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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第4話 普通の家族じゃない家

 酒場『灯の樽』を出ると、夕方の冷気が頬を刺した。昼の熱気が嘘みたいに、息が白く細くなる。志音は外套の襟を立て、背後で扉が閉まる音を聞いた。


  あの女は、器を抱えたまま震えていた。

  「憎むことしかできない」

  小さい声なのに、耳の奥へ残って離れない。


  昇一が女の肩へ手を伸ばしかけ、そこで止めた。触れれば拒まれると知っている動きだった。代わりに、規定の紙を差し出し、短い指示だけを落とす。

  「詰所へ。……歩けるか」


  女は頷くでもなく、首を横へ振るでもなく、ただ目を瞬かせた。黄ばんだ灯りが瞳の中で揺れ、次の瞬間、華音が一歩近づいた。水差しではなく、小さな革袋だ。湯で割った薄い麦茶みたいな匂いがする。


  「飲めますか。二口だけ」


  華音は、器を女の手からそっと受け取った。器の底が震えて、湯気がこぼれそうになる。華音は器の縁に指を添え、湯気の方向を変える。熱いものが顔に当たらないように。志音はその細かさに、言葉を挟む隙を失った。


  女は革袋を受け取り、二口飲んだ。喉が動く。ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。


  「……よし」


  昇一が短く言い、衛兵を呼ぼうとした。そこへ、酒場の外で待っていた若い男が駆け寄ってきた。胸当ての革がまだ新しい。志音が門前で追い払われた時に見た、あの門番とは違う目をしている。


  「監察官さま。俺が、盾になります。……えっと、支えます」


  若い男は言い直して、女の少し前へ立った。剣に手をかけるでもなく、ただ体を半歩、前へ出す。邪魔にならない距離で、風を受ける位置だ。昇一は一瞬だけ眉を動かし、許可の代わりに顎を引いた。


  「陽海はるみです。……あの、華音さんの家、同じなんで」


  名乗りながら、陽海は照れたように耳を赤くした。志音は「同じ?」と聞き返しそうになり、腹が鳴ってそれどころではなくなった。情けない音が夕方の通りに響き、陽海が「おっ」と笑いそうになって飲み込んだ。


  華音は笑わなかった。代わりに、二回だけ拍手した。

  「正直」


  志音の耳が熱くなる。救いでもあり、からかいでもある拍手だった。


  昇一が志音を見た。視線が短く、痛い。札を没収したい癖が顔に出ている。

  志音は、掌の中の札を押さえたまま、できるだけ声を小さくした。


  「今は、書かないほうがいい気がします。……あの言葉を、そのまま札にしたら、刃になりそうで」


  華音が頷いた。頷き方まで短い。

  「今日は、温まるほうを先にしましょう。……志音さん、来て」


  来て、の後に、華音は少しだけ迷った顔をした。誰かを家へ連れていく時の、責任の顔だ。志音は「大丈夫です」と言いかけて、もう一度腹が鳴った。今度は、少しだけ小さく。


  ――


  華音の住まいは、共鳴塔から少し離れた坂の途中にあった。黄みを帯びた石の家が並ぶ一角で、窓からは薄い灯りが漏れている。扉を開けると、香りがぶつかった。湯気。生姜。刻んだ葱。味噌の甘い匂い。寒さで縮んでいた胃が、勝手にほどける。


  「ただいま」


  華音が靴を揃えながら言うと、奥から返事が二つ、重なった。


  「おかえりなさい」

  「おっそい! 私、もう一回、山場を作ったのに!」


  最後の声だけ、妙に舞台の上みたいに響いた。志音が顔を上げると、台所の境目に女が立っていた。赤い布を腰に巻き、髪を高く結んでいる。両手には鍋の蓋。蓋を掲げたまま、目だけが笑っていない。――ナツカだ、と志音は後で知ることになる。


  その横で、白い紙束を抱えた少女が、火の前から離れて志音へ会釈した。愛恋は、指先で紙の端を揃えながら、視線だけで状況を数えた。華音、志音、そして外の寒さ。多分、それだけで判断が済んだ。


