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その七 すれ違い

その七 すれ違う


 ほう、ほう、と鮮血滴る食いちぎったばかりの野熊の首を黄色い嘴に咥えた梟の鳴き声が、何千、何万本以上もの木立の中に反響して暗闇に沈む山林に吸い込まれて消えて行く。

 首の無い野熊は成人男性の背丈の倍ほどもある巨熊であったが、一羽の梟の首を食い千切られてから、ものの十秒とかからずに四方の闇から姿を見せた大小無数の獣や昆虫に集られて骨も残さず消え果てる。

 地面に零れた血も地中に住まう幾千万匹もの小虫や植物の根が貪欲に啜り、一つの生命が死に、その他の生命の糧となった証拠は何一つ残らずに消え去る。

 梟はおもむろに咥えていた野熊の首をぶん、と自分の止まっている枝の付け根に放る。いまだ血の滴る野熊の生首は、数度旋回して血の雨を数瞬降らしながら、枝の付け根に造られていた梟の巣へと放物線を描く。

 幾本もの小枝などで作り上げられた冠上の枝から、小さな影がいくつか首を伸ばし、自分達めがけて母梟から与えられた餌へと、勢いよく嘴を伸ばす。

 まだ野熊の生首が巣に落ちるよりも早く次々と、苦悶の表情をむざむざと刻む野熊の首に小梟の嘴が突き立てられて、細く裂かれた肉が赤い滴を纏いながら小梟の咽喉の奥に吸い込まれてゆく。

 白い神経線維を引く目玉も、割られた頭蓋からどろりと零れた脳髄も、数え切れない獲物の骨肉を裂き噛み砕いてきた薄汚れた牙も、その全てが数羽の小梟に食いつくされて、遂には首なしの胴体と同じに、存在の形跡も残さず小さな飢餓鳥達の胃の腑に消える。

 夜の山のどこかで、一羽の梟に首を食い千切られた野熊同様に、幾十幾百の獣が獣に食われ、妖魔が妖魔を食らい、命が別の命の糧へとなって死と生の連環が繋がってゆく。

 そんないくつもの死が生まれて別の命の糧となる場面が休むことなく起きる妖哭山であったが、ある一帯の周辺ばかりは争う獣の喧騒もはるか遠く、静謐こそが世界の主と言わんばかりの静寂が満ちていた。

 その一帯とはもはや語るまでもないかもしれないが、狼の妖魔・雪輝、人身御供に捧げられた少女・ひな、妖魔の血を引く魔剣士・四方木鬼無子が住まいとする樵小屋を中心とする一帯の事である。

 ぱちり、と樵小屋の中心部近くに設けられた囲炉裏の中で、くべられた薪の表面で火の粉が爆ぜる。

 ぱちり、ぱちり、と火の粉の爆ぜる音が続いて、囲炉裏を囲む住人達それぞれの顔を、淡く朱色に照らした。

 雪輝の白銀の毛並みを湛えた狼の顔を、陽に焼けて褐色に染まったひなの小顔を、夜にのみ生きる幻の姫君の如き鬼無子の白い面を。

 異色といえば異色極まりない三者の顔を揺らぐ炎の陰影が投影されて、瞬間ごとに異なる美貌の衣が被せられているかのよう。

 鬼無子が肌から零れたばかりの血を塗ったように赤い唇を動かす。


「太郎は二十文を持って買い物に出かけると飴売りが飴を一つ三文で売っていた。さて、太郎はいくつ飴を買う事が出来るか?」


 鬼無子の問いに、ひなは持っていた筆を置き、両手の指を折り曲げながら思案に耽る。指を開いては閉じるひなの様子を、鬼無子は慈しみに満ちた視線で見守っている。


「えっと……太郎は、飴を六個買う事が出来ます。それと二文が手元に残ります」


「よろしい。正解だ」


 自分の出した答えが正解であった為、ひなは急いで筆を取り直し手元の紙に質問と答えを書き込み始める。

 以前、天外の庵を訪ねた折に極彩色の飴玉などと一緒に与えられた筆や硯、墨壺、紙束などの道具の一つだ。

 流石に自称とはいえ仙人の所持していた道具という事か、幾ら紙に書き込み、墨を減らし、筆を使っても一向に紙や墨汁が減る様子もなく、またどれだけ紙を千切っても紙が無くなる事もない。

