしなだれかかっているようにも見える。

鬼無子が雪輝の毛並みに感じている魅力は、これは相当根が深いようであった。

 これ以上なく気を緩めた体勢と厳しく引き締められた表情との違いに、凛は思わず噴き出しそうになるのを、咽喉を痙攣させるだけに留めるのに、それなりの労力を必要とされた。


「それで凛殿、昨日の話だが、如何か?」


「うん。里の祈祷衆のお婆に鏡占いをしてもらったよ。今朝、お婆に教えて貰った怨霊の数は四人。そのうち、一人はあたしがついさっき片付けといた」


「ほう、凛殿が? それがしが鎬を削った死者と同格の者であったなら、いや、凛殿の実力をそれがしはいささか見誤っていたようでござるな」


 凛が戦った怨霊を直接目撃したわけではないから、槍使いと鎧武者とでどちらの力量が上と判じる事は出来ないが、それでも怨霊を倒したという凛の実力を、鬼無子は低く見積もっていたようだと、心の内でなおす。


「ま、色々と使ってようやく勝ちを拾ったよ。得るもんはあったし、苦労も怪我もしたけど、戦った価値はあったかね」


 と、凛は鎧武者の突き出した野太刀の切っ先に裂かれた額の傷を人差し指でつつきながら、どこか茶目っ気を含んだおどけた笑みを浮かべる。

 額の傷は、下ろされた凛の黒髪に隠れて、仔細に観察しなければ見つける事は出来ないだろう。

 鎧武者の放った呪いの咆哮による身体異常も既に回復しているし、数十種類の薬草を練り合わせた特製の軟膏の効果で、額の傷も出血は止まり痛みも無くなっている。

 些細な失態で口汚く罵られ、十にもならぬ幼子であろうと容赦なく打ちすえる村長のもとで数年を過ごしたために、他人の感情や態度の変化を察するのに長けてしまったひなが、凛の傷に気付かずに普段通りの対応をしたのも、既に凛が戦闘による後遺症や負傷からほぼ立ち直っていた為だ。


「では残り三人か。しかし、凛と鬼無子に面倒をかける形になってしまったな。せめて残りの三人くらいは私が引導を渡すべきであろう」


 黙って話を聞いていた雪輝である。

 経過した年月かあるいは別の外的要因に依ってかは不明であるが、蘇った怨霊たちの狙いが、大狼と間違えられているらしい雪輝である以上は、この狼の性格からして他者に迷惑をかけぬようにと、すべての怨霊を自分の手で片づけようとするのはしごく当然の流れであった。

 雪輝の首筋を優しい手つきで撫でていた鬼無子が、やれやれ、とばかりに苦笑する。


「そう水臭い事を申されますな。雪輝殿はそれがしにとって命の恩人。凛殿にとっては目下超えなければならない壁。憎悪に塗れた怨霊などに害させてよい相手などではございませぬよ。まあ、凛殿の場合は雪輝殿を倒すのは自分だ、という所でしょうかな」


「そーいうこった。それに、お前が下手に怪我でもしたらひなが悲しむからな。あたしはお前の事は好かんが、ひなの事は気に入ってんだ。見かけたらちょっかいくらいは出しとくさ。放っておいてなんか気まずいし」


 かといって凛が雪輝を倒してもひなは悲しむが、その時はどうするのだろうか? と鬼無子は常々疑問に思っているのだが、ひょっとしたら凛は何も考えていないのかもしれない。

 それはそれで凛殿らしいか、と鬼無子はくすりと微笑んだ。いざとなれば恨まれてでも凛殿を止めるまで、と腹を括ってもいた。


「そうか。私は人との出会いには恵まれたな。贅沢を言えばもう少し気の合う妖魔達と知り合うか、大狼の後始末をしないで済みたかったが」


 天外を除けば、当初敵視されていた凛に対しても雪輝は好意を抱いている。

 歯に衣を着せぬ物言いは素直な性分をあらわしていて好もしいし、時に過剰な罵詈雑言も雪輝からすれば思い当たる節のある事ばかりで、自分の至らなさを思い返すのに役立つと捉えている。

