【第二話】 風と氷の令嬢
レンには秘密があった。
物心ついた頃から
頭の中に声がいる。
その声はレンにしか聞こえない。
誰にも言ったことがない。
言えるわけがなかった。
それがレンの
唯一の秘密だった。
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馬車が止まった。
バルデン領の門前。
御者が扉を開けた。
最初に見えたのは
金色の髪だった。
陽の光を溶かしたような
鮮やかな金色。
次に見えたのは
青い瞳。
空の色を閉じ込めたような
澄んだ青だった。
整った鼻筋。
薄く形の良い唇。
三歳とは思えないほど
端正な顔立ちだった。
まるで職人が
丁寧に削り出した
人形のように。
でも——
その目には
炎があった。
公爵家の令嬢。
ルナ。
三歳だった。
頭の中でリリィが言った。
(容姿データを取得しました)
(将来的に——)
レン(いい)
(聞きませんか)
レン(いい)
(非効率です)
レン(なんとなく)
リリィが
0.2秒黙った。
(……了解しました)
「あなたが辺境伯の三男?」
ルナはレンを見ながら言った。
品定めするような目だった。
レンは見返した。
その目は
近くで見るとさらに綺麗だった。
でもそれより——
(この子、なんか強そうだな)
頭の中でリリィが言った。
(正解です)
(魔素の潜在量が)
(この地域の平均の——)
レン(後で)
(非効率——)
レン(後で!)
「そうだけど」
レンは答えた。
涼しい顔で。
ルナが眉を上げた。
「同い年なのに
敬語もないの?」
「ルナも使ってない」
ルナが固まった。
頭の中でリリィが囁いた。
(ターゲット、
返答に詰まっています)
レン(わかってる)
ルナはぷいっと
顔を背けた。
耳が少し赤かった。
「……いいでしょ別に」
---
その日の午後。
ルナはレンを庭に呼び出した。
「勝負しましょう」
「なんの」
「魔法と剣よ」
レンは空を見た。
雲一つなかった。
頭の中でリリィが言った。
(ルナの魔素が上昇しています)
(本気です)
レン(面倒だな)
「俺、魔法使えないけど」
「だから面白いのよ」
ルナが微笑んだ。
勝ち確信の笑みだった。
——負けたことがない。
同年代の子供に
魔法で遅れを取ったことは
一度もなかった。
それがルナの
当たり前だった。
この子も同じ。
そのはずだった。
ルナが片腕を上げた。
その瞬間。
頭の中でリリィが言った。
(魔素の集束を確認)
(量が——)
レンは思った。
(この子、かなりの魔力量だな)
(筋もいい)
(でも——)
(はい)
(制御が
まだ追いついていません)
レン(まぁそういうなって)
レン(まだ3歳だよ?)
(あなたが言いますか)
レンは少し黙った。
(俺は……ほら)
(お前がいるから)
リリィが
0.3秒黙った。
(……それは)
(ずるい言い方です)
レン(そうかな)
---
風が吹いた。
頭の中でリリィの声が切り替わった。
(風魔法、発動)
(風速12m、南西から)
(回避推奨方向:右後方)
レンは右後方に
一歩退いた。
風がレンの前を
通り過ぎる。
ルナが目を細めた。
信じられないものを見るように。
「……避けた」
「うん」
「なんで」
レンは少し考えた。
(リリィがいなくても
なんとなくわかった気がする)
(でもそれは言わなくていいか)
「なんとなく」
——なんとなく。
その言葉が
ルナの胸に刺さった。
狙って避けたなら
まだわかる。
でも——
なんとなく。
(なんで)
ルナは内心で
歯を食いしばった。
ルナが今度は
両手を上げた。
これなら避けられない。
そう思った。
頭の中でリリィが囁く。
(氷魔法、詠唱開始)
(完成まで3.2秒)
(威力は高いが軌道が直線的)
(間合いを詰めれば詠唱が崩れます)
レンは思った。
(詠唱が始まった瞬間に
体が固まる癖がある)
(そこを突けば——)
レン(わかった)
レンが踏み込む。
ルナの目が大きく開いた。
——なんで。
詠唱の途中で
なんで踏み込んでくるの。
なんで全部
わかるの。
詠唱が崩れた。
魔法が霧散する。
二人の距離が一メートル
沈黙。
ルナの顔が
少し赤くなった。
悔しさで。
それだけのはずだった。
「……なんで詠唱中に
動くの」
レンは首を傾けた。
「なんとなく」
頭の中でリリィが言う。
(また嘘をつきました)
レン(もう、それは言わなくていいから!)
