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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第35話 都が憎しみを選ぶ夜

 裂け目から噴き出した黄いろい霧は、共鳴塔の内部をゆっくり満たした。冷たいのに甘い匂いがして、喉の奥に、言い返したい言葉だけが先に湧く。


  霧は目に見えないところから入り込む。耳の穴、爪の間、そして『言い返したい』という衝動の隙間。志音はその衝動に名前を付けないまま、指で札筆を握り直した。書くのは怒りじゃない。怒りが出てしまう前の、呼吸の形だ。


  陽海は盾を掲げたまま、霧の流れを読んだ。盾の縁が、かすかに黄ばむ。押し返すたびに、腕へ重さが積もっていく。

  「……上へ回る。外に出たら、都じゅうへ行く」


  華音は水差しを取り出し、手早く布に含ませた。匂いを薄めるためじゃない。人の呼吸を、思い出させるための手順だ。彼女はまず自分が飲み、次に志音へ渡した。

  「吸って、吐いて。ひとつずつです」


  志音は頷き、言いかけた自分語りを、舌の根で折った。今、言葉を盛れば、それは霧へ混じって刃になる。胸の奥で、焦りだけが小さく跳ねる。

  「……行こう。都へ。ここで止められないなら、都の人の息を守る」


  昇一は紙束を抱えたまま、指先で宝石片を握った。黄ばみが指の間へ入り込みそうになるたび、握りしめて、吐く。息を吐くたびに、紙の角が少しだけ柔らかくなる。

  「規定の文言で押さえれば……いや、押さえた瞬間に、憎しみが増える」


  愛恋が短く言い換えを置いた。

  「『押さえる』ではなく、『ほどく』です。『止める』ではなく、『間を作る』です」


  ナツカは外套の襟を上げ、視線を集める場所を探した。視線を集めれば、声が届く。声が届けば、言葉の順番を変えられる。彼女の手は速い。だが、霧の匂いは速さに負けない。

  「広場へ。人が集まる場所なら、先に笑わせる。笑いが出れば、怒鳴り声が一拍遅れる」


  五人は共鳴塔の階段を駆け上がった。石の段は冷たく、足音が乾いて返る。途中、壁の看板文字がにじみ、別の言葉に見えることがあった。

  『静粛』が『正直』に見えた。『案内』が『断罪』に見えた。目が悪いのではない。霧が、言葉の角度を変えている。


  外へ出た瞬間、黄晶都の夜は黄いろく霞んでいた。月の光さえ、薄い蜜みたいに重い。屋台の火は点々と残り、人々の顔だけが浮き上がる。

  笑い声はあった。けれど、笑いは続かない。笑った直後に、同じ口で、誰かを責める声が混ざる。


  「誰のせいだ」

  「塔の修理をサボった奴がいる」

  「外から来た奴だ。よそ者が言葉を汚した」


  志音の背中が冷えた。視線が刺さる。札がないのに、文字が胸に貼りつく感じがする。華音が彼の肘を軽く押し、椅子をずらすように人の間へ小さな道を作った。

  「顔を上げて。下を向くと、声が吸われます」


  陽海は盾を立て、二つの集団の間へ入り込んだ。腕は震えているのに、足は止まらない。盾は壁ではない。距離を作るための道具だ。

  「近づくな。殴るな。まず、水を飲め」


  華音が水を配り始めた。受け取った人は一瞬だけ、眉の間の皺が緩む。だが次の瞬間、誰かの怒鳴り声が上がると、また黄ばみが戻る。


  ナツカは広場の端へ跳び、即席の舞台を作った。木箱を二つ、椅子を一つ、水差しを一つ。観客の目線が一瞬、彼女へ集まる。

  「語り座《ナツカ一座》、今夜は――」


  言いかけた瞬間、客席の奥から石が飛んだ。木箱の角に当たり、鈍い音がした。笑いではなく、拍手でもなく、嫌な音だけが残る。

  「芝居なんかしてる場合か!」

  「泣かせて誤魔化す気か!」

  「悪者を言え! 誰を憎めばいい!」


  ナツカの喉が動いた。反射で返したくなる言葉が、舌に並んだ。だが彼女は飲み込んだ。返したら、観客の黄ばみを濃くする。彼女の笑顔は作れたが、今は作らない。作ると、嘘になる。


