第5話 古文書係の言い換え術
朝の台所は、昨夜の鍋の匂いがまだ薄く残っていた。火を落としたはずの匂いだけが、家の中でのんびり居座っている。
志音は水差しを探して、台の上に置かれた木のコップを見つけた。どのコップも、口の縁が少しだけ欠けている。誰かがぶつけた跡だろうに、捨てずに、削って使っている。そういう家だ。
「……僕の世界だと、欠けたコップって、だいたい“思い出”って名前が付くんですよ」
言った瞬間、背中から小さな咳払いが飛んできた。
華音が、布で卓を拭きながら、目だけで志音を見た。口は動かさない。代わりに、水を注いだコップを志音の前へ置き、隣の椅子を半歩だけ引いた。話が長くなる前に、距離で空気を整える。
「飲んでから」
短い。志音は従って飲んだ。冷たい水が喉を通ると、昨夜の黄いろい風の感触が、胸の奥でようやく固まった気がした。
同じ卓の端で、愛恋が紙束を抱えたまま立っている。挨拶の代わりに、深く一礼してから口を開いた。
「本日、黄晶図書塔へ参りましょう。志音さまの……ええと、肩書きは」
「書評師、ですかね。いや、昨日決まったばかりだから、まだ仮……」
志音がまた前置きを積み上げかけたところで、愛恋が指を二本立てた。二つだけ。
「一つ目。図書塔の入口で、監察官の方に呼び止められる可能性がございます」
「二つ目。中は静かに」
言い終えると、愛恋はもう一度頭を下げ、紙束を抱え直した。説明は短く、最後に選べる形にする癖が、動作にまで染みている。
陽海は玄関で革の靴ひもを締め、盾を背負い直していた。余計な音を立てないよう、金具を掌で押さえながら歩く。志音が見ていると、陽海は小さく息を吐いてから言った。
「今日、図書塔って、護衛も必要ですか」
「必要じゃない。けど、いると安心する」
華音はそう言って、水差しを布で包み、肩に提げた。持ち歩く水は、道具でもあり、合図でもある。
四人は朝の冷気の中へ出た。黄晶都の道は、文字の光で淡く照らされている。看板が光るたび、志音の掌の札が、薄い潮のように震える。
黄晶図書塔は、共鳴塔より低いが、近くで見ると十分に高かった。蜂蜜色の石壁に、細い窓が並び、窓の一つ一つに文字が彫られている。風が吹くと、その文字がさらさらと鳴る。紙をめくる音に似ていた。
入口では、番人が首をかしげる前に、愛恋が一礼した。
「古文書係の愛恋でございます。本日より、志音さまを“書評札の作成”で雇い入れたく、入館の許可をお願いいたします」
番人は、志音の服と手を見てから、華音の水差しに目を止めた。水差しがあるだけで、乱暴な声が少しだけ抑えられる。この都では、水が言葉の前に立つ。
「……中で声を上げるなよ」
そう言われ、志音は胸に手を当てて深く頷いた。頷きすぎて、首が少し痛い。
中は、紙と木と石の匂いが混ざっていた。暖炉の火は小さく、足音が吸い込まれるように消える。高い天井の梁の影が、まるで巨大な本棚の背表紙みたいに並んでいる。
愛恋が案内したのは、奥の小部屋だった。机が二つ。片方に古い本が積まれ、もう片方には薄い紙状の札が数枚、木の枠に挟まれている。
「こちらが、レビュー札です。書くときは、心の中で一度だけ、深呼吸を」
「深呼吸ができないほど興奮したら?」
「その場合は……水を、二口ほど」
愛恋はそう言い、すぐに続けた。
「志音さまが選べるように、二つ申します。興奮している場合は、読むのを先に。落ち着いている場合は、書くのを先に」
志音は笑いそうになった。選択肢が丁寧すぎて、逆に落ち着く。
華音は机の椅子を少しだけ動かし、志音の椅子と正面にならない角度を作った。真正面だと、言葉が刺さる。斜めだと、抜け道ができる。志音は昨夜、その抜け道に救われたのを思い出す。
「調律の作法も、ここで少しだけ」
華音は、机の上の札を指先で軽く叩いた。
「読む前に、相手に“聞いてもいいですか”って聞く。次に、水。最後に、息」
志音は頷き、さっそく言った。
「じゃあ僕、この本の感想を言っていいですか。いや、もう言うんですけど。たとえば――」
華音の指が、すっと志音の唇の前に立った。触れない距離。止める合図。愛恋は一礼してから、もう一度二本指を立てた。二つだけ。
「一つ目。許可が先」