 ともすれば永遠に無くなる事も摩耗する事もない不可思議な文房具一式なのかもしれない。ひなの知らぬ所で天外から与えられた道具は、外の世界に出て好事家の目に留まれば値のつけられない道具であった。

 ひなが筆を動かすのを止めたのを確認し、鬼無子が次の問題を口にする。


「では次は少し難しいぞ。お菊は十人分の饅頭を買いに饅頭屋に来た。饅頭は二文、味噌饅頭は三文。お菊が買い物を終えると饅頭屋に二十六文と言われた。さて、お菊は普通の饅頭をいくつ、味噌饅頭をいくつ買ったかな。二種類とも買ったが、合計は十個だ。さ、考えなさい」


「うん、と」


 先ほどの単純な割算よりは幾段か難度を増した計算に、ひなはううん、と首をひねりながら頭を悩ませる。

 いささか前の問題よりも飛躍しすぎたかな? と鬼無子自身思わないでもないが、制限時間はひなが眠たくなるまでなのでゆるりと待つか、と自分を納得させ る。

 それにこれくらいの問題は鬼無子がまだひなよりも年少の頃に、教育係から解くよう命じられた問題の一つにすぎない。

 素浪人になってから諸国を漫遊したが、平均的な農民の学問の程度というものを理解しているわけではない鬼無子は、自分の幼少期を基準にして、記憶の棚の片隅から問題を引っ張り出しながらひなに教えているのである。

 一般教養の類も、ひなの教育係として雪輝の要請に応じた天外が担うべきかもしれないが、天外がひなに教えるのは身を守るための簡単な呪法などが主で、こう言った読み書きや計算はどちらかといえばついでかおまけになる。

 猿一派との戦闘があってからは、可及的速やかにひなに護身の術を身につけさせるべきと雪輝が判断していたから、天外と連絡が取れた時は基本的にひなは護身関係の事一辺倒を学んでいる。

 そんなひなの様子を見ていた鬼無子が、ではそれ以外の一般教養などは自分が面倒を見よう、と思いついたのである。

 妖滅士と呼ばれる南方の朝廷に仕えていた特殊な職に在った、という前歴を考えれば――といっても雪輝とひなは、鬼無子が退魔士であったということしか知らないが――鬼無子の教養や知識は、一般的な武士階級よりも上で、この国の基準からすればかなりの高等教育を受けたと言える。

 何時連絡が取れるか判然としていない天外よりも、一般常識や教養を身につけるという観点からすれば、はるかに効率的な師が既に雪輝とひなの隣に居たわけだ。

 かくして毎夜就寝の床に就く前のおよそ半刻(約一時間)ほどが、ひなと鬼無子の勉学の時間として割り振られていた。

 昨夜は古典文学の読み物を読み聞かせ、やや難しい漢字などの書き取りを行ったので、今回は数字を学ぶ番であった。

 うう、と悩んでいた様子のひなは、ひどく地道で効率がよいとは言えない解決策に乗り出していた。

 紙に饅頭と味噌饅頭をそれぞれひとつずつ買った場合の値段を順々に書きはじめたのである。

 それぞれが九個と一個を買うまでの組み合わせすべてを書きだして、両方の和算が二十六文になる個数を割り出そうというわけだ。

 一所懸命なひなの様子に、鬼無子の口元に浮かんでいた微笑に苦笑がわずかに交じる。同じようにして答えを導き出そうとした事があるのか、あるいはまだ刀も満足に触れない年頃の時、共に机を並べた学友が同じ事をしていたと、懐かしい思い出に浸ったのかもしれない。

 胸の中に湧きおこった暖かな気持ちに心を和ませていた鬼無子は、ふと、何も言ってこない雪輝の事が気になって視線を向けた。

 実のところ、今夜は天外仙人の方から連絡が来ていたのだが、雪輝の命を狙う武芸者の怨霊たちが復活したという事態を、ひなを巻き込むかもしれないからと危険視した雪輝が、先ほどから鏡に鼻先が着くような近距離で天外と話し込んでいた。

