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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第34話 戻れるのに、戻らない

 共鳴塔の最深部。結晶核の前に膝をついた志音の目だけに、黒い細道が浮かんでいた。


  道の先の匂いが甘いほど、今の冷たい空気が痛い。志音は痛みで現実へ戻り、膝の下の石の冷えを確かめた。ここで逃げたら、華音の水差しは誰へ渡る。陽海の盾は誰の前へ出る。そう考えた瞬間、喉の奥の甘さが少しだけ薄まった。


  黄いろい光の海に、夜の水面が一本だけ差し込んだみたいだ。道の上では白い点が瞬き、数える間もなく増えては消える。星空に似ているのに、胸の奥をくすぐる匂いが、あまりに現実的だった。紙とインクと、冬のコンビニの温かい棚。からあげ棒の油の匂いまで、ちゃんと混じっている。


  「戻れる……」


  声にした途端、道が少しだけ太くなった。呼ぶと返ってくる。志音の言葉に反応している。


  志音は札筆を握り直した。指先がじわりと重い。書くべき文が目の前にあるのに、頭の中では別の景色が勝手に再生される。駅前の寒い風。改札の電子音。自分がスマホで、誰か知らない人のために書いた短い感想。画面の向こうの顔は見えなかったけれど、送信した瞬間だけ、なぜか肩が軽くなった。


  軽くなりたい。今すぐ、軽くなりたい。


  その甘い気持ちが浮いた瞬間、袖が引かれた。


  華音の指だった。掴み方は強くないのに、指の腹が微かに震えている。震えを隠そうとして、さらに力を入れない。いつもの順番で、まず水を渡す人の手つきだ。けれど今日は、水筒を出す余裕がないのが、触れた体温で分かった。


  華音は志音を見上げて、口を開きかけ、閉じた。言ってしまえば、相手の足を縛ると知っている顔だ。だから、言葉ではなく息で伝えようとしている。


  志音は、胸の奥がきゅっと痛くなった。泣きそうな相手の前で、急に声量が落ちる癖が勝手に出た。

  「……華音。今、何が一番怖い?」


  華音は一瞬だけ唇を噛み、唾を飲んだ。

  「……怖い、のは……」

  言いかけて、彼女は視線を核札へ移した。志音の書くはずの文へ。自分の恐怖を先に置かず、都の明日を先に置こうとしている。


  陽海が盾を地面に当て、音を立てないように角度を変えた。盾の縁が石に触れると、きん、と冷たい音が鳴る。黄いろい光がその音を吸って、さらに張りつめた。


  「見えてるのか、あれ」

  陽海が、志音だけに聞こえる声で言った。盾を持つ腕が僅かに震えている。怖いのに、逃げる方へ動かない。


  「……俺には、何も見えない。けど、今のおまえの顔は、扉の前の顔だ」

  陽海はそう言って、盾を志音と道の間へ少しだけ寄せた。押し返すためじゃない。志音が足を踏み出した瞬間に、盾の重みで一度止められるように。


  ナツカが、笑うでも泣くでもない声を出した。

  「帰れたらさ、こっちに持って帰ってきて。黄晶都にない食べ物」

  冗談の形をしているのに、目は笑っていない。視線が志音の足元、黒い道の始まりをずっと追っている。舞台の人間の“間”で、志音に考える時間を作っている。


  愛恋が、志音の横へ半歩出た。巻物は閉じない。指先はいつでも言い換えを挟める位置のまま。

  「志音さん。選べる言葉を二つ置きます」

  愛恋は丁寧に、息を整えた。

  「『戻る』と、『戻らない』です。……もう一つ、言い方を変えるなら」

  彼女は少しだけ間を置いた。

  「『今は戻らない』です」


  志音は笑いかけて、笑えなかった。たった一語で、背中の重さが変わる。愛恋の“言い換え”は、いつも誰かの肩を守る。


  昇一は、紙束を胸に抱えたまま動かなかった。規定の紙を突きつける立場のはずなのに、今日は突きつけない。代わりに、欠けた宝石片を握る手の力が、ゆっくりと強くなっていく。守りたいものが、規定ではないと分かってしまった手だ。


