第7話 憎しみの芽
舞台の床が、きしりと鳴った。
観客の間を抜ける風は、焼いたパンの匂いと、汗の匂いを一緒に運んだ。笑いが消えたあとの沈黙は、紙を破く前の静けさに似ている。志音はその沈黙が怖くて、札へ手を伸ばしそうになり、いったん膝の上で握り直した。
華音は一歩だけ前へ出て、輪の中心に、静かに靴先を置いた。石畳の冷えが足裏から上がってくるはずなのに、彼女の呼吸だけは乱れない。胸の前に浮かんだ調律札は、薄い膜のように揺れ、周囲のざわめきを映しては、すぐに曇った。
「今の言葉を、次の言葉につなげます」
声は低い。怒鳴り声に対抗するための大きさではなく、聞くための大きさだった。華音は水差しを持ち上げ、二つの木椅子を舞台脇からずらしてきて、男たちの間に“置いた”。距離を離すのではなく、間に物を入れて、視線がぶつからないようにする。
「座ってください。飲み物を、ひと口」
責められたほうの男は、肩で息をしていたが、椅子を見ると膝が勝手に折れたみたいに腰を落とした。紙椀を握る手が震え、汁が少しこぼれる。
一方、叫んだ男は立ったままだ。黄ばんだ瞳が、華音の札を見ても焦点を結ばない。自分の中の熱に目が追いついていない、そんな揺れ方だった。
「飲むもんかよ。こいつが——」
言いかけた瞬間、華音は指を鳴らさず、ただ息を吸った。札がふわりと光り、音の角が取れていく。怒鳴り声が、布に包まれたみたいに丸くなる。
「“こいつが”の前に、あなたが欲しいものを言ってください」
華音は、相手の胸元ではなく、手元を見た。拳の握りをほどくために、目で“手を見ます”と知らせるように。男の指がわずかに開く。そこへ、陽海が盾を半歩だけ差し入れた。叩き落とすためではなく、押されても倒れないための角度で。
「……座長の芝居、最後まで見たかっただけだろ」
陽海の声は、諭すというより、自分に言い聞かせるみたいに短い。盾の縁が、男の肘にそっと触れた。男は肘を引き、代わりに喉を鳴らした。
「見たかった。なのに、あいつが笑うから……」
言葉が出た。責める矢印が、ほんの一瞬だけ自分の中へ戻る。華音はその瞬間を逃さず、水を渡した。男は受け取り、飲まないまま握りしめた。
志音は、その光景を見ながら、口の中がむずむずした。自分なら、ここでうまい比喩を入れて場を締める。そんな癖が、舌の先で跳ねた。
「ぼくも昔、——」
言いかけたところで、愛恋が志音の紙椀の縁を、指先でちょんと叩いた。目だけで「いまは、短く」と伝えてくる。志音は言葉を飲み込み、かわりに息を吐いた。湯気と一緒に、自分語りが少しだけ薄くなる。
華音は、調律札を胸の前で傾けた。光が、男たちの間の“間”へ落ちる。そこだけ、空気がひときわ澄む。
「あなたは、笑われたくなかった。あなたは、押されたくなかった。——ここまでで、合っていますか」
責められた男が、こくりと頷いた。叫んだ男も、ほんの少しだけ顎を引いた。華音は、そこで止めない。次の手順へ進む。
「次に言う言葉は、相手の顔ではなく、行動に向けてください。“やめて”でも、“離れて”でも、短いので」
責められた男が、まだ震える声で言った。
「……近いのが、嫌だった。離れてほしい」
叫んだ男は、口を開いた。けれど出てきたのは、硬い同じ音だった。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ」
華音は顔をしかめない。代わりに、男の喉元を見た。
「喉は、乾いていませんか。寒い、でもいいです。あなたの体の言葉を、ひとつ」
男の唇が動く。出そうで、出ない。舌先が空回りして、また同じ音になる。
「嫌だ……」
