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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第39話 六人の晩餐

 修復の夜。共鳴塔の結晶は、いつもの黄いろに戻り、光の縁にだけ薄い白が混じっていた。


  都の通りから戻ると、志音たちの借り家の窓は、湯気で曇っていた。戸を開けた瞬間、鍋の匂いが顔へぶつかる。骨付き肉と薬草、それから焦げかけた玉ねぎの甘さ。


  「……焦げてます?」


  志音が鼻をひくつかせると、台所の奥から愛恋が顔だけ出した。手には木べら。湯気の向こうで、口元だけが申し訳なさそうに動く。


  「二つ、言い方があります。『焦げています』と、『香ばしいです』」


  「後者でお願いします」


  志音が即答すると、陽海が笑って、鍋のふたを持ち上げた。湯気が天井へ昇り、窓の曇りに水滴が走る。


  「香ばしいのは、俺が火を強くしすぎたからだ。……さっき、塔の前で格好つけた分、家では格好悪い」


  「格好悪いのは、ちょうどいいよ」


  志音はそう言ってから、言い方が刺さるかもしれないと気づき、慌てて続けた。


  「ほら、都の人たち、今日は息が浅かった。格好悪いところを見せると、息が戻るって……たぶん、ある」


  自分の比喩に自分で首を傾げていると、居間の方で椅子がきしんだ。


  華音が座ったまま、目をこすっている。髪はほどけ、指先はまだ水の匂いがする。調律札を読み上げ続けた喉の奥が、もう言葉を拒んでいる顔だった。


  「華音さん、先に飲んで」


  志音が水差しを持って行くと、華音は小さく頷いて、両手で杯を包んだ。飲む音は控えめなのに、部屋の空気が少しだけ丸くなる。


  「今日は……水、たくさん減りました」


  「減って、よかった」


  志音は言って、また余計だったかと口を閉じる。華音は目だけで笑って、机に額を軽く当てた。眠気に負けた音だ。


  そこへ、玄関がもう一度鳴った。戸の隙間から冷気が差し込み、灯りが揺れる。


  「遅くなった」


  昇一が入ってきた。いつもの硬い外套ではない。袖口に粉がついた、作業着のような上着。胸元の宝石片だけは、いつも通りに光を受けている。


  彼は無言で袋を二つ、机の上へ置いた。中からは細い麺と、乾いた豆の匂いがした。


  「……差し入れ?」


  陽海が訊くと、昇一は一拍置いて頷いた。


  「規定の食糧配給では足りないと判断した。……判断した、だけだ」


  志音は「ありがとう」と言いかけ、すぐ「助かった」に言い換えた。恩着せがましい匂いを消すためだ。


  昇一は志音の口元を見て、ほんの少し眉を動かした。昨日なら、その動きだけで叱責が飛んだ。今夜は、飛ばない。


  最後に、戸が軽く叩かれた。外套の裾が赤い影になって、台所へ滑り込む。


  「お腹が空いた観客は、怒鳴りやすいってね」


  ナツカが笑って、肉の包みを掲げた。舞台の上なら派手に言いそうなのに、声は小さい。灯りに照らされた頬だけが、まだ外の冷たさを持っている。


  「今日の広場、拍手が痛くなかった。……それ、好き」


  言い終えると、ナツカは笑いを畳み、黙って鍋の横へ肉を置いた。置き方が丁寧で、料理の手順を邪魔しない。


  六人が揃うと、机が急に狭くなった。椀の数、箸の数、水差し。誰かが背伸びをすると、誰かの肘が当たる。


  志音はその窮屈さに、少しだけ安心した。広場でできた輪――あれは、距離が近いほど危ない。今夜の輪は違う。近いほど、湯気がよく回る。


  「普通の家族じゃないのに、鍋だけは家族みたいだな」


  志音がぽつりと言うと、愛恋が木べらを置き、二つの言い方を指で示した。


  「『普通の家族じゃない』は、胸に刺さる人がいます。『血縁じゃない』のほうが、刺さりにくいです」


  「……じゃあ、言い直す」


  志音は箸を持ち直し、湯気の向こうの顔を順番に見た。


  「血縁じゃないのに、鍋を囲むと、帰ってきた気がする」


  陽海が「それは良い」と短く言い、昇一が咳払いのふりをして椀を寄せた。華音は眠そうなまま、頷いている。


  鍋が煮えた。湯気が濃くなり、鍋の縁で泡がはじける。志音がよそおう手つきが遅いと、昇一が黙って椀を差し出す。待ちきれないのではなく、手伝うために。


  「……失敗談を、言う日だろ」


  ナツカが箸を置いて言った。まるで舞台の合図みたいに。


