その四 武影妖異
その四 武影妖異
「ぬう、なぜだ?」
と、雪輝は器用に右の前肢の肉球で、凛に拳骨をもらった額のやや上の辺りを撫でていた。
衝撃を劇的に吸収する毛並みが拳骨の威力を大幅に減殺していたので、痛みは残っていないし、瘤ができた様子もないが、多少じんじんとする感覚が残っている為、ついつい撫でてしまっている。
「知るか、自分で考えろ。この馬鹿、阿呆、間抜け、図体しか取り柄のない木偶の坊めが」
耳を前方に倒しながら悩む雪輝の呟きに、凛は呵責ない言葉の羅列で答えた。そんな一人と一匹を、きっちりと衣服を着込み終えて、長い髪に絡みつく水の名残を拭き取りながら、ひなと鬼無子は苦笑と共に見守っていた。
結局ひなは雪輝が何を指して大中小と語り、凛がその言葉のどこに怒りを覚えたのか分からなかった様子で、拳骨をもらった雪輝の心配ばかりしている。
せっかく自分の心の中の葛藤に折り合いをつけて、雪輝と仲直りをしたばかりだというのに、今度は凛の逆鱗に触れてしまって、ひなの心は落ち着く暇がない。
「さ、もういいだろう」
「はい、ありがとうございました」
持ってきていた手拭いで自分とひなの髪を拭い終えた鬼無子が、雪輝に助け船を出した。
三人の乳房を比較して大中小などとのたまった雪輝であるが、そこに肉体的特徴を揶揄する意図や、情欲が無い事は分かりきっている。
時に妖魔の中には人間と情交を交わす事に異様な快楽を得て執着するものや、性行為そのものを存在意義とする淫魔と呼ばれる種がおり、国のあちらこちらで妖魔と人間との合意非合意を含む婚姻の話が伝わっている。
そういった実例が存在する以上、狼の形状をしているとはいえ雪輝が人間相手に肉の欲望を抱かないとは限らない。
が、寝食を共にして過ごした数日間の様子を見る限りにおいて、雪輝にその様な性質が無い事を、鬼無子は既に理解していた。
「凛殿ももうその辺で勘弁して差し上げてはどうか? 雪輝殿がいささか軽率であった事はそれがしも否定せぬが、悪意あっての事ではないよ」
「ふん、所詮犬畜生の姿をしている妖魔だから、と気にしないでおいたらふざけた事言いやがって。次に同じようなふざけた事をその長い口から吐こうもんなら、今度は拳骨一発じゃ済まさないからな!」
有言実行、まさに凛の気迫がそれを伝えている。口にしたとおり、雪輝が今回と同じように凛の逆鱗を毟る言動をしたら確実に血が流れる事態になるだろう。
凛と雪輝のどちらが血を流すにせよ、ひなを悲しませるのは間違いないから、雪輝は首を縦に振るほかない。
良くも悪くもこの狼の最優先事項にはひなの存在が煌々と輝きを放っており、自分の命を疎かにするのはもちろん、それが他者にも及ぶ傾向がある。
「どうして私はこう、怒らせるつもりはないのに怒らせてしまうのだろうか?」
捩じ切らんばかりに首をひねり、人生最難関の難題に挑む口調で雪輝は深い深い悩みを伴うが、ひどく底の浅い疑問を口にする。
確かに雪輝にいわゆる悪気というものは砂粒一つほども存在していないのだが、口にして良い事と悪い事、それを告げる相手、場所、時間というものを判断する力がいかんせん欠乏している。
ひなとの暮らしの日々も二週間を超えているが、雪輝と同様にまともな人間としての扱いを受けた時間の短いひなとの生活であるから、その間に経験した事は必ずしも豊かとは言い難い。
無論、これまで孤独に生きた雪輝の灰色の生活と比べれば、ひなとの暮らしは世界がどれほど鮮やかな色を持っているかと感嘆するほど彩りに満ちたものである事は、紛れもない事実である。
手製の麦藁帽子を頭に乗せたひなが、すっかり肩を落として消沈している様子の雪輝の前のまでちょこちょこと歩み寄って、俯く雪輝の頬を小さな手で挟み、まっすぐに瞳を交わして慰めの言葉を口にする。
「元気を出してください、雪輝様。怒らせてしまったのなら素直に謝って仲直りをしましょう。私と雪輝様だってもう何時も通りに仲直りできましたでしょう? 凛さんもちゃんと謝れば許してくださいますよ」
「そうかな?」
「はい」
にこやかに笑って保障するひなに勇気づけられたようで、雪輝は怒り心頭といった様子を隠さずに振りまいている凛へ目を向ける。
傍からその様子を見ていた鬼無子は、やはり雪輝殿はひなに励まされるのが何よりの薬と見える、と一匹と一人の間に繋がっている絆の太さと強さを見て、うむうむと我が事の様に喜びながら頷いていた。
「凛、私が要らぬ事を口にしたばかりに君の機嫌を損ねてしまい、まこと済まぬ。この通り謝罪する」
そっぽを向いて耳だけ雪輝の言葉に傾けていた凛は、ちら、と振り返った先で頭を下げている雪輝の姿を認め、数瞬の間を置いてから長く重い溜息を吐きだした。
こうも素直に頭を下げられては怒りの矛を収めずにいる自分の方が理不尽な頑固者の様だ。
素直な雪輝の謝罪に加えて、雪輝の首筋を優しく撫でているひなもまた凛に向かって真っ直ぐな瞳を向けており、これ以上怒りの虫を腹の中に貯めておく気力は、到底振り絞れそうにない。
「ここで折れなかったらあたしの方が悪者じゃないか。ああくそ、もう怒鳴りゃしないからさっさとその毛むくじゃらの頭を上げろ。お前一匹ならともかく、ひながくっついているとどうにも調子が狂っちまう」
なかば自棄なのか、凛はまだかすかな湿り気を帯びている髪に手を突っ込んで荒っぽくがしがしと掻く。
元から雪輝のどこか感性のずれたゆるい性格と凛とでは相性が良いとはお世辞にも言えず、調子を狂わされるものがあったのだが、こちらの心の奥深い所を見抜いているようなひなの瞳も一緒となると、これはもう完全にお手上げになる。
「気にするだけ損と思ったら今度は怒り損か。あたしが損するばかりだ」
とはいえ納得がいっているわけではなく、凛は髪の毛を布で纏めつつ、辺りを憚らぬ声で愚痴を零す。
