第3話 監察官は褒め言葉を嫌う
監察官と名乗った男――昇一は、詰所の入口に立ったまま、床に伸びた黄いろい光の筋を踏まないように靴先を揃えた。外套の肩から雫が落ち、石畳に小さな輪を作る。冬の昼の冷えが、扉の隙間から詰所へ流れ込み、志音の指先の札まで冷やした。
志音の腹の奥には、昨夜の煮込みの温さがまだ残っている。なのに、昇一の短い命令は、その温さを薄い紙みたいにめくり上げてしまう。札の縁へ指が食い込み、掌が汗ばむのを志音は隠さなかった。
「提出しろ。おまえが持っている、それだ」
言い切ると同時に、昇一は一歩だけ詰めた。距離が縮まる。志音は反射で札を握り直し、掌のぬるさが消えるのを感じた。
「ええと、自己紹介からしてもらえると助かるんですけど。僕、昨日――」
「昨日の話は要らない。札を渡せ」
言葉が短い。短いのに、胸の奥へ沈む。華音が椀を抱えたまま、志音と昇一の間へ立った。手元の水差しを両手で支え、蓋が鳴らないように指で押さえている。
「監察官さん。志音さんは、詰所で規定を学んでいる最中です。札は……必要です」
昇一の視線が、華音の口元へ移り、次に札へ戻る。志音はその往復を見て、声を落とした。
「僕の札は、書くと光ります。……たぶん、この都では、便利な道具なんですよね。だからこそ、見たい。わかります」
昇一の眉が、ほんの少しだけ動いた。志音は続けたくなったが、華音が咳を思い出したように軽く喉を鳴らしたので、息を飲み込んだ。
愛恋が、机の角からそっと一歩出た。頭を下げるのが先で、背筋は曲げない。
「監察官さま。『没収』ではなく、『点検』として、いまここで拝見する方法はどうでしょう。志音さんの手から離れない形で」
昇一は返事をしない。外套の胸元を指で押さえ、革紐の下で何かを握りしめた。ごつごつした硬いものが、布越しに浮く。志音の目がそこに止まる。
「……それ、宝石の欠片ですか」
志音が口にした瞬間、昇一の指がぎゅっと縮んだ。布が引きつれ、硬い欠片の角が露わになる。黄いろい石。欠けた断面が、鋭い。
「関係ない。札を――」
「待ってください」
華音が、声を張らないまま言った。水差しを机に置き、両手を空にする。掌を見せる仕草が、争うためではないと伝えるみたいだった。
「監察官さんは、札が危険だと思っている。志音さんは、札が生きるために必要。……なら、危険かどうかを、確かめましょう」
昇一は、視線だけで「どうやって」と言った。華音は息を二つ分吸って、言葉を短くした。
「いま、外が騒がしいです。詰所の前の酒場から……怒鳴り声が聞こえます」
確かに、扉の外から、割れた皿の音と、荒い笑い声が混じって届いていた。志音は耳を澄まし、喉の奥に冷えた空気を吸い込んだ。
「検証、ですね。僕、そういうの、好きです」
言いながら、志音は自分の舌が軽くなるのを感じた。好き、と言った瞬間、話したくなる。けれど今日は、短く。
「短い誠実な札で、喧嘩が止まるか。止まるなら、札は『刃』にも『包帯』にもなる」
昇一が、初めて目を細めた。『包帯』という比喩が気に入らなかったのか、逆に気になったのか、判別できない。志音は、その判別に時間を使わないことにした。
「行きましょう。いま、ここで揉めてるより、現場で見たほうが早い」
華音が頷き、愛恋が机の引き出しから小さな布袋を出し、志音の袖へ押し当てた。
「指先が重くなったら、これを握ってください。……痛いなら、帰りましょう」
布袋は乾いた香りがした。薬草だろう。志音は短く「ありがとう」と言い、扉へ向かった。
