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その九 嘆息

その九 嘆息


 迷いこんだ者の心を陰鬱な暗がりの中に落とし込む原生林の暗がりの中で、銀の光が一点に凝縮し、次の瞬間には四方八方へと炸裂する。

 緩やかな弧を描く銀月を片手に携えるは、死の臭いを放つ鎧武者の姿をした怨霊。

 背中から蜘蛛を思わせる細長い金属製の足を生やす小柄な影は、山に住まう民の少女凛。

 空中に飛びあがり、両手十指から繋がる金属糸を巧みに操って、刃蜘蛛の足先に備える刃を振るった凛は、狙いを一点に絞ったせいもあるが見事に野太刀一振りで刃蜘蛛を防がれた事実に、小振りな唇を歪める。

 空中からの奇襲を防がれた凛は刃の衝突点から二間半(約四・四メートル)も後退させられ、足場のない空中を狙って追いの一手を狙って地を踏む鎧武者の姿を睨みつけていた。

 尋常な刀剣では確かな足場の無い状態で太刀を振るっても、刃に重さを乗せる事はできないが、凛の背中に固定する形で装着しする刃蜘蛛は跳躍中であろうと、疾走中であろうともその斬断力が減じない特殊な構造をしている。

 凛は両手の指すべてがそれぞれ別の生き物のように素早く動かし、伸ばした爪先が雑草を踏む寸前に、自分の心臓めがけて突きこまれた野太刀の切っ先を刃蜘蛛の左三本の足で弾き変えす。

 ぎぎん、と硬質の金属が連続して三度衝突する音が響き、三本の足と野太刀とがそれぞれ後方へと弾かれる。陽光にも赤々と輝く火花が無数に散り、虚空に消えゆくよりも早く凛の指と鎧武者とが動いた。

 足捌きと膝、腰、肩、肘、手首を連動させて生み出される力を込めて、鎧武者は弾かれた野太刀を無理矢理引き戻すや、電光と化した四尺の銀刃が凛の左胴に横一文字を描く。

 弾かれた刃蜘蛛の左足三本はいまだ後方に切っ先を向けたままであった。

 鎧武者の怨念と憎悪の放射を敏感に察知し、鎧武者の動作から狙いが自分の胴と予測していた凛は、野太刀が動き出すよりも早く残る右三本の刃蜘蛛の足を動かしていた。

 凛が右手首を捻りながら親指から順に小指までを折り曲げると、右三本の足は斬撃ではなく刺突となって、鎧武者へと襲い掛かる。

 刃蜘蛛の右上足と右中足の二本は凛へと一歩を踏みこんで野太刀を振るう鎧武者の頭部と首を狙い、残る右下足の刃が凛の細い蜂腰を真っ二つにせんと迫る野太刀に斜めに突き刺さり、かろうじて野太刀の切っ先を下方へと逸らす事に成功する。

 野太刀の切っ先が切れ味凄まじく大地に深く突き刺さり、二本の蜘蛛足は鎧武者の左肩と脇をかすめて、怨念に補強されていた甲冑に小さな斬痕を刻む。


(刃は通る! お前らみたいのを斬るための処置も済ましてんだ、ここで叩っ斬ってやる!!)


 刃蜘蛛の足先に備えた刃は、遥かな太古に大地に落ちたという隕鉄を材料に、山の地層奥底から湧き出す清水と調合した霊薬を用い、月夜の晩を舞台にする一族秘伝の特殊な製鉄法を用いて鍛えあげている。

 かりそめの肉体を伴う怨霊たちとは異なる完全な霊魂や気配のみの妖魔を相手にしても、十分な効果を発揮する対霊効果を持っているはずだ。

 もともとは雪輝を倒す事を目的とした武器であるから、凛がこれまで制作し、手元に残している武具の中でもずば抜けて霊的存在に対する攻撃性能は高くなるようにしてある。

 山の内外を問わず上位に君臨する強力な妖魔である雪輝は、存在するだけで発する妖気による不可視の防御膜を展開している。

 妖魔の格に応じて障壁とも結界とも呼称されるその防御膜の防御性能は変わるが、雪輝級の妖魔となればそれはほとんど分厚い鋼鉄の鎧と変わらない防御性能を持つ。

 同格の妖魔や霊的な力を帯びた武具、あるいは攻撃そのものに霊的存在に対する有効性を保有する技能を有するものでなければ、妖気の防御膜を減衰させる事さえできない。

 また天地万物の気を凝縮して構築されている珍種の妖魔である雪輝の肉体は、そもそもが猛獣の類をはるかに凌駕する柔軟性と剛性、耐久性、持久力を兼ね備えており、分厚い脂肪と毛皮を持った大熊でさえ可愛く思える頑健さを誇る。