  陽海が玄関に入り、外套を脱ぎながら小さく言った。

  「ただいま。……鍋、まだ?」


  ナツカが蓋をぱん、と閉め、湯気を立てた。

  「はいはい、戻った戻った。じゃ、席! 新入りにも!」


  陽海は志音の視線に気づくと、先に椅子を一つ引いた。音を立てない引き方だった。盾を持つ手と同じ、慎重な手つき。

  「……座れますか」


  言葉が短い。けれど、手が先に出ている。志音はその椅子に腰を下ろし、湯気の方へ顔を向けた。


  愛恋が自然に一歩前へ出て、二つ、言い換えを並べた。

  「歓迎、か……席、どうぞ、か。好きなほうで受け取ってください」


  志音は、受け取り方まで用意されていることに、少し笑ってしまった。

  「じゃあ……席、どうぞをもらいます。ありがとうございます」


  ナツカが志音を指差した。

  「名乗りなさい。名乗らないと、私の芝居に組み込んじゃうからね」


  「芝居?」


  志音が聞き返すと、ナツカは胸を張った。

  「語り芝居の座長、ナツカ。あなたは今日から“迷い猫”役」


  「猫……?」


  志音が戸惑っていると、華音が慌てて椅子を二本、少しずらした。志音の椅子は鍋から近すぎる。華音は指二本ぶんだけ距離を空け、向かいの椅子を斜めにして、視線がぶつからない角度に整える。


  「ここ。熱いから。……それと、声が、ぶつからない」


  志音は、詰所と同じ調律が食卓にもあることに驚いた。食卓の距離で、会話の刺さり方が変わる。そんなこと、地球で考えたことがなかった。


  鍋がぐつぐつと鳴く。具材が踊り、湯気が天井へ吸い込まれていく。器が配られる。箸が揃う。誰かが椅子を譲り、誰かが湯飲みを置く。血がつながっていないのに、手の動きが噛み合っている。


  「家族、って……」


  志音は、口にしかけて止められなかった。匂いと湯気が背中を押す。言葉が出る。


  「家族って、物語の登場人物みたいに――」


  ナツカがすぐさま突っ込んだ。

  「出た。たとえ話。今日のあなた、たとえ話で生きてるね?」


  志音は咳払いをして続けた。

  「いや、その、僕のいた世界だと、血縁とか、戸籍とか、そういう枠が先にあって……」


  言っているうちに、話が長くなるのが自分でも分かった。言葉が滑り、余計な説明が積もっていく。華音の眉が少しだけ下がり、愛恋が指を二本立てた。二つだけ、の合図。陽海は鍋の具をすくい、志音の器へ入れた。止めるでもなく、煽るでもなく、食べろ、という行動だった。


  志音は箸を止めたまま、言い訳を探し、そこで諦めて口を閉じた。湯気の向こうの華音が、ほっと息を吐いたのが見えた。


  「……うまい」


  志音がそう言うと、華音が短く拍手した。

  ぱち、ぱち。

  「事実」


  志音は笑ってしまい、熱い汁を吸い込んで咳き込んだ。ナツカがすかさず背中を叩こうとして、華音に目で止められ、代わりに湯飲みを差し出す。愛恋は「水、もう一口」と言い換えの札もないのに言葉を整えた。陽海は玄関の方へ目をやり、戸口の冷気を受け止める位置に体をずらした。


  鍋の音だけがしばらく続いた。志音は、箸を動かしながら考える。自分語りは、場を埋めるための癖だ。沈黙が怖いから。けれど、ここでは沈黙の扱い方が違う。沈黙は、湯気みたいに、ただそこにあっていい。


  食べ終わるころ、志音は立ち上がった。

  「洗い物、やります」


  「え」


  華音が声を漏らす。驚きの声だ。志音は台所へ向かい、袖をまくった。ぬるい湯に指を入れると、昼間の札の震えが、ようやく指先から抜けていく気がした。皿を一枚ずつ洗う。泡が立つ。指が動く。言葉じゃない仕事は、妙に安心する。


  背後で、華音が一歩近づいた。志音の横へ立ち、皿を拭く布を渡す。声は小さい。

  「……助かります」


  志音は、皿の水を切りながら、同じくらい小さく返した。

  「助かってるのは、僕のほうです。今日、二回も水に救われました」


  華音は返事の代わりに、布の端をきゅっと握った。笑うでもなく、逃げるでもなく、そこで立っていた。志音はその沈黙を、急いで埋めなかった。


  その時だった。


  窓の隙間から、黄いろい風が一筋、室内へ入り込んだ。灯りが揺れ、鍋の湯気が一瞬だけ、同じ方向へなびく。器が、かすかに鳴った。共鳴塔の方角だ。


  誰も口にしないのに、全員が同じ方向を見た。志音の掌の札が、薄く震える。


  華音が水差しを握り直し、短く言った。

  「……また、脈打った」


  鍋の火は消えない。けれど、夕飯の匂いの中に、さっきの女の言葉が戻ってきた。

  憎むことしか、できない。


  志音は皿を伏せ、泡を流しきった。

  「明日、ちゃんと見に行きましょう。……短く、正直に、まずは聞いてから」


  華音が、二回だけ拍手した。

  ぱち、ぱち。


  湯気が、また天井へ登っていく。六つ分の椅子のうち、一つだけ空いたままの席が、黄いろい風の余韻で、少しだけ揺れた。



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