第30話 ナツカの台所
深夜。共鳴塔の門の内側にある控えの部屋は、外の黄いろい光を薄めたみたいに、白い灯りだけが残っていた。壁は石で冷たいのに、隅のかまどだけ、赤い息をしている。湯の沸く音が、眠りきれない耳へ、一定の間隔で届く。
長い机の上には、木皿が六枚。杯が六つ。置き方は揃っているのに、座る者の影は揃わない。陽海は盾を壁へ立てかけたまま、椅子に沈み、顎を引いて眠っていた。昇一は規定の紙束を胸に抱えたまま、背もたれへ寄りかからずに目を閉じている。愛恋は手帳を膝に置き、頁を指で押さえたまま、まばたきが遅い。華音は机に額を触れさせるようにして眠り、志音はその横で、ほどけない手を机へ置いたまま息を整えていた。
志音と華音の指は、まだ離れない。離れないから、動くときは二人で一つの手順になる。水筒のふたを回すとき、箸を取るとき、毛布を掛けるとき。華音は寝息のまま、志音の手を逃がさない。志音は文句を言う代わりに、口をすぼめて、呼吸をゆっくり数えていた。
ナツカは机の端で、静かに立ち上がった。椅子を引く音を出さないよう、足の裏で床を探り、かまどの方へ行く。外套を脱ぎ、袖をまくる。芝居の幕が下りた後みたいに、背中が少しだけ軽く見えた。
流し台の前。洗い桶の水は冷たく、指先が赤くなる。ナツカは皿を一枚ずつ手に取り、布で拭いた。布が濡れれば絞る。絞るとき、腕の筋が細く浮く。舞台では見せない力の使い方だ。
拭き終えた皿を重ね、次の杯へ移ったところで、手が止まった。布を握る指が、ほんの一瞬だけ強くなる。
静けさの中で、遠くの結晶が鳴った。泣き声みたいな、金属みたいな音。ナツカはその音に、笑う準備をした顔を向けかけて、やめた。
背後で、椅子が小さく鳴った。志音だった。ほどけない手を引きずるようにして立ち上がり、片手で水筒を持つ。水筒を持つ手は自由だが、歩幅は華音の寝返りに合わせる必要がある。志音は机の端で一度止まり、華音の肩へ毛布を掛け直した。布が鼻先に触れても、華音は起きない。志音だけが、ほっと息を吐いた。
志音は水筒を持ったまま台所へ来た。いつもの調子なら、芝居の感想を先に並べてしまう。台詞の間の取り方が、とか。手の角度が、とか。だが今は違った。志音はまず、ナツカの手元を見た。赤い指先。濡れた布。皿の縁の欠けを、指でなぞって確認する癖。
「……眠れない?」
短い問いだった。評価の匂いがない。ナツカは一拍遅れて笑った。
「役者はね、拍手が止まったあとに、急に音が怖くなるの。だから、音を作っておくのよ。水の音とか、布の音とか」
志音は「なるほど」と言いかけて、飲み込んだ。なるほどを出すと、次に長い自分語りが出る。今は、それを出すと刃になる気がした。代わりに、水筒のふたを回し、湯気のない水を一口飲む。喉が動く音が、部屋に小さく落ちた。
「手、冷たいだろ。……布、替える?」
ナツカは笑いながら首を振った。布を絞る。
「心配されるの、慣れてないの。心配って、拍手より刺さる時があるから」
志音は水筒を差し出した。直接握らせない。机の端へ置く。飲める距離に置く。華音がよくやる手順を、そのまま真似た。
「刺さるなら……刺さらない言い方にする。ぼく、今日の芝居の点数を付けに来たんじゃない。ナツカがここで一人で立ってるの、気になっただけ」
ナツカの布が、また止まった。肩が少しだけ上がって、すぐ下がる。
「書評師さんの口から“点数”って出ると、逆に信用できるわね」
「出さないと、出したくなるから」
志音は口元を歪めた。自分の癖を先に言っておくと、暴走しにくい。
ナツカは水筒を手に取らず、視線だけを向けた。
「……あなた、言葉を選ぶの、上手になったわ」