 他者に対する好悪の感情を隠さぬ凛の性格は、良くも悪くも好かれも嫌われもするが、雪輝の性格が極めて温厚寛大である事も相まって、命をやり取りをしているとは思えない奇妙に友好的な関係が構築されている。

 ひなと鬼無子に関しては、改めて語るまでもないだろう。

 ひなとの出会いから凛との関係は改善され、命を救った鬼無子は恩義を忘れぬ義理堅さと生来の気持ちの良い性格に特殊な出自から、妖魔である雪輝に対しても気軽に接している

 人間相手には実に心地よい関係を築けているが、特に山の内側に生息する妖魔達とは尽く敵対関係に在るのが、雪輝には残念であるようだった。

 外側に移り住むまではさんざか命を狙われて危険な目にも遭ってきたのだが、それでも友好関係を結べるのならそれに越したことはないと、このお人好しの狼は心底思っていた。

 だったら番になる事を求めてくる狗遠に素直に応じれば、少なくとも狼の妖魔の一派の一員になるどころか、付き従える事も出来るのだが、こればかりは雪輝はどうしても抵抗を覚えているようだった。


「そればかりは言っても始まんないだろ。それとさ、あたしが戦った怨霊だけど結構ここの近くに来ていたな。死人になったことで妙な勘でも働くのか、そのうちここを探り当てるのも時間の問題じゃないのか?」


 凛が懸念していた事を伝えると、雪輝と鬼無子は揃ってふむ、と眉間に小さな皺を刻み、思案するように唸る。

 生まれた時からこの山で育った凛の様な山の民や、雪輝の庇護下に在るひなと鬼無子のような例外を除いて、まず外の人間が迷いこめば正常な方向感覚を失い堂々巡りに陥るのがこの山だ。

 かつてはその様に行く先を見失い、疲れ果てた所を妖魔や獣に命を奪われたであろう怨霊たちが、一度冥府の門をくぐったことで超常的な感覚や直感力を身につけていてもおかしくはない。

 ただ座して普段通りに日々を過ごしていても、それを崩壊させる足音は思っていたよりもはるかに近くを歩いていたようだ。


「待っていては、最悪三人の怨霊を同時に相手にせねばならん事になるか。ならばこちらから赴いて一人ずつ倒していった方が確実に排除できような」


 怨霊たちが互いに仲間意識を抱いているかどうかは不明であるが、万が一にも手を組まれる可能性を考慮すれば、各個が独自に行動している間に撃破するのが賢明、と判断した雪輝の言である。

 山の内側では、頻繁に複数の敵を相手にする機会に恵まれてしまったために、雪輝は数で勝る相手との戦いの苦労を身に沁みて理解していた。

 もっとも、今回の場合は雪輝の隣に鬼無子が居り、孤軍奮闘せずとも済み、また相手方の数も一人多いだけであるから、過去の経験と比較すれば質はともかく量だけを語るなら組み易いと言える。


「攻めに出るんなら山の地形とかいろいろ知悉しているお前が出て、鬼無子さんはここでひなを守っているべきだろうな」


「そうだな。いまさら凛を無関係とは言わぬし、向こうがそう取るかは分からぬが、しばらく凛はここに出入りするのを控えたほうがよかろう。

 最悪の場合、私が討たれたなら済まぬが、鬼無子にはひなを連れてどこぞの町にでも連れて行って、面倒を見てもらえると助かる」


「雪輝殿」


 険しい視線で自分を見つめる鬼無子に、雪輝は分かっていると頷き返す。


「無論、むざむざと討たれるつもりなど毛頭ない。あくまで仮定の話ゆえ、そう怖い目で私を見つめないでくれぬか」


「分かっていらっしゃるのならこれ以上は申しますまい、と言いたいところですが言わせていただきますぞ。仮に雪輝殿が亡くなられたとしたら、まずひなは生きる事を放棄するでしょうからな。

