第9話 黄晶洞の入口
夕刻の黄晶都は、昼の湯気が引いて、石畳がいっそう冷たく見えた。共鳴塔へ続く坂道を上るたび、志音の靴裏が細かな砂を噛み、乾いた音を立てる。空は青から群青へ移り、塔の頂の黄いろい光だけが、先に夜を始めていた。
華音は歩幅を小さくし、いちばん後ろの愛恋へ目線を送る。愛恋は古文書の束を胸に抱えたまま、頷いてみせた。陽海は肩にかけた小さな盾を直し、塔の入口の左右を確認する。視線は忙しいのに、足は人の歩みに合わせている。
「地下って、寒いんですかね」
志音が言うと、華音は水筒の口を軽く叩いた。叩き方が「今は短く」と言っている。
「寒さより、言葉の尖りのほうが危ないです。息を整えるために、まず飲んでください」
志音は素直にひと口飲んだ。水は冷たく、喉を通った瞬間、余計な比喩が一つ引っ込む。昔から、彼の口は、静けさが怖くなると余計に動く。今日は、動くほど危ないと分かっている。
塔の門前には、監察官の昇一がいた。外套の襟を立て、手には灯りの札を三枚。紙の端が黄く光り、火のにおいではない、乾いた鉱石の匂いがする。
「許可は出した。だが、余計な札は切る。書評師、指先を見せろ」
志音は手袋を外して掌を開いた。昇一は目だけで確認し、灯り札を一枚渡す。受け取ると、紙が掌の熱を吸い、光が少し丸くなる。
昇一は、華音の水筒にも目を落とした。水が揺れている。
「調律官見習い。水は、地下でこぼすな。床が滑る」
華音は「はい」と短く返し、わざと一拍置いてから、水筒の蓋をしっかり締めた。返事で争わない。行動で約束する。
階段は、塔の内部を螺旋に降りていった。壁の石は黄みを帯び、灯り札の光が当たるたび、濡れたように艶を返す。耳が少し詰まる。地下の空気は、冷たいのに湿っていて、吐く息が薄くまとわりつく。
階段を降りながら、志音は壁の文字を見つけた。昔の案内板らしく、角が欠け、ところどころ読めない。それでも、読むと胸がざわつく。
『言葉は重い。重いなら、短く持て』
志音は思わず、独り言を飲み込んだ。飲み込んだままの言葉は、腹のあたりで膨らむ。だが、ここで吐けば、反響して余計に大きく聞こえる。
実際、少しだけ漏れた息が、洞の先で二回返ってきた。志音は耳が熱くなり、わざと靴紐を結び直した。
途中、陽海が一段踏み外しかけた。すぐに盾で体勢を支え、音を立てないように膝を曲げる。志音が手を伸ばし、触れる寸前で止めた。触れれば、陽海は助かった顔をする。だが、志音の指先が重くなるかもしれない。
代わりに、志音は言葉を差し出した。
「今の、見なかったことにします。……じゃなくて、今のは、ここだけの話にします」
愛恋が小さく頭を下げた。
「“見なかった”は嘘になります。“転ばなくてよかった”のほうが、胸が軽いです」
陽海は顔を赤くして、短く頷いた。
「……転ばなくて、よかった」
螺旋の終わりに、狭い扉があった。昇一が札を貼ると、扉の縁が一瞬だけ黄く浮き、静かに開いた。湿った空気が押し寄せる。土と石の匂いに混じって、どこか甘い金属の匂いがした。
そこが黄晶洞だった。
洞へ入ってすぐ、陽海が後ろを振り返り、昇一の歩調を確かめた。昇一は距離を詰めない。詰めないが、見逃さない。陽海は盾を持つ腕の力を抜き、志音へ小さく手を振った。
「……ここ、声が増えるな。言い過ぎると、倍になる」
志音は頷きかけて、首の動きだけで返した。倍になるなら、自分語りは四倍になる。危険だ。
天井は低く、壁は結晶の筋が走っている。灯り札の光が触れると、筋が薄く光り、洞の奥へ導くように道が伸びる。足元には水が浅く溜まり、踏むたびに小さな波紋が広がった。華音は波紋を見て、すぐに歩く順番を変えた。こぼさないためではない。音を揃えて、耳に刺さらない距離を作るためだ。