 いつも鬼無子とひなが勉学を始めると興味深げな視線を寄越し、二等辺三角形の耳をピンと立てる雪輝が、こちらの様子をまるで眼中にないとばかりに無視しているのは珍しいと言ってよいだろう。

 壁に立てかけられた鏡に、腰を降ろした姿勢で面と向かっている白銀の獣は、なにやらひどくまじめな様子でふむふむと頷いたり、天外の言葉を真剣な様子で聞き入っているようであった。

 天外の事を苦手と公言している雪輝にしては珍しい。ひなと鬼無子に注意を向けていない事も相まって、ますます鬼無子の注目は天外と雪輝に引きつけられる。

 どうも剣呑な様子の無い一人と一頭の様子から、どうやら怨霊の話はもう終わったか別の話をしているらしい、と判断した鬼無子は、率直に問う事にした。

 幼いころから命のやり取りが常態化するような修練を重ねてきた事と生来の性格もあり、言葉遊びや遠回しな言葉の表現というものが、鬼無子は大の苦手であった。


「雪輝殿は、天外殿といかようなお話をされているのですか?」


 ぴく、と雪輝の耳が鬼無子の声に反応する。天外との話に全神経を集中しているわけではないようだ。それでも鬼無子の方は振り返らず、雪輝が答えた。


「二次元空間で存在するある種の性質が、曲がった三次元空間あるいは三次元多様体でもいいが、とにかく、それにも備わっている事を証明しろと言われてな」


「…………は?」


 なにを言っているのやらさっぱりわからない雪輝の言葉に、鬼無子はこの美貌の女剣士には珍しい間の抜けた、ぽかん、とした顔を拵えた。

道を歩けば傍らを通りすぎた男も女も、お、と呟いて足を止めるような美貌が、なかなかに愛嬌のある表情に変わった。

 そんな鬼無子の様子に気づいているのか気づいていないのか、雪輝はいくらか問題を噛み砕いて、言い直す。


「二次元空間というのは方向が縦と横だけの空間。そうだな、地面に映る影が視覚的には近しいか。三次元空間というのは縦、横、奥行きの三方向を備えた私達のいま居るこの空間の事だ」


「…………」


 生きた影とでも言うべき妖魔と死闘を演じた経験はあったが、雪輝の出された問題に対しては何のことやらさっぱり分からん、と鬼無子は思う。

 正面から見る分には確かに視認できるのに、横から見るとまるでその姿が見えなくなる厄介な敵だった、と鬼無子の記憶野の一部が現実逃避に陥る。

 全く理解できませぬと素直に言って良いものやら悩んで、鬼無子は口を噤んだが、しかし雪輝の様子から察するに、この狼は問題の意味を正確に理解しているらしい。

 鬼無子にはさっぱり理解のできない単語の羅列を発したであろう天外の方に顔を向けると、なにやら悔しげに萎びた野菜の様に皺まみれの顔を更に顰めているではないか。

 ということは、この時折ひどく無知で無垢な所を見せる狼の妖魔殿は、鬼無子には頭を百八十度捩じっても答えが出せそうにない問題に、見事正解したらしい。

 天外の渋面は、解答が分からずに困る雪輝を思い切り馬鹿にして皮肉の利いた言葉で弄り回そうという、底意地の悪いことこの上ない思惑が的を外したからに違いない。


「ええっと、証明は出来たのですか」


「ああ。であろう、天外?」


「けっ、小賢しい狼めが」


「というわけだ」


 と、雪輝はどこか誇らしげである。普段は一方的に言いくるめられて、からかわれるばかりであるから、期せずして逆に天外をやりこめることができて嬉しいようだ。

 こういった所は実に素直な狼だ。


「は、はあ。いや、その、お見事です?」


 褒める所なのか自信の無い鬼無子は内心では首を捻る思いであったが、雪輝の方は素直に褒め言葉として受け取ったようで、板張りの床に長々と伸びていた尻尾がぱたぱたと動いていた。


