プロローグ
「当たり前の距離」
その距離は、たぶんずっと同じだった。
坂の下で、いつもの背中を見つける。
少し猫背で、ブレザーの襟が曲がっていて、右だけ寝癖が跳ねている。
声をかける前に、手が伸びる。
愛莉「じっとして」
健人「まだ何も言ってないんだけど」
前に回り込んでネクタイを掴む。
結び目が緩い。
指でほどくと、健人は素直に顎を引いた。
昔からそうだ。こういうときだけ抵抗しない。
愛莉「毎朝これやらせる気?」
健人「頼んでない」
愛莉「やられてる側のセリフじゃない」
喉元に触れる距離。
制服越しに伝わる体温。
きゅ、と締め直す。
健人「苦しい」
愛莉「我慢しなさい」
軽く引いてから手刀を構える。
愛莉「ぶつよ?」
健人「理不尽」
額を小突く。
それで朝が始まる。
並んで坂を上る。
歩幅は自然に揃う。
合わせた覚えはないのに、小さい頃からずっと同じだった。
途中の自販機の前で健人が立ち止まるのも、同じ。
健人「今日暑くね?」
愛莉「四月だから」
健人「四月ってこんな暑かったっけ」
愛莉「去年も言ってた」
落ちてきた缶を一本渡される。
礼は言わない。
愛莉「はいはい、ありがと」
健人「言わせた」
プルタブを開ける音が重なる。
川から風が上がってくる。
前髪がまた跳ねる。
直そうとして――やめた。
別に今じゃなくてもいい。
そのまま歩く。
同じ距離で。
同じ速度で。
教室に入ると、いつもの声。
男子「おはよー夫婦」
愛莉「ぶつよ?」
笑いが起きる。
健人「テンプレかよ」
愛莉「便利でしょ」
何度も繰り返してきたやり取り。
それで終わるはずだった。
そのはずなのに。
ほんの少しだけ、呼吸が遅れる。
健人が席に向かう背中を見る。
手を伸ばせば届く距離。
小さい頃、転んだ健人の手を引いたときと同じ距離。
――家族みたいなもの。
自分で決めた場所。
放課後。
帰り道も、同じ並び。
自販機の横で足を止める。
ネクタイが緩んでいるのが目に入る。
愛莉「ちょっと」
健人「ん?」
制服の胸元を掴んで引き寄せる。
距離が一気に近くなる。
指先に触れる体温。
夕焼けの光が、視界の端で揺れる。
健人「……今日丁寧じゃね?」
愛莉「気のせい」
結び目を整える。
離さない。
離したくない理由を考えない。
形を整えて、指を離す。
健人「ありがと」
いつも言わないのに。
その一言で、心臓が跳ねる。
愛莉「……どーいたしまして」
坂の途中。
自販機の横。
いつもの場所。
いつもの距離。
ずっと変わらないと思っていた関係。
でも。
その“当たり前”を、
いつまで隣でやれるのかなんて――
そのときのわたしは、まだ考えていなかった。