これは確かに凛の言う通りの事なので、鬼無子は苦笑し、ひなと雪輝はなんのことやらと顔を見合わせている。まこと、凛は自身が口にした通り損するばかりの性分と運命に在る様だった。
「ほら、凛さんも許してくれましたよ」
「ううむ、あの様子はまだ怒りの矛が収まりきってはおらぬように見えるが」
「そのうちに収めてくださいます。ですから雪輝様はこれ以上凛さんを怒らせないように気を使いましょうね。私も出来うるかぎりお手伝いいたしますから、ね? それとも、私の様なものでは何のお役にも立ちませんか?」
ちょっとずるいかな、と自分でも思うひなの言葉に、雪輝は雷に打たれたように反応して見せた。
ずずい、とひなに向けて顔を突き出して慌てたように首を左右に振るやいなや、ぶん、と千切られた風がひなの頬を優しく撫でた。
「とんでもない! ひなが役に立たぬなどと私は口が裂けても言わぬし、心臓を抉られても言わぬ」
「それはよろしゅうございました。私、雪輝様に大切にしていただけて大変嬉しく思います」
「ああ。とにかく凛の機嫌を損ねぬように善処いたそう」
またひなの自分自身を嘲り軽んじる悪い癖が出たのかと慌てた雪輝は、実際には半ばからかう気持ちでいたひなの言葉に、ころっと騙されて安堵の息を吐きながら、応じた。
どうも雪輝の扱い方をひなが理解し始めた事によって、両者の力関係をあらわす天秤は大きくひなの方に傾き始めているようだ。
とりあえずは怒りを腹の中に飲み込んだ凛と、一人と一匹で頷き合っているひなと雪輝の様子からひと段落ついたと判断した鬼無子は、腰帯に鉄鞘におさめた崩塵を押し込み、風に靡く栗色の髪を結える。
青く染めた絹の組紐をたおやかな十本の指が器用に操り、一本一本が最高級の絹糸のように細く美しい髪を束ね終える。
「さて、ちょうどお天道様も真上にくる時刻の様ですな。それがしの目的は果たしましたが、後は小屋に戻るばかりですかな?」
「そうだな。このまま川の流れに沿って下れば、いつもひなと水汲みや洗濯に使っている場所まで行けるから、今から向かえば四半刻(約三十分)ほどだから昼の支度をするよい時刻になるかな」
首を上向けて目を細めながら青く晴れた空に浮かぶ太陽を見詰めた雪輝が、そう呟く。鬼無子の荷物拾いは存外に予想より早く終える事が出来たものの、その後の滝壺での水浴びで少々時間を食ってしまった。
顔を戻した雪輝は、鬼無子、凛の順で視線を交わし、口を動かさずに無言の意を通じ合わせた。ひなのみが気づいていない何かがあるらしい。
無言の会話を終えて言葉を発する先鋒を担ったのは鬼無子であった。腰に差した崩塵の具合を確かめるように数度動かしながら
「ふむ、しかし、ここは雪輝殿の仰るように天地の気が澄んでおりまするな。それがし、もうしばしここで素振りなどしていきもうす。皆様方は先にお戻りくだされ。戻りの道は先ほど雪輝殿が仰りましたように、迷い様がございませぬしご案じめさるな」
と口にする。どこにもおかしな様子はなく、気持ちの良い場所で素振りをしよう、と本当にそう思いついたようにしか見えない。
雪輝は鬼無子の言葉に承服しかねるものを感じたのか、かすかに白銀色の眉間に浅い皺を刻むが、それぞれの役割を冷静に判断した凛が鬼無子の意見を後押しした。
「帰り道は心配ないってんだし、あたしらはひなを連れてさっさと小屋に戻ろうよ。鬼無子さんが迷子になりゃしないかって気にすんなら、小屋にひなを置いてから鬼無子さんの所に向かえばいいしよ」
凛の後押しに雪輝は、ん、と短く一言。白猿王の一派の襲撃を受けた際に鬼無子が冥府に半歩足を踏み込み、瀕死の重傷を負った姿が脳裏にちらついて離れないのだ。
そのような事態になりかねないなにかが、滝壺の近くで息を潜めて雪輝達の動向を見守っているということなのだろうか。
これまで重要な時に判断を誤ってきた雪輝は、心細げな瞳を幼い弟を宥める優しい姉の様な微笑を浮かべている鬼無子に向ける。
自らの判断を誤り鬼無子を失うかもしれない事への不安と、鬼無子の身の無事を案じる心配の色がいまにも瞳から溢れだしてきそうな雪輝の両眼を、鬼無子は見つめ返した。
「なに、傷はもう癒えてございますし、それがしの身一つなれば猪や熊の群れと出くわしても、一刀を浴びせて追い払って見せましょうぞ。重ねて申し上げまするが、ご案じめさらぬよう」
あまり時間が無いという事なのか、鬼無子は有無を言わぬ力を込めて雪輝に行動を促す。それからまたしばし見つめ合い、ひょう、と風が一つ強く吹いた時、先に折れたのは雪輝であった。
やるせなさそうに大きな首を左右に振ってから、その場で腹ばいになる。
「鬼無子を一人で置いてゆくのは心細いが、それが望みであるなら尊重するほかあるまい。凛、ひな、私の背に乗りなさい。万に一つ、迷子になるかも知れぬから、小屋に二人を届けたらすぐに鬼無子の所へ行く事とする。よいな?」
こればかりは譲らぬぞ、と今度は雪輝が揺るがぬ意志を秘めた瞳で鬼無子を、次いで凛を見つめる。
三人の間で言外になにかが論議されている事に気づかぬひなは、やけに雪輝様がごねていらっしゃるなぁ、と普段の物分かりの良い雪輝とは程遠いやりとりにか細い小首を傾げていた。
「では一刻も早くそれがしを迎えに来てくださるのを、首を長くして待つとしましょう。ひな、済まぬが風呂敷を持って行ってはくれぬかな?」
「はい。構いませんよ。大事にお預かりいたします」
差しだされた風呂敷を受け取ってから、ひなは雪輝の長く広い背に跨り、さらにその後ろに凛が乗り込む。
対峙して命のやり取りをした経験こそあるものの、雪輝と穏やかな直接的な接触をした事のなかった凛は、触れるどころかまさかその背中に跨る事になるとは思っていなかったようで、おっかなびっくり雪輝の背に足を伸ばした。
「お、おお。結構良い毛並みしているなお前」
鬼無子を魅了した極上の“もふ”っとした感触に、思わず凛が頬を緩めながら感想を零す。
