第32話 監察官への札
共鳴塔の扉は、黄いろい光を吐き出すみたいに開いた。外の冷たい風が背中を押し、内側の湿った空気が頬へまとわりつく。
床の石は湿っていて、靴底がわずかに滑る。滑るたび、胸の中の言葉も一緒に滑りそうになる。志音は息を吸い、吐く時にだけ歩いた。呼吸の速度を、足音へ移していく。
今は夜。塔の前室は、昼の役所より静かだった。音がないのではない。呼吸の音まで石に吸われて、遠くで小さく返ってくる。誰かが水を飲むだけで、そこだけ鐘が鳴ったみたいに響く。
先頭に立った陽海が盾を少しだけ傾け、床の段差を確かめた。盾の縁が壁に当たらないよう、肘を内側へ畳む。怖いまま動く癖が、ここでも役に立つ。
「段、三つ。足、取られないで」
志音は「了解」と返しかけて、言葉を飲み込んだ。了解は便利だが、ここでは便利な言葉ほど濁りやすい。代わりに指で三つ数えて見せる。陽海が小さく頷いた。
華音は志音の手を握ったまま、もう片方の手で水筒の肩ひもを直した。扉をくぐった直後に、水を渡せる位置へ。助けの順番が、華音の身体に入っている。
昇一は扉のすぐ内側で足を止めた。紙束を抱えた腕の筋が固く、指先の節が白い。規定の紙で盾を作る癖が、今も手の中に残っている。
ナツカが背後で、わざとらしく咳を一つした。笑いにはしない。空気の角だけを落とす咳だ。
「監察官さん。ここ、舞台の袖みたい。言葉を大きくすると、返ってきて刺さるわよ」
「……分かっている」
昇一の返事は短い。短いのに、喉で引っかかった音がした。志音はその引っかかりが、昨日の家の鍋の湯気と同じだと気づいた。温かさを思い出すと、痛みが浮く。
前室の壁には、細い溝が何本も走っていた。古い札の跡だ。誰かが剥がし、誰かが貼り直し、また剥がした。黄いろい粉が溝に残り、指でなぞるとざらりと落ちる。
愛恋が灯りの石を掲げ、溝の先を読んだ。紙ではなく、石に刻まれた文だ。
「『責め言葉は核へ届く』……です。続きは……『責め言葉は、核を割る』」
「核って、卵みたいな言い方だね」
志音が言ってしまい、すぐ喉を押さえた。比喩が先に出た。
華音が志音の指を一度だけ強く握る。止める合図。志音は頷き、息を整えた。
「……ごめん。今のは、軽かった」
昇一が、志音の謝り方を見た。規定の形式ではない謝り方。言い訳も、相手の責めも挟まない謝り方。
昇一は視線を逸らし、紙束の端を爪で折った。破る前の癖。紙を破れば、気持ちが少しだけ楽になる。そうやって、何度も同じ謝罪文を書き直してきた。
志音は胸の内ポケットの札を思った。昇一の癖は、ただの悪意じゃない。破って、やり直さないと、耳の中の「憎い」が消えないのだ。
陽海が、前室の中央にある低い台を指さした。台の上には、乾いた水差しが一つ。底に黄いろい光が溜まっている。
「……水、置いてある。誰か、飲めってことか」
「たぶん、先に飲むと、声が刺さりにくくなる」
華音が言い、すぐ水筒を取り出した。水差しの水は誰のものか分からない。華音は自分の水を、昇一の前にそっと差し出す。押しつけず、退路を塞がず、視界に入る距離。
昇一は受け取るまでに三呼吸かかった。受け取る手が震え、蓋が少しだけ鳴った。飲んだあと、喉の筋がゆるむ。
「……水は、便利だな」
「便利だから、最初に置きます」
華音は淡々と言った。淡々としているのに、志音にはそれが優しさに聞こえた。大げさに慰めない。手順だけ渡す。
