表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/40

第27話 言葉をやわらげる手順

 夜の黄晶都は、昼より静かなはずなのに、どこかがずっとざわついていた。石畳の隙間を冷たい風が走り、共鳴塔の方角から黄いろい光が薄く滲む。灯りは綺麗なのに、見上げるたび喉の奥が乾く。


  華音の家へ戻ると、六人の食卓の鍋はすでに火にかけられていた。湯気が立ち上がり、包丁の音はあるのに、誰も大声で話さない。いつもなら志音が「ここが異世界の家庭というものだ」と言い出して、陽海に肘で止められるところだ。だが今夜は、志音の舌が自分で自分を噛んでいた。


  陽海は椅子に腰を下ろすと、両手を膝に置いた。指先が震えないように、指と指を組む。さっきまで涙で濡れていた目元が、乾く代わりに赤くなっている。

  「……俺さ。あの通りを出たら、また同じ顔になりそうで」

  言い切る前に、陽海は水筒に手を伸ばし、ひと口だけ飲んだ。自分の順番で自分の喉を守る。志音は、それを見て胸の奥が少し温かくなった。


  愛恋は鍋のふたを開ける手を止めずに、机の端へ分厚い紙束をそっと置いた。羊皮紙に近いざらつきのある紙で、文字は細く、古い癖で傾いている。

  「……これ、今日、見つかった調律文です。共鳴塔がまだ無傷だった頃に、怒りの波を静めるために使われたらしいです」

  言い終わると、愛恋は先に頭を下げた。謝る時の癖だ。謝る必要はないのに、彼女はいつも、言葉の角を落としてから渡す。


  志音は紙束を覗き込み、思わず声に出して読もうとして、華音の水筒が目の前へ滑り込んだ。

  「飲んでから」

  短い一言。志音は水を飲んでから、紙面へ視線を戻した。


  古い調律文は、長かった。ひと息で読み切れる長さではない。言葉は美しいのに、硬い。礼儀が鎧になっている。

  志音は試しに一段落だけ、声に出してみた。すると途中で舌が絡み、最後は息が足りずに変なところで切れた。

  「……今の、切れ方、最悪ですね」

  「最悪、は少し強いです」

  愛恋が即座に言い換えを二つ出す。

  「『もったいない』か、『届きにくい』が近いです」


  志音は片方の眉を上げた。言い換えの速さが、今夜はありがたい。

  「じゃあ、届きにくい。うん。届きにくい、って言うと、まだ直せる気がします」


  華音が古い文を受け取り、今度は調律官の声の出し方で読んだ。呼吸を整え、音を落として、言葉の切れ目を探す。志音は、彼女の喉が動くたび、自分の胸が一拍遅れるのを感じて、慌てて鍋の湯気を見るふりをした。

  けれど、最後まで読み上げても、部屋の空気は変わらなかった。良くも悪くも動かない。硬い文は、硬いままそこに座った。


  「……意味が分かる人には効く。でも、いまの都には、意味が届く前に怒りが先に走る人が多い」

  華音はそう言って、紙束を机へ戻した。声が揺れていないのに、指先だけが少し冷えて見える。


  志音は指を一本立てた。いつもの“講釈の前触れ”だ。陽海が顔を上げ、無言で睨む。志音はその視線を受けて、指を二本に増やし、すぐ一本に戻した。言いたいことを減らした、という合図のつもりだった。

  「……手順にしませんか。意味を噛みしめる前に、体が先にやれる形に」


  愛恋が小さく頷き、紙と筆を寄せた。華音は椅子を少しだけずらし、志音の声が届きやすい距離を作る。自分も同じ距離に座る。揉め事の時だけじゃない。こういう時にも、華音は椅子を動かす。


  志音はまず、今日の商店街で効いたものを思い出した。怒鳴り返さず、命令せず、短い言葉で手を戻す。

  「一つ目。水を飲む。喉の熱を落とす。二つ目。相手の名前を呼ぶ。三つ目。言いたいことを一つだけ言う。四つ目。『ありがとう』を先に置けるなら置く。五つ目。言い換えを二つ出す」

