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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第26話 黄晶病、拡大

 広場を離れると、叫び声はすぐ背中の向こうに重なった。黄晶都の道は石畳がまっすぐで、音が逃げにくい。冬の冷気は澄んでいるのに、罵る言葉だけが粘って残る。


  志音は走りながら、自分の息が乱れていくのを感じた。息が乱れると、札の言葉も乱れる。華音が横で歩幅を揃え、手首の角度だけで「一度、吐く」と合図する。志音は頷き、口を閉じ、鼻から長く吐いた。

  吐き終えると、胸の奥に溜まっていた焦りが、薄い湯気みたいに抜けた。


  「商店街は、人が多い。声も多い。……志音さん、今日は“短く”です」


  華音が走りながら言った。息が乱れていない。言葉の順番を、自分の呼吸に合わせている。

  志音は「分かってます」と言いかけ、やめた。分かっている、と言うだけで、自分を守りたくなる。代わりに、親指を立てた。


  商店街へ近づくにつれ、鐘の音が細かく増えた。水場の方角からは、桶が倒れる音。宿屋の方角からは、戸を叩く音。木の看板が震え、星の形に切られた飾り紙が、風に煽られて舞い上がる。昨日は笑いに見えた星が、今日は目に刺さる白さだった。


  角を曲がる手前、焼き菓子の屋台がまだ営業していた。星形の薄いクッキーが、籠に山盛りになっている。客は少ない。少ないからこそ、屋台の女主人の声が、妙に耳に残った。

  「今日は、甘くしないほうが売れるのかねえ。怒ってる口には、甘いのが嫌われる」


  志音は条件反射で、札を出したくなった。『甘いのは敵じゃない』と書けば、客足が戻るかもしれない。だが、その瞬間、愛恋が志音の前に半歩だけ出て、丁寧に頭を下げた。

  「『嫌われる』ではなく、『避けられがち』。……それなら、女主人さんの心も守れます」

  志音は喉の奥で「ですよね」と飲み込み、財布を探った。代わりに、星形を一枚だけ買う。買ったという事実が、ここでの“短い応援”になる。


  陽海がそれを見て、口を開いた。

  「……俺、後で、ここの人にもお礼言う。止めるの、うまくいったら」


  “うまくいったら”という条件が、陽海らしかった。前へ出るのに、最後の一歩だけは慎重だ。志音は頷き、星形の菓子を割って、欠片を口に入れた。甘さが舌に広がり、少しだけ歯の力が抜ける。


  そして次の角で、肉屋の前に人だかりができていた。

  台の上には塩の袋。床には、こぼれた白い粉が広がり、靴底で引きずられて細い線になっている。線の先に、怒鳴る男がいた。顔は赤いのに、目の白い部分だけが黄ばんでいる。


  「おまえが値段を上げたんだろ! うちの子に食わせる肉が減った!」


  反対側で、肉屋の女主人が包丁を持ったまま固まっていた。包丁を振り上げないために、柄を握る指に力を込めすぎて、関節が白い。

  「上げてない。仕入れが……って言ったじゃない。聞いてないのは、そっちだよ」


  「聞いた! 聞いたけど、言い訳だ!」


  言葉が重なるたび、周囲の息が浅くなっていく。誰かが肩をぶつけられ、ぶつけた方が「わざとだ」と言い、言われた方が「おまえが邪魔だ」と返す。広場で起きた輪が、ここでもでき始めていた。

