潔癖症の夫に「汚い」と嫌われた私――最後にみんなから避けられたのは夫のほうでした
夫の水沢恭平が何より嫌うものは、「汚いもの」だった。
床に落ちたものは捨てる。誰かが自分の物に触れれば、できることなら買い替える。
三日続けて徹夜をしたあの日もそうだった。帰宅した私は、せめて五分だけソファに座りたかったのに、恭平はそれを許さなかった。
「先にシャワー浴びて」
ところが、その十分後。
恭平が白凪医科大学で指導している医学部六年生、小宮山杏奈がやってきた。
杏奈は慣れた様子で、私には触ることすら許されていなかった恭平のスリッパを履いた。
恭平は何も言わなかった。
「杏奈、オレンジジュースでいい? 氷なしで」
しかも、自分がいつも使っているグラスまで差し出した。
浴室の前に立ったまま、ようやく分かった。
彼が嫌っていたのは、汚れではない。
私だったのだ。
十年以上も一緒にいて、私もようやく彼のルールを覚えた。
汚れてしまったものは、捨てればいい。
1
杏奈のためにジュースを作る気にはなれず、そのまま寝室へ戻った。
ベッドに倒れ込んでから、どれくらい眠ったのだろう。
激しくドアを叩く音で目を覚ました。
ぼんやりしたまま開けると、恭平がスマートフォンを片手に立っていた。
「千紘、頼んだジュースは? 客がいるのに、自分だけ寝るのか?」
その後ろから、杏奈が顔を覗かせた。
「千紘さん、私が来たせいで喧嘩になっちゃいました?」
困ったように眉を下げる。
「ごめんなさい。今日は来ない方がよかったですよね」
そして恭平の袖を軽くつまんだ。
「水沢先生、私、やっぱり帰ります」
恭平の表情は、すぐに和らいだ。
「いいから座ってて」
「でも……」
「今日は体調もよくないんだろ。無理して立たなくていい」
杏奈をソファへ座らせ、自分でジュースを用意するつもりらしい。
その時、場違いなほど大きくお腹が鳴った。
三日間、医学関係の翻訳案件に追われ、まともな食事はほとんど取っていない。
このまま何も食べなければ、また低血糖を起こす。
テーブルに個包装のパンがあった。
手を伸ばした瞬間、恭平に手を払われた。
パンが床へ落ちる。
まだ封も切っていない。
けれど恭平は使い捨て手袋をはめ、そのままゴミ箱へ捨てた。
「床に落ちたのに食べるつもりか?」
「袋は破れてないよ。中身は床に触れてないでしょ」
恭平は眉をひそめた。
「さっき寝室のドア触っただろ。手は洗ったのか?」
「……」
「腹が減ったからって、何でもすぐ口に入れるなよ」
杏奈が隣で小さく笑った。
「水沢先生、そんなに怒らないでください」
私へ視線を向ける。
「千紘さんは医療関係の人じゃないし、私たちほど気にならないだけですよ」
私は杏奈を見た。
三年前、家族を亡くして医学部を続けることが難しくなった彼女を、両親が運営する相沢医学奨学財団の給付型奨学金につないだのは私だった。
恭平を尊敬している。臨床実習では、できるだけ彼から学びたい。
そう泣きながら話した杏奈に、機会があれば指導してやってほしいと恭平へ頼んだのも私だ。
その先で一線を越えたのは、私ではない。
けれど、その日は言い返す力さえ残っていなかった。
視界が暗くなる。
反射的に、一番近くにいた恭平へ手を伸ばした。
恭平は一歩後ろへ下がった。
それどころか、杏奈を庇うように腕を伸ばした。
掴むものを失った身体が、そのまま床へ落ちる。
後頭部に強い衝撃が走った。
そこで意識が途切れた。
次に目を開けた時、救急車の中だった。
救急隊員が何度も意識状態を確認している。
白凪医科大学附属病院へ到着すると、救急外来にいた佐伯直哉が診てくれた。
長時間の空腹による低血糖と極度の疲労。
それに転倒時の頭部打撲もあるため、しばらく経過を見る必要があると言われた。
恭平の姿はなかった。
点滴を受けながらスマートフォンを開く。
三件のメッセージが届いていた。
【低血糖になりやすいって分かってるんだから、ちゃんと食べろよ】
【床に倒れてたから俺は触れなかった。杏奈が119番してくれた。研究データも見ないといけないから、病院までは行けない】
【大したことなければ早く帰ってきて。杏奈が千紘の作る豚の角煮を食べたいって】
最後の一文を、しばらく眺めていた。
以前にも一度、低血糖で病院へ運ばれたことがある。
重要な論文を仕上げていた恭平に頼まれ、ドイツ語の医学文献を何日も徹夜で翻訳していた時だった。
病院で目を覚ました私に届いたのは、
【自分の体調くらい管理してくれ。余計な手間を増やすな】
というメッセージだった。
何年経っても、言うことはほとんど変わらない。
その時、Instagramに杏奈のストーリーズが上がった。
場所はうちの書斎だった。
二人は肩が触れそうなほど近くに座り、それぞれが持ったペンの先で研究資料の上に歪んだハートを作っている。
横には、恭平がいつも使っているグラス。
飲み口に、薄い口紅の跡が残っていた。
添えられていたのは、一言だけ。
【今日もビタミンCチャージ♡】
画面を見ていたら、なぜか笑えてきた。
点滴が終わる頃になって、ようやく恭平と杏奈が揃って現れた。
「千紘さん、大丈夫ですか? 本当にびっくりしました」
杏奈がベッドへ近づく。
「救急車……杏奈さんが呼んだの?」
「はい」
一瞬だけ恭平を見る。
「私が呼びました」