 雪輝を敵として想定した場合、風の精かと錯覚させられる流麗軽妙な身のこなしに加えて、高度な呪術的強化を受けた防具で身を固めた重装戦士の防御力も突破しなければならず、凛はこれまで散々苦汁を舐めさせられながら対処方法を練り上げてきたのだ。

 これまでは多数の罠で雪輝の隙を伺い、あるいは作り、そこに対霊処置を施した秘伝の武具で一気呵成に攻め立ててきたのだが、今回凛が制作した刃蜘蛛はこれまでと異なり、罠を用いずとも単独で雪輝を殺傷可能なように作り上げている。

 多関節によって多方面からさらに多角的に、一斉にも時差を置いても攻撃可能な構造によって、雪輝の回避能力に対抗し、里の鉱物管理の担当者と長老衆に頼み込んで手に入れた隕鉄を使った鉄塊をも裂く刃によって、雪輝の頑健な肉体を斬り裂くのだ。

 芥子粒ほどの大きさの部品から鍛え上げた凛であるから刃蜘蛛の威力は誰よりもよく知っていたが、よもや並みの妖魔を容易く殺戮する怨霊を相手に試す事になるとは、凛自身驚きであったろう。

 本当はもっと小物の妖魔を相手に、制作前に想定した威力を発揮するかどうか試すつもりだったのだから。

 だがすでに予定外の事態に対する動揺は凛の心の中から消え果てている。己の作り上げた武具の性能を十分に試せる相手との遭遇に対する歓喜、そして知己へと及ぶかもしれぬ災いを排除するという使命感が、凛の戦意を轟々と燃やしている。


「疾ィイイっ!!!」


 凛の指が天に愛された楽師が鍵盤を叩くように美しく舞い踊る。

 煌々と闇夜を照らす月光夜に琴を爪弾くこの世ならぬ楽師のように美しく軽やかに、夢幻のごとく凛の十指は止まる事を知らず千変万化の動きを見せる。

 鎧武者の前方百八十度を刃蜘蛛の六本足が陽光を弾いて描く銀閃が、堰を切ったように迸り囲い込む。

眩い十の銀閃を百の奔流が埋め、さながら銀の壁が鎧武者の前方に生じ迫り来るかの様な圧倒的な連撃であった。

 すべてが閃光の速さで放たれたそれらは、人間が行なおうとすれば鋼のごとき上半身の骨格と爆発的な俊発性と耐久力を兼ね備えた人外の膂力、尋常ならざる酸素消費をものともしない心肺機能の全てを兼ね備えていなければ不可能な絶技である。

 それを可能としているのは、そもそもの発生から鋼鉄の扱いに携わってきた錬鉄衆の技術と、一族有数の才能を生まれ持った凛が打倒雪輝の執念と、才覚の全てを費やした成果である刃蜘蛛の機構に在った。

 恐るべきことに百の刺突撃すべてが、人体の異なる急所を的確に狙い放たれる必殺の一撃である。山の外で諸国にいくらも溢れている自称武芸者どもなら、ことごとく穴だらけの肉片になって土に還ることだろう。

 しかし凛が百もの刺突撃を繰りださなければならなかったのは、放った一撃が弾かれるたびにならばと連撃を放ち続けた結果である。すなわち、刃蜘蛛の六本足の刺突撃全てが鎧武者の振るう野太刀の前に阻まれたからに他ならない。

 銀閃が鎧武者へと伸びる都度、損傷した甲冑に触れるよりも早く野太刀が鉄壁の壁となって刃蜘蛛の爪先と撃ち合い、硝子細工を砕いた様な甲高い音を鳴らす。

 絶え間ない連撃によって残響に残響が重なり合う事で一繋ぎの音と変わり、まるでこの世ならぬ魔物の咆哮のごとく響き渡る。

 膨張と収縮の果てしない繰り返しによって悲鳴を上げる心肺、過剰な圧力をくわえられて断裂する筋繊維、一瞬の弛緩も許されずに灼熱し疲労する神経といった肉体の枷から解き放たれ、霊子で再構築したこの世ならぬ肉体が可能とする超人の刀捌きである。

