第37話 心を寄せる瞬間、確かな声
夜明けの空は、まだ薄い灰色だった。
共鳴塔の尖った頂だけが先に明るくなり、黄晶都の屋根の列は、眠りの続きを引きずるみたいに影を残している。広場に残っていた椅子は片付けられ、昨夜の水差しは洗われて、石の縁に逆さに並べられていた。
志音は、指先を見つめた。
石みたいに冷えて、硬くなりかけた感覚が、まだ完全には抜けていない。握れば痛みがあり、開けば、痛みの奥に小さな温度がある。溶けかけの氷のように、危うい。
「……朝って、こんなに静かなんだな」
言った瞬間、自分の声が広すぎる気がして、志音は口をつぐんだ。昨夜は声が多すぎた。怒鳴り声、泣き声、謝り損ねた声。そこへ札の文章が落ちて、ようやく波が引いた。今は、その引いたあとの砂浜だ。
隣で、華音が水筒のふたを回した。
回す手つきはいつもと同じなのに、肩が少しだけ上がっている。冷える朝に、震えを隠す人の肩だ。
「飲みますか」
志音は頷き、両手で受け取った。温い水が喉を通る。胸の奥が、つんと痛くなる。昨夜の自分の文章より、この一口の方が、ずっと確かな救いだと思ってしまった。
華音は共鳴塔を見上げ、しばらく黙っていた。
その沈黙は、志音が好きな種類の沈黙だった。急かさない。責めない。ただ、隣に置かれている。
遠くで、朝のパン屋が窓を開ける音がした。誰かが薪を割る乾いた音。屋台の鉄板を叩く音。黄晶都は、昨日の夜を知らないふりをして、また暮らしを始めようとしている。
「志音さん」
呼ばれて振り向くと、華音は視線を逃がさなかった。
普段は、人の視線を受け止める前に椅子をずらす人が、今日は、逃げ道を用意しないで立っている。
「きのう……あなたの札で、あの人が『今、苦しい』って言えました」
華音は、言い終えたあとに一拍置いた。言葉の順番を、自分で確かめるみたいに。
志音は「うん」とだけ返して、続きを待った。自分語りを始める前に、待つ。昨夜、学んだばかりの手順だ。
華音は胸の前で指を組み、ほどけそうな力で握った。
「私は、ずっと……“都を守る”って言い方で、自分一人で抱えてきました。調律官見習いだから、って。逃げたら、結晶のヒビが広がる気がして」
都を守る、という言い方を聞いて、志音は反射で「それは立派で――」と言いかけた。褒める言葉は、いちばん簡単に出る。しかも褒めは、時々、相手の肩に石を乗せる。
志音は口の中で言葉を噛み、飲み込んだ。
代わりに、志音は手のひらを開いた。昨夜の札はもう書けない。書けば指がまた重くなる。だから、ただ開く。空っぽを見せる。
華音は、その手を見て、短く拍手した。ぱち、ぱち、と二回だけ。彼女が誰かの小さな一歩を見つけた時の癖だ。
「今の、すごく助かります」
志音は笑いそうになって、肩をすくめた。
「空っぽで助かるなら、得意分野かもしれない」
その冗談に、華音の口角が少しだけ上がった。笑いの影が、顔に柔らかく落ちる。
そして、華音ははっきり言った。
「一緒に、ここで生きてください」
言葉は短い。だけど、足元の石畳が、一瞬だけ軽くなるみたいに感じた。
志音の頭の中では、いくつもの文章が走り出していた。「地球では」「僕はこういう人間で」「あなたに救われて」「これからは――」。言い切れば、きっと気持ちよくなる。きっと、格好もつく。
でも、その格好よさのために、相手の言葉の余白を奪ったら、昨日と同じだ。
志音は息を吸い、吐いた。吐く息は白い。白い息の向こうで、華音の瞳は揺れずに待っている。
志音は、喉の奥の長い文章を、そのまま奥へ押し戻した。
「うん」
たった一文字は、情けないほど短い。