「うむ、ありがとう。私の方はまだ天外と話があるから、鬼無子はひなの面倒を見てやってはくれまいか」


「あ、はい。お邪魔いたしました」


「いや」


 雪輝の方が意識せずに出した助け舟に乗り、鬼無子はいまだに一生懸命計算を続けているひなの方を振り返る。その最中、鬼無子は呟かずにはいられなかった。


「雪輝殿は侮れん」


 雪輝と同居を始めてから何度か同じ考えを抱いてきたが、今回は心の底からしみじみと思う。

 お人好しの極みの様な性格も器の大きさをあらわしているようで大したものだな、とは思っていたが、意外にその知力も馬鹿に出来ないものであったとは、いやはや、想定外と言う他ない。


「鬼無子さん、解けましたよ!」


 だからだろう、朗らかに笑みを浮かべて自分を呼ぶひなの笑顔が、格別に暖かく感じられたのは。


「どれどれ」


 とひなの示す答えを覗き込む鬼無子の口元は、それはもう、慈愛の女神かと見紛うほどの笑みが浮かんでいた。

 それから更に三、四問ほどひなに提出し、頭を悩ませながらもひながなんとか問題を解いていった頃、不意に鏡の向こうの天外と話し込んでいた雪輝が鬼無子に声を掛けた。


「鬼無子、天外に聞いても君に聞けと口を噤みよるので、一つ教えて欲しい事がある。いま、大丈夫かね?」


「ええ、構いませぬよ」


 ちら、とひなの方を見やればひなは鬼無子の出した新たな問題を解くのに集中している様子で、鬼無子が雪輝と話し込んでもその集中が乱されるようなことはないだろう。

 こちらを振り向く雪輝の目線をまっすぐに受け止めて、鬼無子はおほん、とわざとらしい咳払いを一つし、居住まいを正して雪輝に続きを促した。

 

(先ほどの“にじげんくうかんがうんたらかんたら”とかいう類の話であったら、なにも言えぬが、天外殿がそれがしに聞けと言っている以上、それがしの答えられる範囲の事ではあるのだろう。しかし天外殿の性格を考えるにろくな事ではない気もするな)


 などと鬼無子は腹の底で考えているわけだが、雪輝の方は全幅の信頼を置く鬼無子に純真な信頼の眼差しを送っている。

 良くも悪くも他者への好悪の感情を隠さないのは、この狼の一つの特徴であった。


「それで、いかような事でありましょうや? 自慢できるほどの知識を持ち合わせてはおりませぬが、それがしの知恵と知識を尽くしてお役に立てられるよう努力いたします」


「そう言ってもらえると心強い。どうも言葉の言い回しの様なのだが、私はとんと耳にした事がなくてな。やはり人間社会特有の言い回しや隠語というものに私は疎い。それで鬼無子に教えて欲しいのは、“枕を交わす”という言い回しなのだが、どのような意味合いがあるのかね?」


「…………」


 きりりと顔を引き締めた鬼無子が、無言のまま口を一文字に引いて微動だにしない事に、雪輝は怪訝そうに眉根を寄せて、鬼無子の顔を覗き込む。


「どうしたね、鬼無子」


「雪輝殿、もう一度言って頂けますかな? どうも、それがし、時折耳が遠くなるようでして」


「ふむ。枕を交わす、だ」


 ごほっと鬼無子は雪輝の目の前にもかかわらず咳き込んだ。そんなに変な事を聞いてしまったのかと雪輝が訝しむ間にも、鬼無子の顔は首から見る見るうちに耳に至るまで真っ赤に変わった。

 鬼無子がなにか誤魔化す様に視線を虚空に彷徨わせ、両手の人差し指を突き合わせたり、もじもじと動かし始める。

 純真無垢な眼差しを向けてくる雪輝に対して、自分ばかりが言葉の意味を理解し、羞恥に鼓動を早まらせているこの場の空気が、どうにもいたたまれないのだ。

 鬼無子が口をもごもごさせて答えるのを渋っている理由が、雪輝にはわからず――そもそも分かっていたら質問などしない――自分の推測を口にした。


「枕を交わすという言葉面を素直に捉えるのなら、自分の枕を好意を抱く相手と交換するなどの行為に基づいた、両者の親愛の度合いをあらわす言葉かと思うのだが。私の場合、私自身がひなの枕代わりも務めているから、私とひなも枕を交わす仲と言えるだろうか?」


