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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第31話 昇一が憎む理由

 夜がほどける前の冷えた時刻。共鳴塔の門の内側の控え室には、鍋の名残の匂いだけが残っていた。


  椀が六つ、伏せられて乾いていく。陽海は盾を抱いたまま眠り直し、愛恋は手帳を枕の横へ置いた。華音は志音の手を離さず、指先だけで水筒の位置を確かめる。寝ぼけたままでも順番を作る癖が、身体に染みている。


  机の端に立っていたナツカは、さっきの囁きを自分で聞き返したみたいに、口を一度だけ結んだ。逃げやすい足の置き方のまま、志音の目を見る。


  志音は返事の前に、息を吸って吐いた。自分語りを始めると、相手の椅子を奪うことがある。昨夜の鍋の湯気が、まだ胸の奥で温かった。

  「……いいよ。ここに居て。居たいって言うの、勇気いるから」


  言い終えた瞬間、ナツカの眉が小さく動いた。笑顔は作らない。作らないほうが、今は誠実に見えた。

  「“居ていい”じゃなくて、“居よう”って言われると……逃げにくいわね」

  「逃げてもいい。逃げたら、戻る場所も作る。……それだけ」


  華音が眠そうに頷き、短く拍手した。音は小さいのに、室内の空気が少しだけ丸くなる。志音はその拍手が、背中へ当たる感じを覚えた。


  そこへ、紙を束ねる乾いた音がした。昇一が立っていた。眠ってはいなかったらしい。目の下の影は深いのに、姿勢だけが崩れていない。破れそうな紙束を抱え、扉の方へ向かう。


  「……行くぞ。扉が開いているうちに、前へ進む」


  陽海がすぐ起き上がった。盾を肩へ掛け、足音を抑えながら先へ出る。愛恋も立ち、手帳を閉じる。華音は志音の手を握ったまま立ち上がり、水筒を一つずつ配る動きをする。志音は水筒を受け取り、ナツカへも差し出した。


  ナツカは水筒を一瞬だけ見て、受け取った。受け取るまでの間が、舞台より長い。


  扉の外へ出ると、黄晶都の通路は夜明け前の色をしていた。石壁の隙間から黄いろい光が滲み、どこかで誰かが咳をしている。避難した人々の寝息が、遠くの広場から薄く届いた。誰も喧嘩をしていないのに、空気が尖っている。


  昇一は先を歩き、足を止めなかった。振り返りもしない。背中が「付いて来い」と言っていた。


  志音は、その背中へ声を投げたくなる衝動を、喉の奥で噛んだ。言葉は投げると刺さる。刺さった言葉は、回収が難しい。華音の手の温度が、指先の暴走を止めてくれる。


  通路が細くなり、共鳴塔へ繋がる回廊へ入る。上からは黄いろい結晶の光が落ち、下からは冷気が這い上がる。足音が反響し、六人の距離が勝手に測られてしまう。


  その反響の中で、昇一が急に言った。

  「書評師。……お前は“憎しみ”を言葉でほどけると言ったな」


  志音は歩きながら首を振った。振るだけでは足りず、短く言う。

  「ほどける、って言い方も危ない。……少しだけ、丸くできる。たぶん」

  「たぶんで来るな」

  「来た。……来ちゃった」


  志音が小声で言うと、陽海が前で肩を揺らした。笑い声にはしない。今は危ない場所だと分かっている笑い方だった。ナツカがその背中を見て、息を一つ落とす。


  昇一は足を止め、壁際へ寄った。通路の中央を空ける。通行の手順を守る癖が、こんな時でも出る。

  「俺は、憎しみが嫌いだ。……嫌いなくせに、憎しみだけが残っている」


  言い終えたあと、昇一は喉を鳴らした。唾を飲む音が、反響で大きくなる。志音は返事を探しかけて、探す手を止めた。相手の言葉が出るまで待つ。待つことが、今の助けになる。


  昇一の視線が、回廊の先――共鳴塔の中心へ吸われる。

  「黄晶病が広がり始めた頃、俺は監察官になったばかりだった。規定を覚えれば、守れると思った。……守れるはずだった」


  語尾が少しだけ震えた。震えをごまかすように、昇一は紙束を抱き直す。腕の力で心を固定する。


  「家に戻ると、母は鍋を火にかけていた。父は椅子を並べて、妹は水を配っていた。……華音と同じだ。揉める前に、水を置く。うちの妹も、そうだった」


  華音の指が志音の手をきゅっと締めた。自分の癖が誰かの家にあった、と聞いて、息が少しだけ詰まった顔をする。華音はすぐに水筒の蓋へ指を置き、呼吸を戻した。


  昇一は続けた。

  「その夜、隣家で喧嘩が起きた。誰が先に湯を使ったか、誰が税を多く払っているか。……くだらない話だ。だが、言葉が尖っていった。俺は規定の通りに止めた。殴り合いにはならなかった。……その時、俺は“正しい”と思った」