 指を躍らせ刃蜘蛛を操る作業に全神経を注ぐ凛の瞳には、鬼無子の話から推定していた以上の戦闘能力を見せる怨霊への驚きの色が揺らめいている。

 刃蜘蛛の調子は不調どころか好調といっていい。試作に次ぐ試作を重ね、とりあえず及第点とした現在使用中の品は、設計の段階で想定した性能を発揮している、と凛は判断した。

 その刃蜘蛛を用い、自身の操演にも致命的な過ちはない。

 まだ使い始めという事もあり慣れ切っていない所もあるだろうが、それを含めたうえでも凛にとって怨霊の腕が十本はあるのではないかと見紛う高速かつ多様な刀捌きには、焦燥や苛立ちを越えて賞賛の思いさえ覚える。

 連続する野太刀と刃蜘蛛の出会いと別離が繰り返される中、嵐の中の静寂のような空白が一瞬にも満たない時間生まれ、鎧武者がそれまでとは異なる動きを見せる。


『―――――――!!!』


 唐突に、声帯を失い声を出す術を失ったはずの鎧武者が咆哮を上げた。

 野太刀を振るう動作とまるで異なる事前の動きから、警戒の度合いを引き上げて注視していた凛は、音の波という回避方法の思いつかない現象を前に、咄嗟に耳を塞ぐ事さえ出来ずにその身を晒すしかなかった。

 物理的な衝撃さえ伴うかのような音の波の直撃を受け、凛は即座にこれがただの咆哮ではない事を骨身に理解させられる。

 周囲の木の葉や足もとの草花が見る見るうちに緑から茶に、茶から黒に変色して萎れ、枯れ果てて行く。同時に凛の膝から力が抜けて、全身から血液と体力を、そして精神から気力を奪い取られるような感覚に襲われる。

 まるで心と体を切り離された様な違和感。生命の根源的な活力が奪われて、虚空に散じているかのような。


(しくじった。まともに食らっちまった!?)


 鬼無子が槍使いの怨霊との戦闘後に襲われた身体機能の異常と同じ現象が、鎧武者の呪いのみが込められた呪音の咆哮を浴びた事で、凛の身体のみならず精神にまで生じているのだ。

 指先から髪の毛の先に至るまで危ういほど繊細に張り巡らしていた神経が唐突に緩んだように、凛の身体と意識とが遠くなっている。

 動け――と命じる己の声に答える肉体のなんと遅い事よ。

 かろうじて凛の操作が間に合い、大上段から真っ向に凛の頭蓋を二つに割らんと振り下ろされる野太刀を、重ねた刃蜘蛛の足六本が受け止める。

 意識こそ丹田に溜め込んだ気迫を消費して正常を保たせたが、意識と隔離した肉体は野太刀から加えられる鎧武者の膂力が生む圧倒的な重量に耐えかねて、凛の両膝は呆気なく地面を突く。


「ぐぐぅ、くそっ!!」


 凛は砕かんばかりに奥歯に力を込めて、野太刀の刃が自身の身体に届かないように、まるで別人のもののように変わった肉体からなんとか抗う力を振り絞る。

 つつ、と凛の額や頬に珠を結んだ透明な汗の粒がいくつも浮かび上がり、流麗な線を描く凛の身体にどれだけの負荷がかかっているのかを代弁する。

 ぎちぎちと軋む音が刃蜘蛛の関節から漏れ聞こえ、凛の眼前にある野太刀の刃零れの目立つ刃が徐々に迫りくる。

 刃蜘蛛の足を何とか動かして力の流れを変える――無理だ! 一瞬でも操作を誤ればその瞬間に野太刀に押し切られるのは明白。肉体の枷を外した怨霊相手に人間である凛が膂力で勝負を挑むなど、自殺的行為でしかない。

 どうする!?