 それがしがひなを養う事は吝かではありませぬが、それでも未来永劫、あの娘に幸福が訪れる事はなくなるでしょう。その事を雪輝殿はゆめゆめお忘れなさいますな」


 雪輝が滅ぼされたとした場合のひなの処遇に関しては、口出しすることはできないと凛は黙って雪輝と鬼無子のやり取りを聞いていた。

 凛個人としては妹分として里に引き取ってもいいのだが、無鉄砲な凛をしても黙って従うしかない厳正な里の掟が、ひなを引き取る事を許さず、精々凛に出来るのは金や食べ物を持たせて、麓の村々にひなを送り届けることくらいだからだ。

 幸いというべきか鬼無子はひなを引き取る事に関して、全く躊躇や迷いというものがないようで、ごく自然と自分が面倒をみるつもりでいるようだ。

 もっとも、こんな話をしているとひなに知られようものならその場で堤が破れた様に泣き出すか、火山の噴火を思わせるほどの怒りを示して雪輝と鬼無子に食ってかかるだろう、と凛は思う。

 あるいは、そんな凛の予想をはるかに超えた行動をひなは起こすかもしれない。

凛でもそこまでは考え付くのだから当然、雪輝と鬼無子もひなの耳には届かぬようにと先ほどから声は潜めている。


「割ってはいる様で悪いんだが……」


「なんだ?」


「あたしが戦った怨霊との印象なんだけどさ、あいつらは多分、いや十中八九間違いなく、雪輝を殺したって止まらないよ。あいつらは生きている者すべてが憎いんだ。

 あたしは霊感は人並みだけど、一合刃を交わしただけでも骨の髄まで理解できた。いや理解させられたよ。死んだ後どんな目に遭わされたのかは知らないけど、ありゃこの世の終わりまで命を憎んで死を振りまくバケモンだ」


 茶化すふうの無い真摯な凛の表情と言葉から、思っていたよりも性質の悪い相手と知って雪輝は狼面を顰め、鬼無子はやはりかと言わんばかりに首肯する。

 鬼無子自身も槍使いの怨霊との戦いの中で、蘇った怨霊たちが生ある者すべてに対する絶対的な敵であると確信していたのだろう。


「確かに。それがしも凛殿と同じものを感じていた。雪輝殿が命を落とす事になったとしても、事はそれで終わりはしますまい。それがしの私見ですが、一対一であれば雪輝殿ならば油断さえしなければ勝てるはずの相手でありましょう」


「見方を変えれば油断、失策の一つで負ける相手という事か。なに、私が死ぬことでひなに迷惑をかけるとなれば、その二つの言葉は私には無縁だ」


 いまだに自分自身の生命に対して無頓着な所を残す雪輝ではあるが、最近では自分が死ぬことでひなが悲しむという事をよく理解し始めたようで、死が恐ろしいから、ではなくひなが悲しむからという理由で死を忌避するようになっている。

 他者との関わりの中で自己の存在価値や存在意義というものを実感し始めたことで、この狼の在り方や価値観というものが変わりつつあった。


「凛さん、お待たせしました」


「お、ありがとう」


 二杯めの草花茶を淹れてきたひなに、それまで巌のように厳しい表情を突き合わせていや三人は、それぞれ顔から緊張の色をなくす。

 鬼無子は名残惜しさを胸中にたっぷりと残しつつも雪輝の身体から離れて座した姿勢を正し、雪輝と凛は特に居住まいを正す事もない。

 凛はひなと雪輝との今後を占う話をしていた名残などどこにもない顔で湯呑を受け取り、それを口に運ぶ。

 一杯目と同じ鬱屈とした気持ちも簡単に消える爽快な香りに、我知らず凛の口元が綻んだ。

 冬の寒さに身を震わせている時に、不意に春の訪れを予感させる風が吹いた時の様な、そんな爽やかさであった。


「ん、美味い。今度は随分と冷たいな?」


 とそこまで呟いてから、凛は湯呑の中身が氷水のように冷たい事に小さく驚きを示した。口から離した湯呑の薄緑色の水面を見つめれば、小さな氷の塊がいくつか浮いているではないか。