「二つ目。感想は短く」
志音は、肩をすぼめた。恥ずかしいのに、笑いがこみ上げる。自分の癖を、手順で止められるのは、妙にありがたい。
「……聞いてもいいですか」
「どうぞ」
華音が水を差し出す。志音は一口飲み、息を整えた。心の中で数を数える代わりに、本の表紙のひび割れを一つだけ見つめる。
愛恋が古い恋物語を机へ置いた。表紙は革で、中央に黄いろい石の粉が塗られている。題名は、かすれて読みにくい。愛恋が指先でなぞり、口にした。
「『黄晶の庭で、二度めの約束』。百年以上前の写本です」
「二度めの約束……いいタイトルだなあ。僕の世界でも、タイトルは――」
「静かに」
今度は番人の声が、遠くから飛んできた。志音は口を押さえた。ここは、音がよく通る。
志音は本を開いた。紙は厚く、指先にざらりとした感触が残る。文章は古く、ところどころ意味が抜ける。それでも、恋の場面だけは不思議と読みやすかった。怒っているのに、謝れない。好きなのに、言えない。言葉の順番を間違えるたび、二人の距離が遠くなる。
志音は、胸の奥がきゅっとなるのを覚えた。昨夜、自分が鍋の湯気の前で長話をして、空気を重くしたのと似ている。違うのは、彼らが“言えない”側だったことだ。
ページをめくる指が速くなり、志音は気づけば、声に出していた。
「ここ、最高……いや、最高って書くと濁るんだっけ。えっと、ここは、言葉が遅れて追いつく感じで――」
華音が水差しを机に置く音が、ちいさく響いた。それだけで、志音は我に返った。愛恋は慌てず、先に一礼してから、志音の言葉を拾い直す。
「“言葉が遅れて追いつく”は、良い比喩です。ただ、図書塔の中では声を落としましょう」
「すみません……」
「言い換えを二つ。『声を落としてください』、と、『外で続きを聞かせてください』。どちらが、今の志音さまに合いますか」
志音は、笑ってしまった。怒られているのに、選ばされると、なぜか責められている気が薄れる。
「外で続きを聞かせてください、のほうが……なんか、救われます」
「承知いたしました」
愛恋はにこりともせず、丁寧に頷いた。笑顔がないのに、冷たくない。言葉の温度が一定だ。
昼前、図書塔には少しずつ人が増えた。写本の借用を巡って、小さな言い争いが起きる。
「あなたが先に借りたから、私が読めないじゃない」
「いつもいつも、君はそうやって――」
声が上がり、周囲の視線が集まる。志音は反射で立ち上がりかけ、華音の手が袖を軽く引いた。椅子をずらし、二人の間に机を挟む距離を作る。水差しが、二人の視線の中央へ置かれる。
華音が、まず水を渡した。
「一口だけ、飲んでください」
二人は渋々飲む。喉が動く。その間に、愛恋が一礼して、言葉を整える。
「今のお気持ちを、二つの形で言い換えられます。『早く読みたい』と、『後ででもいいから読みたい』。どちらが、本音に近いでしょうか」
言い争っていた二人が、言葉を探して口を閉じた。志音はそこでようやく、手を挙げる代わりに、掌の札を見た。札が震えていない。空気が少し整った証だ。
志音は机へ戻り、短いおすすめ文を書こうとした。書くべきことは決まっている。嘘を混ぜない。断罪しない。相手の胸にあるものを、そっと照らす。
羽根ペンを握り、志音は心の中で深呼吸を一度だけした。言葉を削る。削って、残す。
『謝れない二人が、最後に“順番”を取り戻す話。読み終えた後、言葉の前に水を飲みたくなる。』
そこで、札がじわりと温かくなった。志音の指先が、紙の上で止まる。自分の書いた行の下に、別の文字が滲み出した。
黄いろい光の筋が、インクのように広がっていく。
『イエロートルマリン』
志音は、書いていない。口にもしていない。なのに、紙が勝手に、その語を覚えているみたいだった。
「……愛恋さん、これ」
声を出した瞬間、図書塔の奥で、どこかの棚が、きし、と鳴った。華音が水差しを強く握り、陽海が盾の位置を変える。愛恋は一礼してから札をのぞき込み、眉をほんの少しだけ動かした。
「滲みましたね。……志音さま、今の気持ちを、二つに分けてください」
志音は喉を鳴らした。怖い、と、嬉しい、が同じところにいる。
窓の外、共鳴塔の方角が、ほんの一瞬だけ濃い黄いろに脈打った気がした。