  回廊の上で、結晶がきしむ音がした。まるで誰かが歯を食いしばったみたいに。

  志音はその音を聞きながら、札へ触れないよう手を握った。ここで札を濁らせたら、空気がさらに尖る。


  「翌朝、家に帰ると、母の言葉が変わっていた。鍋の匂いは同じなのに、声だけが違った。……『おまえのせいで、うちは弱い』。そう言われた」

  「……」

  「父は、規定の話をした。俺が覚えた規定を、俺より早口で並べた。……規定が、救いに見えたんだろうな。妹は、何も言わなかった。水だけ置いた。……水を置く手が震えていた」


  昇一は目を閉じた。閉じたまま言う。

  「俺は、止められなかった。規定を盾にして、家の中へ入らなかった。……入ったら、俺も同じ言葉を吐く気がしたからだ」


  志音の胸に、鍋の湯気が冷えて刺さった。自分ならどうした、と言い出したくなる。だが、それは昇一の椅子を奪う。志音は唇を噛み、代わりに一言だけ置く。

  「……怖かったんだね」

  「そうだ」


  昇一は否定しなかった。否定しないことで、逆に痛みが露わになる。

  「その日の夕方、妹が倒れた。黄いろい霧を吸ったわけでもない。ただ、家の中の言葉が黄いろく濁った。……妹は、俺を見て笑った。笑って、言った。『兄さん、正しいのに、どうして助けてくれないの』」


  その台詞は、刃だった。刺さるだけではない。抜けない。

  昇一の指が紙束を掴み、白い紙に皺が走った。


  「……そのあと、妹は“憎む言葉”しか出せなくなった。母も父も同じだ。鍋は煮えているのに、食卓が壊れた。俺は、監察官として規定に従って……家族を隔離した」


  陽海の歩みが一瞬だけ止まり、すぐ戻った。盾の縁が石壁へ触れ、かすかな音がする。止まりたいのを、止まらないで進む訓練が体に入っている。


  昇一は目を開けた。瞳の奥に、黄いろい滲みが見えた気がして、志音は息を詰める。だが、滲みは涙だった。黄晶都の光を映して黄く見えるだけの、普通の水。

  「最後に聞いた言葉が、耳から離れない。『兄さんが、憎い』。……俺はそれを、規定で覆い隠した。正しさを重ねれば、聞こえなくなると思った」


  志音は胸の内ポケットの札を思った。覆い隠すと、余計に濁る。濁った言葉は、別の場所で刃になる。


  華音が一歩だけ前へ出て、水筒を昇一の視界に入れた。押しつけない。中央を塞がない。手順だけ差し出す。

  「……飲めますか」

  昇一は水筒を見て、首を振りかけ、止めた。手を伸ばし、受け取った。飲むまでに二呼吸かかった。飲んだあと、声が少しだけ低くなる。

  「……すまない」

  「謝らなくていいです」


  華音はそう言って、すぐ志音の手を握り直した。助けの順番を、自分の中へ戻す。


  昇一は紙束の一番下から、小さな布包みを取り出した。布は何度も洗ったように薄く、角が丸い。包みを解くと、黄いろい宝石の欠片が出た。爪ほどの大きさなのに、光は強い。黄晶都の光とは別の、内側の光だ。


  「……妹の髪留めに入っていた石だ。隔離の時、俺は……持ち出した。証拠のため、と言い訳してな」


  昇一は志音の前へ欠片を差し出した。投げない。落とさない。両手で、そっと。

  「お前の札が勝手に滲むなら、これが関係しているかもしれない。……俺の家族を救ってくれ、とは言わない。救えないのは分かっている」


  昇一の言葉が、初めて規定から外れた。頼み方が下手だ。だからこそ、嘘がない。


  志音は欠片を受け取った。掌に置いた瞬間、札が胸の内で淡く熱くなった。指先が重くなるのではなく、温かくなる。まるで、冷えた鍋に火が入るみたいに。


  志音は欠片を布で包み直し、昇一へ返そうとして、やめた。返すのは簡単だ。だが、受け取った責任も、一緒に戻してしまう。

  「……預かる。預かって、使い方を間違えないようにする。断罪の道具にはしない」


  昇一の口が、わずかに開いた。言葉が出そうで出ない。出ない代わりに、頷いた。

  「……それでいい」


  回廊の先で、共鳴塔の扉の影が見えた。黄いろい光が、そこだけ濃い。誰かが泣くみたいに、結晶が微かに鳴っている。


  志音は華音の手を握り直し、胸の内ポケットの札へ指を触れずに確かめた。ここから先は、言葉の責任がもっと重い。だが、今の昇一の頷きが、背中を押した。


  六人は、扉へ向かって歩き出した。



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