夏衣
やがて父と息子は、心を通わせた者同士が向けあう満ち足りた笑みを浮かべて戻ってきた。
帝の住まう宮からも、瞼を上げれば香具山を見晴るかすことができた。
いっそう夏めくように青々と晴れ渡った空に、小さく微笑うようにその山はある。
あれはこのように気持ちよく晴れた日だったか。
そう。胸奥をたぐれば一幅の絵のように思い出せる。あの時の若葉とともにあった花々や気持ちも昇っていくような空の色、濃く甘い空気の匂い、耳に心地よい衣擦れは、あれは初夏のこと。まだ心若く、このように目を細めて香具山を見ていた時だった。
何が話し合われ、二人が何をどのように秘めたのかは、ついに知るところとはならなかった。
ただ、それから一月ほどした頃に父帝が息子草壁を皇太子とすると宣下され、ではあの時に今日のことが決まったのだろうと、悟ったのだ。
「草壁は、いずれ仏の道を歩みたいと申しておりませんでしたか?」
その後ある折に、今ふいに思いついたように草壁を呼び止めてたずねてみると、
「それは夢です、母上」
草壁は少し寂しく笑んで言ったものだ。寂しいように思えたのは、わたしの思い違いかもしれない。その時そう思えたのか、後になってそうだったのではと思うようになったのか、もはや定かではない。
草壁は言ったのだ。
「いつもより少し早く目覚めてしまった朝などに、薄闇を見上げ朝鳥の囀りなどを聞きながらぼんやりと空想に遊んで心を満たす、そんなたぐいの夢なのです」
夫と息子は、すでに亡い。
「陛下。御簾を……。民が見ております」
金の鳳凰を天上にいただく見事な輿に身を寄せて、女官の志斐が声をかけた。
輿は御簾で内を秘し、多くの男たちに担がれてゆるゆると大路を進んでゆくところだった。
その御簾がわずかに開いたのだ。
都でもっとも広い大路には官人のみならず無位の民があまたいて、この世ならぬ美しき帝の輿に見とれていた。
よもや帝の姿がその者たちの目に触れてはなるまいと、志斐は御簾を下げるよう申し上げたのだった。
「よい。わたしは香具山を見たいのだから」
帝は意志の強いお方。他の者たちの思惑よりも自身の思うところを先んじるお方。女官は退き、自分も香具山を振り返った。
藤原の都は、香具山を取り込んで広大。今しも女帝の行列はその香具山を左に都を下ろうとしているところだった。
「ああ、白い衣を干しておりますこと。季節はよく巡っております。帝のよき政まつりごとにみな喜んでおりますよう」
女官はうっすらと目を細め、笑みを浮かべて申し上げた。言祝ぎは帝を称えるために行われる。
ところが上は無言だった。
女官が輿を見上げると、女帝はただじっと香具山を見やる目を細めていた。
疲労に覆われた容貌は胸のうちをわずかも語らず、目は沈黙し、喜ばしい思いはすべて奪われた巌のように帝は座していた。
その目がふいと動き、慮るように見上げてくる女官の視線に気がついた。
何かを語るかと思われて女官は身構えたが、帝は微かに笑みらしきものを浮かべ、すうとその目を前へ戻した。
そして女帝は、手ずから上げられた御簾を静かに降ろされたのだった。
了
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この物語は、2005年に書き、個人サイトにアップしていたものを加筆修正し、PCを処分するにあたり個人的な保存も兼ねて、こちらに登録したものです。
持統天皇の、生涯に多くの御幸をした、その内の1回、藤原京を旅立つときの一コマ。
女官・志斐との歌のやりとりが万葉集にあります。側近と信頼感あふれる冗談を交わせる讃良さまがよき。




