第40話 黄晶都の書評茶房
春の終わりの朝、黄晶都の石畳は、冬のとげを失っていた。
共鳴塔の結晶は、いつもの黄いろに戻りながら、縁だけが薄い白をまとっている。光が刺さらない。暖簾みたいに、ふわりと垂れている。
通りを歩く人たちの呼吸も、尖らず、揃っていた。肩がぶつかっても、すぐに拳は出ない。代わりに、口が先に動く。
「今、当たりました。……すみません。私が寄りました」
言い方が変わるだけで、足音が軽くなる。志音はその変化が面白くて、つい観察してしまう。
観察している自分に気づいて、また余計な自分語りが出そうになり、唇を噛んだ。
「志音さん、看板、持てますか」
華音はそう言って、両手に板を抱えていた。炭で描いた星の印。角を丸めた小さな木の板だ。
眠そうに目をこすっていた夜が、昨日みたいに近いのに、今日は肩が軽い。華音の足取りには、迷いがない。上へ上へと向く癖が、ちゃんと前へ出ている。
「持てます。……でも、これ、軽いのに、妙に重く感じる」
志音が板の縁を持つと、華音は水差しを抱え直した。
「重いのは、板じゃなくて、背負う言葉です。だから、今日の文は短くします」
志音は頷いた。短くするのが、いちばん難しいと知っている。
店になる家は、共鳴塔から三つ角を曲がった西通りの空き店舗だった。以前は紙屋だったらしく、棚に札の跡が残っている。窓際には、古い水桶。壁には、しみになった文字の影。
志音はその壁を見て、背中が少しだけ冷えた。締め付ける文言の名残りが、まだ空気に居座っている。
「ここ、嫌な匂いがする」
陽海が鼻を皺め、両腕を大きく回した。肩の力を抜く癖は、盾を握っていた頃よりも上手くなっている。
「でも、掃除したら勝てる匂いだ。負けない」
勝つ負けるの言い方が大きい、と志音は思い、言い換えを探した。
そこへ、愛恋がほうきを持ってきて、静かに口を開いた。
「『勝てる匂い』は、匂いに失礼です。『消せる匂い』なら、刺さりにくいです」
陽海は一瞬固まってから、笑って頷いた。
「じゃあ、消せる匂いだ。任せて」
ナツカは袖をまくり、床の板を一枚ずつ雑巾で撫でた。舞台で拍手を集める指が、今日は黙って埃を集めている。
昇一は、入口の外で通行を邪魔しないように道具を並べ、紙片を切っていた。規定の紙ではなく、余白の多い紙。破った日から覚え直した手つきだ。
「一人につき、一枚」
昇一は短く言い、紙片を志音へ渡した。
「札ではない。……ただの紙だ。ここで書いた文が、外で濁らないように」
志音は受け取り、紙の軽さに驚いた。魔力が乗っていないぶん、責任も少しだけ軽い……はずなのに、軽すぎて逆に怖い。
「じゃあ、僕が最初に書く。……いや、“僕”はやめる」
志音は自分の口を止め、息を一つだけ整えた。
「この店で、最初に書くのは、店の約束にします」
華音が水差しを机に置いた。置き方が丁寧で、音が丸い。
「いいです。短く。責めずに。水を飲んでから」
六人は、開店前の机を囲んだ。鍋の代わりに、湯気の立つ茶。茶葉は、都の外れで陽海が見つけた香りの強い草だ。甘みのために、星砂糖を少しだけ落とした。溶けると、底で小さく光る。
志音は紙片に、炭で書いた。
『泣いた話も、笑った話も、ここでほどく。』
書き終えると、愛恋がそっと指を上げた。
「二つ、言い方があります。『ほどく』は、ほどけない人を焦らせるかもしれません。『ゆっくり置く』なら、置くだけで良い」
志音は紙片を見つめ、頷いた。
「じゃあ、置く。……置ける場所にする」
華音がその文を拾い、調律札に移す。声に出した瞬間、店の空気が一段、柔らかくなった気がした。
ナツカが笑った。舞台の笑いではなく、雑巾の水を絞るみたいな笑い。
「それ、好き。観客に、逃げ道がある」
昇一が「逃げ道は必要だ」と言い、すぐに言い直した。
「……戻る道だ。言い直すための」
陽海が「今の、良い」と手を叩きかけ、叩くのをやめた。拍手は、まだ慎重に扱う音だ。
昼前、暖簾を掛けた。暖簾の端には、小さな星の刺繍。華音が夜に縫ったらしく、針の跡が丁寧だ。
志音は看板を掲げ、入口の横へ掛けた。表には、店の名。
『書評茶房 星の水差し』
水差しの字の横に、小さく茶碗の絵。ナツカが描いた。線が少し歪んでいて、妙に可愛い。
「これ、下手じゃない?」
志音が言いかけ、口を閉じた。下手は刺さる。代わりに、言う。
「これ、手描きだって、すぐ分かる。……安心する」
ナツカが視線を逸らし、頬の端だけを上げた。
「安心させたいなら、もっと真面目に描くべきだったけどね」
「真面目は、たまに怖いです」
志音が言うと、華音が「それも二つある」と小さく笑った。
最初の客は、パン屋の若い夫婦だった。男は粉まみれの前掛けで、女は籠を抱えている。二人とも、目の下に寝不足の影。
夫婦は椅子に座ると同時に、同じ言葉を吐きそうになって、同時に飲み込んだ。
「……昨日、言いすぎた」
「……昨日、黙りすぎた」