普段ならありがとうの一つも返す雪輝であったが、事情が事情だけに今回ばかりは素っ気ない返事になった。
「それはどうも。さて、ちゃんと落ちないように掴まっているか? 思い切り掴んで構わん。まとめて十本二十本を根元から引っこ抜かれても半日もすれば生えてくるからな」
「お前、けったいというか便利な身体しているんだなぁ――――」
呆れているような感心しているような凛の声は、尾を引いて後方へと急速に流れた。
ぐん、と急加速によって加えられた力によって、凛の上半身がのけぞり、慌てて雪輝の背中の毛を纏めてひっつかみ、両足に力を込めて雪輝の胴体を挟み込んで落下を防ぐ。
二人の着席を確認した雪輝が、改めて確認する間も惜しいとばかりに即座に足を動かし始めたためである。
最初の一歩から風の邪神に攫われてしまったかのように速く、ひなと凛の視界は見る間に水で溶いた絵の具の様にゆるく後方へと流れて行く。
雪輝の速さに慣れていたひなは驚くよりもむしろ楽しんでいる様子だったが、初体験の凛は同時に走りだした駿馬もはるか彼方においてゆく雪輝の健脚に驚いたようで、開いた口を閉じる間もない。
白銀の風と変わった雪輝は一瞬とも言えぬ短い時間、毛並みを風になびかせながら背後を振り返ると、こちらに軽く頭を下げる鬼無子の姿が見えた。
一匹と一人の瞳が交差し、鬼無子の瞳に変わらぬ意志の強さを見つめて、雪輝はさらに肢の動きを速めた。
鬼無子と凛と雪輝が気づいた悪意ある気配は、妖魔というには妖気に薄く、野の獣というには悪意に満ち溢れ、その正体を断ずることは雪輝にはできなかった。
(傷の癒えた鬼無子が遅れを取る様な相手はこの山にもそうはおらぬが、しかし、内側の妖魔どものどの気配とも異なるものだった事が唯一不安だな)
あの気持ちの良い剣士を失ったのかという思いは、白猿王との戦い、一度きりで十分にすぎる。
雪輝は鬼無子の意思の固きを察して折れたが、その事を後悔するような事にならぬのを切に祈るばかりであった。
*
「思いのほか雪輝殿は折れてはくださらなかったな。まあ、それがしには前科もある故、仕方のなきこと」
前科とは無論白猿王によって死の淵に追い込まれた事だ。自身を囮にした白猿王の目論見にまんまと嵌まってしまった雪輝にも落ち度があったが、それゆえにいまも雪輝は気にかけているのだろう。
あの戦いは鬼無子にしても怪我を負っていたとはいえ、体内の妖魔の血を活性化させるまでに追い込まれた苦い記憶の戦いだった。
「本当に人の、いや、狼の良い方だ。前世は高徳の僧であらせられたのかもしれぬ。もっともそれなら妖魔に転生するなど考えられぬ事ではあるが」
冗談のつもりで口にした事が、わりと的を射ているような気がして、鬼無子はふむん、と小さく零す。
生まれた時から対妖魔戦闘を骨身と魂に叩きこまれた鬼無子は、三桁に届く妖魔や怨霊、呪術士の類と刃を交えてきたが、中には人と共に生きる妖魔や善行をなすものもいたが、雪輝ほど外見にそぐわず童の様に無垢な心を持った者も珍しい。
命を救われた恩義もあるが、ここ数年来久しく忘れていた穏やかな気持ちを思い出させてくれたことには、いくら感謝してもしたりないと、鬼無子は心から思っている。
故に鬼無子が口を開いた時、紡がれた言葉は氷の如き冷たく鋭く研ぎ澄まされた刃に等しかった。
「妖魔といえども雪輝殿はそれがしにとって大恩ある御方。害を為そうと企みよるならば、それがしとて黙って見過ごすわけには参らぬ。既に命運尽き果てた身であるようだが、人の心がわずかなりとも残っておるならば潔く姿を見せられよ」
言葉と等しく刃のように鋭く細められた鬼無子の瞳が、織りなす巨木をその視線で断つかのように睨みつける。
たとえ山に生まれて育った獣といえども到底入り込めないような、まさしく牢獄の格子を模す木々の壁の中から、一つの影が水が薄紙に沁み込むようにして姿を現した。
青白い光を蛍火の様に全身から零しながら姿をあらわにしたのは、六尺(約百八十センチ)近い長身の男であった。
しかし泥から作り上げたように目鼻のはっきりとした区別はつかずのっぺりとしており、精密な顔立ちを判ずることはできない。分かるのは碁盤のように四角い身体と顔、そしてぼうぼうと伸び果てた蓬髪くらいだ。
夜の闇に明滅する蛍のように淡く発光する全身、彫る事を途中で放棄した能面の様に凹凸の乏しい顔、木の葉を踏みしめても足音一つ立てず、また呼吸をしている様子もないその姿に、鬼無子は予想が的中していた事を認める。
――死霊。それも、相当に腕の立つ武芸者の、か。
恨み辛みが晴れきらず死後も現世に留まる死霊は、鬼無子にとって幼少のころから幾度も斬り、そして斬られた事もある相手であり、その気配から正体を察することは難しい事ではなかった。
雪輝が人間の死霊の気配に気づかなかったのは、単純にこれまで彼が戦ってきたのが強烈な妖気と物質化する寸前の悪意を放つ妖魔と、過酷な環境に生き独自の技を持ってはいるがあくまで生きた人間である山の民(というか凛)だけであったためで、人間の死霊と対峙した経験が無い為である。
のっぺらぼうの死霊は襟や裾が擦り切れた小袖と野袴という、剣を奉げるべき主君を持たぬ浪人としてはありふれたもので、立場はそう変わらぬ鬼無子と似たような格好である。
「肉も服も霊子で形作ったもの。しかし得物ばかりはこの世のもの。月形十文字槍……いや、両鎌槍か。これは何百年前の死霊であることか。それほどの時を怨恨と共に過ごすとは、哀れな」
霊子とは肉体を失った霊魂の類が物理的な影響力を得るために生み出す、一種の霊媒物質であり、海を越えた先に在る大陸のさらに西方の地域に住まう魔術師たちが、エクトプラズムと呼ぶものを指す。
幾百年の時を経て実体を得た死霊が右手に持っている得物は槍であった。
鈍く陽光を三日月の形に跳ね返す副刃が真中の槍穂の付け根から伸びている。