少し間を置いて、声を落とした。
「水沢先生は、床には触れたくないって……」
心配そうな顔のまま、杏奈は突然、私の頭の包帯を上から押した。
傷口に鋭い痛みが走る。
反射的に手を払った。
杏奈はよろめき、そのまま床へ尻もちをついた。
恭平は一瞬も迷わなかった。
すぐに腰を屈め、杏奈を抱き起こして椅子へ座らせる。
「どこかぶつけた?」
頭から足元まで確認してから、ようやく私を見た。
「力が入らないんじゃなかったのか? 人を突き飛ばす力はあるんだな」
何も答えなかった。
さっき押されたせいで傷が開き、包帯に血が滲み始めている。
それを見て、恭平の声が一瞬止まった。
「水沢先生」
杏奈が小さく息を吸った。
「ちょっと足、ひねったかも……」
恭平がすぐに足元を見る。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。千紘さんも、わざとじゃないと思うので」
「整形、行くぞ」
「一人で行けます」
杏奈はゆっくり立ち上がった。
「先生は千紘さんのところにいてください」
恭平は反射的に手を伸ばした。
二歩ほど杏奈についていき、そこでようやく私の包帯から血が出ていることに気づいたらしい。
戻ってきた。
私はその手を避け、自分でナースコールを押した。
佐伯が処置に来た時には、病室の空気はすっかり冷え切っていた。
恭平が声を落とす。
「千紘、いい加減にしてくれないか」
「何が?」
「床に倒れるくらいなら、せめてソファに座るとかできただろ」
呆れたように続ける。
「俺が床に触れたくないの、知ってるよな?」
私は彼を見上げた。
杏奈はたった今、この病院の床に座り込んだ。
それでも彼は何のためらいもなく触れ、そのまま抱き起こした。
恭平は、私の視線の意味に気づかない。
「救急車を呼んでくれたのも杏奈なんだ」
一度息を吐いた。
「これ以上、あの子に当たるなよ」
そう言って出ていこうとしたところで、佐伯が何気なく口を挟んだ。
「小宮山さんなら、さっき大学のトレーニングルームで走ってたよ」
恭平の足が止まった。
「リレー大会の練習だろ?」
数秒間、誰も何も言わなかった。
少しして、恭平が思い出したように話題を変えた。
「そうだ。ジュエリーショップから連絡があった」
「……」
「頼んでた指輪、できたって。明日、サイズ確認に来てほしいらしい」
そう言われて、ようやく思い出した。
祖母の藤江が遺してくれた、古い金の指輪。
結婚した時には手を加える気になれず、そのまま大切に保管していた。
今年の結婚五周年に合わせ、ようやく二本の記念リングへ作り替えることにしたのだ。
もう「二人の指輪」など欲しくなかった。
それでも、祖母が遺してくれた金だけは取り戻したい。
「行く」
恭平は、私がようやく普段通りに戻ったと思ったらしい。
何も言わず、ベッドの背もたれを少し起こした。
私はその手を見ていた。
2
翌日の午後。
ジュエリー工房・春瀬へ行くと、恭平と杏奈はもう来ていた。
ガラス越しに二本のリングが見えた瞬間、足が止まった。
私がデザインを考え、祖母の金を使って作った記念リングだった。
一つは恭平の指に。
もう一つは、杏奈の左手の薬指にはまっていた。
私に気づいた杏奈が、慌てて手を引く。
「千紘さん、誤解しないでください」
左手を隠す。
「すごくきれいだったから、少しだけ試してみたくて……」
店員が困った顔をした。
「本来は、ご依頼主様以外の方には――」
「サイズを見るだけならいいですよ」
そう言ったのは恭平だった。
杏奈は嬉しそうに笑い、指輪を外そうとした。
その瞬間、リングが指先から滑り、床を転がった。
私はしゃがんで拾おうとした。
あと少しで指が届く。
その時、杏奈の靴がリングの上へ下りた。
指輪だけではない。
私の手の甲まで、靴底の下に入った。
「あっ、ごめんなさい」
そう言いながら、杏奈はすぐには足を退けなかった。
床の指輪を見下ろし、無邪気そうに笑う。
「でも、水沢先生って、床に落ちたもの一番嫌いですよね?」
手を引き抜いた。
荒い靴底で皮膚が擦れ、治りかけていた傷まで開く。
血が滲んだ。
杏奈はバランスを崩して横へよろめく。
恭平はすぐに受け止めた。
「危ない!」
杏奈がきちんと立てることを確認してから、ようやく私を見る。
「床に落ちた指輪くらいで、なんで人の足元に手を入れるんだよ」
「……」
「杏奈が転んだらどうする?」
手の甲から血が落ちた。
店員が慌てて消毒用品を持ってきてくれた。
けれど恭平は、床に落ちた血を見て眉をしかめた。
「千紘、そこで立ってないでくれ」
「何?」
「床まで汚れるだろ」
何も言えず、彼を見つめた。
三年前。
祖母が交通事故に遭った。
救急搬送された時、全身が血にまみれていた。
最期の時、祖母は恭平の手を握った。
けれど恭平は、血が手につくことに耐えられず、反射的に振りほどいてしまった。
帰宅してから、何度も何度も手を洗っていた。
それでも祖母は、最後まで恭平を責めなかった。
今、その祖母の指輪が床に落ちている。
恭平は一度見ただけだった。
「もう汚れたんだし、いいだろ」
「……」
「新しく作ればいい」
「祖母が遺したものは、もう二度と手に入らないよ」
恭平は露骨に面倒そうな顔をした。
「指輪の話だよ」
杏奈を見る。
