第36話 最後のレビュー
ペン先が紙に触れた瞬間、志音の指の冷たさは、はっきり形を持った。
爪の根元から、ひやりとした硬さがせり上がり、皮膚の内側で「石」という言葉が鳴る。
志音は息を吐いた。吐き切ると、胸の奥に「言い返したい」が残る。黄いろい霧が、肺の裏にまで入り込んでいる気がした。
だからこそ、彼は水を飲む。華音の手が差し出した水差しを、両手で受け取り、喉を通す。
水の音が、ぽとり、と落ちる。
裂け目の向こうの闇で、星が瞬くみたいに小さく鳴った。
「……最初の一文、いきます」
志音が言うと、華音は短く頷き、調律札を掌に浮かべた。札は音を持たないのに、部屋の空気だけが整う。
愛恋は、志音の左隣に座っている。膝の上の手帳は開かれ、白い紙の余白が、言い換えのために確保されていた。
陽海は背後で盾を床に立て、通路へ視線を向け続ける。目だけで見張って、声は出さない。
ナツカは少し離れた位置に立ち、志音の筆先と、結晶核の裂け目を交互に見ている。舞台の上の目だ。
昇一は紙束を膝に置いたまま、胸元の欠けた宝石片を握り、掌の中で角を確かめていた。
志音は、書き始めた。
『今夜、都が苦しいのは、誰かのせいだけじゃない。』
書いた途端、指の第一関節が、もう一段、固くなる。
志音はすぐにペンを離した。石の冷たさが、戻らないうちに、次の手を打つ。
「……“せい”って、濁りますか」
志音が問いかけると、愛恋は手帳に二つ、走り書きしてから、指で示した。
「“せい”だと、矢印が人に刺さりやすいです。代わりに、“今そうなっている”にすると、矢印が床へ落ちます」
志音は頷き、最初の文を削り直した。消しゴムを使うと、紙の繊維が荒れて、霧が入り込む気がする。だから、線を引いて、残す。都で言葉を扱うときの作法だ。
『今夜、都の息が浅い。』
華音が小さく拍手した。音は小さいのに、胸に届く拍手だ。
「息です。今、みんなが忘れているのは、それです」
志音は、次の文を考えた。頭の中では「だから、あいつが悪い」が先に出る。霧がそう囁く。
志音は、舌の裏を軽く噛む。痛みで、言葉の暴走を止める。
『怖いとき、責める言葉が先に出る。』
『責めると、ほんの一瞬だけ楽になる。』
『でも、その楽は、次の人の息を奪う。』
書きながら、指がじわじわ重くなる。石の重みは、鉛より嫌だ。動けなくなる未来を、はっきり想像させる。
志音は書く量を減らす。余計な比喩も削る。自分語りの癖も削る。
「志音さん、ここ」
華音が指先で、紙の端をそっと押さえた。触れない距離のまま、位置だけ示す。
「“奪う”は強いです。読んだ人が、また自分を責めます」
志音は眉を寄せ、愛恋を見る。愛恋はすぐに二案を出した。
「“奪う”の代わりに、“浅くする”。それか、“詰まらせる”です」
志音は笑いそうになった。こんな極限で「詰まる」という言葉が出てくるのが、妙に生活っぽい。
「……詰まる、いいですね。鍋の汁みたいに」
言い終えた瞬間、志音は自分を叱った。余計な例え話だ。
だが、ナツカが口元だけで笑った。
「今のは、使っていい。皆、鍋なら分かる」
志音は頷き、短く書き直した。
『責めると、次の人の息が詰まる。』
昇一が、紙束の角をぎゅっと握った。紙が鳴る。彼は声を出さずに、喉だけ動かした。
志音は横目で見て、言った。
「……昇一さん。あなたに向けてじゃない。都に向けてです。だから、反論はあとで聞きます」
言い方が少しだけ柔らかくなったのを、志音自身が驚く。
昇一は黙ったまま、宝石片の角を指で撫で、ゆっくり頷いた。
志音は、最後の部分に入る。
都へ向ける文章は、「明日、何をするか」を一つだけ示さないと、霧に負ける。
明日、と言うと遠いなら、今夜の次の一呼吸。
志音は、紙にペンを置く前に、水を飲んだ。
華音が、椅子を一つ、ほんの半足分だけずらす。聞こえやすい距離。言い返しが届きにくい距離。
愛恋が、机の上の蝋燭を少しだけ結晶核から遠ざけ、影が暴れないようにした。
陽海は盾を少し斜めにし、通路の反射光で、背後の動きが見えるようにした。
ナツカは深呼吸し、声の通り道を喉の奥で作る。
昇一は紙束から一枚だけ抜き、破らずに、机の端へ置いた。置く、という行動だけで、彼の肩が一ミリ下がる。
志音は書いた。
『今夜、もし誰かを悪者にしたくなったら、まず水を一杯渡してほしい。』