黄ばんだ瞳が、また揺れた。さっきよりも浅く、早く。体の中で何かが芽を出して、根を張ろうとしているみたいに。
その時、志音の腹が、情けない音を立てた。紙椀の汁の匂いが、いまさら胃を刺激したらしい。
陽海が振り向き、盾の縁で志音の腹を軽くつつく。
「いま鳴るな。……いや、鳴るのは悪くないけど、場を間違えるな」
志音は顔を赤くして、紙椀を両手で抱えた。熱で指先が少し楽になる。言葉の代わりに、汁をすすって喉を落ち着かせた。
志音は、掌のレビュー札を確かめた。書いていないのに、端に黄いろい滲みが走っている。『イエロートルマリン』。文字が、戻ってくる。指先が重くなりかけ、志音は慌てて札を袖に隠した。
「……残るんだ。落ち着いても、黄ばみが」
ぽつりと漏らすと、華音は頷いた。うなずき方が、小さくて速い。いま、考える余裕がない合図だった。
そこへ、靴音が三つ、揃って近づいてきた。人の輪が割れ、黒い外套の男が現れる。胸元の金具が光り、紙束を抱えた部下が二人、ぴたりと後ろへ付いた。
昇一だった。
昇一は、広場の匂いにも、舞台の余韻にも目を向けず、黄ばんだ男だけを見た。視線が冷たいのではない。線がまっすぐすぎて、寄り道をしない。
「異常反応。連行する」
部下が紙を一枚差し出す。昇一はそれを受け取らず、紙の上を指でなぞった。読まずに、文字の並びだけを確かめる癖が見える。次いで、舞台脇の掲示板へ、その紙をぴんと貼り付けた。
『規定違反:公衆の場で相手の人格を攻撃し、感情を煽った者は隔離室へ』
文字は大きく、余白がない。読む者の逃げ道を塞ぐ並びだった。
観客の中から、ほっとした息が漏れる。別の場所からは、苛立った舌打ちが返る。輪の外側が、再び尖りかける。
「待ってください!」
志音は思わず一歩踏み出した。言いたいことが山ほどある。けれど山ほど言うと、また火がつく。昨夜から何度も味わった失敗の予感が、喉を締めた。
志音は、短い言葉に削った。
「黄ばみは、あなたにも見えますか」
昇一の目が、志音の口元へ移った。質問に答えるのではなく、まず“言い方”を量るみたいに。
「見える。だから危険だ。札の乱用は、都を壊す」
昇一は華音の調律札へも視線を走らせた。華音は頭を下げない。代わりに、水差しを持ったまま、椅子の位置をもう一度整えた。誰かを守る姿勢を、形で示した。
愛恋が、志音の袖を引いた。小さく二つ、言い換え案を囁く。
「“止めないで”より、“一緒に確かめたい”のほうが、刺さりにくいです」
「……一緒に、確かめたい。彼は、ただ怒っているだけじゃない」
志音がそう言うと、昇一の眉がわずかに動いた。動いたのは一瞬で、すぐに元へ戻る。
「確かめるのは監察の役目だ」
部下が黄ばんだ男の腕を取った。男は抵抗しない。抵抗する余裕がないのか、抵抗する方向がわからないのか。黄いろい滲みが、瞳から頬へ落ちるように見えた。
男は、同じ言葉を繰り返し始めた。
「憎むことしかできない……憎むことしか……」
その声は、怒鳴り声ではなかった。泣き声でもない。ただ、口が勝手に動いている音。自分の意思が追いつかない音。
責められていた男が、椅子から立ち上がり、半歩だけ追いかけた。けれど、何も言えない。言えばまた、火種になると本能が止めている。
志音は、靴先で石畳の割れ目を見つけた。そこに、細い芽が一本、顔を出していた。冬の広場で、場違いなほど黄いろい芽。誰かの言葉が落ちた場所から、出てきたみたいに。
志音は、息を吸って、吐いた。
責める言葉は、火の粉になる。落ちた場所で、芽を出す。
連行される男の背中が遠ざかるほど、繰り返しは大きくなった。
「憎むことしかできない……憎むことしかできない……」