 凛の思考をこの一言が埋め尽くした瞬間、限界を超えて力を込められていた左五指の内、小指と薬指が、怨霊の咆哮を受けたことも重なって、凛の意図とは異なる動きをしてしまう。


「っがは!?」


 己に対する罵倒の言葉が怒涛のごとく脳裏をよぎり、折り重なる刃蜘蛛の脚を弾いた鎧武者の野太刀が、落雷の如き速度と崩落の重厚さを持って凛の左頸部に叩きこまれた。

 人の首どころか石灯籠をまとめて三つも四つも斬り飛ばせるだろう一太刀である。仮に受けたのが雪輝であったとしても、狼の首は怨念籠る長尺の刃によって斬り落とされるだろう。

 しかし、凛の首は無事に繋がっていたままであった。それどころか処女雪の白を映し取った革服さえ、野太刀は斬り裂く事が出来ずに革服の表面に留まっていた。

 さしもの怨霊も事態の理解に一瞬の停滞が生まれ、それは次の行動への移行をわずかに遅延させた。

 左頸部にぴたりと貼りつけたように据えられた刃の感触を感じながら、首の骨を盛大に揺らした衝撃に耐え切った凛の唇が、凶悪な形に吊りあがる。


「阿呆が! 秘薬を使って硬化した妖虎の革だ。鉛玉を同じ所に十発食らっても穴一つ空かねえよ!!」


 命がけの勝負の真っただ中で動きを止める怨霊に対する心底からの侮蔑の言葉であった。

 凛の指が動く。

 いまだに神経は怨霊の呪い込められた咆哮によって衰弱し、凛の思い描く動きに対して数段遅れていたが、それでも鎧武者が体勢を立て直して凛のむき出しの頭部を狙うよりも早く動く事には成功する。

 弾かれた刃蜘蛛の六本足が切っ先を鎧武者へと向け直し、わずかずつ初動をずらした六本足が人体の急所すべてを狙って迸る。

 鎧武者を包み込むように迫る刃蜘蛛の六本足に対し、鎧武者は人でなくなってまで黄泉より帰参しただけはあり、人の域を超えた俊敏極まりない動作で後方へと跳躍して刃蜘蛛の切っ先に風だけを貫かせる。

 刃蜘蛛の切っ先が互い互いに衝突して火花を散らし、きぃん、と甲高い音を立てた時、着地した鎧武者が姿勢を前倒しにし、脚部に爆発的な跳躍の為の力を貯め込んでいた。

 こんどこそ凛の必殺を狙って首を斬り飛ばすか、額を割るか、串刺しにする腹積もりであろう。

 崩れそうになる膝を必死に支え、凛は脂汗を形の良い顎先から滴らせながら、戦意の衰えぬ笑みを更に深いものにする。

 阿呆が、と罵ったまでは良かったものの、人外の膂力と技が込められた一太刀は、妖魔の革を加工し飛躍的に硬度と柔軟性、対霊強度を高めた革服をもってしても完全には防ぎきれず、革服の下は何も纏っていない凛の肉体に小さくない衝撃を伝え、左頸部から左肩にかけてがほとんど麻痺している。

 麻痺が抜けるまでざっと十秒、と凛は判断した。十秒あれば鎧武者はその五倍の回数だけ自分を殺せるだろう、とも。


(ああもう、なんでこんな苦労させられる相手とやり合う羽目になってんだあたし。なんもかんも雪輝の所為か? いや、悪いのはさんざか悪さしくさった大狼の方だよな。……いやいや、とにかく今は目の前の奴をぶちのめす事だけ考えろよ)


 思考が目の前の戦闘から愚痴めいたものへと外れかけてしまうのを立て直し、凛は紙縒りの様に細く息を吐き、瞳も細めていまにも斬りかからんと構える鎧武者へ意識を集中させる。

 刃蜘蛛を操作する指に慎重にさらに慎重の輪をかけて神経を張りめぐらせて、今度こそわずかな操作の誤りも起きぬよう、繊細という言葉では足りないほど意識を研ぎ澄ます。

 もし凛の意識の集中の度合いを眼にする事が出来たなら、それは眼に見えないほど薄く削がれた硝子細工のような様相を為したであろう。

 指先にほんの少しの力を込めて突くだけで、簡単に壊す事が出来ると一目でわかるほど脆弱な、繊細すぎるほどの意識の集中。

 研ぎ澄まされた凛の五感は頬を撫でる風の流れも、そこに含まれる幾千幾万に及ぶ匂いの粒子や、大地に接する足の裏を通じて伝わる彼方の獣の足音さえも明確に感知していた。

 鋭敏化された五感が収集する膨大な情報量を迅速かつ厳正に選りわけて、生死を賭けたこの戦いに必要な要素を持つ情報だけを蓄積してゆく。

 来るか、来ないのか? まだか? もう来るか? 動かないってんなら……。

 あたしから動く、と紡ごうとした凛の思考は、その瞬間を狙い澄ましていたかのように地を蹴り、地上の獲物を目指して舞い降りる猛禽類も追い抜く高速で迫る鎧武者の姿によって中断させられる。