『水がないなら、椅子を少しだけずらしてほしい。』
『その間に、自分の口が出そうな言葉を、心の中で一度だけ言い直してほしい。』
『「おまえのせいだ」ではなく、「今、苦しい」。』
ここまで書いた瞬間、志音の指先が、石の重みに沈んだ。
ペンを持ったまま、手が動かない。関節の内側が、硬い壁で詰まる。
志音は唇を噛み、目を閉じた。怖い。書く前より怖い。書けば届くかもしれないが、届かなければ、ただ石になる。
華音の声が、耳元ではなく、空気の中心から聞こえた。
「志音さん。息を、数えます。三つだけ」
彼女は調律札を掲げ、低く、ゆっくり言葉を置く。
「ひとつ。吐いて」
志音は吐いた。喉の奥の霧が、少しだけ薄くなる。
「ふたつ。飲んで」
水が、舌の上を滑った。星の瞬きみたいに、冷たく小さい。
「みっつ。待って」
待つ。志音の膝が小さく跳ね、指が紙の端を探してしまう。言い足したいのを、喉の奥へ押し戻す。
その「待って」の間に、石の硬さが、ほんのわずか緩んだ。
志音はペンを置いた。もう一文足したくなるのを、飲み込む。足すほど、石は増える。
最後は、短く、正直に。
『この都で、生き抜くために。』
それだけを書いて、志音は紙から手を離した。指先の冷たさは残る。だが、動く。まだ、動く。
ナツカが紙を受け取った。受け取る前に、志音の指を見た。石の色が残っているのを見て、目だけで「ここまででいい」と言う。
「広場へ行く。声で届ける。紙は、ただの道具にする」
ナツカはそう言い、紙を胸に抱えた。華やかな外套の内側にしまう仕草が、妙に慎重だった。
――同じ夜。黄晶都の広場。
霧は街灯の黄いろを汚し、顔の輪郭を曖昧にした。誰かが誰かを指さし、指された者が泣き、泣き声がさらに誰かの苛立ちを育てている。
陽海が盾を前へ出すと、その盾に向かって「邪魔だ」と叫ぶ声が飛んだ。
昇一が紙を掲げると、「今さら規定か」と唾が飛んだ。
ナツカは舞台へ上がった。水差しを一つ、机の上に置く。観客へ向けて、両手を上げ、まず言った。
「今夜、喉が乾いている人、いますよね」
答えは返らない。返るのは罵声だ。
それでもナツカは笑わない。笑いを使うと、今夜は反発が増えると知っている顔だ。
ナツカは紙を開き、志音の文章を、ゆっくり読み始めた。
読みながら、彼女は水差しを持ち上げ、目の前の一人へ渡した。渡される側は戸惑い、受け取る手が震えた。
その震えが止まるまで、ナツカは次の言葉へ行かない。舞台の「間」で、都の息を待つ。
『今夜、都の息が浅い。』
『怖いとき、責める言葉が先に出る。』
『責めると、次の人の息が詰まる。』
霧の中で、誰かが鼻をすすった。泣いているのか、ただ冷えているのか分からない。
ナツカは続けた。
『今夜、もし誰かを悪者にしたくなったら、まず水を一杯渡してほしい。』
『水がないなら、椅子を少しだけずらしてほしい。』
『その間に、自分の口が出そうな言葉を、心の中で一度だけ言い直してほしい。』
『「おまえのせいだ」ではなく、「今、苦しい」。』
その最後の言い換えを、ナツカが口にした瞬間だった。
客席の端で、以前、隣人を責めて瞳を黄ばませた男が、ぴくりと肩を震わせた。
彼は口を開きかけ、いつもの言葉を吐きそうになった。――「あいつが悪い」。
だが、その前に、彼の隣の女が、水差しを差し出した。言葉ではない。手順だ。
男は水を受け取った。飲んだ。
飲み終えて、喉を鳴らし、ようやく言った。
「……今、苦しい」
たったそれだけの声は、怒鳴り声より小さい。
けれど、霧の中で、星が一つ、はっきり瞬いたみたいに響いた。
男の瞳の黄ばみが、薄く引いた。
黄いろが消える瞬間、彼は泣いた。泣き方が下手で、袖で顔を乱暴に拭き、子どもみたいに鼻を鳴らした。
その姿を見て、誰かが笑いそうになり、笑う前に、黙って息を吐いた。
広場の空気が、ほんの指先一枚ぶんだけ柔らかくなる。
志音の文章は、まだ都じゅうを救っていない。
それでも、最初の一人から、黄ばみが消えた。
ナツカは紙を閉じ、舞台の上で水差しを持ち上げた。
「もう一杯、回します。今夜の都は、喉が乾いてる」
陽海が盾を下ろした。昇一は紙を握り直した。華音は遠くの共鳴塔を見上げ、胸の奥で数を数えた。
そして、志音の指先の石の冷たさが、ほんの少しだけ、溶ける気がした。