  塩の白さが、星の飾り紙より刺さる。踏んだら滑る。滑ったら、さらに責める。小さな危険が、憎しみの燃料になっていく。


  陽海が前へ出た。盾はない。代わりに、分厚い手袋の掌を見せる。石を掴む手にしないための装備だ。

  「……包丁、置こう。置いてから、話そう。塩も、いま踏むと滑る」


  女主人の目が揺れた。「置く」と「滑る」の単語が、身体の危険へ直結するせいか、怒りの波が一瞬だけずれた。

  けれど、怒鳴っていた男の肩が跳ね、陽海を睨んだ。


  「おまえ、店の回し者か? いい顔しやがって!」


  その言葉が落ちた瞬間、陽海の腕に浮かんでいた黄いろい筋が、濃くなった。袖の隙間から見える皮膚の上を、細い光の線が走るみたいに、すっと伸びる。

  陽海の指が震えた。開いた掌が、ゆっくり握りこまれていく。自分で止めようとしているのに、止まらない。


  志音の胃がひやりとした。陽海はいつも、譲る人だ。譲った分を、笑って飲み込む人だ。だからこそ、溜めたものが溢れた時、本人が一番驚く。

  陽海の喉が鳴った。声が出る前に、歯の根がカチ、と当たる。


  「……回し者って、何だよ」


  陽海の声が、いつもより低かった。否定の言葉なのに、刃が混じる。志音は背筋が凍り、すぐに理解した。陽海が怒っているのではない。怒りに“使われそう”になっている。


  華音が一歩近づいた。調律札を出す手順に入ろうとしたのだと分かった。だが、この距離で調律の声を張れば、群衆の耳に「命令」に聞こえかねない。

  愛恋が志音の袖を軽く引き、紙片を一枚だけ見せた。そこには短く、『先に水』と書いてある。

  志音は水筒へ手を伸ばしかけ、やめた。陽海の手は今、握りこまれかけている。水を渡す動作が、相手には「押さえつけ」に見えるかもしれない。


  志音は札を出そうとして、ぐっと堪えた。今ここで「やめろ」と叫べば、刃になる。理屈を並べれば、火に油だ。なら――陽海の中に、別の言葉を置く。


  志音は胸のポケットから、まっさらなレビュー札を一枚引き抜いた。指先が冷えていて、紙が少しだけ鳴る。志音はその音を小さくするため、札を掌で温めるように挟んだ。

  掌の中で、昨日の鍋の湯気が一瞬だけよみがえった。言葉は、増やすと割れる。けれど、減らしすぎても冷える。いま要るのは、温度だけ。


  「……陽海」


  呼びかけは短く。自分の声だけを聞かせる距離で。陽海は振り向かなかったが、肩の震えが一拍だけ遅れた。


  志音は、書いた。長くしない。飾らない。嘘を混ぜない。

  『いま、商店街で、

  あなたが間に立ってくれて助かった。

  ありがとう。』


  たったそれだけ。志音は自分の癖――説明したがりを、歯で噛んだ。代わりに、札を陽海の手袋の甲へ、そっと当てた。貼るというより、触れて渡す。陽海が拒まないように。


  札が淡く光った。黄晶都の昼の黄いろと混ざらない、薄い白の光だ。

  陽海の指が止まった。握りこまれかけた拳が、開ききらないまま、力だけが抜ける。

  次の瞬間、陽海の息が「ふうっ」と大きく漏れた。震えが、肩から落ちた。


  落ちた代わりに、陽海の目から涙が出た。

  本人も驚いたのか、瞬きを早くして、手の甲で拭おうとする。だが、拭う手が震えない。さっきまでの震えとは違う、ただの濡れた息の揺れだ。


  「……俺、さ。止めたいのに、声が出ると、誰かを傷つけそうで……」

  言い切って、陽海は歯を食いしばった。泣き顔を見せないためじゃない。泣き声が、また誰かの怒りを呼ぶのが怖いのだ。


  華音が水筒を差し出した。コップではない。手が塞がらないように、小さな口のもの。

  陽海は受け取り、ひと口だけ飲んだ。喉が動き、黄いろい筋が、ほんの少しだけ薄く見えた。


  志音は、笑いに逃げたくなった。泣いてる友に「泣くな」と言うのは、刃だ。だから、別の逃げ道を作る。

  「……泣き顔、評論しません。今は、目を拭く紙だけ出します」


  愛恋が、すぐに布を差し出した。言葉を足さない。布の柔らかさだけで「大丈夫」を渡す。

  陽海は布を受け取り、鼻をすすって、口の端を引っ張るように笑った。

  その笑いが、さっき買った星形の菓子みたいに、欠けても甘い。


  その瞬間、肉屋の女主人の肩が少し下がった。包丁を握る指が緩み、台の上へ、刃を下にして置く。

  怒鳴っていた男も、口を開いたまま止まり、目の黄ばみが一段だけ薄くなった。

  女主人が小さく呟いた。

  「……間に入ってくれて、助かったよ」

  声は陽海へ向けたものなのに、言った自分も救われたように、肩が軽く見えた。


  華音が低い声で、周囲へ手順を落とした。広場での合図より小さく、商店街の物音に溶ける程度。

  「包丁を置く。塩の上から一歩下がる。水を飲む。……短く、言いたいことを言う」


  志音は陽海の横に立ち、もう一枚札を出すか迷った。指先の重みは、まだ大丈夫だ。だが、ここで札を増やしすぎれば、次の通りへ行けなくなる。

  志音は札をしまい、代わりに自分の手を開いた。陽海の手袋のすぐ隣で、同じ形に。


  「……一つずつ。まず、ここ」


  その時、商店街の奥で、また別の叫びが跳ねた。

  「返せ! あれは俺のだ!」

  黄いろい風が、看板の星飾りを揺らし、白い紙片が舞い上がった。


  志音は陽海の涙の跡を見て、胸の奥で決めた。

  憎しみを止める言葉は、叱る言葉じゃない。誰かの手を、いまここへ戻す言葉だ。



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