稲妻の如き突きをかわしても左右に伸びる副刃が、かわした敵の肉を裂く武器で、突くと斬るを両立した厄介な品だ。
鬼無子が口にした両鎌槍とは、いまから二百年近く昔に用いられていた槍の事で、主となる刃の左右から鎌状の刃が伸びている代物で、現在一部の流派で使われている十文字槍の原型となったものである。
形状のわずかな違いから、鬼無子は死霊の構える槍が前時代のものであると看破したが、その推測に間違いがなければ、この死霊は百年単位の昔にこの山で命を落とした武芸者という事になる。
両鎌槍の罅割れの目立つ柄を右の脇に挟むようにし、三つに分かれた刃を地面に向けた死霊は一歩また一歩と、泰然とした様子でゆらりゆらりと鬼無子に近づいてくる。
まずもっとも知覚器官の鋭敏な雪輝が、次いで対妖魔戦の経験に長け探知能力を鍛え上げた鬼無子が、そして最後に山の気の乱れから凛が気づいた死霊の狙いは、いま立ちはだかっている目の前の鬼無子ではなく、既にこの場を後にした雪輝である。
雪輝が真っ先に死霊の存在と接近に気付いたのは、死霊の放つ悪意の矛先が雪輝を中心としていた為だ。それゆえに他の二名が気付くのは雪輝にいくらか遅れたのだ。
雪輝の気質であれば自ら迎え討たんとする所であろうが、恩義ある身として鬼無子が先に立ちはだかり、こうして対峙することとなったのである。
この場から消え去った雪輝の姿を追うように目と言えぬ目を向けていた死霊であるが、立ちはだかる鬼無子を排除しない事には目的を果たさぬと理解するだけの知性は残っていたようで、足を前後に開きながら鬼無子の前で歩みを止める。
ゆっくりと地を摩りながら死霊の足が開かれ、腰だめに両鎌槍が構えられる。左右に湾曲して伸びる両鎌の刃は所々が欠け落ち、満足に人の肉を裂く事も出来そうにない。
しかしすべての刃の切っ先に至るまで死霊の妖気と怨恨、そして生前鍛え抜いた武の技が沁み込んでいる事は疑いの余地がない。
鬼無子の心臓を狙いぴたりと不動に構えられた槍の切っ先からは、目に見えぬ殺気が細い針となって放たれ、ぶすりと幾本も射抜いている。
常人ならばそのまま心臓が鼓動を刻む事を忘れて死に至る。それほどの殺意を受けながらも、鬼無子の顔色に変化は見られない。
すでに死霊を前にした時から退魔の一族に生まれついた精神と、人の肉体に混じる妖魔の血肉が戦いの予兆を感知して、鬼無子という一個の存在を戦闘に特化した異形の存在へと変容させていた。
「何とも堂に入る槍構え。名乗る心さえ失う前に一手ご指南に預かりとうございましたぞ。それがしは元討魔省四方木流妖滅士、四方木鬼無子」
鯉口が切られ、数千超の退魔調伏妖滅の文字が刻まれた刃が陽光を浴びて白々と輝く。
いつ恐るべき槍の一突きが来るとも知れぬというのに、崩塵は同じ響きの霊鳥がはばたく様に緩やかに鉄鞘から抜き放たれた。
抜刀の最中を狙われても躱してみせる自信があるからか、あるいは鞘で受ける心算であったものか。
鬼無子の白いかんばぜには過剰な緊張も恐怖も不安もない。
一個の剣士として目の前の手錬のもののふを斬る、その一事にのみ集中している。
「拙き技なれど、身命を賭してお相手を務めさせていただきまする」
慇懃な物言いを吐き終えると同時、鬼無子の体は蜃気楼の中に飲み込まれたように左右にぶれた。
神速としか表現のしようが無い槍の一突きを左右に伸びる鎌刃もろとも躱す為に、大きく右に飛びのきざま、鬼無子は崩塵の刀身で自分の首を落としにかかる鎌刃を弾く。
きぃん、と山の果てにまで届くように甲高い金属の衝突音が鳴り響いた。
両鎌槍を弾いた崩塵を握る右腕に、じん、と痺れが広がる。身体の中に小さな虫が入り込んで、直接骨を齧られているような苦痛を伴う痺れであった。
やはり、という思いが鬼無子の脳裏をよぎる。
肉の体という枷を離れ、実体を得た霊魂はその素性が人間であれ獣であれ、生前の身体能力をはるかに上回る力を発揮する事例が数多く存在する。
人間を例に挙げれば、生きている人間の肉体は本来その持てる力を十全に発揮することはできない。潜在的に有する力を完全に振るえば、肉体の方が保たずに壊れてしまうからだ。
その肉体の枷から解き放たれて実体化した霊魂は、往々にしてこの目の前の死霊の様に生前をはるかに上回る身体能力を有するに至る。
破裂する心肺も折れる骨も爆ぜる肉と皮も溢れる血潮も失ったがために。
生命と肉体と心を対価とする事で、死霊は生きていた時には望むべくもなかった超人の力を得るのだ。
さらには肉体の喪失に対する恐怖や痛覚といったものを持たぬ事も多く、相対した時、人間の死霊は通常の妖魔をはるかに上回る強敵となる。
鋭い呼気を一つ吐き、鬼無子は呼吸を止めて繰り出される槍の穂先を崩塵で弾き、身のこなしでかわす作業に没頭した。
青白い尾を引く流星と化した両鎌槍が幾筋もの輝線を描いて、鬼無子の肉を貫くべく飽きることなく繰り出される。
常人の心肺能力では到底実現不可能な止まる事を知らぬ連続突きであった。
鬼無子が一つ突きと鎌刃をかわすたびに、代わりに風が貫かれ陽光が切り裂かれ、声なき断末魔をあげて絶命してゆく。
そう錯覚するほどに凄まじい豪槍の唸り、鎌刃の鋭き一裂き。
強敵を前にして鬼無子の武人としての血潮が次第に熱を帯びて行く。己の武技が及ばぬかもしれぬ強敵との邂逅を、歓喜と共に迎える度し難き剣士としての本能である。
我知らず鬼無子の唇の両端がかすかに吊りあがり、朱色の三日月が美貌の妖剣士の口元にうっすらと輝きを放つ。
鬼無子の命を狙う豪槍は突く速度も凄まじいが、伸ばした槍を引き戻す速さもまた凄まじいと形容するほかない。
引き戻すのに機を合わせて槍を掻い潜り懐に飛び込まんと狙う鬼無子が、幾度も機会に恵まれながらも足を踏み出せぬ最大の理由が、槍を引き戻すその速さにあった。
踏み込む速さと同等かそれ以上の速さで槍が引き戻されては、踏み込む決断などできはしない。