  愛恋が前へ出た。手帳を閉じ、手のひらを見せた。武器を持っていない合図だ。

  「“悪者”という言葉は、今夜の都に似合いません。代わりに、二つだけ選べる言い方を置きます」

  彼女は息を整え、ゆっくり言った。

  「『怖い』と、『苦しい』です。どちらでも、責めるより先に、言えます」


  それでも、霧は容赦しなかった。誰かの口から「怖い」が出た直後に、別の誰かが「だから憎む」と続ける。つなぎ目が、勝手にねじれる。


  その時、広場の中央で、子どもが泣いた。泣き声は細いのに、霧を裂くように通った。母親が抱き上げようとして、手が止まった。抱き上げればいいだけなのに、言葉が先に出る。

  「泣くな! 今は、そんな時じゃない!」


  志音は足を踏み出した。口が勝手に動きかける。「レビューとしては――」と言いそうになった。自分の癖が怖い。彼は舌を噛み、代わりに短い札を取り出した。書く量を間違えれば石化に近づく。だが今は、短く正直にしか書けない。


  『泣き声は、責める声より先に、助けを呼ぶ。』


  札は淡く光った。泣いている子の肩が、少しだけ落ちる。母親の手が動き、抱きしめた。志音の胸が、少し温まった。――けれど。


  次の瞬間、別の場所で怒鳴り声が上がった。

  「ほら見ろ! よそ者が札を使ってる!」

  「都を操る気だ!」

  「その札を取り上げろ!」


  陽海が盾を前へ突き出した。衝突の音が、夜の空へ弾ける。盾があっても、声は止まらない。声が先に走り、腕が追いつかない。

  ナツカが舞台の上から手を伸ばし、華音が調律札を掲げ、愛恋が言い換えを投げ、昇一が紙束を握り――それでも、黄いろい霧が、都の胸の奥へ染み込んでいく。


  志音は気づいた。今夜は、広場一つを整えても足りない。都じゅうが、同じ言葉の癖に引っ張られている。憎む相手を決めると、楽になる。楽になるから、皆がそっちを選ぶ。霧は、その選びやすさを増やしている。


  「……都へ向けた文章が要る」


  志音の声は小さかったのに、華音が聞き逃さなかった。彼女は水差しを志音へ押し当て、飲ませる。言葉を出す前に、息を通す。彼女の手順は、どんな夜でも崩れない。

  「核へ戻りましょう。結晶の前なら、言葉が都へ届きます」


  昇一が一歩遅れて頷いた。規定の紙を見ずに。

  「……責めない文で、届くのか」

  志音は答えられなかった。届くかどうかは、書いてみるしかない。けれど、書かない選択はもうない。


  五人は広場を離れ、共鳴塔へ戻った。背後で、また怒鳴り声が上がる。誰かが誰かを指さし、指された誰かが泣き、泣き声がさらに誰かを苛立たせる。輪が大きくなる音がした。


  最深部へ下りる階段は、さっきより暗かった。黄いろい霧が、壁の文字を溶かしている。『守る』が『裁く』に見え、『助ける』が『黙れ』に見える。志音は目を閉じて歩いた。今夜は、目で言葉を拾うと、間違える。


  結晶核の前に着くと、裂け目は広がっていた。霧は止まらない。華音が息を整え、調律札を掌に浮かべる。愛恋が志音の横へ座り、言い換えのための余白を作る。ナツカが背後で立ち、声を都へ届ける形を考える。陽海が盾を床へ立て、背中の壁になる。昇一は紙束を膝に置き、宝石片を握った。


  志音は結晶核の前に座り込んだ。膝が石の冷たさを拾う。指先が、さっきより重い。札を握る手が、微かに鈍い音を立てた気がした。

  「……書く。都が、憎しみを選ぶ前に。責める相手じゃなくて、息の戻し方を」


  ペン先を紙へ置いた瞬間、指の第一関節が、ひやりと固くなった。石の感触が、皮膚の下からせり上がる。

  志音は息を吸い、吐き、もう一度だけ吸った。華音が水差しをそっと近づける。

  その水の音が、かすかに星の瞬きに似ていた。



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