「え!? ええ、まあ、その雪輝殿の解釈も大体においては間違ってはいないと言いましょうか概要としてはおおむね正しいと言いましょうか」


 至極まじめに推測を述べる雪輝に対して、鬼無子はますます顔を赤くして目のやり場にすら困りだして、挙句、あうあう、と意味不明の言葉まで口にする始末。

 鬼無子を閉口させている枕を交わすという言葉だが、これは同衾した男女が致す性的行為を意味している。

 雪輝の口にした自分とひなが枕を交わす仲か、という問いはひどく人倫にもとる破倫行為をも意味する事になる。

 ごく一般的な倫理観を備えた大多数の人間からすれば、おぞけの走る忌まわしいものだろう。

 随分と曖昧に、まるで逃げ道を探すような鬼無子に、雪輝はますます疑問の度合いを深めたようで、なにやら自分が返答に困る様な事を聞いたようだ、と流石に気づく。

 人の感情が変化する理由を推察し、正解する事は経験の無さから大の苦手としている雪輝であるが、人の感情の変化自体は敏感に察知することができる。


「鬼無子」


「は、な、なんでありましょうか」


「ひょっとして私は人に聞くにはあまり良くない事を聞いたのかね?」


「ええ、まあ、そのですな。……あまり他者に聞きまわるのには良くない言い回しと言いますか、枕を交わす、とは男女間でのとある行為を暗喩する言葉でして、そのある行為というものが往来で口にするのは大変憚られる事なのです。それがし、そういった方面の事にはまるで経験がございませぬので、なんとお答えするのが雪輝殿にとって一番良いか分からず、つい」


 生まれた時から苛烈な修行に身を費やし、淫魔と対峙した際の注意点や対策を修めてはいるものの、自分で自分を慰めた経験すらまったくない鬼無子には、この類の話は鬼門以外の何物でもない。

 もしこれ以上深く雪輝に追及された場合に、なんとか具体的な表現を避けて話をする自信は鬼無子にはまるでなく、焦りと困惑と羞恥に加熱する思考は、もしも行為を直に見たいと雪輝が言い出したらどうしよう、と在り得ぬ方向に迷いこんで鬼無子の精神から冷静な部分を丸ごと奪い去っている。

 幸いにして鬼無子の危惧は外れる事になった。鬼無子の様子の変化を悟った雪輝が、ぺこりと頭を下げたて謝罪の言葉を口にした為である。


「いや、天外に促されるままに質問した私の浅慮であった。鬼無子には気まずい思いをさせてしまったようで、まこと申し訳ない。このような事はこれで何度目になるのか、重ねて謝る。すまない」


 しゅん、と本当にそのまま縮こまってしまいそうな勢いで耳を垂らし、頭を下げる雪輝に、謝られる方の鬼無子が慌てて声をかけた。こんな事で頭を下げられても対応に困るというか、気にしないで欲しい。


「いいえ、雪輝殿、頭を上げて下され。このような事で落ち込まれてはそれこそ天外殿の思う壺ですぞ。それがしなら気にしておりませぬから、雪輝殿は今後その、ま、枕をかか交わすなどとですな、破廉恥な言葉を人前で口にせぬようお気を付け下され」


「肝に銘じる。しかし、既に私の肝は、新たに何かを銘じるだけの余裕はないかもしれぬな」


 心の底から自分に呆れ果てた様子で溜息を吐く雪輝が気の毒で、鬼無子は元気をお出し下されと、項垂れる雪輝の頭を撫でてやり、ついでに鏡の向こうで腹の立つにやにや笑いを浮かべている天外に非難の視線をぶつけておく。

 それなりの気迫を込めた鬼無子の視線は、小動物くらいならその場で気を失うだけの威圧感を備えているのだが、鏡越しという事もあってか天外に堪えた様子はまるでなく。いまにも鼻歌でも口ずさみかねない調子だ。

