第6話 語り芝居の座長ナツカ
昼の黄晶都の広場は、冬の冷気の中でも人の息で白く霞んでいた。
屋台の鍋から立つ湯気が、石畳の上でふわりとほどける。焼き菓子の甘さと、香草の匂いが混ざって、志音の空腹を遠慮なく揺さぶった。共鳴塔の方角から差す黄いろい光は、今日はやけに柔らかい。なのに、胸の奥だけが落ち着かない。
図書塔で札に滲んだ語――『イエロートルマリン』が、指先に残っている気がした。書いていないのに浮かぶ言葉。知らないのに、知っている気がする響き。志音は掌を見つめ、指をこすった。こすっても、滲みは消えない。
華音は広場の端で立ち止まり、いつもの水筒を志音へ差し出した。
「読む前に一口。書く前にもう一口」
「今から書くの、まだ決めてないんだけど」
「決めていなくても、飲めます」
志音は渋々飲んだ。水は冷たいのに、喉を通ると頭の中の言葉の渦が少しだけほどける。陽海は人の流れを読みながら、盾の位置を背中から腕へ移した。愛恋は小さな手帳を開き、何かを確かめるように目を動かしている。
舞台の前へ行く途中、志音は汁物の屋台の前で足を止めた。紙椀に注がれる熱い湯気を見ただけで胃が鳴る。
「これ、ください。……あ、食べた感想を書いたら、ちょっと安くなるとか」
言った瞬間、華音が水筒を志音の胸元へ押し当てた。止める合図だ。
「志音さん。飲んでから」
「まだ飲んだじゃん」
「“書く前”です」
志音は口を尖らせ、もう一口飲んだ。屋台の親父は肩を揺らして笑う。
「感想で腹は膨れねぇよ。だが、嘘の感想は舌が痺れる。やるなら正直にしな」
「舌が痺れる……?」
「この都じゃ、そういうこともある」
冗談みたいに言われたのに、志音は笑えなかった。昨日、門番に説明を重ねた時、喉の奥がきしんだ感覚を思い出した。言葉の重さは、比喩じゃなく身体に来る。
広場の中央には低い舞台が組まれていた。幕は厚い布を重ねただけ。机が一つ。椅子が二つ。水差しが一つ。道具が少ないほど、言葉が目立つ。
「水差し、舞台にも置くんだ」
志音が言うと、愛恋が一礼して答えた。
「口上は息で決まります。息は水で整えられます」
「この都、言葉が先じゃなくて水が先なんだなあ」
志音が呟くと、華音が短く拍手した。ほんの一回だけ。
「今の言い方、刺さらないです」
刺さらない。志音はその言葉を胸の中で転がした。自分の言葉は、よく刺さる。褒めるつもりで刺して、痛い顔をさせる。笑わせるつもりで刺して、相手の肩を上げさせる。ここでは、その癖がはっきり見える。
幕の前へ、一人の女性が出てきた。赤い外套の襟を指で整え、観客へ向けて深く頭を下げる。短い髪が頬に触れ、耳へかけた指の動きが、やけに無駄がない。
「語り座《ナツカ一座》、始めさせていただきます」
声はよく通るのに押しつけがましくない。空気を切るのではなく、空気を畳んで揃えていくみたいだった。華音が小声で言う。
「座長のナツカです。札が濁りにくい言い回しをする、と評判の人です」
「濁りにくい言い回し……」
志音は言葉を繰り返し、喉の奥で自分の癖を思い出した。比喩を盛る。自分語りを足す。褒める時ほど大げさになる。ここでは全部、危ない。
芝居は恋物語だった。寒い夜、同じ鍋を囲む二人。互いに怒っているのに、先に謝るのが怖い。鍋の具をよそい合うだけで、言いたいことが喉まで来て引っ込む。その間の沈黙を、ナツカは一歩の距離で見せた。
役者は舞台に一人しかいない。それなのに、志音には二人がいるように見えた。声の高さは変えない。目線だけを少しずらす。指先の角度を変える。それだけで、相手がそこにいる。椅子の脚を少しだけ鳴らして、踏み出せない心の重さを表す。机の端に指を置き、離す時に息を一つ長く吐く。それだけで、謝れない夜の長さが伝わった。