洞の奥で、志音の胸の内側が小さく震えた。掌の札ではない。心臓の鼓動のほうが、外から合わせられているみたいに。
遠くで、規則正しい脈が鳴っている。音というより、胸の骨がわずかに撓む感覚だった。
「……結晶の鼓動」
志音が呟くと、昇一が低く言った。
「都の中心だ。ここが乱れれば、上も乱れる」
さらに進むと、洞は広がり、巨大な黄いろい結晶が姿を現した。共鳴塔の“心臓”と呼ばれる塊だ。表面には細い線が無数に走り、ところどころで線が集まっている。そこが、ヒビだと分かる。光は美しいのに、見ていると喉が乾く。
華音は、結晶から少し離れた場所に椅子を二脚置いた。誰も座らない。椅子の存在が「ここで争わない」と言っている。
そして水筒を、四人の手が届く位置に置いた。昇一には差し出さない。差し出せば、彼は受け取らない。その拒み方が、また空気を尖らせるからだ。
椅子を置き終えた華音は、陽海の肩に軽く手を置き、ぱん、と短く拍手した。音は小さいのに、洞の空気が一瞬だけ丸くなる。
陽海は「……ありがとう」と小さく言って、すぐに水を一口飲んだ。飲み方が、盾を構える時と同じくらい慎重だった。
愛恋が古文書を開いた。紙の縁が湿気で少し波打つ。愛恋は指で押さえ、声を張らずに読み上げた。読み方は丁寧だが、要点だけを残す。
「“言葉の偏りは、結晶のヒビを進める。褒め過ぎは甘い毒、責め過ぎは鋭い刃。偏りは、どちらも同じ”」
志音は思わず「耳が痛い」と言いそうになり、舌先で止めた。
愛恋は、次の行へ視線を落とし、少しだけ息を吸った。
「“偏りが続けば、人は憎むことしかできなくなる。憎しみは、ヒビの中を走り、都へ戻る”」
陽海が唾を飲んだ。盾の縁を指でなぞる回数が増える。怖いのに、逃げない。志音はそれを見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。ここで逃げれば、地上の店先で守った光も、薄くなる。
華音は結晶を見上げ、両手を胸の前で重ねた。調律札は出さない。今は、言葉で整えるより、耳で整える時間だと判断したのだろう。志音は、その沈黙に助けられた。
だが、志音の掌の札が、勝手に震え始めた。灯り札の光が当たっていないのに、表面に黄いろの滲みが走る。文字が、浮かぶ。
『イエロートルマリン』
「……また、出た」
志音の声は掠れていた。自分の言葉が、結晶に吸われそうで怖い。
昇一が一歩近づいた。止めるためではなく、確かめるための距離だ。胸元で、欠けた宝石片がかすかに鳴った。志音は、その音を聞いてしまい、無意識に言い訳を探した。言い訳は、濁る。
華音が水筒を指で押した。音を立てない合図。志音は水を飲み、喉を潤した。言い訳が、少しだけ溶ける。
「触れないでください」
愛恋が言った。命令ではなく、お願いの形に聞こえるように、語尾を落とす。
「触れるなら、理由を先に。二つ、選べます。『確かめたい』か、『助けたい』か」
志音は息を吸い、言葉を選んだ。どちらも本当だが、どちらを先に置くかで、札は濁る。
「……確かめたい。ぼくの札が、ここに反応している理由を」
昇一は短く頷き、灯り札を一枚、結晶の足元へ貼った。光が結晶の腹を照らし、ヒビの線がはっきり浮かび上がる。怖いほど綺麗だ。志音は、手のひらを結晶へ近づけた。指先が重くなる前に、触れる場所を一つに絞る。広く触れれば、負担が増える。
指先が、冷たい結晶に触れた。
次の瞬間、黄いろい光が、視界の端から裏返った。洞の湿気も、石の匂いも消える。代わりに、紙の匂いが鼻を刺した。乾いたインク。埃。段ボール。
志音の目の前に、本棚が並んでいた。
背表紙の色が、鮮やかすぎて泣きそうになる。自分の部屋だ。地球の、いつもの棚。手を伸ばせば、あの一冊に触れられる。けれど、指先にはまだ結晶の冷たさが残っている。
志音は、息を止めた。