 先ほどの二次元の云々という話題で雪輝の事を馬鹿に出来なかった鬱憤を晴らす事が出来て、にんまりと口端を吊り上げて、悪夢に出てきそうな笑みを浮かべている。

 まっこと困った御仁である。

 鬼無子は、このような根性のねじくれ曲がった老人と付き合いがあったというのに、よくも雪輝殿はここまで素直な性分で通す事が出来たと、その苦労を想って涙さえ滲んできそうであった。

 優しい手つきで鬼無子に頭を撫でて貰って気を取り直した雪輝は、再び鏡の向こうの天外を見つめ、青い満月を思わせる瞳から小さくない怒りを孕んだ視線が天外に浴びせられる。

 鬼無子の漆黒の視線に続き、雪輝の青い眼差しを受けても天外のふざけた調子はまるで変わらない。

 百戦を超す死地を力づくで生き抜き、妖魔の黒血を引く妖剣士と妖魔の中でも上位に名を連ねるだろう潜在能力を秘めた魔狼の視線を合わせて浴びせられても、皺の塊の様な顔の色一つ変えないのは、それはそれで尋常ならざる胆力の主であるという証明になるだろう。 


「天外、いつかぎゃふんと言わせてくれるぞ」


「ほっほっほ、こぉの犬畜生めが、女人に囲まれて調子に乗り腐りおってからに。なんなら今言ってやろうか、ほれ、ぎゃふん」


「……………………」


 まるで小さな子供の屁理屈の様な天外の返答に、雪輝と鬼無子はもはや怒りなどという感情を超過して、呆れ果ててなにか口にする気にもなれなかった。

 一人と一頭から向けられる見下げ果てたと言わんばかりの視線を無視して、天外は一人別世界の住人のように、一生懸命に筆を動かしているひなへと矛先を変える。


「ひな嬢ちゃん、ちょいとわしの話を聞いちゃあくれんかね?」


ひなは天外の事を、雪輝に対して穏やかならぬ発言を繰り返す所ばかりは苦手としていたが、基本的に薬の件や筆具一式、飴玉などを譲ってもらった経緯から好意的である。

 動かしていた筆を止めて、ひなは鏡の中の小さな天外の顔を見る。ほとんど瞳の見えないほど細められた瞼の向こうで、天外の目が小さな悪戯を楽しむような光を宿していた事に気づいていたかどうか。

 少なくとも雪輝と鬼無子が不機嫌を宿した瞳で天外を見つめている事には、気づいていなかった。


「わしの工夫を凝らした禹歩うほをひな嬢ちゃんに教えてそこそこ経ったじゃろ? わしが連絡のつけられんかった時は鬼無子嬢ちゃんがそちらの面倒も見てくれたようであるしの。そろそろ成果をわしの目で確かめとこうかと思っての」

 

 禹歩というのは、海の向こうに在る大陸から、この神夜の国に陰陽術と共に流入してきた歩行呪術の一種で、地面に星座に見立てた歩を踏んで邪気を払うものだ。

 基本的には呪文の詠唱と共に歩を刻むのだが、自称仙人の工夫が凝らされた天外流禹歩は、単に足捌きのみでも効果を発するより実戦向きの代物に変わっている。

 剣術のほか補助として陰陽術を齧っていた鬼無子の目にも、天外独自の呪術仙術は新鮮かつ独創性に溢れており、学ぶ所が多いものであった。

 ちなみにひなが現在習っているのは禹歩の他、炎除けや冷気除け、毒除け、雷除けなど妖魔が主に備える異能に耐性を備える呪符の作成方法である。


「成果をお確かめになる、と仰られますが禹歩をして見せればよろしいのですか、天外様」


「いや、ひな嬢ちゃんの足捌きが正確なのは前に見た時から分かっておるからの。今回はきちんと効力を発しておるかどうかの確認だの。なに、やることは単純じゃよ。雪輝と真正面から対峙して、奴めに禹歩の邪気払いの効果が及ぶかどうかを見るのじゃ」