  「修復の夜は、成功だけを語ると、札が濁る。私はそう教わった」


  「教わった、って言い方が、なんか悔しい」


  志音が笑うと、ナツカは肩をすくめた。


  「悔しいときは、肉を食べる」


  ナツカはそう言って、黙って陽海の椀へ肉を一切れ乗せた。


  陽海は一瞬固まり、すぐに箸で肉を持ち上げた。湯気の中で、喉仏が動く。


  「……俺、今日、怖かった」


  声は大きくない。けれど、椀の底へ沈めた言葉ではなかった。


  「盾を出す手が震えて、みっともないって思った。昇一さんに見られたら、また怒られるって……」


  昇一は箸を止めた。止めたのは怒るためじゃない。言い方を選ぶためだと、志音には分かった。


  「怒鳴る予定だった」


  昇一は淡々と言った。淡々としているのに、言葉の端が少しだけ丸い。


  「だが、震えている手で盾を出すほうが、規定より役に立つ」


  陽海の眉が上がり、すぐ下がった。笑いそうで、泣きそうで、どちらでもない顔。


  「……それ、合格ですか」


  「……合格」


  昇一が言うと、志音が思わず椀を持ち上げた。乾杯の代わりに、すすってしまう。熱くて咳き込む。ナツカが小さく笑い、愛恋が水差しをそっと寄せる。


  華音はその様子を見て、寝そうな目をこすりながら言った。


  「志音さん……熱いのは、ゆっくり」


  「はい」


  志音は返事をしてから、華音の肩が少しだけ落ちているのに気づいた。疲れが沈んでいく角度。


  彼は立ち上がり、部屋の隅から毛布を持ってきた。広場で札を貼るより簡単な動きなのに、今夜は手が慎重になる。


  毛布を華音の肩へ掛けると、華音は驚いたように瞬きし、それから目を細めた。


  「……重くない」


  「重くするのは、札だけで十分です」


  志音が言うと、昇一が「今のは皮肉か」と言いかけて、やめた。やめた代わりに、豆を椀へ入れた。


  「俺の失敗は、紙だ」


  昇一は鍋の中を見ずに言った。


  「破ったのに、まだ手が覚えている。締め付ける文言を、書きたがる」


  愛恋が頷いた。


  「手は、覚えます。だから、覚え直します。短い文から」


  ナツカが箸で鍋をつつき、鍋の中の具を少しだけ動かした。焦げた玉ねぎが浮かび、香りが広がる。


  「私の失敗は、笑いを欲張ること」


  ナツカは言い、すぐ視線を逸らした。見られると、舞台に戻ってしまうから。


  「拍手が欲しくて、言葉を大きくする。大きい言葉は、たまに誰かの胸を踏む」


  志音はその言葉を受け取り、反射で自分語りを始めそうになった。地球の話をして、笑いを取って、空気を軽くして――。


  けれど、彼は箸を置き、沈黙を置いた。待つ沈黙。華音がいつも助けられている沈黙。


  その沈黙の間に、陽海が笑った。


  「じゃあ、俺の失敗は、鍋を焦がすこと。……香ばしい、って言い方は、今日覚えた」


  全員が笑った。笑い方はばらばらだ。ナツカは喉だけで笑い、愛恋は肩を揺らし、昇一は笑う代わりに眉を動かし、華音は毛布の中で小さく息を漏らした。


  志音はそのばらばらを、都の結晶の欠片みたいだと思った。欠けているのに、光を返す。


  食べ終わる頃、窓の外は静かだった。遠くで鐘が一度だけ鳴り、星が雲の隙間からのぞく。今夜の星は、揺れない。


  片付けを終えると、華音は椅子の背にもたれ、もう目を開けていられない顔になった。志音が毛布を整えると、華音は短く言った。


  「……一緒に、片付けるの、好き」


  志音は胸の奥が熱くなり、「僕も」と言いかけて、言い方を選んだ。


  「……それ、明日もやる」


  華音が頷き、眠りに落ちる。寝息は浅いのに、穏やかだ。


  志音は机の端に、紙切れを引き寄せた。鉛筆の代わりに、炭の棒。屋台で拾った薄い板切れ。


  小さな看板の形を描く。角を丸める。文字はまだ決めない。決めると、背負ってしまいそうだから。


  それでも、裏側の余白だけは残した。自分だけが読む場所。


  志音は炭を止め、息を吸った。広場の湯気とは違う、家の匂いの中で。


  「……店、やるなら」


  言いかけ、声を小さくして、誰にも聞こえないように続けた。


  「……泣きたい話も、笑いたい話も、ここで受け取れるように」


  炭の線が、板の上で静かに伸びた。



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