第29話 華音の秘密、養い親たち
共鳴塔の門前は、夜更けのはずなのに昼みたいに明るかった。塔の結晶が吐く黄いろの光が、石畳の一枚一枚を濡れた飴みたいに照らし、列に並ぶ人の頬を薄く染める。息は白く、袖口の内側だけがじんわり温い。誰かが水を飲むたび、杯が小さく鳴った。
陽海は盾を横へ構えたまま、足裏で地面の硬さを確かめている。愛恋は配り終えた紙片の束を数え、足りない分だけ、爪の先でちぎった。ナツカは遠くの列へ目を配り、笑顔を作らずに、呼吸の速さだけを読んでいる。
昇一が門へ向かって歩き出した瞬間、華音は志音の袖を軽く掴んだ。言葉より先に、指が「今は離れないで」と言う。
「……入る前に、ひとつだけ」
華音はそう言って、口元に笑みを乗せた。いつも通りの丁寧さだ。けれど、その笑みの下で、喉が乾く音がした。
志音は「ぼくの世界ではね」と言いかけた。こういう時、例え話で空気を緩めたくなる。けれど、華音の指が袖を掴む力がほんの少し強くなり、志音は自分の舌を噛んだ。水筒を借りて、一口だけ飲む。自分の順番を守ってから、頷く。
「うん。言って」
華音が息を吸う。吸った息が、胸の奥で引っかかっているのが見えるようだった。
そこへ、列の外側から、鍋の蓋が鳴るような音がした。木箱が石畳に当たる、軽い衝撃。次に聞こえたのは、怒っているのに涙声みたいな女の声だった。
「華音! そんな所で、また――!」
人垣が割れた。湯気をまとった小さな包みを両腕で抱えた女性が走ってくる。髪は乱れているのに、襟元のボタンだけはきっちり留めている。後ろから、長い外套の男が追いかけてきた。男は手に毛布を二枚、肩に水筒を二つ掛けている。荷物の持ち方が、明らかに慣れている。
華音の指が、志音の袖から落ちた。落ちたのに、腕が動かない。
「……母さん」
華音の声が、少しだけ幼くなる。
女性は華音の前で止まると、まず華音の頬に触れようとして、途中で手を引っ込めた。触れたら、ここで崩れると分かっている動きだった。その代わり、包みを突き出す。
「熱い薬湯。飲んでから話しなさい。口の中が乾いてる声、嫌い」
言い切ってから、女性は自分の鼻をすすった。泣いたことを隠すために、怒鳴ったみたいに聞こえる。
男は一歩遅れて頭を下げた。志音たち全員へ、順番を守る礼だ。
「夜分に失礼。華音を育てた者です。……こちらの方々が、最近、娘を支えてくださっていると聞きました」
娘。血の匂いではなく、選んだ言葉だ。志音はその一語で、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
華音は薬湯を受け取り、両手で包むように持った。湯気が指先を温め、白い息と混ざる。ひと口飲もうとして、止まる。視線が共鳴塔の門へ滑った。今夜、入ると決めてきた場所だ。
女性が言った。
「塔へ入るって聞いて、家の鍋を火にかけたまま走ってきたのよ。……あんた、いつも“大丈夫”の言い方が上手すぎる」
華音の肩が小さく揺れた。上手すぎる。誉め言葉に見えるのに、刺さる。
男が毛布を広げ、華音の肩に掛けた。掛け方が静かだ。風が入らないように首元を折り、前で留める結び目を作る。終えてから、男は華音の手首へ視線を落とした。
華音の袖口から、薄い包帯が覗いていた。いつもの手袋で隠していたはずの白さが、灯りに浮いてしまう。調律札を何枚も扱った手の跡だ。志音は、自分が昨日見た華音の指先の赤みを思い出し、喉がきゅっとなる。
「……それ、また増えたな」
男の声は低い。怒鳴らない。けれど、結び目みたいに固い。
華音は包帯を隠すように袖を引いた。
「問題ありません。私は――」
言いかけて、言葉が止まった。止まった後の沈黙が長い。いつもなら、ここで志音が穴埋めの言葉を放ってしまう。
志音は唇を噛んだ。自分の話をしたい衝動が、喉の手前で暴れる。けれど、華音の視線が下を向き、そこから上がってくるまで待つべきだと、体が先に理解していた。志音は何も言わず、水差しの杯を一つだけ取り、華音の手元へそっと置いた。押しつけない距離。