また槍を掻い潜ったとても、死霊の腰には脇差しが一振りある。
懐に飛び込んでくる鬼無子に合わせ、槍から片手を離して脇差しを抜いて迎えうつも由、あるいは引き戻す速さに全力を傾注して、踏み込む鬼無子より両鎌槍が早ければ鬼無子の首を背後から鎌刃が襲うだろう。
戦闘に身を置き高速化した思考の中で、鬼無子はこれまでの生のほぼすべてを妖魔との戦いに奉じた経験から、死霊化によって得たであろう槍武者の戦闘能力を分析していた。
肉の殻を喪失し魂と精神を剥き出しにした事によって、異能を得る者が稀に存在するが、目の前の死霊はその例からは漏れるようだが、その分生前研ぎ澄ました武技が数段殺傷力を増している。
もし、この両者の戦いを覗く第三者がいたならば、網膜に鬼無子の姿が残っているうちに、さらに新たに生じる鬼無子の姿に当惑したことだろう。
瞳に残像がはっきりと映るほどに速い鬼無子の身のこなしがその理由だ。一方的に攻めると見える死霊が、死によって人の域を超えた武技を誇るように、鬼無子もまたその身に生きながらにして妖魔の血肉を取りこんだがゆえに、人の域を超えていた。
「疾っ!」
紙縒りの様に細く、針のように鋭く鬼無子の唇から気合と吐息が吐かれるや、鬼無子の全身から崩塵の切っ先に至るまで、研ぎ澄まされた闘気が行き渡る。
幾十度目になるのか、並みの武芸者が相手であったならば突いた数だけ死体を築いたであろう死霊の槍が一直線に伸び、集中の度合いを一段階深めた鬼無子の腕は黒雲切裂く雷光のごとく閃いた。
三日月を貫いたような槍の影と、孤月を描く崩塵の影とがある一点で交差し、耳元で巨大な玻璃の鐘を打ち鳴らしたような高音が鳴り響き、周囲の木々を大きく揺らした。
鬼無子が瞬時に両手で握り直した崩塵の一刀を、鉄槌を振るうかのごとく両鎌槍に叩きつけた事によって生じた衝突音。
しかし生命を奪う武具と武具との衝突というには、あまりに儚く美しい音であった。
透き通る高音が残響でもって、織りなす木々の緑の牢獄と白い水しぶきによって煙る滝を揺らす中、三つに分かれる両鎌槍の刃が数百もの破片となって砕け散った。
相当の業物であったろう両鎌槍に死霊の怨念が込められたことによって、尋常ならざる強度を得ていた両鎌槍を砕いた鬼無子の一刀の、凄まじき破壊力よ。
鍛造の始まりからして妖魔の肉体の一部を材料とし、魂を磨き抜いた高徳の僧によって霊的に練磨された崩塵と、死者の怨恨の力を得たとはいえもとは朽ち果てた槍にすぎなかった両者の武具の差。
そして死霊化し人体の潜在能力を完全以上に解放させた死霊をも上回った鬼無子の肉体と、その技量が可能とした結果である。
敵の戦闘能力を大きく支える武具を砕いた事に対し、鬼無子はなんら感情の動きを見せなかった。
相手の力を大きく削いだことへの安心感も達成感もない。
この世に生じたこの世ならざる存在たる妖魔を相手にする限りにおいて、その息の根を確実に絶やし、存在を消滅させるまで気を抜く事など論外であると骨身に刻み込まれているがゆえに、今の鬼無子に油断や安堵といった感情は無縁の代物であった。
両鎌槍の破砕を刃応えから認識したと同時に鬼無子の肉体は神速の踏み込みを見せ、壊された両鎌槍の柄を離した死霊へと、その存在を完全に根絶させるために刃を閃かせる。
死霊の手が腰の脇差しに伸び、輪郭のあやふやなその柄を握った瞬間、崩塵の刃は死霊の左腰から右肩の付け根を一直線に横断して、霊子で再構築された死霊の肉体を二つに断っていた。
一足飛びで踏み込んだ速さよりもそれ以上に、夜空を切り裂く流星の如き鬼無子の刃の速さこそ見事という他ない、閃光と化した鬼無子の一刀に、死霊は反応することさえできなかった。
臓物までも精密に再現された断面から赤い血潮は流れない。生命溢れる血潮は生者のものであるからだ。
代わりに死者の怨恨をたっぷりと含んだ黒い霊子が断面からざあ、と噴水のごとく噴き上がり、鬼無子の視界を覆い尽くす。
たとえ斬られようともその存在が消滅するまで生ある者への魔の手を伸ばす事を忘れぬ、怨霊の恐ろしさがここにあった。
身を引く間もなく生命を蝕む憎悪の黒血が鬼無子の全身を犯す寸前、下方から斜め上方へと降り抜かれて天に切っ先を向けていた崩塵の刀身が青く輝き、主を汚さんとする汚穢な液体をすべて浄化する。
刀身に宿る退魔の霊力は、払拭すべき邪悪の存在に対して一切の容赦なく、その力を発揮していた。
迫りくる二度目の死の足音を目前にし、五指を鉤爪のごとく曲げながら開き、死霊は全身を瘧にかかったように震わせながら、徐々にその存在の密度を薄くしてゆく。
蛍火の様に明滅を繰り返していた全身から、勢いよく光が弾けだすと死霊の体の向こう側の風景が見え始める。
死霊の肉体を構成していた霊子が急速に結合を崩壊させ、大気中に満ちる天地の気と霊力へと溶けてゆく。
崩塵に宿る退魔の清廉な霊力と、鬼無子の振るう苛烈な修行が可能とした斬撃、さらにその身に宿る妖魔の妖力、この三種の力が死霊の存在を斬撃面から浸食し、この世に在る事を許さないのだ。
地獄に落とされた罪人が一条の蜘蛛の糸を求めるかのように、天空に向けて手を伸ばした姿勢のまま、死霊の姿は欠片も残さずに鬼無子の目の前から消失する。
人間離れした五感と第六感、さらに妖気に呼応する崩塵が何の反応も見せなくなったことから、鬼無子はようやく死霊の完全な抹消に成功したと判断し、そろそろと艶やかな唇からひどく凍えた吐息を吐いた。
極度の集中は鬼無子の身体に異常をきたして、いま、彼女の肉体はその体温を著しく低下させていた。
冬山で雪妖に惑わされた哀れな旅人の様に鬼無子の身体は冷え切り、触れればこれは死人の体かと驚きに襲われることだろう。
すぐさま鬼無子は丹田に意識を集中し、身体の深底から気力の熱を生じさせて肉体の代謝機能を正常なものへと戻す作業を続ける。