志音は、昇一へ何か言いたくなった。規定を責める言葉ならいくらでも出る。だがそれは、昇一の紙束を燃やすだけだ。志音が欲しいのは、燃やす炎じゃない。鍋の下に入れる小さな火だ。
掌の上で、布に包まれた宝石片が微かに熱を持った。妹の髪留めの欠片。志音は布越しに感じる熱で、昇一の家の台所を想像してしまう。鍋の音。椅子を並べる手。水を置く震え。
志音は札を取り出した。数は一枚だけ。指先が重くならないよう、息を浅くする。書く前に、嘘を混ぜないと自分に言い聞かせる。
昇一が気づき、肩を強くした。
「書くな。ここは……」
「分かってる。操らない。増やすだけ。……少しだけ」
志音は言ってから、また言葉が多いと気づいた。短くする。結論を先に置く。華音がいつもやる順番。
「昇一さんへ、一枚だけ」
昇一の眉が動いた。拒否の前に揺れが来た。拒否したいのに、受け取りたい揺れだ。
志音は、札に書いた。長くしない。誰かを悪者にしない。規定を殴らない。家の中で飲み込んだ息へ、寄り添う文。
『守りたかったのは、規定じゃない。鍋の前の水と、妹さんの震えだ。扉の外で飲み込んだ息もだ。まず、あなたが飲んで。次に、誰かの声を聞こう。』
書き終えた瞬間、札が淡く光った。前室の黄いろい粉が、少しだけ落ち着く。石の空気が、尖りから丸みへ変わる。
志音は札を昇一へ差し出さず、紙束の一番上にそっと置いた。受け取るかどうかの順番を、昇一に渡すためだ。
昇一の指が伸びる。紙を破るための指が、札の縁に触れた。触れた瞬間、指が止まった。破れない。破ったら、自分の中の悲鳴も一緒に破ってしまう気がしたのだろう。
昇一の喉が鳴った。声が出そうで出ない。代わりに、紙束がわずかに揺れる。
「……俺は、守れなかった」
「守ろうとした。守る手順が、きつかっただけ」
愛恋が、短く言い換えた。誰かの肩へ寄りかからせる言葉ではなく、立て直す言葉。
昇一はその言葉を聞き、肩を落とすのではなく、肩の力を抜いた。涙が落ちた。黄いろい光を映して黄く見えるだけの、普通の水が、札の端へ一滴落ちる。
札は濁らなかった。嘘がない涙だからだ。
志音は胸の内で「よし」と言いそうになり、また飲み込んだ。評価は刃になる時がある。今は、隣にいるだけでいい。
ナツカが台の水差しを指で弾き、からん、と小さく鳴らした。舞台の合図みたいに。
「監察官さん。泣くなら、ここで泣いて。奥で泣くと、観客が困る」
「観客……?」
「結晶よ。あれ、耳がいいの」
志音は思わず口角を上げた。笑いが、前室の石に吸われ、尖らずに消えていく。華音が志音の指を軽く叩く。笑いすぎるな、という合図。志音は「うん」と頷いた。
陽海が盾を持ち直し、廊下の奥へ目を凝らした。風がないのに、黄いろい光が流れている。まるで水の底の光みたいに揺れる。
「……来るぞ。奥から、音がする」
耳を澄ますと、確かに聞こえた。きしみではない。裂ける音でもない。もっと湿った、喉の奥から出るような音。
誰かが、泣きながら息を吸う音に似ていた。
志音は、布包みの宝石片を握りしめた。指先が重くなる怖さより、温かさが先に来る。ここで書くべき文章は、まだ一枚では足りない。だが、今は一枚でいい。昇一の手が、破る指から支える指へ変わり始めている。
華音が小さく言った。
「行きましょう。……結晶が、泣いています」
昇一が札を紙束ごと抱え直し、頷いた。紙を破かないまま、抱え直した。それだけで、前へ進む許可が出た気がした。
六人は、最深部へ続く廊下へ足を踏み入れた。黄いろい泣き声が、今度ははっきりと、背骨を伝ってきた。