 喉元を流れる間、夏の暑さを忘れられる冷たさの正体は、この氷であったようだ。


「氷? どうしたんだこれ」


 素直な性分そのままに驚きを浮かべる凛の姿に、ひなは悪戯が成功したとばかりに小さく笑い声を零した。ようやく開き始めた花の蕾を思わせる可憐な笑みであった。


「ふふ、雪輝様に作っていただいたんです。ほら、あそこにまだまだたくさんありますよ」


 ひながそう言って指さす方を見れば、樵小屋の片隅に藁の上に積まれてこもを被せられた物体がある。

 こもの合わせ目からたらいが見え、どうやらその中身がすべて氷であるらしい。ひなが二杯目を持ってくるのが遅れたのは、その氷を小さく削って湯呑に入れていたためであったようだ。

 ちなみに野菜や魚も氷に掘った穴の中に入れてあり、鮮度を保たせている。

雪輝は冷暖房のみならず冷蔵庫と冷凍庫も兼ねるなんとも便利な妖魔であった。


「へえ! 雪輝の奴、氷なんか作れんの!? うちの里にも氷穴があって、そっから時々氷を切り出して食べたり売ったりいろいろ使ってるけど、氷を作れるってんなら雪輝の方が便利かもな」


「私も今朝がた知ったばかりの事だがね」


 と雪輝は生来の呑気さが伺えるのほほんとした声で返したが、その様子は、えへんと自慢げに胸を張る少年のようでもあった。

 ひなを喜ばせる事がこの上なく嬉しく、誇らしいのであろう。自分が好いた相手の役に立ち、笑顔を浮かべてもらえるというのは、なんとも心躍る事には違いない。

 雪輝が氷を作れるかどうか試すきっかけになったのは、昨日、雪輝が体温のみならず周辺の気温まで操作する事が出来ると判明した事だ。

 今朝がた鬼無子が体温を下げる事が出来るのなら、氷も作れるのでは? と思いつきを口にし、では試すかと軽く雪輝が受け取って試した所、見事雪輝は盥に張った水を凍らせて見せたのである。

 特に妖気を迸らせるでもなく足先をちょこんと水面につけるや、たちまちのうちに水は凍て突き始め、樵小屋の片隅に置かれた盥の中身はその成果だ。

 通常の氷とは違い雪輝の妖気が混じっているのか、雪輝が凍らせた氷は不思議と時間がたっても解ける様子を見せず、白く冷気を発している。

 雪解け水の様に冷たい草花茶の飲み心地を堪能しつつ、凛は雪輝に向けて口を開いた。既に伝えるべき事を伝え終えた為か、か細い肩からは力が抜けてすっかり気を抜いた様子である。


「何だ、雪輝、お前は雪妖か氷妖だったのか? 北の方には吹雪と共に現れる狼の妖魔が居るらしいが、ここら辺では見た事のない奴だな」


「さてな。名前に雪の字が入ったから出来るようになったのかも知れんが、冷ますだけでなく暖める事も出来るから、凛の言う雪妖というのとはちと違うだろう。暑くても寒くてもひなと鬼無子の役には立てそうで、それ以外の事はどうでもよいがね」


「ますます便利な奴だな。まあそれならひなと鬼無子さんがこれから先、快適に過ごせそうでいい事だけれど」


「二人の役に立つのなら私にとってはまさしく幸いな事だよ」


 心から喜んでいる口調である。二人の幸福の為なら身を粉にする事を厭わぬ雪輝であるから、このような返答となるのは当然なのだが、凛はしみじみと思わずにはいられなかった。


(こいつ、本当にひなによく懐いたもんだなぁ。狼は群れの家族を大事にするけど、そこんところはこいつも持ってるってことかね?)