これまでも凶悪な妖気を総身から迸らせる高位の妖魔や、霊的な力に特化した悪霊の類と刃を交えた時に、このような身体機能の異常に襲われた経験がある。
まる七日七晩衰弱しきり、発熱と急速な体温の低下や痙攣、吐き気、身体が内側から腐ってゆくような苦痛に襲われた事もある。
それらの経験を踏まえるに、今回の戦闘後の後遺症はまだごく軽いもので、すぐに治ると分かった。
きっかり十秒後、指先に至るまで本来の感覚が戻った事を確認し、鬼無子は地面に砕け散った両鎌槍の破片を拾い集める作業を始める。
怨恨に塗れ果て汚れた存在へと堕したとはいえ、その技量には一服の敬意を抱くに値する武芸者の魂への、せめてもの礼儀であった。
微細な欠片一つ残さずに拾い集めた両鎌槍の破片を、地面に掘った穴に埋めて、死者の鎮魂を祈る文言を彫り込んだ木の板を土の山に差してから、鬼無子は数言、冥福を祈る言葉を口にしてその場を後にした。
*
雪輝が口にした通りに、滝壺から伸びる川の流れに従って下る道すがら、鬼無子は己の手の掌をなにかを確かめるようにしてじぃっと見詰めていた。
かすかな困惑と不安の色が、深い闇色の瞳にかすかに揺らめいている。雪輝やひなの前ではけっして見せぬ、この姫武者には似合わぬ弱々しい影を背負った姿である。
負の感情の薄衣を纏うその姿は普段の鬼無子の凛とした姿からは想像しがたい、薄幸の運命を背負った佳人のよう。
いまの鬼無子なら、可憐な白百合の花を手折るようにして容易く殺める事さえできるのではないだろうか。
「山の妖気に呼応したのか、雪輝殿の近くに居るせいか……」
続く言葉を口にする事を、数瞬、鬼無子は躊躇った。
刀を握るには余りに細くしなやかな指は、神に身を捧ぐ巫女の手の様に清らかに見える。その指の付け根が白く盛り上がるほど力を込められて握られた。そこに己を苛む理由の全てがあるとでも言うように、憎悪さえ込めて。
「それがしの中の妖魔の力が増している、な。なぜ、というのは愚かなことではあろうが、本当に、どうして今になって……」
鬼無子の柳眉が顰められた細面に苦々しい感情のさざ波が広がる。
あるいは白猿王との戦いで妖魔の力を濃く発露させた事が切っ掛けとなったのか、鬼無子は妖哭山を訪れる以前に比べ、妖魔の力を引き出すのがはるかに容易になっている事を、死霊との戦いの中で改めて思い知らされていた。
生物としてみれば霊的にも物理的にもはるかに見劣りする人間の肉体に、世代を超えて妖魔の血肉を宿らせ、己が力とする四方木家の宿命が鬼無子の心の水面に黒い滴を落としていた。
心の水面に波紋を立てた一滴の黒い感情は、またたくまにその領土を広げて行き、鬼無子の心の中の大部分を薄く、しかし確かに染め始めている。
四方木家の人間は、力を行使するたびにその割合を増してゆく妖魔の血肉の制御を誤った時、肉体の中の人間と妖魔の比率が逆転し、妖魔としての本能に理性と精神と肉体を支配されてしまう宿命にあった。
苛烈な修行と精神修養によって代々の四方木家の人間は、人間として生を終えられるように努めてきたが、たまさか妖魔の黒血に魂まで犯され、人から妖魔へと転ずるものがその歴史上存在していた。
人間社会における一族の立場を守るため、妖魔へと堕ちた同胞を速やかに処分してきたのはそれまで寝食をともにし、肩を並べて世に仇なす妖魔を討ってきた友であり、恋人であり、親であり、子であった。
いまや鬼無子を残し四方木家の者はことごとく断絶し、妖魔が鬼無子に墜ちた時にその首を刎ね、心臓を貫いて人間のまま死なせる事の出来る縁者はすでにこの世にない。
このままかろうじて人間として生を終える事が出来ればこれは望外の幸運であるが、いざという時は、鬼無子は自分自身の手で首を斬り落としてでも己の生命に始末をつけるしかないだろう。
唯一、自刃する事のみが鬼無子に人間としての尊厳を損なわぬまま死ぬ道なのであった。
それを己の宿命と諦めて受け入れ、家が絶えた後にせめて武士として己がどこまで高みに登れるのかと、諸国を放浪し剣の研鑽に努めてきたが、ここ数日の雪輝とひなとのこれまでほとんど経験した事のない穏やかな暮らしが、鬼無子の中のある種の防波堤でもあった『諦め』を崩してしまっていた。
希望を抱かなければ暗雲に閉ざされて暗い未来しか待っていない己の運命に、必要以上の悲嘆を抱く事もなかったが、望むべくもなかった心穏やかな日々が鬼無子に生きたい、という至極当たり前の願いを抱かせていた。
生きたい、しかし、その身に宿る業がそれを許さない。生きたいと願えば願うほど、自分の体に流れる人ならざるものの血肉への憤りは強まり、それは容易く憎悪へとつながる。
こんな汚れた血さえ流れていなければ。こんな家に生まれてさえいなければ。
人の身では変えようもない事実を否定したい気持ちが、在りえない仮定の人生を求める気持ちが、いくども泡玉の様に生じては鬼無子の胸の中で消えて行く。
考えても仕方のない事よ、いくら否定しようとも目をそらした所で事実は変わらない、これまで同様に諦めるのだ、そう自分自身に言い聞かせて言い聞かせて、鬼無子は自分の心を押し殺す事に懸命になっていた。
だからであろう、歩む先に白銀の狼の姿が見えて、それが恐ろしい速さでぐんぐんと近づいている事に気づくのが遅れたのは。
はたして鬼無子の身をどれほど案じていたものか、雪輝はひなと凛を小屋へと送り届けていた時よりもさらに数段速さを増した勢いであった。
背に乗せた二人を気遣う必要がない分、その身体能力を思う存分発揮する事が出来たからであろうが、それにしても速い、と感嘆するほかない。
どれほどの速さであったものか雪輝の走り去った後は、巨大な質量の通過によって大気が弾かれて真空状態が発生していたほどである。
そのくせ、鬼無子に近づくにつれてほとんど急停止に近い勢いで減速しても、雪輝にはなんら堪えた様子が無い。