ルナには何も聞こえない。
ただ——
レンが
何を考えているのか
全くわからなかった。
それが
さらに悔しかった。
---
三回目の勝負が終わった後。
ルナは地面に座り込んだ。
膝を抱えて空を見た。
「……なんで」
「なんで?」
レンが隣に座った。
特に気にした様子もなく。
レンはルナを横目で見た。
悔しそうな顔だった。
(この子、本気だったんだな)
(負けず嫌いなんだろうな)
頭の中でリリィが言った。
(ルナの心拍数が上昇しています)
(悔しさと推定します)
レン(そうだな)
「なんで魔法が
全部読まれるの」
「さあ」
「さあって——」
ルナが睨んだ。
レンは涼しい顔のままだった。
——今まで
こんな子はいなかった。
同年代なら
ルナの魔法に
ただ圧倒されるだけだった。
なのに。
この子は
涼しい顔で
全部避けて。
理由も教えてくれなくて。
(なんなの)
(好感度も上昇しています)
レン(それは言わなくていいやつ!)
(なぜですか)
レン(なんとなく!)
(それは非合理的な——)
レン(もう、うるさいなあ!)
---
しばらく
二人は黙っていた。
風が庭の草を
揺らした。
「ねえ」
ルナが空を見たまま言った。
少し迷うような間があった。
「また勝負する」
「いいよ」
ルナが
レンを真っ直ぐ見た。
「次は負けない」
「そうかな」
「絶対に」
レンは
その目を見た。
さっきより
炎が強くなっていた。
本気だと思った。
少し考えた。
「楽しみにしてる」
ルナが振り返ると
レンはもう空を見ていた。
涼しい顔で。
(なんなのこの子)
ルナはまた空を見た。
頬がまだ
少し赤かった。
---
その夜。
レンは自室の窓から
星を見ていた。
「リリィ」
頭の中に呼びかける。
誰にも聞こえない声で。
(なんですか)
「ルナ、強くなると思う?」
レンは窓の外を見たまま
少し考えた。
(今日の勝負を思い出した)
(あの魔力量)
(あの負けず嫌いな目)
(現在の魔法センスから計算すると)
(将来的に
この地域で最強クラスになります)
「そっか」
少し間があった。
(レンに不利になります)
「いいよ」
(非合理的な判断です)
「そうだな」
リリィが
珍しく黙った。
0.3秒。
(……レンは)
「なんだ」
(ルナに勝ちたくないのですか)
レンは少し考えた。
「勝ち負けより」
(より?)
「悔しそうにしてる顔より」
「笑ってる顔の方が
いいかな」
リリィが
また黙った。
今度は0.5秒。
(……わかりました)
(記録します)
「なんで記録するの」
(重要なデータと判断しました)
「どこが重要なの」
(レンが初めて)
(非合理的な感情を口にしました)
レンは窓の外を見た。
「もう、うるさいなあ」
(はい)
---
夜の辺境伯領は静かだった。
ルナが泊まっている客室にも
明かりはなかった。
でもレンは知らない。
ルナがまだ
眠れずにいることを。
——なんで負けたんだろう。
悔しい。
悔しいのに。
なんで
あの涼しい顔が
頭から消えないんだろう。
なんで
「楽しみにしてる」
という一言が
ずっと耳に残っているんだろう。
ルナは
天井を見つめた。
悔しさと
何か別のものを
持て余していた。
その何かに
まだ名前をつけられなかった。
頭の中のリリィは
何も言わなかった。
言えなかった。
それは——
データじゃなかったから。
---
脳裏でリリィが
静かに記録した。
記録No.047
本日の特記事項:
ルナとの初対面
勝負:3戦3勝
ルナの好感度:上昇中
レンの発言:
「笑ってる顔の方がいい」
分類:非合理的
備考:
しかし——
リリィはそこで
記録を止めた。
続きが
書けなかった。
——第二話・了——
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