愛恋が小さく頷いた。陽海は盾を下ろさず、背中を少しだけ広くした。ナツカは、列の外側へ人が寄らないよう、視線だけで押し返している。
華音は杯の縁に指を添え、けれど飲まなかった。代わりに、薬湯の包みを胸へ押し当てる。温度で自分を支えるみたいに。
「……私、ここで倒れたら、あなたたちが悪いって言われるのが嫌です」
華音の声は小さい。けれど、逃げない。
「私が拾われた日も、“面倒を見るなら責任を取れ”って言われました。……だから、迷惑をかけないように、上手に言おうとして」
女性が口を開きかけ、閉じた。怒鳴る代わりに、薬湯の包みを両手で包み直す。火傷しない位置へ持ち替えるのは、怒りの角を落とす手順だった。
男が言った。
「責任は、背負うためにあるんじゃない。……一緒に運ぶためにある」
言い終えた後、男は小さく咳払いをした。言葉に慣れていない咳払いだ。けれど、逃げる咳払いではない。
華音のまつげが震えた。志音は、その震えが止まるまで待った。待つ間、胸の奥で自分語りが暴れた。自分の世界の家族の話。自分が一人で抱えた夜の話。言えば似た痛みは分かち合える気がする。だが、今は華音の言葉の番だ。
華音は薬湯を一口飲んだ。湯気が頬を濡らし、息が少しだけ長くなる。
「……私、調律官だから、みんなの順番を整えなきゃって思ってました」
言いながら、華音は笑おうとして、笑えなかった。
「でも、今夜は……塔の前で、順番が分からなくなりました。昇一さんも、陽海さんも、ナツカさんも、愛恋さんも……私より痛そうで」
女性が鼻を鳴らした。
「だからって、あんたが先に崩れていいってことじゃないでしょ」
言葉は強い。けれど、両手は毛布の端を握っている。引き剥がすためじゃない。落ちないように留めるためだ。
華音は一度、目を閉じた。開けた時、志音を見た。志音は言葉を用意していなかった。用意していないから、嘘も混ざらない。
「志音さん」
華音が呼ぶ。名前を呼ぶ順番を、自分で取り戻す。
「……助けて」
たった三文字。なのに、門前の空気が一段、柔らかくなった。怒鳴り声の角が、ほんの少しだけ丸くなる。志音の胸の奥が、どん、と鳴った。
志音は返事を急がなかった。急げば、優しさが刺さるからだ。まず、杯を華音の手に触れないように押し、飲める位置へ置く。次に、自分の掌を差し出した。
「うん。……ぼくの札は、正直に書いた分だけしか光らない。だから、いまは言うよ。大丈夫じゃなくて、助けてって言ってくれて、ありがとう」
華音の指が、志音の掌に乗った。指先は冷たい。けれど、離れない。
その瞬間、志音のポケットの中で札が淡く光った。紙の端が、ふわりと温い風を吐く。志音は驚いて手を引こうとした。だが、引けない。華音の手が吸い付いたみたいに、ほどけない。
「……え」
志音が間の抜けた声を出すと、陽海が盾の陰で口元を歪めた。
「おい。今、それ、門番の前でやるやつか」
愛恋が真面目に言った。
「ほどけないなら、ほどけない前提で動ける手順を考えましょう」
ナツカは口元だけで笑った。
「芝居なら、ここで拍手が起きるところね。……でも今夜は、拍手はあと」
女性――華音の母と呼ばれた人は、志音と華音の手を見て、ため息をついた。ため息の中に、怒りと安堵が混ざっている。
「……離れないなら、離れないまま行きなさい。帰ってきたら、鍋は温め直す。誰が何を言っても、あんたの席はある」
男が深く頷いた。
「門の中で、名を呼ぶ順番を忘れたら、ここでの言い方を思い出せ。……まず水。次に名。最後に、助けて」
男は志音へ目を向けた。
「書評師さん。娘の手を、頼みます」
頼む。責任を押しつける言い方じゃない。分ける言い方だ。志音は喉の奥で頷き、言葉を短く選んだ。
「はい。……離れないなら、離れないまま、守ります」
共鳴塔の門が、低い音を立てて開き始めた。黄いろい光が、いままでより濃く流れ出す。志音と華音の手は、まだほどけないままだった。