観客が笑った。鍋の蓋を開ける仕草に合わせて、背後の屋台から湯気がちょうど立ち上がり、舞台が一瞬だけ本物の台所になったみたいだった。志音は笑いそうになり、堪えた。面白いからではない。悔しいからだ。たった数歩と数秒で、心がほどけてしまうのが。
終わり際、ナツカは水差しを持ち上げ、椅子を少しだけずらした。観客からは見えないほどの小さな動き。けれど、その瞬間、場の空気が「さあ、次はあなたの番」と言われたみたいに整った。志音の胸の奥の言葉も、勝手に順番を作り直される。
志音は掌のレビュー札を出した。指先が重くならないよう、短く。嘘を混ぜない。断罪もしない。褒め殺しもしない。
『一人の声で二人が見える。水差しの置き方で、言葉の順番が戻る。寒い昼に、手が温かくなる。』
書き終えた札が淡く光り、拍手の音が痛い音ではなく、柔らかい布の音になった気がした。志音の指先がじわりと重くなりかけ、慌てて札を引っ込める。大量に扱えば、指が石みたいに固くなる。昨日教えられた制約が、身体でわかる。
陽海が、志音の横で小さく頷いた。盾を抱える腕が、少しだけ軽く見える。愛恋は手帳に何かを書き込み、志音へ二つの言い換え案を口の形だけで示した。『温かくなる』を、『息がしやすくなる』に。あるいは、『肩が下がる』に。志音は舌の上で選び、今日はそのままにした。今は、これでいい。
ナツカが客席の端まで歩いてきた。外套の裾を踏まない歩幅。笑顔のまま、志音の札を覗き込む。受け取らない。触れない。触れない距離で、礼をする。
「書評師さん。ありがとうございます」
言葉は丁寧だ。けれど、眉だけが、ほんの一瞬だけ動いた。笑顔のまま、質問されているみたいだった――あなた、どこまで分かっているの。
志音は自分語りを始めそうになって、喉の奥で噛み止めた。代わりに、掌を上へ向ける。
「昨日から、札に知らない語が滲むんです。『イエロートルマリン』って……都の石の名前ですよね?」
ナツカは、舞台の水差しへ目をやった。視線が一瞬だけ揺れる。すぐに笑顔へ戻る。
「“名前”って呼ぶと、安心しますよね。でも、安心が濁ると、怖いものも増える」
華音が一歩前へ出た。水筒の口を閉め、息を整える。
「座長。共鳴塔の結晶にヒビがあると聞きました。言葉の偏りが関係するなら、広場の空気を確かめたいのです」
ナツカは返事をせず、観客へ向けて小さく手を振った。まるで、これから先は舞台ではなく現実だ、と告げる合図みたいに。
その時、客席の後ろで男の声が跳ねた。
「おい。さっきから肩が当たってるんだよ。わざとだろ」
返した声が乾いていた。
「当たってない。おまえが勝手に寄ってきただけだ」
ただの口論に見える。けれど、言葉が落ちるたび、広場の空気の角が立っていく。輪ができ、輪の中心だけが冷たく尖った。周りの観客が後ずさりするたび、雪解けの水が靴底で鳴った。
華音が水差しへ手を伸ばした。息を整えるための道具を、まず確保する。その動きに、志音の胸が少しだけ落ち着く――はずだった。
責める側の男が叫んだ。
「おまえの顔が気に食わないんだよ!」
その言葉が落ちた瞬間、志音の掌の札が震えた。薄い黄いろが、勝手に滲む。『イエロートルマリン』。書いていないのに、戻ってくる。背後で、どこかの看板の光が一瞬だけ濁り、屋台の親父の笑い声が途切れた。
ナツカの笑顔が、止まった。消えたのではない。笑顔のまま固まった。息が止まったのが、志音にもわかった。
そして――責めた男の瞳が、黄ばんで揺れた。