それでも、嘘が混じらない。誇張が混じらない。自分の背中を飾らない。
華音は、息を吐いて笑った。笑い方は上手じゃなくて、鼻の奥が少し赤くなった。
「……よかった。これ、言うのに、ずっと水が必要でした」
志音は「水差し無しで言えたじゃん」と言いかけ、やめた。代わりに、水筒を彼女へ返し、ふたが閉まるまで見守った。手順が終わるまで、待つ。
そのとき、背後から足音がした。
陽海が盾を肩に引っかけたまま、あくびを噛み殺している。愛恋は布袋を抱え、洗った札用紙を乾かすための紐を持っていた。
「二人とも、ここにいたか。朝飯、できたってさ」
陽海の言い方はそっけないのに、視線が志音の指先へ一瞬だけ寄った。痛みが残っているのを見て、言葉を探した結果の「朝飯」だ。
愛恋は一礼し、二つの言い方を並べた。
「急がなくて大丈夫です。……でも、冷める前に来てください。どちらが良いですか」
志音は、思わず笑った。
「後者。冷めると、鍋が泣く」
「鍋は泣きません」と陽海が突っ込み、華音が小さく肩を揺らした。笑いが三人分になっただけで、広場の空気が少し暖かくなる。
四人で歩き出すと、広場の端で、昨夜の余韻がまだ残っていた。
割れた木椅子を集める青年が、口をへの字にしたまま、隣の老人へ言葉を選んでいる。
「……さっきは、悪かった。手が当たっただけだったのに」
老人は返事を探し、口を開け、閉じた。黄晶病の名残が、まだ舌に絡むのだろう。だが老人は、華音が置いた水差しに気づき、黙って飲んだ。そして、乾いた声で言った。
「……俺も、怖かった」
たった一言で、青年の肩が落ちた。落ちた肩が、今度は働きだし、椅子の破片を丁寧に重ねる。
志音はその光景に、うっかり「いい話だな」と言いそうになって、飲み込んだ。評価の言葉は、場を閉じてしまう時がある。今は、閉じるより、続けたい。
代わりに志音は、青年の手元へ視線を落とした。指先に小さな擦り傷。老人の袖口にも同じ色の擦り傷。喧嘩は消えていない。けれど、殴らずに済んだ場所が残っている。
愛恋が布袋から細い紐を出し、広場の柱と柱の間に結び始めた。洗った札用紙を干すための紐だ。
「乾くまでの間、風の向きを見ます。今日の風は、右から来ています」
陽海が盾で風を遮り、愛恋が紙を一枚ずつ掛けていく。志音は「干し柿みたいだ」と言いかけて、やっぱり言った。
「……干し柿みたいだな」
「柿を知ってるのか」と陽海が目を丸くする。
志音は、また自分語りの入口に立ったのが分かった。地球の秋、縁側、祖母の手。そこから話し始めたら、きっと止まらない。
志音は息を吸って、違う方向へ言葉を曲げた。
「干すと、甘くなるだろ。札も、今は干してる途中だ」
華音が、短く拍手した。ぱち、ぱち。
「比喩が、今日は刺さりません。たぶん……順番を守っているからです」
志音は照れて、首の後ろを掻いた。指先の痛みが、そこでも少しだけ自己主張する。自分が無傷ではないことを、忘れさせないために。
四人で歩き出す。石畳の角を曲がった時、共鳴塔の方から、澄んだ音が流れた。
鐘だった。
昨夜のように胸を刺さない。怒鳴り声を呼び起こさない。水面に石を落とした時の、まるい輪のような音。
志音は足を止め、音の方を見た。
黄いろい結晶の光は、今朝は、やけに穏やかだ。空に残る一つの星が、薄い青の中でかろうじて瞬き、やがて朝に溶けた。
志音は華音の横顔へ視線を移し、今度は、短く付け足した。
「……ここで、ちゃんと暮らそう。六人で」
華音は頷き、袖の中で小さく拍手した。ぱち、ぱち。
それは誰かを褒める音ではなく、決めた自分を支える音に聞こえた。