「杏奈だって卒業前でいろいろ大変なんだ。こんなことで気分悪くさせるなよ」
店員が私を椅子へ案内し、手の傷を簡単に処置してくれた。
「水沢様、リングはこちらで洗浄いたしましょうか?」
床の指輪を見つめる。
少しして、頷いた。
「お願いします」
一度息をつく。
「二本とも、地金に戻してもらえますか」
店員が驚いた。
「一本のリングへ作り直す、ということでよろしいでしょうか?」
「はい」
「デザインはいかがいたしましょう」
「何も入っていない、いちばんシンプルなものにしてください」
祖母が遺してくれたものは、私一人のところへ戻せばいい。
彼の名前も。
二本目の指輪も。
もう必要なかった。
3
帰宅すると、玄関に大きなスーツケースが置かれていた。
テレビではフランスの恋愛映画が流れている。
ソファには恭平と杏奈が並んで座り、間にはフライドポテトの箱があった。
杏奈が一本取り、恭平の口元へ運ぶ。
恭平は食べなかった。
けれど、彼女が寄りかかっていても止めようとはしなかった。
私が入ってきたことに気づいて、ようやく身体を起こす。
「先にシャワー浴びて」
開口一番、それだった。
「昨日は家の床に倒れたし、今日は店でも床に座っただろ。外の汚れを家に持ち込まないでくれ」
私は玄関のスーツケースを見た。
恭平も視線を追った。
「杏奈のマンション、水漏れしたらしい」
「それで?」
「二週間くらい住めないって」
嫌な予感がした。
「まさか、ここに泊めるの?」
「卒業前で実習もあるし、レポートもある」
当然のことのように答える。
「ここなら病院にも大学にも近いだろ」
そして、私の寝室を指さした。
「日当たりいいから、あの部屋使ってもらう」
ゆっくり恭平を見た。
彼の潔癖がひどくなってから、私たちはとっくに別々の部屋で寝ていた。
恭平は小さい方の寝室。
私は主寝室。
そこへ杏奈が来た。
そして何の相談もなく、私の部屋を与えた。
「私はどこで寝るの?」
恭平が眉を寄せた。
「リビングでいいだろ」
「リビング?」
「二週間だけだし」
面倒そうに続ける。
「困ってるんだから、それくらいいいじゃないか」
杏奈が笑顔で近づいてきた。
けれど、私との距離が縮まると、わずかに一歩下がった。
「千紘さん、本当にすみません」
口元だけで笑う。
「でも水沢先生が、千紘さんならきっと分かってくれるって」
恭平も当然のように続けた。
「二週間だけなんだから、そんな顔するなよ」
杏奈を見る。
「あの子は病院から帰れば、ちゃんと衛生にも気をつけてる」
そして私へ視線を戻した。
「少し見習ったら?」
笑いそうになった。
私は何年も、外出着のままソファへ座ったことすらない。
帰宅すれば手を洗い、シャワーを浴びる。
服と靴は決められた場所に分ける。
生ゴミも、その日のうちに片づけた。
ひどい時には、リビングで一度くしゃみをしただけで、恭平は空気清浄機を最大にした。
彼の基準は、一つずつ全部覚えた。
それなのに同じ基準を一人にしか向けないのなら、もう潔癖とは呼べない。
ただ、私にだけ厳しかったのだ。
何も言わず、その日からリビングの隅にヨガマットを敷いた。
寝具らしいものは、収納から出した薄いブランケット一枚だけ。
それでも少しだけ待ってみたかった。
本当に家を出る前に、一度くらい彼が気づくのではないか。
妻がもう、まともに眠る場所さえ失っていることに。
その夜。
病院から帰った恭平は、私の手の傷がまた滲んでいるのを見た。
痛いかとは聞かなかった。
「週末、杏奈の卒業祝いで汐風マリンワールドに行く約束してる」
「そう」
「夜は戻るから」
少し考えるようにしてから続ける。
「あの子が好きなもの、何品か作っておいて」
杏奈が私の手を見た。
「でも千紘さん、その手で料理するのって衛生的にちょっと……」
傷へ視線を落とす。
「まだ開いてますよね?」
そして恭平を振り返った。
「水沢先生、無理に作ってもらわなくても、帰りに外で食べません?」
私は答えなかった。
紙袋から白い菊を取り出し、花瓶へ生ける。
今日は祖母の命日だった。
恭平は完全に忘れていた。
杏奈の方が先に気づいた。
白い菊を見た途端、目を赤くする。
「……両親のこと、思い出しちゃいました」
三年前のあの交通事故では、祖母だけではなく、杏奈の両親も亡くなった。
だからこそ、私は彼女を放っておけなかった。
恭平は泣き始めた杏奈の隣へすぐに座った。
「無理に思い出さなくていい」
肩へ手を置く。
「今日はもう考えるな」
杏奈はそのまま、彼の胸へ寄りかかった。
恭平が顔を上げた。
白い菊を見た途端、表情が変わる。
「千紘」
「何?」
「今日みたいな日に、なんでわざわざそんな花を出すんだよ」
「今日みたいな日?」
「杏奈が家族のこと思い出すって分かるだろ」
「今日は祖母の命日でもあるんだけど」
恭平は一瞬黙った。
けれど、すぐに顔をしかめた。
「自分の中で覚えてればいいじゃないか」
「……」
「わざわざ見えるところに置く必要ある?」
そう言うなり、花瓶から菊を引き抜いた。
床へ投げる。
靴底が白い花を踏んだ。
花びらが床一面に散る。
「水沢先生、もういいですから……」
杏奈が止めようと駆け寄った。
その拍子に、小さなサイドテーブルへ身体がぶつかった。
祖母の遺影が床へ落ちる。
ガラスが割れた。
写真だけが杏奈の足元へ滑った。
