表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/40

第29話 華音の秘密、養い親たち

 共鳴塔の門前は、夜更けのはずなのに昼みたいに明るかった。塔の結晶が吐く黄いろの光が、石畳の一枚一枚を濡れた飴みたいに照らし、列に並ぶ人の頬を薄く染める。息は白く、袖口の内側だけがじんわり温い。誰かが水を飲むたび、杯が小さく鳴った。


  陽海は盾を横へ構えたまま、足裏で地面の硬さを確かめている。愛恋は配り終えた紙片の束を数え、足りない分だけ、爪の先でちぎった。ナツカは遠くの列へ目を配り、笑顔を作らずに、呼吸の速さだけを読んでいる。


  昇一が門へ向かって歩き出した瞬間、華音は志音の袖を軽く掴んだ。言葉より先に、指が「今は離れないで」と言う。


  「……入る前に、ひとつだけ」

  華音はそう言って、口元に笑みを乗せた。いつも通りの丁寧さだ。けれど、その笑みの下で、喉が乾く音がした。


  志音は「ぼくの世界ではね」と言いかけた。こういう時、例え話で空気を緩めたくなる。けれど、華音の指が袖を掴む力がほんの少し強くなり、志音は自分の舌を噛んだ。水筒を借りて、一口だけ飲む。自分の順番を守ってから、頷く。


  「うん。言って」


  華音が息を吸う。吸った息が、胸の奥で引っかかっているのが見えるようだった。


  そこへ、列の外側から、鍋の蓋が鳴るような音がした。木箱が石畳に当たる、軽い衝撃。次に聞こえたのは、怒っているのに涙声みたいな女の声だった。


  「華音! そんな所で、また――!」


  人垣が割れた。湯気をまとった小さな包みを両腕で抱えた女性が走ってくる。髪は乱れているのに、襟元のボタンだけはきっちり留めている。後ろから、長い外套の男が追いかけてきた。男は手に毛布を二枚、肩に水筒を二つ掛けている。荷物の持ち方が、明らかに慣れている。


  華音の指が、志音の袖から落ちた。落ちたのに、腕が動かない。


  「……母さん」

  華音の声が、少しだけ幼くなる。


  女性は華音の前で止まると、まず華音の頬に触れようとして、途中で手を引っ込めた。触れたら、ここで崩れると分かっている動きだった。その代わり、包みを突き出す。


  「熱い薬湯。飲んでから話しなさい。口の中が乾いてる声、嫌い」

  言い切ってから、女性は自分の鼻をすすった。泣いたことを隠すために、怒鳴ったみたいに聞こえる。


  男は一歩遅れて頭を下げた。志音たち全員へ、順番を守る礼だ。

  「夜分に失礼。華音を育てた者です。……こちらの方々が、最近、娘を支えてくださっていると聞きました」


  娘。血の匂いではなく、選んだ言葉だ。志音はその一語で、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


  華音は薬湯を受け取り、両手で包むように持った。湯気が指先を温め、白い息と混ざる。ひと口飲もうとして、止まる。視線が共鳴塔の門へ滑った。今夜、入ると決めてきた場所だ。


  女性が言った。

  「塔へ入るって聞いて、家の鍋を火にかけたまま走ってきたのよ。……あんた、いつも“大丈夫”の言い方が上手すぎる」


  華音の肩が小さく揺れた。上手すぎる。誉め言葉に見えるのに、刺さる。


  男が毛布を広げ、華音の肩に掛けた。掛け方が静かだ。風が入らないように首元を折り、前で留める結び目を作る。終えてから、男は華音の手首へ視線を落とした。


  華音の袖口から、薄い包帯が覗いていた。いつもの手袋で隠していたはずの白さが、灯りに浮いてしまう。調律札を何枚も扱った手の跡だ。志音は、自分が昨日見た華音の指先の赤みを思い出し、喉がきゅっとなる。


  「……それ、また増えたな」

  男の声は低い。怒鳴らない。けれど、結び目みたいに固い。


  華音は包帯を隠すように袖を引いた。

  「問題ありません。私は――」

  言いかけて、言葉が止まった。止まった後の沈黙が長い。いつもなら、ここで志音が穴埋めの言葉を放ってしまう。


  志音は唇を噛んだ。自分の話をしたい衝動が、喉の手前で暴れる。けれど、華音の視線が下を向き、そこから上がってくるまで待つべきだと、体が先に理解していた。志音は何も言わず、水差しの杯を一つだけ取り、華音の手元へそっと置いた。押しつけない距離。