 この白銀の獣は外見通りに狼らしい所とらしくない所をちぐはぐに持ち合わせているが、ひなと鬼無子を自身の命よりもはるかに重きを置いているのは、二人を家族と認め、群れの意識が強い狼の特性を備えているからだろうか。

 口には出さず胸中でのみ呟き、凛は湯呑の中身の最後の一口を咽喉の奥へと流しこんだ。



 鬼無子という超人的な体力と熱心な労働意欲を併せ持った働き手が増えたことで、ひなの畑仕事に費やす労働時間は激減している。

 朝早くから洗濯物を干して朝の食事を済ませ、鍬や鎌を片手に樵小屋周囲の広場に作った畑で働き始め、昼の食事を済ませる頃にはもうすでに作業の終わりが見えており、昼過ぎはほとんど時間が空く事が多い。

 ひなはこの時間を有効利用すべく積極的に森の中に雪輝と鬼無子を伴って足を踏み入れて、山菜や茸をはじめ草花茶の原料となる野草や花の採取に勤しむのが最近の日課になっていた。

 氷塊の浮かぶ草花茶を飲み干した凛が辞してから、昼食を済ませて、ひなは何時も通りに新たな草花茶の配合を行うための原材料採取に出かける支度をはじめていた。

 傷や汚れが出来ても問題の無い麻の野良着を着こみ、頭に日差し除けの麦藁で編んだ帽子を被り、薬草から煮出した虫除けの薬汁を塗り込んでざるを片手に持てば支度も終わりである。

 訪ねてくる相手といえば凛くらいなものなので、鬼無子と雪輝も毎回欠かさずひなに同行している。

 特に雪輝の場合、周囲の地形をほとんど把握している事もあってひなの求める野草や花の群生している場所を記憶しているし、また目に見えない所やはるか遠方にある山菜でも匂いを嗅ぎつけるため非常に役に立つ。

 草履を履くひなの小さな背を見つめながら、こちらも出かける支度を終えた鬼無子とただ待っているだけの雪輝とが、互いの耳にしか聞こえない様な囁き声を言葉を交わしていた。


「雪輝殿、いつまでもひなに隠し通せる事ではないと思うのですが」


「……しかし、以前の猿どもの一件以来、ひなは私が危険な目にあう事をひどく嫌っている。どう伝えようともひなを納得させる事は出来まい」


 自分達に差し迫っている脅威について、ひなに伝えるかどうかの是非を話し合っているようだった。

 確かに先だっての魔猿達との戦闘は、鬼無子の負傷の様子から外に出張ってきているという事を雪輝だけが把握し、ひなはその存在をまったく知らぬままに戦端を開いたわけだが、今回は鬼無子も雪輝も敵が身近に迫っている事を事前に知る事が出来ている。

 最近では雪輝の案内と護衛がある事もあり、ひなは少しずつ遠方の方にも足を運んで山の地形や採取できる山菜の把握に努めているから、山中を徘徊している怨霊と不意に遭遇しないとも限らない。

 そうなった場合、ひなを鬼無子に任せて雪輝が迎え撃つと語るまでもなく雪輝と鬼無子の間では取り決めがなされていたが、先にひなに事情を話して外出を禁じ、その間に雪輝と鬼無子が怨霊を駆逐する方がより安全ではないか、と鬼無子が提案したのだ。

 ひなの身の安全をなによりも第一に置く雪輝としては、鬼無子の弁を理屈では正しいと認めていたが、それを告げた時のひなの反応を思うと理屈ではない感情の方が、躊躇を覚えてしまう。

 またひなが悲しむのでは、心配させてしまうのでは、という危惧が一度脳裏に渦を巻けば雪輝の理性はたちまちに脆弱なモノへと変わり、鬼無子の案の方が正しいと訴える理性の声はたちまち小さくなってしまう。

 理性と感情の発達があまりにちぐはぐで調整の取れていない精神であるために、雪輝はひなの身の安全に関わる事柄で一度迷うと、判断を下すまでに紆余曲折を経て時間を要する好ましくない傾向にあった。


