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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第38話 昇一、紙を破る

 黄晶都の朝は、紙の匂いから始まる。


  掲示板の前で足を止める人たちの背中は、どれも少しだけ前へ倒れていた。言葉が先へ出る姿勢だ。昇一は自分の肩を後ろへ引き、紙束を抱え直した。紙の角が胸に当たり、痛い。痛いから、今日だけは剣にしないと決められた。


  役所の掲示板へ向かう通りは、石畳の冷えで足裏が痛い。にもかかわらず、人は早い。列ができる。肩がぶつかる。誰かの舌が、いつでも責め言葉を探している。


  昇一は腕に抱えた紙束を見下ろした。規定違反、提出期限、罰則。濃い黒インクで、短い命令だけが並ぶ。いつもなら、それが都を守る剣だった。

  でも今日は、その紙が、やけに重い。


  共鳴塔の方角から、澄んだ鐘が一度だけ鳴った。昨夜の痛い音ではない。水面の輪のような音だ。けれど、その輪が広がる前に、別の音が割り込む。


  「どけよ! 押すな!」


  役所前の列で、男が肩を怒らせた。隣の女が睨み返し、口が開きかける。黄晶病の名残が、言葉の端にまだ絡みつく。たった一言で、また黄いろく濁る。昇一はそれを知っていた。


  昇一は紙束を掲示板に叩きつけそうになり、手前で止めた。胸元の欠けた宝石片が、制服の下で冷たい。指を入れ、握る。痛いほど硬い欠片が、掌の中で「そのまま言うな」と教える。


  昇一は息を吸い、吐いた。

  そして、掲示板の前で、紙束の一枚目を破いた。


  破れた紙片が風で舞い、足元の石畳へ白い筋を作った。黄いろい粉塵の中で、白だけがやけに目立つ。まるで、雪の残りが都へ迷い込んだみたいだ。


  「監察官が、紙を破いていいのかよ……」


  列の後ろから、誰かが小さく呟いた。呟きは責めに変わりやすい。昇一は聞こえないふりもできた。けれど、無視はまた別の火種になる。

  昇一は顔を上げ、声を低くした。


  「今、破いたのは“罰の文”だけだ。道順の紙は、破らない」


  言った瞬間、硬さが残ったと気づいた。昇一は宝石片を握り、もう一度言い直す。


  「……罰の文より、先に守りたい命がある。だから、道順を書きます」


  びり、と乾いた音がした。列のざわめきが一瞬止まり、いくつもの視線が昇一へ刺さる。監察官が紙を破る。都でそれは、犬が王冠を噛むのと同じくらいの違和感だ。


  昇一は破いた紙を、さらに細かく裂いた。命令の文だけを裂き、余白を残す。余白の白さが、朝の光に眩しい。

  裂いた紙片を足元の袋へ押し込み、昇一は新しい紙を取り出した。罰則の紙ではない。まだ何も書かれていない札用紙だ。


  「……列を、ほどけ」


  言いかけて、昇一は口を閉じた。ほどけ、は命令だ。命令は刃になる。刃は黄いろい濁りを呼ぶ。

  昇一は宝石片を握り直し、言い直した。


  「……列を、二つに分けてください。右は提出、左は相談。ぶつからない距離で」


  途端に、声が届きやすくなった。人は命令より、手順に従いやすい。誰かが一歩下がり、誰かが半歩横へずれる。列の空気が、わずかに丸くなる。


  そこへ、木の水桶が滑ってきた。桶を運んできたのは華音だった。袖をまくり、手早く紙コップを並べる。座る場所が必要な老人には、陽海が盾で風を避け、椅子を向き替えた。愛恋は掲示板の脇で、昇一の言葉を短く整え、二つの言い方を囁く。