  言いながら、志音は自分の札を出さなかった。札に頼ると、指先が重くなる。今夜は都中へ渡す言葉を作る夜だ。紙に固定してしまう前に、まず口で試す。


  愛恋がすぐに、五つ目の言い換えの例を並べた。

  「『やめて』の代わりに、『一度、止めて』。『返せ』の代わりに、『返してほしい』。『おまえのせいだ』の代わりに、『私は、いま苦しい』」

  語尾が丁寧なのに、遠回しじゃない。相手を殴らないまま、自分の足元を示す言い方だ。


  陽海が小さく息を吐いた。

  「……それなら、盾を持ったままでも言える」

  いつものように格好つけない声だった。志音は返事の代わりに、鍋の具を一つだけ皿へ取って陽海の前へ置いた。言葉より先に、温度を渡す。


  華音が、手順の文を短く整え始めた。調律の声に乗せるために、息が切れない長さへ。命令に聞こえない形へ。

  「『水を一口。名前を呼ぶ。言いたいことは一つ。ありがとうを置けたら置く。言い換えを二つ。……それから、続き』」

  最後の「続き」の置き方が、華音らしかった。終わらせない。続けられる場所を残す。


  志音は思わず笑いそうになり、口元を鍋の湯気で隠した。笑いの理由は、軽い冗談じゃない。手順が“暮らしの形”になりかけているのが、嬉しかった。


  その時、戸を叩く音がした。二回。迷いのない速さ。開ける前に、華音が水筒を持って立ち上がる。習慣が先に動く。

  入ってきたのはナツカだった。外套の裾に夜の冷気を連れて、目だけがやけに明るい。

  「今、広場で、怒鳴り声が増えてる。笑いで受け止めるには、材料が足りない」

  言い切ってから、机の上の紙束と筆を見た。視線が速い。見たものを、すぐ舞台に変える目だ。

  「……それ、私に貸して」


  志音は反射で「貸し出し条件は――」と言いかけ、陽海の視線で飲み込んだ。愛恋が先に答える。

  「条件は一つです。意味を削りすぎない。けれど、届く言葉にする」

  ナツカは口角だけ上げた。笑顔は派手なのに、答えは短い。

  「任せて」


  夜の広場は、昼より寒い。灯りが揺れるたび、影が大きくなって、誰かの怒りも大きく見えた。ナツカは舞台を組む前に、まず水差しを二つ置いた。ひとつは役者用、ひとつは観客用。華音の癖と同じだと志音は気づく。


  ナツカは芝居に入る前に、短い口上を言った。

  「言葉が刺さる夜は、刃を研ぐより、刃を布で包むほうが早い」

  志音は「比喩が強い」と言いかけ、愛恋に先回りで言い換えを渡された。

  「『包む』は良いです。『折る』も使えます」

  志音は黙って頷いた。今夜は口を挟まない。


  華音は舞台の端に立ち、手順の文を調律の声で読み上げた。長くしない。呼吸が途切れない長さで、ゆっくり落とす。

  「水を一口。名前を呼ぶ。言いたいことは一つ。ありがとうを置けたら置く。言い換えを二つ。……それから、続き」

  観客の中の誰かが、つい同じ調子で繰り返した。別の誰かも続いた。言葉が、合唱になりかける。


  ナツカはすぐに芝居を始めた。鍋を囲む二人が、席を譲る譲らないで言い合いになりかける話だ。観客は笑い、途中で息を呑む。怒鳴り声が出そうになる場面で、ナツカは手を止めた。

  「さあ、今」

  合図だけ。説明はしない。


  観客が水を飲み、隣の名を呼び、言いたいことを一つに縮める。言い換えが出ない者には、愛恋が紙片を渡す。陽海は舞台の下で、子どもが転ばないように人の流れを押さえながら、怖い顔のまま「水」とだけ言った。怖いまま言える言葉が増えている。


  志音は舞台を見上げ、胸の奥で札が光りたがるのを感じた。だが札を出さず、代わりに短い言葉を喉の外へ出した。

  「……届いてる」

  自分へ言ったのか、華音へ言ったのか、分からない声だった。


  芝居が終わるころ、広場の端で小さな揉め事が起きた。肩が当たった、足を踏んだ。いつもなら怒鳴り声が重なって、黄いろが濃くなる。

  だが今夜は、片方が水を飲んで言った。

  「踏んだ。痛い」

  もう片方が、名前を聞いて返した。

  「ごめん。今、急いでた。……ありがとう、言ってくれて」

  意味が逆だと志音は一瞬思った。だが、相手は怒鳴られずに済んだことへ、確かに礼を言っていた。言葉の順番が変わるだけで、憎しみの火がつかない。


  舞台の片付けを始めたところへ、遠くから鐘が鳴った。共鳴塔の鐘だ。夜半の合図にしては、音が高い。何かを告げる時の音だ。

  広場の入り口に、白い外套の使者が現れた。息を切らし、周りへ向けて短く言う。

  「共鳴塔の扉が、今夜だけ開きます。調律官と関係者は、夜半までに集まってください」


  ざわめきが走る。だが、さっきの合唱が残っているせいか、ざわめきは尖らなかった。人々が水差しへ手を伸ばし、名前を呼び合い、確認する。

  華音は志音の袖を掴んだ。強くはない。逃げないための指だ。

  「……行きましょう。今夜しか、入れないなら」

  志音は頷いた。口を開けば自分語りが出そうで、息をひとつ飲み込む。

  代わりに、掌を開いて見せた。陽海と同じ形に。いまここへ戻る合図だ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