志音はすぐに否定しなかった。否定すると、褒め言葉を跳ね返してしまう。華音が言い換えを教えてくれた。
「上手、じゃなくて……今日は、怖い。だから慎重」
その言い方に、ナツカが小さく笑った。舞台の笑いではない。喉の奥で鳴る笑い。
「怖いって言えるの、ずるいわ。こっちは、ずっと“平気な顔”で食べてきたのに」
志音は返事を探したが、探す手を止めた。相手の言葉が出るまで待つ癖を、そのまま使う。ナツカは皿を棚へ戻し、代わりに鍋を出した。鍋底が石に当たって、鈍い音が出る。音を作る。自分のために。
「夜食、作る。眠ってる人が、起きたときに口に入るものがあると、喧嘩が一つ減るのよ。……私の経験」
ナツカはかまどへ火を足した。乾いた薪を二本。息を吹き込むのではなく、手で空気を送る。火が大きくなりすぎないよう、目で測る。鍋へ湯を張り、干し肉を薄く裂き、刻んだ根菜を落とす。塩はひとつまみ。香草は最後。匂いが広がりすぎると、眠りが浅い者が起きてしまうからだ。
志音は、その手つきを見ていた。芝居の手つきじゃない。生活の手つき。
「……台所、似合うね」
言ってしまった、と志音は思った。似合うは、評価に近い。ナツカの眉が動く。
志音は慌てて言い足した。
「違う。似合うって言い方が、雑だった。……この手つき、たぶん、誰かの腹を守ってきた」
ナツカは鍋をかき混ぜながら、目を細めた。
「守るって言うと大げさ。……ただ、空腹は憎しみを育てるから。先に、温いものを入れるの」
湯気が立つ。匂いが薄く机の方へ流れ、陽海の鼻が動いた。眠ったまま、口角が少しだけ上がる。愛恋が目を開け、すぐ閉じる。華音は志音の手を握り直した。志音は痛みをこらえる顔をせず、そっと肩を落とした。
鍋が煮え、ナツカは椀を六つ並べた。並べ方が揃う。揃うと、心が落ち着く。彼女は椀へよそい、机へ運んだ。志音は途中で鍋を受け取ろうとしたが、ほどけない手が邪魔をした。ナツカは受け渡しの代わりに、志音の自由な手へ布を押し込んだ。
「その手、使えるなら拭いて」
「はい、座長」
志音が小声で言うと、ナツカは「座長は舞台だけ」と笑った。笑いながら、椀を一つ、昇一の前へ置く。昇一は目を開け、無言で椀を見た。紙束を抱えたまま、湯気を吸い、ゆっくり息を吐く。口から出たのは、短い一言だった。
「……助かる」
陽海が起き上がり、盾へ手を伸ばしそうになって、やめた。椀を両手で持ち、飲む。熱さに眉を寄せ、すぐにもう一口いく。言葉は少ないが、飲む速さが「うまい」を言っていた。
愛恋は椀の縁へ唇を当て、丁寧に言った。
「香草の順番が、優しいです。……起きた人を驚かせない」
ナツカは肩をすくめた。
「あなたの語尾ほど優しくはないわよ」
華音が目を開けた。眠い目のまま、志音の手を離さない。離さないのに、椀へ手を伸ばす。
「……水」
志音が水筒を机へ寄せる。華音は一口飲み、次に椀を口へ運んだ。湯気でまつ毛が濡れる。華音は小さく笑い、志音の手を握ったまま言った。
「……この順番、いい」
机の上の湯気が、六人の間をつなぐ白い糸みたいに揺れた。言葉が少なくても、同じものを口に入れると、音が丸くなる。
ナツカは自分の椀を最後に取り、席へ座らず、机の端に立ったまま飲んだ。立っているほうが、逃げやすい。そういう足の置き方だった。
志音は、その足元を見てから、目線を上げた。評価ではなく、心配のほうを出す。
「……座らないの?」
ナツカは笑いで誤魔化した。
「私が座ると、舞台みたいに見えるでしょ。観客が困る」
「困らない。……たぶん、皆、鍋の前では同じ顔だ」
ナツカは一瞬、言葉を探した。探して、机の角へ指を置いた。逃げ道を塞がない距離。
そして、誰にも聞こえないくらいの声で、志音へだけ呟いた。
「……私も、ここに居ていい?」