  愛恋が小さく頷いた。陽海は盾を下ろさず、背中を少しだけ広くした。ナツカは、列の外側へ人が寄らないよう、視線だけで押し返している。


  華音は杯の縁に指を添え、けれど飲まなかった。代わりに、薬湯の包みを胸へ押し当てる。温度で自分を支えるみたいに。


  「……私、ここで倒れたら、あなたたちが悪いって言われるのが嫌です」

  華音の声は小さい。けれど、逃げない。

  「私が拾われた日も、“面倒を見るなら責任を取れ”って言われました。……だから、迷惑をかけないように、上手に言おうとして」


  女性が口を開きかけ、閉じた。怒鳴る代わりに、薬湯の包みを両手で包み直す。火傷しない位置へ持ち替えるのは、怒りの角を落とす手順だった。


  男が言った。

  「責任は、背負うためにあるんじゃない。……一緒に運ぶためにある」

  言い終えた後、男は小さく咳払いをした。言葉に慣れていない咳払いだ。けれど、逃げる咳払いではない。


  華音のまつげが震えた。志音は、その震えが止まるまで待った。待つ間、胸の奥で自分語りが暴れた。自分の世界の家族の話。自分が一人で抱えた夜の話。言えば似た痛みは分かち合える気がする。だが、今は華音の言葉の番だ。


  華音は薬湯を一口飲んだ。湯気が頬を濡らし、息が少しだけ長くなる。


  「……私、調律官だから、みんなの順番を整えなきゃって思ってました」

  言いながら、華音は笑おうとして、笑えなかった。

  「でも、今夜は……塔の前で、順番が分からなくなりました。昇一さんも、陽海さんも、ナツカさんも、愛恋さんも……私より痛そうで」


  女性が鼻を鳴らした。

  「だからって、あんたが先に崩れていいってことじゃないでしょ」

  言葉は強い。けれど、両手は毛布の端を握っている。引き剥がすためじゃない。落ちないように留めるためだ。


  華音は一度、目を閉じた。開けた時、志音を見た。志音は言葉を用意していなかった。用意していないから、嘘も混ざらない。


  「志音さん」

  華音が呼ぶ。名前を呼ぶ順番を、自分で取り戻す。

  「……助けて」


  たった三文字。なのに、門前の空気が一段、柔らかくなった。怒鳴り声の角が、ほんの少しだけ丸くなる。志音の胸の奥が、どん、と鳴った。


  志音は返事を急がなかった。急げば、優しさが刺さるからだ。まず、杯を華音の手に触れないように押し、飲める位置へ置く。次に、自分の掌を差し出した。


  「うん。……ぼくの札は、正直に書いた分だけしか光らない。だから、いまは言うよ。大丈夫じゃなくて、助けてって言ってくれて、ありがとう」


  華音の指が、志音の掌に乗った。指先は冷たい。けれど、離れない。


  その瞬間、志音のポケットの中で札が淡く光った。紙の端が、ふわりと温い風を吐く。志音は驚いて手を引こうとした。だが、引けない。華音の手が吸い付いたみたいに、ほどけない。


  「……え」

  志音が間の抜けた声を出すと、陽海が盾の陰で口元を歪めた。

  「おい。今、それ、門番の前でやるやつか」

  愛恋が真面目に言った。

  「ほどけないなら、ほどけない前提で動ける手順を考えましょう」

  ナツカは口元だけで笑った。

  「芝居なら、ここで拍手が起きるところね。……でも今夜は、拍手はあと」


  女性――華音の母と呼ばれた人は、志音と華音の手を見て、ため息をついた。ため息の中に、怒りと安堵が混ざっている。

  「……離れないなら、離れないまま行きなさい。帰ってきたら、鍋は温め直す。誰が何を言っても、あんたの席はある」


  男が深く頷いた。

  「門の中で、名を呼ぶ順番を忘れたら、ここでの言い方を思い出せ。……まず水。次に名。最後に、助けて」

  男は志音へ目を向けた。

  「書評師さん。娘の手を、頼みます」


  頼む。責任を押しつける言い方じゃない。分ける言い方だ。志音は喉の奥で頷き、言葉を短く選んだ。


  「はい。……離れないなら、離れないまま、守ります」


  共鳴塔の門が、低い音を立てて開き始めた。黄いろい光が、いままでより濃く流れ出す。志音と華音の手は、まだほどけないままだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