慣性の働きによってその四肢にはそれ相応の負荷が加わっているはずなのだが、それをものともしない柔軟で丈夫な筋組織を有しているのか、あるいは妖気を操ることで身体にかかる負荷を緩和しているのものか。
己の世界に埋没するほど自分自身に流れる血への嫌悪に囚われていた鬼無子であるが、雪輝の発する妖気と耳を打つ疾走音があっという間に接近してきた影響で、はっと顔をあげて、既に目の前一間(約一・八メートル)の所で疾走から歩行に切り替えた雪輝の姿を認める。
ひくひくと鼻先を小さく動かし、鬼無子の体から血の匂いがしない事を確認し、雪輝は安堵に口元を緩めた。つい数日前の魔猿達との戦いの二の舞は避けられたのだから、雪輝の安堵も深く大きい。
「良かった。怪我はしていないな。ずいぶん心配してしまったが要らぬことであったかな」
「……いえ、心配させてしまったのはそれがしの未熟ゆえ。お気になさらず」
真っ直ぐに自分を見つめてくる雪輝の青い眼差しを見つめ返す事がなぜかできず、鬼無子はそっと目を反らし、いくらかの間を置いて返事をすることしかできなかった。
今は身体の細胞の内側から発する妖魔の血肉の疼きは抑えられている。
そんな鬼無子の様子に違和感を覚えて、雪輝は小さく首を傾げながら鬼無子のすぐ傍まで肢を運び、鬼無子を慰めるように鼻先をその頬に寄せた。
飼い主を必死に慰めようとする犬の様な所作に、鬼無子のささくれ立った心は少しばかり癒されたようで、所作のあどけなさの割には図体の大きさが釣り合っていないのがおかしく、かすかに鬼無子は笑みを浮かべる。
「どこか痛むのか? お腹でも痛いのか?」
「いえ、どこも痛んではおりません。ただ思いのほか強敵でありましたので、いささか疲れてしまっただけです。怪我などしておりませんよ」
心配されているのはそれがしのはずなのだがな、と思いつつ鬼無子は自分の上半身を軽く飲みこめる馬鹿でかい狼の鼻先を優しく撫でる。
反らされていた鬼無子の視線が、自分の瞳を見つめ返してきたことで雪輝はようやく安堵したようだった。
「そうか、疲れただけか。なら、私の背に乗ってゆくと良い。ああそれと、凛とひなは無事に送り届けたので気にしなくて構わぬよ」
そういうやぺたりと腹ばいになり、鬼無子が自分の背に乗りやすいようにする。人に触れられる事、跨られる事にはとんと抵抗が無いらしい。
鬼無子は自分の目の前に広がる白銀の獣の背に、しばしきょとんとした瞳を向けていたが、雪輝の提案を断ったら、この気の好い狼は傍目にも哀れなほどに消沈してしまうだろう。
「では、遠慮は無しということで失礼いたしまする」
大きな白銀の背に跨りどこまでも沈みこんでゆくような柔らかな感触を太ももと尻、手で感じつつ、相変わらず素晴らしい手触りについ、胸の内に巣食う暗澹たる思いをかすかに薄くする。
鬼無子の重量を確かに確認して、雪輝はふむん、と一つ零して立ち上がる。四足を着いた姿勢でもひなの頭を軽く超える肩高を誇る雪輝の上に跨ると、鬼無子の視線もぐんと高いものになる。
「疲れているという事だし、ゆるりと参ろう」
鬼無子の返事を待たずにほたほたと歩きはじめた雪輝の速度は、確かに言葉通りにゆるりとしたもので、雪輝の背の鬼無子に伝わる振動は驚くほど少ない。
雪輝の四肢の関節と筋肉の柔軟さが、振動と衝撃をほぼ吸収しきっているのだろう。前方に目を据えつつ、雪輝が口を開いた。
「ところであの殺気の主は一体何だったのだね? 鉄の匂いが少ししたが、獣でも妖魔でもないようで、私には正体が分からなかったのだ」
「ああ、それは人間の死霊でありましたよ。かなり昔にこの山で命尽き果てた武芸者の怨霊です。おそらくは朽ちた武具に宿っていた怨念が年月を経て大きな力を得たのかと思われます」
雪輝の背の上で周囲の景色を見るのではなく、記憶の彼方を見つめているような鬼無子が、どこかぼうとした声音で返事をした。
声の調子がいつもとはだいぶ違うな、と流石に雪輝は気づき、どこか儚く悲哀を帯び、鬼無子の身体ではなく心に何かあったのだと察せられた。
「人間の死霊? なるほど私は会った事が無いから分からなかったわけだ」
「いままで人間の怨霊と出くわした事はないのですか?」
やや意外そうな鬼無子の言葉であるが、これまで多くの武芸者や祈祷師、山伏の類が妖魔退治に挑んでは死んでいった山と聞いていたから、死霊怨霊の類が溢れていると思っていたのだろう。
「うむ、ないな。出会った人間といえばすべて生きている者たちだけだった。しかし死霊などと戦って、本当に大丈夫か? 気分が優れぬように思える。少し休むかね」
「大丈夫でございますよ。……いえ、少しだけ疲れました。本当に」
「鬼無子?」
雪輝がいままで耳にした事のない鉛を呑んだように重く疲れた鬼無子の声に、思わず雪輝は鬼無子の名前を口にしていた。
鬼無子がそのまま自分の背中の上から消えてしまうのではないか。そんな突飛もない考えが脳裏に浮かんで消えなかったからだ。
「雪輝殿、少しお背中をお借りいたします」
雪輝の背にある鬼無子がもぞりと少し動いた。跨って腰をおろしていた体勢から、寝そべるようにして身体を倒し、鬼無子がうつ伏せに近い体勢に変わったのだ。
瞼を閉じた顔を雪輝の毛並みの中に埋めて、鬼無子は長い溜息を吐く。胸中の暗雲を少しでも減らせれば、という思いが働いたのかもしれない。それでも鬼無子の気分はわずかも楽にはならなかった。
「私の背中などでよければいくらでも貸そう。それにしても鬼無子に怪我がなくてよかった。君が傷つけば私もひなも、それに凛の奴もお人よしだから悲しむからね。君に厄介な事を任せてしまって、申し訳なかったのだ」
何を言えば鬼無子の気持ちを慰める事が出来るのかと、雪輝は考えたがこの狼に妙案など思いつくはずもなく、我ながら情けないと思いながら謝罪の言葉を口にしていた。