  黒い道の先で、白い点がふっと並んだ。看板の文字みたいに。志音には読める気がした。駅名の掲示板。帰り道の案内。誰かが「こちら」と指をさしている。


  志音の足が、勝手に浮きかけた。


  そのとき、華音の袖を掴む指が、ほんの少しだけ強くなった。震えが、指先から志音の皮膚へ移る。華音は声を出さない。出せない。けれど、その震えだけは嘘をつけない。


  志音は、思い出した。


  地球でレビューを書いていた時、読んだ誰かが「今日、少しだけ眠れました」と返信をくれたこと。顔も知らないのに、その一文だけで、自分の指先が温かくなったこと。


  今は違う。ここには顔がある。息がある。水筒がある。盾の縁が石に触れる音がある。謝れなかった人が、謝る練習をしている空気がある。六人の食器を、夜中に拭いた手がある。


  「……戻れるのに」

  志音は呟き、喉の奥で言葉を噛み直した。

  「戻らない、って……言えるのか」


  華音は返事をしなかった。返事をしたら、志音の選択に重りを足してしまう。だから彼女は、ただ、息を一つだけ吐いた。声にならない、細い息。けれど、志音の耳にははっきり聞こえた。――ここにいて、という願いの形に聞こえた。


  志音は核札を見た。都へ向けた一文。嘘も誇張も混ぜられない文。書けば、指先が石になりかけるかもしれない文。


  それでも、書く覚悟を決めたのは、自分だ。


  志音はポケットから、使いかけのレビュー札を一枚取り出した。白い紙が、黄いろい光に薄く透ける。指先の重さが少し増した。だが、今は“少し”で足りる。


  「……正直に書く」


  札の上に、短い文だけを置いた。誰かを責めない。自分を飾らない。嘘も混ぜない。


  『この帰り道は、今のぼくには早い。ここにいる人の息が、先に聞こえる。』


  書き終えた瞬間、札が淡く光った。光は派手じゃない。冬の曇り空の下で、湯気が白く立つ程度の光だ。けれど、黒い道の輪郭が、その光に触れて少しだけ滲んだ。


  志音は札を、黒い道の始まりへそっと重ねた。紙を貼るというより、目を閉じるみたいに。


  「……ごめん。あとで、行く」


  道標は、志音の札に塗りつぶされるように、ゆっくり薄くなった。白い点の瞬きが、星からただの光の粉になり、最後に一つだけ残って、ふっと消えた。


  その瞬間だった。


  華音の肩が、ほんの少しだけ落ちた。声にならない息が、すっと漏れた。泣き声ではない。泣く前に、息を取り戻した音だ。志音はその音を聞いて、胸の痛みが別の形に変わるのを感じた。重いのに、ちゃんと温かい。


  「……書くよ」

  志音は核札へ視線を戻した。

  「都へ向けて。逃げ道じゃなくて、暮らしの手順を」


  愛恋が小さく頷き、言い換えを一つ置いた。

  「『命令』ではなく、『一緒に』です」


  志音が頷いた、その直後。


  結晶核の表面に走っていた細い亀裂が、ぱちん、と音を立てて開いた。黄いろい光が、そこで一度だけ濁り、液体みたいに揺れた。


  裂け目の奥から、黄いろい霧が噴き出した。


  冷たい。甘い。鼻の奥をくすぐり、胸の底へ沈む匂い。言葉にならない苛立ちが、皮膚の内側へ貼りつく感覚。


  陽海が即座に盾を前へ出した。ナツカが反射で志音の前へ手を伸ばし、愛恋が口を開きかけて、すぐ閉じた。今、言葉を放てば、霧に混じって刃になる。


  華音だけが、息を整えた。調律札が掌に浮かび、音にならない声が喉の奥で形を作る。


  黄いろい霧は、裂け目から止まらずに溢れ続けた。



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