驚いて後ろへ下がった彼女の靴が、写真の上に乗った。
一度。
さらにもう一度。
喉が塞がったように、声が出なかった。
膝から力が抜け、その場に座り込む。
恭平は祖母の顔についた靴跡を見て、さすがに少し声を落とした。
「……額が壊れただけだろ」
私を見る。
「明日、新しいの買えばいい」
そして、すぐに続けた。
「先にガラス片づけて」
「……」
「杏奈が踏んだら危ないから」
私は彼を見なかった。
床に膝をつき、祖母の写真を拾い上げる。
服の袖で汚れを少しずつ拭き、胸に抱いた。
不思議なくらい、何も聞きたくなくなった。
何も待ちたくなかった。
「おばあちゃん」
写真を抱きしめる。
「もう行こう」
恭平が眉をひそめた。
「何言ってるんだ?」
ゆっくり立ち上がった。
十年以上前。
一番惨めだった頃の恭平に手を差し伸べてくれたのは、祖母だった。
その祖母の写真を胸に抱いた時、もうここに残る理由はないと思った。
その夜、恭平へ一件だけメッセージを送った。
【恭平、離婚しよう】
身分証。
パソコン。
祖母の写真。
自分の荷物をまとめる。
そして、春瀬町の部屋を出た。
4
週末になっても、千紘は汐風マリンワールドへ来なかった。
恭平は入口で長いこと待っていた。
「水沢先生、千紘さん来ないんじゃないですか?」
杏奈に二度目を促される。
「もう入りましょうよ」
それでもスマートフォンから目を離せなかった。
「もう少し待つ」
その時、入口近くを中学生くらいの少年が通りかかった。
地域のリサイクル活動らしく、腕章をつけ、大きな回収袋を抱えている。
恭平が飲み終えた缶を持っていることに気づき、少年が声をかけた。
「その缶、回収してもいいですか?」
恭平の動きが止まった。
十数年前。
自分も空き缶を集めていた。
父親がギャンブルで多額の借金を作り、最後には姿を消した。
母親は妹だけを連れて家を出て、それきり戻らなかった。
家財は借金返済のため次々と売られ、住んでいた部屋も引き払うことになった。
大学進学を目指しながら、夜はコンビニで働いた。
それでも足りない時には、公園や駅前に捨てられた空き缶や古紙を拾い集め、少しでも生活費の足しにした。
誰かに直接「ください」と言う勇気はなかった。
人のいない時間を選び、黙って拾うだけだった。
ある日。
十二歳だった千紘が、飲み終わった缶を差し出した。
恭平は俯いたまま、ありがとうとも言えなかった。
それでも少女は笑った。
「どういたしまして」
そして、祖母を振り返った。
「おばあちゃん」
「何?」
「あのお兄さんのこと、何か手伝えないかな?」
恭平を見る。
「近所に住んでる人なんだよ」
その後、祖母が学生向けの支援住宅を探してくれた。
千紘の両親も、学費や生活費の一部を援助してくれた。
恭平は医学部へ進学し、やがて相沢家にとって家族同然の存在になった。
目の前の少年へ、持っていた缶を差し出す。
「お願いします」
「ありがとうございます!」
少年は明るく頭を下げ、回収袋へ入れた。
「どういたしまして」
口にした途端、胸の奥に小さな痛みが走った。
杏奈は少年が去った方を見て、眉をひそめた。
「こういうの、私はちょっと苦手です」
「何が?」
「缶って、結構汚れてますよね」
恭平は何も答えなかった。
園内に入り、杏奈が最初に選んだのはスプラッシュライドだった。
断りたかった。
けれど今日は卒業祝いだから、好きなものに付き合うと約束している。
仕方なく隣へ乗った。
ボートが高いところから一気に落下する。
巨大な水しぶきが、正面から襲った。
降りた頃には全身ずぶ濡れ。
靴の中にまで水が溜まっていた。
濡れた服が肌に張りつき、顔が強張る。
「水沢先生、早く!」
杏奈が先を走っている。
「ドルフィンショー始まっちゃいますよ!」
杏奈だけは楽しそうだった。
千紘は、こんな乗り物に誘ってきたことがない。
恭平が濡れることを嫌うと、知っていたからだ。
二人で出かける時には、いつも大きなバッグを持っていた。
替えの服。
靴下。
タオル。
時には、予備の靴まで。
一日歩き回った帰りには、バッグの肩紐で千紘の肩に赤い跡が二本残っていた。
昔は、それを見ても何とも思わなかった。
今、靴を踏み出すたびに水が鳴る。
そこで初めて、あの赤い跡を思い出した。
スマートフォンを開いた。
千紘とのメッセージ画面は、数日前のまま。
【恭平、離婚しよう】
届いた時には、一度読んだだけだった。
また機嫌を悪くしているだけだと思っていた。
けれど今見ると、その短い一文が妙に目に刺さる。
杏奈が横からスマートフォンを取り上げた。
「今日は私の卒業祝いなんですよ」
「おい」
「千紘さんのメッセージばっかり見ないでください」
恭平が手を伸ばすより早く、杏奈は電源を切った。
「今日はこれ、私が預かります」
そのまま自分のバッグへ入れてしまう。
眉をひそめた。
けれど、その場で取り返すほどのことでもないと思った。
数時間後、その判断を後悔することになる。
5
ドルフィンスタジアムは満席だった。
音楽に合わせ、何頭ものイルカが次々に水面を飛び出していく。
その光景を眺めながら、以前ここへ千紘と来た日のことを思い出した。
医師として働きながら大学院に通い、研究や手術の研修、論文に追われていた頃だ。
まともに眠れない日が続き、心身ともに疲れ切っていた。