  「“急げ”ではなく、“先に水を飲んで”が良いです。あと、道順は“右”より“北門”が迷いません」


  昇一は頷いた。頷くのに、首が硬い。いつもなら頷く前に規定の条文が脳裏を横切る。今日は、その条文を宝石片の硬さで押し返す。


  昇一は札用紙へ書いた。

  『先に水を飲む。北門へ。押さない。子どもは手をつなぐ。』


  短い。命令ではなく、手順だ。誰かを裁く言葉がない。責め先がない。

  昇一の指先が、微かに熱を持った。札が薄く光り、掲示板の前の空気が、ほんの少しだけ澄む。


  列の男が、さっきの怒鳴り声の続きを探していた口を閉じ、紙コップを受け取った。女も同じように飲む。喉が鳴る音が、責め言葉の代わりになった。


  昇一はもう一枚の札用紙に、避難の導線を書こうとした。だが、視界の端で、黄ばみかけた少年が紙を破り始めたのが見えた。紙を破る音が、びりびりと連鎖する。誰かの不安が、紙の裂け目から漏れてくる。


  「やめろ!」


  昇一の口が勝手に強い言葉を吐きそうになった。喉が熱い。胸の奥で、過去の夜が蘇る。謝罪文を何度も書き直し、結局渡せなかった夜。あの夜の自分を責める言葉が、今、他人へ向きかける。


  昇一は宝石片を握りしめ、舌を噛んだ。血の味がした。

  そして、強い言葉を捨て、別の言葉を拾った。


  「……破きたくなったら、手を止めて。紙はあとで直せます。今は、手をつなげますか」


  少年が顔を上げた。目の黄ばみが、そこで止まった。少年の手の震えが、隣の母の手に吸い寄せられる。母が指を絡める。肩が少しだけ落ちる。


  昇一は、胸の奥で、何かが折れたのを感じた。折れたのは責める癖だ。折れた破片が痛い。痛いから、今度は同じ場所を踏まないように、足を選べる。


  その時、志音が背後から近づいた。志音の指先には、まだ包帯が巻かれている。包帯の白さが、札用紙の白さと似ていた。


  「監察官さん」


  志音が言った。呼び方がよそよそしい。近づきたいのに、距離を測っている声だ。

  昇一は振り返り、志音の口元を見た。長い比喩が飛び出す前の、あの癖の動き。だが志音は、そこで止めた。


  志音は小さなレビュー札を一枚出し、短く書いて、差し出した。文字は二つだけだった。


  『合格』


  昇一は、その札を受け取ってしまった。受け取るのが癖になっているはずなのに、今日は拒まなかった。指先に、重みが来ない。石の重みではない。人の重みだ。


  「……何のだ」


  志音は一度息を吸い、吐いてから言った。

  「今の言い直し。都を守るって、こういう手つきもあるって……俺、初めて見た」


  志音は最後の「俺」を言ってから、少しだけ目を丸くした。自分語りの扉を開けかけたのに、すぐ閉めた顔だ。

  その慎重さが、昇一の胸に、変な温度を落とした。


  昇一は宝石片を握る手を緩めた。欠片はまだ冷たい。けれど、冷たさが、責める言葉の刃先を丸める道具になったのが分かる。


  昇一は掲示板の前へ戻り、破った取り締まりの紙の代わりに、避難誘導の札を貼った。二枚、三枚。大量に貼らない。手順だけを、必要な数だけ。華音が水を配り続け、陽海が通りを守り、愛恋が文言を整える。


  列は動いた。叫び声は減った。泣き声が出ても、水を飲む音が先に来るようになった。


  昇一は最後の札を貼り、志音の『合格』を胸の内側へ入れた。規定の紙より薄いのに、重い。

  そして、昇一は自分でも驚くほど小さく、口角を上げた。


  笑い方は上手じゃない。歯が見えるわけでもない。けれど、夜明けの空に残る一つの星みたいに、確かにそこにあった。


  志音がそれを見て、目を逸らした。見られ慣れていないものを見た時の、気まずい優しさの動きだ。

  昇一はその気まずさに、少しだけ救われた。完璧な拍手より、こういう不器用な一秒のほうが、都の結晶に似合う。


  「……次は」


  昇一は言いかけ、やめた。次の命令を言いそうになったからだ。

  代わりに、志音へ札の余白を向けた。


  「……次は、どんな言い方が良い」


  志音は一瞬だけ呆け、すぐに頷いた。

  「候補、二つ出す? 愛恋さんの真似で」


  愛恋が遠くで聞いていて、ほんの少しだけ肩を揺らした。

  華音が、水桶の縁を指で叩き、短く拍手した。ぱち、ぱち。


  昇一は、その音を聞きながら、胸の宝石片を握り直した。

  責めるためじゃない。言い直すために。



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