 来――


 野太刀は鎧武者の右半顔に据えられて刀身は大地と水平に並び、繰り出されるのが稲妻のごとき突きである事を示している。

 三間開いていた距離が一間に縮まった時、ようやく凛の指が動いた。野太刀の刃長と鎧武者の腕の長さを考えれば、既に切っ先が凛の額に届く距離であった。


――た!!


 『来た』の一言が凛の思考を過ぎる刹那の瞬間に、両者はお互いを必殺の間合いに置いていた。

 鎧武者は野太刀を突きだせば凛の命を奪う事が出来るが、凛は指の動作を介して背に装着した刃蜘蛛を動かさなければならず、攻撃に移行するまでの動作が多い。

手数こそ実に六倍と凛が圧倒していたが、その優位が意味を為さぬ距離と速度であった。

 刃蜘蛛の切っ先は濃密に折り重なる枝葉から零れるわずかな陽光を燦然と跳ね返し、白銀の矢と化した鎧武者の野太刀と交差する。ことここに居たり、両者の殺意を乗せた武器は触れ合う事もなく、お互いが貫いた風ですれ違う互いを震わせるのみ。

 受け太刀は両者ともになし。もはや待ち受ける結末は相討ちしかありえぬ交差であった。

 陽炎のごとき怨念を立ち昇らせる野太刀の切っ先が、凛の染み一つない額に食い込み、ぷつりと肌を破って血を溢れさせ、怨嗟の念は傷口から流入して付近の細胞を汚染し腐食させんと悪意を猛らせる。

 わずかな傷をきっかけに猛毒と化した怨嗟が内から外から血肉を腐らせ、精神を衰弱させ、確実に命を蝕むのだ。まさしく生命に対する呪いとも冒涜とも言い換える事の出来る生ける死者なればこその一撃である。

 しかし、怨念、怨恨、憎悪、殺意といった感情による傷の浸食は、わずかに凛の額の皮膚を黒く変色させただけに留まった。

 呪いの念に汚染された血液が流れ、鼻筋に沿って二つの流れに分かれて、凛の顎先から滴る。思わずその血を舐め取りそうになり、凛はかろうじて舌を出す所で抑える。

 怨念に汚染された血液は一瞬前まで自身の身体の中を流れていたものであろうとも、強力な毒液に等しい。嚥下せずとも口中に含んだだけで、舌を付け根から腐らせるだろう。

 しかし、滴る血を舐めとろうなどと、そのような余計な事をする余裕があるということは、つまり決着がついたということであった。

 ほんのわずか突きだされるだけで自分の頭蓋が簡単に貫かれる所に切っ先を突きつけられながら、凛は堪え用の無い達成感と勝利の高揚に浮かされて大きな笑みを浮かび上がらせていた。

 野太刀を片手一本平突きで突きだした姿勢のまま、虚空に縫いつけられたように動きを止めた鎧武者は、怨念がかりそめの肉体を得る媒介となっている甲冑を、刃蜘蛛の六本足に貫かれ、急速に甲冑の中に渦巻いていた怨念が減衰してゆく。

 刃蜘蛛の六本足の切っ先はその付け根に仕込まれていたバネによって高速で射出され、自ら突進してきた鎧武者の全身を貫いていた。

 凛の指先がある特定の動きをした時、刃蜘蛛の刃は虚空を飛翔して足の届かぬ距離に在る敵を貫く矢と変わるのであった。

 対雪輝を想定した凛が持てる技術と知識と経験の粋を凝らした刃蜘蛛の刃に秘められた滅魔の霊力が、その威力を存分に発揮して少なく見積もっても数十年から百年前後を閲した怨念を強制的に浄化している。

 面頬の奥の表情を伺う事は出来ぬが、神仏の神通力や怨念が晴れた事による怨霊の合意を得る形での浄化とは異なり、一方的かつ暴力的に浄化させられる鎧武者は苦悶の表情を浮かべているに違いない。