どこから聞いたのか、千紘は、
「イルカを見ると少し元気になるらしいよ」
と言って、半ば強引にここへ連れてきた。
その時は、人数限定のドルフィン体験にも参加した。
恭平はずっと、当日たまたま選ばれたのだと思っていた。
ライフジャケットを着てプールサイドへ立ち、生まれて初めてイルカの頭に触れた。
その晩だけは、久しぶりに十時間以上眠れた。
ショーの途中で、スタッフが次回の事前予約制プログラムを案内した。
杏奈が何気なく言う。
「これ、全然取れないんですよ」
「そんなに?」
「私も先月予約しようとしたんですけど、無理でした」
パンフレットを見る。
「数か月前から申し込まないと厳しいみたいです」
「当日、選ばれるんじゃないのか?」
杏奈が笑った。
「まさか」
「……」
「イルカに直接触れるんですよ? 事前に申し込むに決まってるじゃないですか」
何も言えなくなった。
あの頃、千紘はいつも「仕事が忙しい」と言っていた。
休日にも一人で出かけることが増えていた。
今になってようやく分かる。
自分の用事で忙しかったわけではない。
何か月も前から、恭平のために準備していたのだ。
ショーは続いた。
イルカが尾びれで水面を叩く。
大量の水が前方席へ飛んできた。
乾きかけていた服が、再びびしょ濡れになる。
杏奈は隣で歓声を上げている。
苛立ちは、とうとう限界に達した。
「俺、帰る」
杏奈が目を丸くする。
「まだ終わってませんよ?」
「一人で見てて」
「水沢先生!」
それでも出口へ向かった。
園外では夜のパレードが始まり、人が増えていた。
はぐれないようにと、杏奈が手を掴む。
二人が手をつないでいるのを見たスタッフが、笑顔で声をかけた。
「お写真、お撮りしましょうか?」
答える前に、杏奈が嬉しそうに身体を寄せた。
シャッターが切られる瞬間。
彼女は背伸びをし、頬へキスをした。
その瞬間が写真に残る。
「いい写真が撮れましたよ」
スタッフは笑顔で写真を渡した。
恭平だけが固まっていた。
勢いよく杏奈の手を振りほどく。
最初に浮かんだのは、なぜか千紘の顔だった。
千紘がいなくてよかった。
そう思った自分に、今度は自分自身が戸惑う。
なぜ見られたら困るのか。
千紘なら、最後には何も言わなくなった。
――いや。
本当にそうだったのか。
自分は一度でも、千紘の機嫌を直そうとしたことがあっただろうか。
毎回、彼女が自分で傷ついた気持ちを飲み込み、何事もなかったように日常へ戻っていただけではないのか。
急に、家へ帰りたくなった。
玄関を開ければ、きっと千紘が夕食を作っている。
「今日は疲れた」
そう言えば、またいつもの日常に戻れる。
そんな馬鹿げた考えを、本気で信じかけていた。
足早に園を出た。
後ろから杏奈が何度呼んでも、振り返らなかった。
6
家の中は、異様なほど静かだった。
家具は全部ある。
それなのに玄関に立った瞬間、何か大きなものが抜け落ちているように感じた。
最初に、千紘が使っていた主寝室へ向かった。
そこはもう完全に杏奈の部屋になっていた。
服。
化粧品。
バッグ。
医学書。
あちこちに散らばっている。
そこで初めて、疑問が浮かんだ。
千紘は、この数日どこで寝ていた?
自分が使っているのは小さい方の寝室。
主寝室は杏奈に渡した。
二部屋しかない。
家じゅうを探し回った。
そしてリビングの収納家具の裏で、丸められたヨガマットを見つけた。
横には、薄いブランケットが一枚だけ。
長いこと、その場に立っていた。
この数日間。
千紘はずっとここで寝ていた。
なのに一度も気づかなかった。
一度も聞かなかった。
この部屋は、白凪医科大学附属病院で働き始めた頃、千紘と一緒に探して決めた部屋だった。
病院まで歩いて数分。
ソファも。
ダイニングテーブルも。
本棚も。
ほとんど千紘が少しずつ選んだ。
祖母が亡くなってから、海外にいる両親は何度も千紘へ、
「こちらへ来ないか」
と声をかけていた。
そのたびに千紘は恭平へ相談した。
「もう少し待って」
毎回そう答えた。
そして千紘は、本当に待ち続けた。
その間に、恭平は杏奈をこの家へ入れた。
しばらくして、玄関の電子錠から操作音がした。
ドアが開き、不満そうな杏奈が入ってくる。
「水沢先生、本当に一人で帰るなんてひどいですよ」
靴を脱ぎながら続ける。
「私、結局タクシーで帰ってきたんですから」
いつものように寄りかかろうとする。
恭平は一歩下がった。
「どうして暗証番号知ってる?」
杏奈が目を丸くした。
「私の誕生日に変えたの、先生じゃないですか」
「……」
「忘れたんですか?」
身体が固まった。
確かに、自分で変えた。
以前、研究資料を見に来ていた杏奈が仮の暗証番号を何度も忘れた。
彼女の誕生日なら覚えやすいだろう。
それくらいの軽い気持ちで設定した。
その時、千紘はキッチンにいた。
何も言わなかった。
「それに今日」
杏奈はまだ話していた。
「私、キスしたの初めてだったんですよ」
恭平を見る。
「あんなふうに一人で帰られたら、すごく恥ずかしいです」
胃が急にひっくり返るような感覚に襲われた。
「もう、ああいうことはするな」
杏奈の笑顔が消える。
「え?」
「俺たちは、そういうことをする関係じゃない」
「……」
「俺は君の臨床実習を指導する立場だ」
杏奈はしばらく黙っていた。
やがて乾いた笑いを漏らす。