「それがしと雪輝殿が留守にしている間、帰りを待つひなのもとに怨霊たちが来ぬとも限りませぬし、やはり事情を伝えておくのはひなの事も考えれば必要な事と思いますぞ。それがしが残り、雪輝殿が外に出るか、あるいはその逆でもそれがしは構いませぬ」


「だがそれは猿どもが襲ってきた時と同じ選択肢ではないか? あの時は私が猿を追い、鬼無子達から離れた隙を狙われて、鬼無子に要らぬ怪我を負わせひなを人質に取られてしまった。私はもう二度とあのような事を繰り返したくはない」


 よほどあの夜の事が堪えているのだろう。雪輝は全身に見えざる後悔の霧を纏っているかのように、落ち込んで不安な様子を見せる。


「あの時は猿達から襲撃を受ける側でありましたし、なによりこの小屋の場所を知られていたからこその話です。

 今回は死人達にこちらの位置を悟られているわけでもありませぬし、なによりあれらは愚直に雪輝殿の事を、まあ勘違いしてではありますが狙っております。

 ひなが雪輝殿にとって要であるなどと知りますまい。また、それがしも恢復し本調子を取り戻しておりますから、過日のような無様な真似は繰り返しませぬ。選択肢は同じように見えてもそれがし達を取り巻く状況は異なるものである以上、同じ結果になるとは限りませぬ」


 ひなに事情を説明する事を推す鬼無子に、雪輝も徐々に折れ始める様子を見せ、二等辺三角形の耳が迷いを示す様に閉じたり開いたりを繰り返している。

 その様子に、鬼無子は思わず抱きついて思う存分触りまくりたい衝動にかられたが、雪輝に見えない所で太ももを思い切り抓ってかろうじてこらえた。

 体を触れ合わせて親愛の情をあらわすと雪輝は大変嬉しがるのだが、今は時と場合を考慮し、鬼無子は鉄の精神でその衝動を抑え込む。


(おのれ、雪輝殿。どこまでそれがしの心をかき乱されるのですか!)


 真剣に悩む雪輝を前にしてどうにも気の抜けた事を考える鬼無子であった。深い懊悩に塗れて沈黙する事しばし、雪輝は重々しく口を開いたが、その様は岩と岩とが擦れて軋む音を立てる様を思わせた。


「致し方ない。ひなの不興を買うともあの娘の無事が得られるならば安いものか」


「一時は不満を抱きもしましょうが、それでも雪輝殿が心配するほどの事もないでしょう。ひなが雪輝殿を嫌う事などまずあり得ませぬよ」


「……そうだろうか」


「ええ。ひなは雪輝殿の事を心の底から慕っておりますから」


「そうか。なら私の事ばかりを考えて、ひなを危険な目に遭わすわけには行かぬな」


 はたり、と一つ大きく尻尾が動いて左右に振られる。そんな雪輝の様子に、鬼無子はもう少しひなに好かれているという自覚と自信を抱かれてもよいのに、と思わずにはいられない。


「雪輝殿はいささかご自身を卑下しすぎているようですな」


「なにか言ったか?」


「いえ。それよりも、ひなに説明を」


「そうだな。ひな、おいで」


 と、雪輝が呼べば、ひなは何を置いても雪輝に返答することを優先する。呼びかけ一つとっても、両者の関係を伺う事が出来た。


「はい、雪輝様」


 こちらを振り向くひなの動きに合わせて、艶やかなひなの黒髪が踊るように揺れる。ふわりと、心安らぐ匂いを嗅いだような気がして、雪輝の体から緊張が抜け心から不安の感情が薄れた。

