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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第28話 盾の指揮

 使者が去ると、夜の広場は一拍だけ静かになった。共鳴塔の鐘の余韻が、胸骨の裏に残っている。黄いろい灯りは相変わらず綺麗なのに、誰かが息を吸うたび、空気の端がささくれていく。


  鐘の余韻が残る間は、誰もが『正しいこと』を言いたくなる。正しい言葉は、時に刃の形になる。志音は唇の裏を噛み、言葉を飲み込んでから、周りの手元だけを見た。握った指、震える指、子どもの小さな掌――そこにしか、次の手順は生まれない。


  「集まってください、って……集まったら、揉める人も増えるよな」

  志音が言いかけて、舌を噛んだ。今は思いつきの感想より、動ける言葉だ。


  華音は舞台の脇に置かれた水差しを指で叩いた。合図のように軽く二回。ナツカがすぐに頷き、舞台の上へ上がる。外套の裾を片手で押さえ、もう片方の手を広場に向けて掲げた。


  「走る前に、水を一口。誰かの名前を呼んで、手をつなぐ。言いたいことは一つ。……それから、続き」


  昼の芝居の口上より短いのに、声は遠くまで届いた。観客が笑うような言い方ではない。けれど、押しつけの匂いもしない。志音は、その絶妙さに歯ぎしりしそうになり、鍋の湯気の代わりに自分の吐く息を白くした。


  広場の端で、子どもが転んだ。すぐ近くの母親が叫びかけ、叫びが喉で折れた。

  「……ルイ!」

  名前が先に出た。母親は子どもの腕を掴み、抱き上げる。子どもは泣きながらも、水差しの方を見て頷いた。


  陽海が盾を背に回し、広場の出口へ走った。走ると言っても、周りを押しのけない。肩をぶつけない幅だけ、道の真ん中へ立つ。声を張ると、いつもの柔らかい調子ではない。恐い声だ。

  「右へ! 塔へ行く者は、いまは左を空けろ! 子どもと荷車が先だ!」


  誰かが「命令するな」と言い返しかけた。だが、陽海の目の端に黄いろい筋が浮かんでいるのを見て、言葉が止まる。恐い声の下に、震えが混じっている。震えが混じっているのに、前へ出ている。