「今さら何言ってるんですか」
「杏奈」
「妹みたいだって言ったの、先生でしょう?」
恭平は答えなかった。
「スリッパもグラスも使っていいって言った」
一歩近づく。
「千紘さんの部屋まで、私にくれたじゃないですか」
「もういい」
「それで今さら、『そういう関係じゃない』って?」
後ろへ下がった拍子に、テーブルのグラスが床へ落ちた。
ガラスが割れる。
その音は、祖母の遺影が割れた時とよく似ていた。
恭平はその場へ座り込んだ。
祖母は、血のつながった親族以上に自分を大切にしてくれた。
借金まみれの家で育ったことも。
空き缶を集めていた過去も。
一度も笑わなかった。
千紘も同じだった。
もしかすると、自分がここまで汚れを恐れるようになったのは、昔の自分を思い出したくなかったからなのかもしれない。
貧しく、家族に置いていかれた頃の自分。
あの頃から少しでも遠ざかりたくて、何もかも清潔にしていなければ落ち着かなくなった。
千紘は、それに気づいていたのだろう。
だから一度も笑わず、面倒なルールにも付き合ってくれた。
そのことを、いつの間にか当然だと思っていた。
「俺が距離を間違えた」
俯いたまま言った。
「杏奈、ここを出てくれ」
杏奈は数秒黙ったあと、また柔らかい声に戻った。
「じゃあ、千紘さんが戻ってきたら私から説明します」
「……」
「私にも責任ありますから」
疲れ切って手を振った。
「好きにしてくれ」
割れたグラスを見る。
「ただ、祖母のものにはもう触るな」
杏奈は素直に頷いた。
千紘の荷物がほとんど消えていることにも、気づいているはずだった。
それでも驚いた様子はなかった。
むしろ、空いた棚にはすでに杏奈の物がいくつも置かれている。
恭平はそれを見て、初めて目を逸らした。
午前二時前。
杏奈のスマートフォンが鳴った。
画面を見た途端、表情が変わる。
「佐伯先生……?」
通話を取った。
「はい、小宮山です」
電話の向こうから、切迫した声が漏れる。
『小宮山さん? 水沢の携帯、何度かけてもつながらない』
杏奈がこちらを見る。
『今日一緒にいたって聞いたんだけど、そこにいる?』
「……います」
『代わって。今すぐ』
杏奈の顔から血の気が引いた。
そして慌てて自分のバッグを開いた。
中から出てきたのは、恭平のスマートフォンだった。
7
杏奈から電話を受け取る。
「水沢」
佐伯の声は低かった。
「今夜、お前が外科のセカンドオンコールだって分かってるよな?」
言葉が出なかった。
「高速道路で多重事故だ。観光バスまで巻き込まれてる」
向こうでは人の声が飛び交っている。
「救命センターは多数傷病者の受け入れに入ってる。何十回かけてもつながらない」
一拍置く。
「今すぐ戻れ」
杏奈が慌ててスマートフォンの電源を入れた。
着信履歴とメッセージが、次々に表示される。
杏奈を責めている時間はなかった。
その夜、恭平は外科のオンコール当番だった。
それなのに白凪市を離れ、長時間連絡さえつかなかった。
着替えると、そのまま病院へ向かった。
附属病院は、いつもの姿を失っていた。
救急エリアには担架が並び、周辺病院や救急隊から次々と負傷者が運び込まれてくる。
手術室もほとんど埋まっていた。
泣き声。
足音。
指示を飛ばす声。
絶え間なく響いている。
すぐに現場へ入った。
その中に、緊急の腹部手術が必要な重傷者がいた。
人員の再配置と手術室の調整に時間がかかり、予定よりも手術開始が大きく遅れた。
患者は助からなかった。
誰も、その場で、
「水沢のせいで亡くなった」
とは言わなかった。
けれど、このままでは終わらない。
それだけは分かっていた。
三十時間以上経って、ようやく椅子へ座れた頃。
病院側から、当面の臨床業務を外れ、院内調査を受けるよう告げられた。
大学側からも通知が来た。
事実確認が終わるまで、授業と臨床実習の指導から外す。
当直記録。
出退勤記録。
着信履歴。
なぜオンコール中に長時間連絡がつかなかったのか。
すべて確認されることになった。
治療の遅れにどこまで影響したのか。
患者の死亡との因果関係をどう考えるのか。
結論が出るまでには時間がかかる。
かつて誇りだった、
「白凪医科大学消化器外科講師」
という肩書きが、突然、自分から遠ざかっていくように感じた。
昔は、空き缶を拾って暮らしていた過去を誰かに知られることが何より怖かった。
今では、もっと多くの人が別のことを知っている。
女性の医学生とテーマパークへ出かけ、オンコール中に連絡が取れなくなった医師。
その事実の方が、昔よりずっと重かった。
8
数日ぶりに春瀬町の部屋へ戻った。
病院と大学から何度も事情を聞かれ、ほとんど眠れていない。
髪は乱れ、髭も伸びたままだった。
玄関を開けた瞬間、嫌な臭いがした。
テーブルにはデリバリーの容器。
食べ残したカップ麺。
床には空き缶。
杏奈はソファに寝転び、ポテトチップスを食べながらスマートフォンを見ていた。
帰ってきた恭平を見るなり、鼻をしかめた。
「水沢先生、すごい臭いですよ」
恭平は杏奈を見た。
「まだいたのか?」
「じゃあ私、どこに行けばいいんですか?」
「出ていけって言っただろ」
「それに千紘さんもずっと帰ってこないし」
周囲を見回す。
「家の中、誰も片づけてくれないじゃないですか」
苛立ったように続ける。