「そう言って頂けると我が身を呈した甲斐もありました。しかしお気を付けください。武芸者の死霊がただ一人だけ蘇ったとは限りますまい。場合によってはしばし戦いが続くかもしれませぬ」
「ふうむ、なぜ蘇ったのかはわからぬが、狙いが私というのが解せぬ。私ひとりに及ぶ災厄であるならば甘んじて受けもするが、君やひなにまで害が及ぶのでは堪らぬな」
鬼無子は数度口を開こうとして躊躇った。この事を告げるのは自分の過去の失態も言及する事になりかねない。鬼無子は雪輝の毛並みに顔をうずめたまま、いささか躊躇するように口を開いた。
「あー、その、おそらくではありますが雪輝殿を狙うのは、彼らが大狼に命を奪われた者達だからではないでしょうか?」
「……ふむ、つまり、なんだな。山の民に、近隣の村人に、ひなに、そして鬼無子に勘違いされたように、私が大狼であると死霊にも間違えられたと?」
「お気の毒ではありますが、その線が濃いかと思われます」
「………………狼の姿をしているのがよくないのだろうか?」
雪輝の背中の毛並みに顔を埋めている鬼無子には、雪輝の表情を伺えぬが、まず間違いなく渋面の見本というべきものを浮かべていることだろう。
たっぷりと間を置いて口にした雪輝の意見は彼なりに深い苦悩の果てに思いついたものであったろう。それこそどうにかできるものではないが。
能天気の見本のように生きているこの狼も悩む事はあるのかと、鬼無子は和やかな気持ちになり、雪輝の背に頬擦りをした。どこまでも柔らかで優しく暖かい感触が鬼無子の心を慰撫する。
「不思議ですね。雪輝殿のお身体は程よいぬくもりをいつも持っていらっしゃる」
心さびしい時に、胸が張り裂けそうなほど苦しい時に、涙をこらえなければならない時に、感じる事が出来たらこれ以上なく心救われるぬくもり。
抱きしめているだけでも心慰められる雪輝のぬくもりと感触に、鬼無子は我知らず強張っていた頬を緩めていた。
もっとも、愚かなほど素直な狼は、ぬくもりという言葉を額面通りに受け取って、やや的を外した答えを返す。
「そういえば夏も冬も私は同じように過ごしているな。暑いとか寒いとか感じるとすぐに、ちょうど良い具合になるのだが、ひょっとしたら私が意識する前に妖気か何かで気温を調節しているのかもしれん。我ながら便利に生まれついたものだな、うむ」
イヌ族の生き物につき物のいわゆる換毛期というものがないらしい。夏を問わず冬を問わず、常にこの毛皮姿のままの様だ。
自分の意図している所とはまるで見当外れの答えを返す雪輝の言動に、鬼無子は堪え切れずに小さな笑い声を立てた。
この狼が自分の事を慰めようと必死で頭を働かせている事は、考えるまでもなくわかるが、本人の意図しない所で自分の気持ちを和ませてくるから油断ができない。
「まったく、人と交わる暮らしの中ではかように笑みを浮かべる心の余裕などなかったというのに、貴方という方は」
「私が、またなにかやらかしてしまったか?」
流石に一日のうちに三度もの失態を繰り返すのは堪えると見え、視線こそ前に見据えてはいたが、雪輝の耳がぺたりと前倒しになって気落ちしていることを如実に示す。
心も体も嘘がつけないようにできている狼であった。
家人は言うに及ばず縁者親類の類も尽く死に絶えて、天涯孤独の寂寥と異形の身の上である己のへの自嘲と嫌悪を心に満と湛えながらの旅路で擦り切れていた心は、この山に来てからの数日で幸福であった過去の日々と同じくらいに癒されていた。
だからこそ、鬼無子は願わずにはいられない。
生きたい。
死にたくない。
もっと、この優しく気の良い狼や愛らしいひならとともに笑いあいながら生きていたいと、痛切に願わずにはいられなかった。
それが叶わぬ夢であると分かっていたからこそ、なおさらに。
不意に、鬼無子が口を開いた。
「雪輝殿」
「なんだね」
「もし、それがしが…………」
「うん?」
「――いえ、少し、魔が差し申した。大したことではありませぬ。お忘れください」
「そうか」
雪輝の答えは短い。鬼無子が何を言おうとし、そして飲み込んだのか。それがなにかは分からない。
だが、その飲み込まれた言葉がけっして鬼無子が軽々しく口にしようとしたのではない事だけはわかった。
それほど重大な事を自分に打ち明けてくれようとした事へとの喜びと、魔が差した、と表現した口にする事も辛いのであろう鬼無子の心情への心配が、雪輝の胸の内に湧きおこる。
「私はあまり物を知らぬし、自分の事もよくわかっておらぬものだからひなや凛だけでなく、鬼無子にも迷惑をかけてしまっている。それでも、その、私は君たちの事をとても大切に思っている。君達の為になるのならば私の命などどうなってもよいと心から思っている。だから、私を頼る事には色々と不安もあるかも知れぬが、頼って欲しい。出来る事などたかが知れているかもしれぬが、微力を尽くして鬼無子の役に立ちたい」
「――」
かすかに、鬼無子が息を飲む音が背中からした。それから、とても優しい声で鬼無子は言った。
「ありがとうございます、雪輝殿。その様に思ってくださっていたとは、この四方木鬼無子、救われた思いです。本当に、ありがとうございます」
「うん」
少し照れくさいのか、雪輝は鬼無子を振り返ろうとはしなかった。
雪輝殿がこちらを振り返らなくてよかったと、鬼無子は安堵した。
雪輝の背に自分の顔を強く押し付け、心のうちで強く誓う。
もう二度と
『それがしを殺してください』
などと口にはすまいと。そうすればこの優しすぎる狼の心には癒えない傷が深く刻まれてしまい、雪輝の心を長きに渡って苛んでしまうだろう。
歯を食い縛りながら、鬼無子は口中で幾度も謝罪の言葉を口にし続けた。申し訳ない、と。自分を殺してくれなどと頼もうとした自分の浅慮を悔いながら。
己の身を省みぬほどに自分の事を思ってくれている狼に、言葉にはできぬ感謝を込めて。
雪輝の背で言葉にならぬ謝罪を繰り返す鬼無子の頬を、いつしか熱い滴が濡らしていた。