  志音は札を出すか迷った。指先の重みは、まだ許す。けれど、ここで長い文を書けば、自分が動けなくなる。

  短く。正直に。褒めすぎない。


  志音は掌の上で札を光らせ、四行だけ書いた。


  『その恐い声が、道を作ってる。

  盾が先に出るから、足が止まる。

  止まれた人は、次を選べる。

  ありがとう。』


  書き終えた瞬間、札の光が澄んだ黄いろへ戻った。志音はそれを陽海の盾の内側へ差し入れた。外から見えない位置。陽海の目だけが触れられる場所。


  陽海は一瞬だけ視線を落とした。次の瞬間、声の角が少し丸くなる。

  「……水、飲め。喉が熱いまま言うと、言葉が刺さる」


  志音は胸の奥で笑った。自分が言う前に、陽海が言った。怖いまま、優しい手順を口にできている。


  愛恋は広場の端に座り込み、紙片を切っていた。薄い紙に短い文を書き、渡しやすい大きさに揃える。言葉の包丁だ。

  「『急げ』の代わりに『落ちない速さで』。『黙れ』の代わりに『いまは聞きたい』。……この二つ、手の空いた方に配ってください」

  頭を下げるのは、配る前だ。頼む側の角を落としてから、選択肢を渡す。


  華音は広場の出口の椅子を二脚、音を立てないようにずらした。通り道を広げ、立ち止まって揉めそうな場所を、最初から消す。水差しを外へ運び、杯を二つ並べる。

  「一口ずつでいいです。飲んだら、隣の名前を呼んでください」

  言い終えると、短く二回、手を叩いた。誰かが杯を受け取るたび、その小さな拍手が増える。増える拍手は、急かす音じゃない。できたことを数える音だ。


  そのとき、商店街の方角から黄いろい風が吹きつけた。看板の星飾りが一斉に鳴り、紙片が舞う。遠くで陶器の割れる音。続けて、怒鳴り声。

  「俺の方が先だ!」

  「どけ! どけって言ってるだろ!」


  志音の喉が乾いた。ここで「落ち着け」と言えば、たぶん刺さる。刺さったら、黄いろが濃くなる。


  志音は水を一口飲んだ。次に、名前を探す。近くの男の胸元に、古い職人札がぶら下がっていた。

  「……ガルドさん」

  呼ぶと、男の目が志音へ向いた。目が向くと、怒りの矢が外れる。

  「いま、言いたいことは一つにして。どっちへ行きたい?」

  男は口を開き、怒鳴りかけ、唇を噛んだ。

  「……塔へ。扉が開くって、聞いた」

  「ありがとう、言ってくれて。いまは左の道を空ける。あなたはその列へ入って。……言い換え二つ。『先だ』じゃなくて『急いでる』。『どけ』じゃなくて『通りたい』」


  志音の言葉は綺麗じゃない。滑らかでもない。けれど、今夜はそれでいい。相手が動けるなら。


  陽海が盾を掲げ、商店街の入り口へ向かって歩き出した。歩幅は大きいのに、急がない。背中が道になる。

  「荷車は壁側。子どもは真ん中。転んだら、名前を呼ぶ。拾うのは俺がやる」


  言い切ってから、陽海は実際に拾った。泣き声の方向へ迷わず行き、小さな子を抱え上げる。子は泣きながら、両手で陽海の肩を掴んだ。陽海はその手の温度を確かめるように、一瞬だけ眉を寄せた。

  「……痛いか」

  子は首を横に振る。言葉より早い返事だ。

  「なら、背に乗れ。顔は隠していい」


  子どもを背負った陽海が戻ると、周りの足が揃った。恐い声が、恐いまま、守りの合図になっている。


  共鳴塔へ続く大通りは、いつもなら石畳の模様が綺麗に見える場所だ。今夜は、人の影が重なって模様が消える。灯りの黄いろが、顔の輪郭を柔らかくする代わりに、瞳の黄ばみを目立たせる。


  塔のふもとに近づくほど、空気が重くなる。札の紙がわずかに震え、志音の指先にも、薄い重みが戻りかける。志音は札を握りしめず、掌を開いたまま歩いた。いまここへ戻る形だ。


  門前の広場には、白い外套の者たちが列を作っていた。通す者と止める者。迷う者が出るたび、列が乱れそうになる。華音は列の横へ水差しを置き、椅子を半歩ずつずらした。列の“聞こえやすい距離”が、少しずつ整う。


  その時、列の向こうから、硬い靴音が近づいた。紙の束が擦れる音も混じる。志音の肩が自然に上がる。あの音は、取り締まりの紙の音だ。


  現れたのは昇一だった。白い外套ではない。監察官の黒い外套。胸元に欠けた宝石片。手には、規定の紙束。

  昇一は広場を見回し、まず水差しを見た。次に、陽海の盾の内側に差し込まれた札の光を、見ないふりをして見た。


  昇一は紙束を掲げた。いつもなら、ここで「違反だ」と言う。

  けれど今夜、昇一の口から出たのは別の文だった。


  「……俺も塔へ行く。扉が開くなら、そこで止める」

  言い終えてから、昇一は一瞬だけ息を詰めた。続けて言う言葉を、喉の奥で探している。


  志音は言い返したくなった。過去の苛立ちが喉元へ上がる。けれど、華音が水筒を昇一の前へ差し出した。黙って。短い一歩を先に置く。


  昇一は水筒を見つめ、拳の中の宝石片を握り直した。紙束がわずかに震える。震えるのに、逃げない。

  「……通してくれ。俺は、規定の紙より先に、今夜の都を守りたい」


  陽海が盾を少しだけ横へずらした。通る幅を作る。恐い顔のまま、短く言う。

  「名前」

  昇一は喉を鳴らし、答えた。

  「昇一だ」


  華音が小さく二回、手を叩いた。志音は胸の奥で、言葉の順番が変わる音を聞いた。



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