「千紘さん、こういうの得意だったんでしょう?」
「……」
「メッセージしたら、私ブロックされてましたけど」
鼻で笑う。
「やっと、自分が私たちと一緒に暮らすのに向いてないって分かったんじゃないですか?」
何も言わなかった。
「でも、行くところなんてあるんですかね」
杏奈はまだ話している。
「亡くなったおばあさんの家くらいでしょう」
恭平が顔を上げた。
「月影市の家、まだ残ってるんですよね?」
ここ以外で、千紘が帰るとすれば。
二人が昔暮らした、あの家しかない。
車の鍵を掴み、玄関へ向かった。
エレベーターの前まで行く。
そこで突然、引き返した。
「杏奈」
「何ですか?」
「出ていってくれ」
杏奈が固まる。
「は?」
「荷物を全部持って出ていって」
「……」
「俺が戻るまでに」
表情が一変した。
「まだ自分が昔の水沢先生だと思ってるんですか?」
ポテトチップスの袋をテーブルへ叩きつける。
「もう大学でも病院でも仕事から外されてるじゃないですか」
「……」
「手術だってできないくせに」
声が高くなる。
「昔は空き缶とか拾ってたんでしょう?」
恭平は振り返らなかった。
「今の先生には、その方がお似合いかもしれませんね」
今は千紘を見つけることしか考えられなかった。
月影市へ向かう車の中で、ありもしない未来を想像した。
千紘がまだいてくれるなら。
一緒に海外へ行ってもいい。
白凪も。
病院も。
全部捨てても構わない。
今度こそ、もう待たせない。
本気でそんなことを考えていた。
9
月影市桜丘町の古い家は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。
外壁には蔦が伸びている。
ずっと捨てずに持っていた古い鍵を握った。
差し込む。
鍵はまだ使えた。
その瞬間、馬鹿みたいに嬉しくなった。
鍵を替えていない。
もしかすると、千紘は自分を待っているのではないか。
扉を開けた。
けれど、中に生活の気配はなかった。
家具には白いカバーが掛けられ、キッチンもきれいに片づいている。
立ち尽くしたまま、昔のことを思い出した。
学校から帰省するたび、祖母と千紘はキッチンでたくさんの料理を作っていた。
学校では金を使うのが怖くて、ろくに食べていない。
祖母はそれを知っていた。
だから帰るたび、何杯もご飯をよそってくれた。
十二歳の千紘は、いつもその横をうろうろしていた。
「恭平くん、今度いつ学校に連れてってくれるの?」
祖母も笑った。
「私も一度くらい、恭平が勉強してるところを見てみたいねえ」
けれど、その願いは最後まで叶わなかった。
病院で働くようになってから、どんどん忙しくなった。
千紘が週に何度か会いに来ても、手術、論文、会議を理由にまともに向き合わなかった。
祖母も会いたがっていた。
それでも、なかなか時間を作らなかった。
そして祖母は、一人で白凪へ会いに来ようとした日に交通事故に遭った。
最後に会った場所は、救急外来だった。
その場にしゃがみ込む。
借金を残して消えた父親。
妹だけを連れて、自分を置いていった母親。
自分は、あの二人とは違う。
ずっとそう思っていた。
けれど結局、自分も一番大切にしてくれた人たちを置き去りにした。
外から声がした。
昔から隣に住んでいる女性が、ゴミを出しに来たところだった。
「恭平くん?」
こちらを見て驚く。
「どうしたの、その格好」
慌てて立ち上がった。
「最近、千紘を見ませんでしたか?」
「見たわよ」
女性はすぐに答えた。
「この前ここを片づけに来てた」
「今、どこに?」
「海外のご両親のところへ行くって言ってたけど」
不思議そうにこちらを見る。
「聞いてないの?」
顔色が変わった。
「ご両親がどこにいるか、知ってます?」
女性は二秒ほど黙った。
「恭平くん」
「はい」
「千紘の家族とあれだけ長く付き合ってたのに」
呆れたように見つめる。
「ご両親がどこで仕事してるかも知らないの?」
答えられなかった。
千紘の両親がどこにいるか知らない。
千紘が普段誰と連絡を取っているのか。
何が好きなのか。
最近どんな仕事をしていたのか。
いつ自分から離れることを決めたのか。
考えてみれば、何一つ知らなかった。
必死にこれまでの生活を思い返す。
記憶の中の千紘は、ほとんどいつも何かをしていた。
料理をする。
洗濯をする。
部屋を片づける。
翻訳を手伝う。
出かける時には必要なものを準備する。
千紘自身が何をしたいのか。
一度でも真剣に聞いたことがあっただろうか。
ただ一人、連絡先を知っていそうな人間がいる。
杏奈だ。
すぐに白凪へ戻った。
杏奈はまだ完全には荷物を運び出していなかった。
千紘の両親の居場所さえ知らないと分かると、声を上げて笑った。
「私、人のこと言えませんけど」
冷たい笑顔を向ける。
「先生も相当ですよね」
「何が言いたい」
「千紘さんの家族に、あれだけ助けてもらったんでしょう?」
「……」
「それなのに、ご両親がどこにいるかも知らないんですね」
杏奈の肩を掴んだ。
「千紘と連絡取れるんだろ?」
「離して!」
「どうやったら連絡できる!」
杏奈が必死に腕を振りほどこうとする。
「私に怒鳴らないでください!」
「知ってるなら教えろ!」
「千紘さんをあんな扱いしたのは、先生でしょう!」
気づけば杏奈を壁際まで追い詰めていた。