 この娘を守るためになら、自分がどうなってもよい、とその思いがまた一つ強くなるのを雪輝は実感する。

 土間に腰を降ろしていた雪輝の目の前までひなが歩み寄り、こちらを覗き込むように見下ろしている雪輝の瞳と真正面から向かい合う。

 昨日、泣かせたばかりだな、と雪輝はいささか沈鬱な気持ちになったが、迷えば迷うだけひなを危険な目に合わせるだけだと思い直し、意を決する。


「ひな、君に大事な話をしなければならない。支度をしている所をすまないが、しばらくは外に出てはいけない」


 雪輝の言葉に危難の響きを聞き取ったのか、ひなは愛らしい顔に不安と悲哀の色をうっすらと滲ませた。

 無力な自分が外に出る事で危険な目に遭う事を雪輝が危惧し、外出を禁じているのだとすぐさま理解したのだろう。

 そしてその危険を排除するために雪輝が自らを危険な目に晒してでも、と覚悟を決めている事も。

 雪輝とひなは、一つの事から二つも三つも相手の事を理解できる深い関係にあったが、だからこそ、ひなの心には悲しみの波紋が揺れざるを得なかった。


「またあのお猿さんの様な、危険な妖魔が雪輝様を狙っていらっしゃるのですか?」


「ああ。私を狙っているようでね。まだここが見つかってはいないようだが、それもいつまでの事かは分からぬが、鬼無子をここに残して私が外で決着をつけてくる。それまでの間は、ここで大人しくしていなさい」


 ひなは何か言おうと口を開こうとしたが、うまく言葉に出来ず開いては閉じてを数度繰り返した。白猿王に捕らえられて人質となり、雪輝の命を危険に晒した時の事を、思い出していた。

 突如現れて平穏を打ち壊し、鬼無子を傷つけ、自分が人質となったことで大恩ある雪輝に危険を招いてしまったあの夜の出来事は、ひなにとって一生忘れ得ぬ心理的外傷と拭えぬ恐怖を植え付けている。

 顔を俯かせて忌まわしき過去の一面を思い出して顔色を青くするひなの頬に、雪輝が鼻先を寄せてぺろりと舐めて慰めた。


「すまんな。私も本当はずっとひなの傍に居たいのだが」


「はい、それは私も分かっているつもりです。ただ、言いにくい事なのですが、前にあのお猿さん達に襲われた時と同じ事になりはしませんか? 鬼無子さんの事は信じていますけれど、私がどうしても足手纏いになってしまいます」


 ひなが足手纏いになる事はどう言い繕うとも変わらぬ事実である。護身の術法はいまだ形ならず、強烈な憎悪の念を纏う怨霊たちを相手にするには本物の高徳の僧か、退魔の太刀を振るう高名な剣豪でもなければ不足というもの。

 白猿王一派の襲撃の際に、ひなを守りながら出なければ鬼無子は負傷していたとしてもおそらくは六、七割の割合で雪輝が引き返してくるまでは保たせられただろう。

 雪輝と鬼無子の間でもあった危惧に思い至った辺り、ひなもなかなか鋭い所がある。黙って雪輝の言うとおりに従わないあたり、吹けば飛ぶような小さな少女も雪輝に対する思い遣りでは、雪輝がひなに向ける思いに負けていない。

 ひなの疑問には鬼無子が雪輝に対してしたのと同じ事を述べて説得にかかった。鬼無子なりに小屋の周囲を散策していた時に、小屋からの脱出路を選定しており、逃げに徹すれば再び白猿王達の襲撃を受けても撒いて逃げる事は出来ると踏んでいた。

 熱意を込めて語る鬼無子の弁に、流石にひなも反論の言葉を持たず、渋々といった様子があからさまな態度で首を縦に振る。


「分かりました。私は鬼無子様の御手にすがりながら、雪輝様の御帰りをお待ちします。でも、これだけは言わせてください」


 ひなが思ったほどごねないな、と安堵していた雪輝であったが、黒瑪瑙のように美しい瞳に強い意志を込めるひなを前に、真摯な態度で続く言葉を待つ。


「私はいつまでも雪輝様の御帰りをお待ちします。ですから、必ず御無事な姿でお帰り下さい。私は雪輝様がお怪我の無い姿でお戻りになられるのを心かお祈りします」


「ああ。ありがとう」


 胸の内に広がる暖かな気持ちと共に、首を縦に振る以外に、雪輝のするべき事はなかった。


<続>


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