 鬼無子や雪輝ならば多少なりとも鎧武者に対して憐憫の情を露わにするかもしれないが、また厳しい魔性の山で育った影響から敵対者に対しては極めて苛烈な凛は、鎧武者が消え去る最後の瞬間まで、油断なく身構えていた。

 鎧武者が最後の怨念を振り絞り、凛に某かの物理的な攻撃や祟りを残さないとも限らない。

 故にさっさと消えやがれ、という凛の意思に呼応して刃蜘蛛の刃はうっすらと漆黒に輝いて霊力を増し、鎧武者の強制浄化を加速する。

 凛が腰帯にぶら下げていた巾着袋から二十種類の薬草を練り合わせた軟膏を取り出して、額の傷に塗り込みながら射出した刃蜘蛛の刃を回収したのは、鎧武者が刃蜘蛛の刃による強制浄化に身悶えし、晴らす事の出来なかった積年の恨みを叫びながら消失してからの事であった。



「だーちくしょ、ばっきゃろうめ。頭が痛い指が痛い首が痛い肩が痛い。これ絶対痣んなってるぞ。骨が折れなかっただけましだけど。あーあー、なんでこんな目に在ってまであたしゃ、図体ばかり大きいあの狼に親切にも忠告してやりに行くのかねえ?」


 不平不満を辺り一帯にまき散らしながら、凛は左頸部をさすりさすり、いま機嫌が悪いんだよ、と顔にでかでかと書いて雪輝とひなと鬼無子の住まいである樵小屋の鹿皮の戸を乱雑に押し開いた。


「入るぞ、入ったぞ」


 と、入室する前にするべき挨拶とした後の口上を同時に口にしてずかずかと樵小屋の中へ踏み入れた凛ではあったが、入った直後に目にした物体に腹腔を一杯に満たしている苛立ちも忘れて、目を丸く見開いた。


「は?」


 板張りの床に狭苦し気に巨躯を横たえているのは、凛がこれまでの人生の中でも最も強い執着心を抱く雪輝である。

 人も獣も足跡を残していない処女雪が朝陽を浴びているかのような白銀の毛並みの眩さや、風一つない湖面の青を映し取った瞳も何時も通りであったが、しかしその毛並みの長さがこれまで凛の目にした事のない短さになっていた。

 凛の記憶の限りにおいて春夏秋冬と四季の訪れに関わりなく、常に長く伸びたままであった雪輝の毛並みがいまは普通の犬や狼とそう変わらぬ長さにまで短くなっている。

 ああ、さっぱりした見た目に変わったな、と凛は頭のどこかでぼんやりとそんな感想を抱いた。


「凛か、おはよう」


 もともと穏やかな気質ではあったが、人身御供として差し出された少女と暮らし始めてから、雪輝の声音はより一層柔らかで他者に対する穏やかさと優しさが増している。

 凛にしても耳に慣れたその声を聞き間違える事はないのだが、目の前に鎮座している雪輝の外見的変貌に、反応が一拍子遅れた。


「お、おう」


 いつもとは反応の異なる凛に雪輝は小さく首を傾げたが、雪輝の巨躯の向こう側に隠れて凛の視界に映っていなかった鬼無子とひながひょっこりと顔をのぞかせた事で、それ以上深く追求することはなかった。


「凛殿か、気持ちの良い朝ですな」


「おはようございます、凛さん」


 闊達に朝の挨拶をする二人に生返事をしながら、凛は二人の様子からどうやら雪輝の身に良くない事が起きたわけではないようだ、と推測する。

 雪輝の毛が短くなったのが例えば冥府から舞い戻ってきた怨霊たちの祟りによるものだったとしたなら、この二人がこのように落ち着き払っているはずがない。

 外の世界を歩き回り様々な経験を積み、精神的にも成熟している鬼無子はまだ冷静さを維持しただろうが、雪輝に対して身も心も奉げてたとして何の後悔も躊躇いを抱かぬひなは、この世の終わりのごとく顔色を青白く変えて、目も当てられぬほどの恐慌に陥るはずだ。