杏奈の顔色が変わる。
強く腕を振りほどくと、すぐにスマートフォンを握った。
「それ以上近づいたら、110番しますから!」
足が止まった。
しばらくして、杏奈が吐き捨てるように一つの名前を口にした。
「佐伯先生」
「……佐伯?」
「佐伯先生も、昔、相沢医学奨学財団から奨学金を受けてたんです」
少し間を置く。
「千紘さんとは、今も連絡取ってます」
胸を殴られたような感覚がした。
またあの財団。
また千紘の家族。
それなのに、自分は何も知らなかった。
すぐに佐伯へ電話をかけた。
出ない。
そのまま病院へ向かった。
かつて毎日のように歩いていた廊下が、今ではまったく違う場所に見えた。
こちらに気づいた人たちが、小声で話し始める。
「まだ来るんだ」
「あの日、本当に学生とテーマパークにいたんでしょ」
「病院もずっと調査で大変らしいよ」
「小宮山さんも大学で調べられてるって」
俯いたまま佐伯のところまで行った。
「千紘がどこにいるか教えてくれ」
佐伯は数秒、黙って見た。
「なんで?」
「頼む」
「今さら人に頼むんだな」
思わず佐伯の袖を掴んだ。
佐伯がその手を冷たく見る。
「水沢。離せ」
すぐには離せなかった。
近くにいた看護師たちがこちらを見始める。
警備員も異変に気づき、歩いてきた。
そこでようやく手を放した。
佐伯は小さく息を吐いた。
「昔から変わらないな」
ポケットから一通の封筒を出し、恭平の胸へ押しつける。
「千紘から預かってる」
救いを求めるように封を開けた。
中には、一行だけ書かれていた。
『人の優しさを当たり前だと思う人には、何をしても届かない。』
10
海外で両親と暮らし始めてから、しばらく恭平のことを自分から聞くことはなかった。
天気のいい日は母と散歩をした。
忙しい日は父と相沢医学奨学財団の仕事をする。
やがて、医学部生を支援する奨学金事業の一部を正式に引き継いだ。
恭平と杏奈に裏切られたからといって、この支援までやめるつもりはなかった。
今も毎年、新しい学生が支援を受けている。
医学部を卒業し、医師国家試験に合格して、各地の病院で研修医として働き始める人もいる。
この先どんな医師になるのかは分からない。
それでも、たった二人のことで、本当に助けを必要としている人たちにまで扉を閉ざしたくはなかった。
その後のことは、たまに佐伯から聞いた。
院内調査と大学側の調査が終わったあと、恭平はオンコール勤務中の無断離脱と長時間の連絡不能について、重い責任を問われた。
患者の死亡をすべて彼一人の責任とすることはできなかった。
けれど、緊急時の診療体制に重大な影響を与えた事実は変わらなかったという。
大学では講師職を解かれた。
附属病院との契約も終了。
その後の手続きを経て、医業停止処分も受けたと聞いた。
恭平の調査をきっかけに、大学は杏奈の最終学年の臨床実習評価も改めて確認した。
その結果、恭平が杏奈の欠席を何度か見逃していたことが分かった。
本来なら合格基準に達していない実習項目にも、不適切な評価をつけていたらしい。
単位は再審査となり、杏奈は予定通り卒業できなくなった。
その年に受けるはずだった医師国家試験も、受験できなかった。
恭平の便宜で実習を乗り切っていた杏奈も、その調査をきっかけに、予定していた卒業への道を失った。
かつて周囲にいた、
「水沢先生」
と呼ぶ人たちは、驚くほど早くいなくなった。
患者側との補償。
弁護士費用。
収入の減少。
それらが重なり、春瀬町の部屋も手放したらしい。
医業停止中は、月影市にある資源回収会社で夜勤を始めたと聞いた。
杏奈も予定通り医師への道を進めなくなり、生活が苦しくなると、時々その仕事を手伝うようになったという。
結局、二人はその後もしばらく一緒にいたらしい。
ある日。
月影市の資源回収場で二人を見かけた人がいたという。
古びた作業着を着て、軽トラックの荷台からアルミ缶や古紙の袋を降ろしていた。
その話を初めて聞いた時、私はしばらく黙っていた。
佐伯が聞いた。
「少しはすっきりした?」
首を横に振った。
「別に」
本当に、もうほとんど何も感じなかった。
ただ、ときどき昔のことを思い出す。
あの頃の恭平は、まだ「水沢先生」ではなかった。
有名な外科医でもない。
新しい服を一枚買うことさえ惜しむ少年だった。
十二歳の私は、飲み終えたアルミ缶を彼へ差し出した。
恭平は俯いたまま、なかなか受け取ろうとしなかった。
やがて、小さな声で聞いた。
「俺のこと、汚いって思わない?」
私は力いっぱい首を振った。
二つに結んだ髪が、肩の上で揺れた。
「手なら洗えばきれいになるよ」
恭平が顔を上げる。
「おばあちゃん、人は心のほうが大事なんだって」
そう言って、缶を恭平の手へ押し込んだ。
あの時の彼は、俯いたまま何も言わなかった。
たぶん、本当にその言葉を信じていたのだと思う。
けれど大人になった恭平は、自分が一番惨めだった過去を消そうとし続けた。
靴を洗い。
手を洗い。
服を洗い。
床を消毒した。
少しでも昔の自分から遠ざかろうとしていた。
祖母の指輪は、もう作り直してある。
名前は入れていない。
二本目もない。
ただの、シンプルな金のリングだ。
たまに指にはめる。
陽の光が当たると、とてもきれいに見える。
床に落ちたあの人を、私はもう拾わない。