二つの反省が、テーブルの上でぶつかり、跳ねた。
華音が水を注ぎ、杯を二つ置いた。
「先に飲んでから、短く言ってください。長いと、責めに見えます」
志音は頷き、紙片を一枚差し出した。
「札じゃない紙です。ここでは、まず候補を二つ書いて、選べます」
夫が炭を握り、書いた。手が震えている。
『おまえが悪いと思った』
次に、書き直す。
『眠くて、言葉が荒れた』
妻は紙に、二つ書いた。
『あなたが私を見てないと思った』
『私が見てほしかった』
志音は胸の奥が熱くなった。どちらも、殴り合いの入口じゃない。泣きそうになる入口だ。
愛恋がそっと言う。
「二人とも、“相手”より先に、“自分”を出しています。濁りにくいです」
夫婦は顔を見合わせ、照れたように笑った。笑いは小さく、でも、確かに息が揃う。
夫が言った。
「……私が見てほしかった。って、言っていい?」
妻が頷いた。
「うん。……眠くて、言葉が荒れた。って、言って」
店の中に、拍手は起きなかった。代わりに、湯気が静かに上がった。星砂糖が底で溶け、光が小さく揺れた。
二組目の客は、若い娘だった。目が赤い。恋文の端が、濡れている。
彼女は席に座るなり、泣き笑いで言った。
「笑ってください。……振られたのに、私、まだ、その人の好きな本の続きが気になるんです」
志音は反射で「分かる」と言いそうになった。自分語りの癖が、喉を押す。
けれど、志音は水を飲み、言い直す。
「気になるの、正しいです。好きな本は、振られても終わらない」
ナツカが隣の席から、さらりと口上を挟んだ。
「失恋は、舞台の幕が下りるだけ。物語のページは、まだ残ってる」
娘が少し笑い、涙がもう一度落ちた。
「……じゃあ、私、読んでいいんですね」
「読めます」
華音が頷いた。湯気の残る茶碗を端へ寄せ、紙束の位置を中央へ戻す。誰かの手が震える前に、手順を作る。
志音は紙片を渡す。
「相手へ言う文と、自分へ言う文を分けます。二つ書きましょう」
娘は書いた。
『好きでした。ありがとう』
『私は、私の話を続ける』
志音はその二行を見て、胸が痛んだ。痛みは、昔の黄いろい霧よりずっと透明だ。
昇一が店の外から顔を出し、短く言った。
「……合格」
娘は笑い、鼻をすすった。
「厳しい人に合格って言われたら、なんか……立て直せそう」
陽海が湯を足し、茶碗を温め直した。
「立て直すって言い方、いいね。俺も、盾を立て直したことある」
言い終えたあと、陽海は自分で頷いた。自分の努力を、自分で認める頷きだ。
愛恋が小さく笑い、メニュー札を差し替える。『おすすめ』の横に、二つの言い方が添えられていた。
『すすめたい』と、『よかったら』
夕方、店の前の通りを、共鳴塔の鐘の音が撫でた。痛くない音。人が立ち止まり、空を見上げる。
雲の隙間に、白い星が一つだけ見えた。昼の星は、弱いのに、消えない。
志音は看板を片付けながら、裏側の余白へ指を滑らせた。炭で残した、まだ誰にも見せていない場所。
ここは、自分だけが読む、と決めた場所。だからこそ、書いたら責任が生まれる。
志音は息を吸い、ゆっくり書いた。
『この世界で生き抜いてやる』
書き終えた瞬間、胸の奥で何かがほどけ――いや、ほどけるという言い方は、急すぎる。
置けた。重いものを、机の上に置けた。
志音は背後へ振り返り、華音を見た。華音は水差しを洗い、指先の冷たさを布で拭っている。横顔は疲れているのに、口元が少しだけ上がっている。今日一日、誰かの言葉が刺さらないように、ずっと息を整えてきた顔だ。
志音は声を出すと、店の外まで届きそうで怖くなり、喉を小さくした。
「……華音さん」
華音が振り向く。
「はい」
志音は看板の裏を見せずに、炭を握ったまま、付け足したい言葉だけを落とした。
「……あなたと」
華音は一拍、瞬きをした。次の瞬間、笑った。大きく笑わない。けれど、目が笑う。
「それは、店の外で言うより、ここで言うほうが良いです」
「ここ、うるさくないから」
志音が言うと、華音は水差しを置き、志音の隣へ来た。距離は肘が当たるほど近いのに、危なくない。鍋の輪と同じ、湯気が回る距離。
ナツカが戸を閉めながら、背中越しに言った。
「今日の終幕、拍手はいらないね」
陽海が小声で「でも、ちょっとだけ」と言い、指で机を二回叩いた。ぱち、ぱち。音が痛くない。
愛恋がその音に合わせて、照明の紐を引いた。灯りが一段、あたたかくなる。
昇一は入口の鍵を確かめ、外の通りを一度だけ見回した。規定を守る目が、今日は守るものを選び直している。
志音は看板を壁へ立てかけ、裏側の文字を指でなぞった。
この都で、言葉が人を刺すなら、言葉で手当てもできる。
そして、窓の外の星が、昼でも消えないなら――自分の決意も、消えない。
茶の香りが、部屋の奥でゆっくり薄まっていく。
六人の息が、同じ速さで揃っていく。
黄晶都の春は、静かに終わった。