 雪輝を生きた的にするのだ、という主旨の天外の言葉を理解するや否や、ひなは顔に怒りの朱をたちどころに昇らせて、その場で立ち上がり幼いながらに鬼女を思わせる憤怒の視線を鏡の向こうの、枯木に生側を張り付けたような老人にぶつけた。


「天外様、口にしてよい事と悪い事がございます!! 諧謔かいぎゃくに富んだ天外様のご気性は私も多少なりとも理解しているつもりですが、雪輝様を狙えだなんて、あんまりなお言葉です!!!」


 心の底から噴き出す怒りがひなの心中で渦を巻いているのか、ひなの舌鋒は常になく鋭く、また火を噴かんばかりの熱量が込められている。

 ひなはこの場でもっとも非力でちっぽけな少女に過ぎなかったが、その小さな矮躯からは相対する者に有無を言わさぬ迫力が溢れだし、ひなを小さな巨人のように感じさせる威圧感を放っている。

 ひとえにひなの雪輝に対する愛情の成せる技であった。

 初めて耳にするひなの声量と聞き間違えようのない怒りの響きに、雪輝と鬼無子も揃って驚きの表情を顔に張り付けて、指の付け根が白く盛り上がるほど力を入れて握っているひなの様子を心配気に見やる。

 雪輝など傍から見ていて哀れなほど明らかなほど、はらはらと慌て果てている。ことひなが関わると沈着冷静という言葉を、はるか遠方に放り捨てる悪癖がこの狼には強く根強いている。

 鬼無子と雪輝が心配そうにしているのとは正反対に、天外はひなの怒りも想定の内であったか、ふふん、と耳にした人間の神経を逆撫でする声を出す。

 この老人、全身を構成する細胞から性根の芯に至るまでが、皮肉と嘲笑で出来ていてもおかしくはなさそうだ。


「くく、よほどひな嬢ちゃんは狼めが愛おしいと見えるの。安心しろ、といえばよいのかお前さんの禹歩程度の邪気払いでは雪輝に傷一つ負わせられんわい。承諾も得ておるから気にせずドカンと食らわしてやるべきじゃの」


「雪輝様?」


 冷たくもなく厳しくもないひなの声を耳にして、雪輝は全身をびくりと大きく震わせた。そうさせるだけのものが込められたひなの声と、視線であった。

 なぜかひなの怒りの矛先が自分に向けられたような気がして、雪輝はきゅ、と心臓が音を立てて萎んだと錯覚する。

 ここ最近の雪輝とひなとの力関係を考えれば、長い尻尾をお股の間に挟まなかっただけまだ面目を保ったとここは褒めるべきであろう。

 かつてひなが初めて雪輝を目にした時の、息をする事さえ忘れてしまう圧倒的な威厳が、雪輝から失われてすでに久しい。

 命がけの戦いの場に臨めばともかく、日常生活においてはもはや完全にひなに軍配が上がっていた。

 ここは堪えるべきところですぞ、と鬼無子は無言で雪輝に精一杯の激励を送る。はっきり言って今のひなに対して、雪輝を擁護する言葉を吐く勇気は鬼無子にもない。

 そうするくらいならば、百の妖魔が蠢き犇めく魔窟に単身で挑む方を鬼無子は選ぶ気持ちであった。

 とりあえず激励だけはする鬼無子の心の声が届いたのかどうかは定かではないが、雪輝は真摯な態度で話をしようと、腹の底に力を込めて気合と居住まいを正して、ひなの瞳をまっすぐに見つめる。

 雪輝の青く濡れた瞳に見つめられると、ひなはいつも心の奥底まで見透かされたような気持ちになり、怒りで乱れた心の水面がすっと静まるのを実感する。

 ひなの言動に雪輝が大きく翻弄されるようになったのは事実だが、ひなもまた雪輝の行動の一つ一つに心を大きく動かされている。

 特にひなは、雪輝の瞳に見つめられると強く意思を保つ事が出来ず、感情という名の炉の中で轟々と燃え盛っていたはずの怒りの炎は、見る間に勢いを弱めてしまう。

 雪輝の瞳とひなの瞳が交差して数秒、鬼無子と天外でもはっきりと感じ取れるほど、ひなの発していた憤怒の雰囲気が霧散して、代わりにひどく悲しげで儚い雰囲気が新たにひなの全身に目に見えない衣の様に纏われた。