酒場は詰所のすぐ斜向かいにあった。昼のはずなのに、窓からは黄いろい灯りが揺れ、湯気と酒の匂いが通りまで溢れている。扉を開けた瞬間、熱気が顔にぶつかり、冷えた頬が痛んだ。
「おい、褒めるなって言ってんだろ!」
「褒めたんじゃねえ! 事実を言っただけだ!」
怒鳴り声の中心に、二人の男がいた。片方は上着の胸を掴み、もう片方は酒杯を握ったまま赤い顔で突っ立っている。周りの客が輪を作り、誰かが笑い、誰かが煽り、誰かが皿を避難させていた。
志音は、昇一の横顔を見る。昇一の口元が、きゅっと結ばれている。褒め言葉が嫌い、というより、褒め言葉が刃になる場面を何度も見た顔だった。
華音が、輪の端から低い声で呼びかけた。
「みなさん。いったん、息を――」
「黙れ! 調律官だろうが関係ねえ!」
怒鳴り返され、華音の言葉が途中で落ちた。志音は華音の横へ立ち、口を開きかけた。『僕は地球で――』が喉まで上がった。けれど、愛恋が小さく指を二本立てた。二つだけ。息も、言葉も。
志音は札を掌に広げた。薄い紙が、熱気の中でふわりと浮く。周囲の視線が集まる。札は、注目が集まるほど、わずかに震えた。
「僕が書きます。短く。いま、ここで起きていることを」
昇一が腕を掴む気配を見せたが、華音が先に言った。
「志音さん。いつ、どこで、何を見て、どう感じたか。……それだけ」
志音は頷き、指先を札へ滑らせた。文字が浮かぶ。インクの匂いはしないのに、筆圧の感触だけがある。
――昼。黄晶都の酒場『灯の樽』。二人の声が大きくて、料理の匂いが逃げている。怒鳴り声は、味が濃すぎて舌が疲れる。いまは、湯気のほうが正しい。
書き終えた瞬間、札が淡く光った。光は眩しくない。湯気の白さに溶けるみたいに広がり、客の肩から力が抜けるのが見えた。
「……料理の匂い、逃げるぞ」
輪の中の誰かが、ぽつりと言った。別の誰かが、喉を鳴らして笑う。さっきまで煽っていた男が、皿を元の位置へ戻し始めた。
胸を掴んでいた男が、手を離した。酒杯を握っていた男が、杯を置いた。二人の呼吸が揃い、ぶつける相手を探していた目が、熱い鍋へ吸い寄せられる。
「……俺、褒められたら、腹が立つんだ」
胸を掴んでいた男が、言い訳みたいに言った。
「……俺も。褒めたつもりじゃねえのに、口が滑る」
もう片方が、目を逸らした。志音は、そこに言葉を足したくなった。『褒めるのは、相手の物語を読んだ証だ』とか、『褒め言葉はレビューの入口だ』とか。喉がむずむずする。
でも今日は、短く。
「次に言うなら、料理のことを褒めてください。……この店の煮込み、うまいんでしょ」
二人が同時に鍋を見る。湯気が上がり、隣の客が匙を差し出した。輪がほどけ、席が戻る。酒場に、ようやく昼の音が戻った。匙が器に当たる音。椅子が床を擦る音。小さな笑い。
志音が息を吐くと、背後で昇一の外套が擦れた。振り向くと、昇一は胸元の欠けた宝石片を握りしめたまま、口を閉ざしていた。言いたいことがあるのに、言葉を探していない顔だった。
志音は、札を畳んで掌に戻し、そっと言った。
「危険かどうか、いまのところは……『使い方しだい』です」
昇一は返事をしない。宝石片の角が、指に食い込んで白くなる。痛みを確かめるみたいに。
その時、酒場の奥の席で、ひとりの女が器を抱えたまま震えた。肩が揺れ、目が黄ばんだ灯りを映す。
「……憎むことしか、できない」
呟きは小さいのに、札の光よりもはっきりと、志音の耳に刺さった。