 凛は、だったらいったい何があったんだと首を捻りながら、草履を脱いで上がり、囲炉裏の前に敷かれている座布団の一つに腰を降ろした。


「雪輝の奴、どうしたんだ? いきなり毛が短くなっているけど」


「ああ、それは、それがしが斬ったので短くなっているのだよ」


「斬った? 雪輝の毛を? こいつの毛はあたしら錬鉄衆の打った刃も通さないくらい硬いんだよ?」


 以前の雪輝との決闘で溢れる殺意を乗せて振り下ろした山刀の刃が弾かれて、こちらの腕が嫌というほど痺れたのを思い出し、凛は少なくない驚きを声に乗せるが、鬼無子は何でもない事の様に右手に握る愛刀を示す。


「確かに。それゆえ、これ、この崩塵で」


「……」


 家宝の、しかも親の形見だっていう刀で毛を斬るなよ! と喉まで出かかったがかろうじて凛はその言葉を呑みこんだ。

 正当な所有者である鬼無子本人が納得尽くの上で、凛の眼からしても驚嘆するほかない対霊処置が施され、見事という他ないまでに鍛え抜かれたもはや芸術品の域に在る刀でわざわざ雪輝の毛を斬ったのだ。文句を言っても始まらない。

 しかし、そこまでしてなぜ雪輝の毛を斬ったのか、凛は新たな疲れを覚えながら問う。


「なんでこいつの毛を斬る必要があるのさ。夏になっても毛が生え変わらなかったとか? いや、こいつ、なんでか知らんけど一年中毛は長いままのはずだよね。なんか変わった事でもあった?」


「いや、秋の足音もそろそろ聞こえ始める時節ゆえ、本格的な冬に対する備えも兼ねて、新しい布団でも用意しようかという話が朝餉の時に出てな」


「布団? それが何で雪輝の毛と……」


 そこまで口にして、凛は鬼無子やひなたちの思惑に思い至り、空いた口を閉じる事が出来なかった。この少女と女性は。妖哭山の数多の妖魔達から一目置かれ、山の民からは畏敬の念を向けられる、この白銀の狼の毛を使って!


「雪輝の毛で布団作るのかよ!!」


「うむ、羽毛布団を作るにはちと鳥の羽を集めるのが手間なので、どうするかと思案していた折に、雪輝殿ご自身からご提案頂いたのだ。確かに雪輝殿の毛並みは手を離す事が苦痛なほどに素晴らしい感触と柔らかさに富み、また人肌に程よいぬくもりを持っている。雪輝殿のご提案は実に魅力的かつ有効なものと、恐れ多くもそれがしが雪輝殿の毛を斬らせて頂いた。長い時の雪輝殿の毛並みの感触は言葉に言い表しがたい心地よさであったが、短くなった雪輝殿の毛並みもこれはこれで実に良い。うむ、やはり良い」


 雪輝の毛並みに対する並々ならぬ愛着と情熱を持って語る鬼無子に、この人大丈夫かな、と凛は鬼無子に対する人物評価を若干下方に修正しつつ、斬られた雪輝の毛をせっせと集める手を止めたひなを見る。

 笊を片手に床に散らばる雪輝の白銀の毛を一本残さず拾い集める作業を中断したひなは、どうぞ、と一つ言って凛の目の前に湯呑を置いた。


「あんがと」


 それだけ返して、凛は湯呑を口元に運びながら思案する。

 確かにこの前、雪輝にひなと共に跨った時に感じた雪輝の毛並みの感触は思わずうっとりとしてしまうほど素晴らしいものではあったが、だからといって仮にも狼の妖魔の毛で布団を作ろうとするとは。

 山の民とて妖魔の毛皮やら爪、牙、骨、臓腑を生活の役に立つ道具や武具防具に加工するから、鬼無子達の事は言えないのだが、敬愛する自分の母が敬意を払う雪輝がこういう扱いを受けているのを見ると、何とも言えない気分にならざるを得ない。

 しかも雪輝に至っては鬼無子とひなの役に立てるかもしれないとあって、不機嫌どころか上機嫌な様子である。ますますもって凛の心は救われない。


(なんだかぁ……)


 約束していた怨霊たちの数を伝えるのも忘れて、凛は湯呑の中身をごくりと音を立てて飲み込んだ。

 雪輝達がのほほんとしている間に被った自分の苦労を考えると、理不尽な、という思いがむくむくと春を迎えて萌芽する草花の様に頭をもたげるが、今回の事は凛の善意と不運なめぐり合わせの結果だから、雪輝達に八つ当たりするのはそれこそ凛の方こそ理不尽であろう。


(これがあたしの運命かねえ)


 しみじみと凛は心の中で呟いた。


<続>

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