「ひな、君に黙って承諾した事はすまないとは思う。ただ、私は私なりに良かれと思っての事だ。ひなが天外に教わった護身術を確かめるために、わざわざ外に出て妖魔達を捕まえて試すのでは時もかかるし、また実験台にされた妖魔達も気の毒な事。天外とはいつでも連絡が取れるというわけでもないし、天外の目に見える形で試すのはいささか手間もかかろう。ならば、いつもひなのそばに居る私で試すのが手っ取り早い」


 雪輝の語る言葉に、ひなは黙って耳を傾けてはいるが、到底納得はしていない様子であった。


「それに天外も言ったように学んで日の浅いひなの道術や呪術では、いくらなんでも私に傷を着ける事は叶わぬよ。それに」


 とそこで一つ区切ると、雪輝はひどく人間的な柔らかな笑みを浮かべて言う。


「人の子が自分の親にじゃれつく時、何を遠慮することがあろう。ひなも父君に構ってもらったことはあるだろう。その時に、父君を傷つけないようにと気を遣ったりしたのか?」


 記憶の彼方で宝石のような輝きを放つ、まだ生きていた両親との思い出の中には、雪輝の問うてきたとおり、父の体を気遣うことなく体力の続く限りじゃれつく自分の姿がある。

 自分の様な子供が何をした所で父は困る事も傷つく事もないという、肉親である父親に対する絶対的な信頼感。

 それがあるからこそ、子は親に対して何の遠慮もなくじゃれつき、遊びたがろうとする。雪輝が言っているのは、その父と触れ合っていた時と同じつもりで来なさいという事だ。

 雪輝もまた慈しむべき我が子を全力で構ってあげようとする親の様な気持ちであったのかもしれない。しかれども親の心子知らず、また子の心親知らず、両者の想いはすれ違っていた。


「そんなことはありませんでしたけれど……。それでも私は雪輝様にわずかなお怪我をさせるような事がないとしても、手向かうような真似はしたくありません。どれだけ問題の無い事だと言葉を重ねられても、雪輝様を的にするなどと口にするのはおやめ下さい。雪輝様も、私に雪輝様を傷つけさせるような事を承諾しないでください。私は、私の手で雪輝様を傷つけるかもしれないなどと、考えたくもないのです」


 雪輝の想像をはるかに超えてひなの心が抱いた怒りと悲しみと恐怖は深く、重いものであったのであろう。

 ひなの円らな瞳からは大粒の透明な真珠の様な涙の粒が後を絶やさずに流れだし、ひなの艶やかな頬と卵を逆さにした様な顎を伝い落ちて、床にいくつもの染みを作りだす。

 雪輝が文字通りの狼狽を示すかと、鬼無子が固唾を呑んで雪輝を注視すれば、聡明さと愚かさを併せ持った狼は、困ったように微苦笑するとしゃくりあげるひなの頬に鼻先を寄せる。


「すまぬ。二度と口にしないと約束する」


 それだけ口にすると、雪輝は真っ赤な舌を伸ばしてひなの頬を濡らす涙をそっと舐め取った。

 優しさばかりが込められた雪輝の行為に、ひなの心は慰められて更に雪輝の存在を感じたい衝動にかられて、白銀の毛並みに覆われた雪輝の首筋に縋りついた。

 くすんくすん、と小さく鼻を鳴らして涙を流すひなを、暖かな眼差しで見守る雪輝の様子に、鬼無子はそろそろと息を吐いて鉛を呑んだ様に重たくなっていた気持ちが楽になった事に安堵する。

 雪輝がひなに謝罪しながら慰めている様子を確認し、鬼無子は大元凶である天外を、今度は視線で睨み殺すつもりで睨みつけ、何も映っておらず暗黒に染まる鏡に気付いた。


「に、逃げた……」


 逃げるが勝ちとばかりに、天外は鏡を用いた遠距離通信を一方的に切っていたのである。あまりに身勝手な天外の所業に、鬼無子はしばしの間開いた口を塞ぐ事を忘れた。


<続>


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