第25話 取り締まりが火をつける
翌朝の黄晶都は、昨夜の灯りをまだ石畳に残していた。星の形に折られた紙片が、路地の角で靴に踏まれ、白い折り目だけが汚れを弾いて光る。
志音は早起きの癖がない。けれど今朝は、目が覚めた。共鳴塔の亀裂が走った瞬間の低い音が、耳の奥に残ったままだ。
台所へ行くと、華音がもう水を並べていた。六つのコップ。高さが揃っている。揃っているのに、誰の席かが分かる置き方だ。志音は黙って自分のコップを手に取り、ひと口だけ飲んだ。
「……昨夜、帰り道の空気、変でした」
華音は頷いた。返事より先に、机の角に布を置く。椅子を引く音が大きくならないように、足元へ小さな木片を噛ませた。
陽海は外へ行く支度をしながら、盾ではなく厚手の手袋を持ち、掌を開いては閉じていた。愛恋は短い紙を二枚、懐へ入れる。『先に飲む』と『一度置く』。言い換えの札ではなく、口が荒れた時に自分へ見せるための紙だ。
ナツカは外套を羽織り、髪を耳へかけた。昨夜の舞台の板が、まだ袖口に木屑を残している。昇一は規定の紙束を抱え、指で端を揃える。その指先が、紙をなでるたび、石のように硬くなる手前で止まっている。
「広場へ行きましょう。今のうちに、昨夜の札を……」
華音が言い終える前に、遠くで笛が鳴った。短い二音。続けて、板を叩く乾いた音。公示の合図だ。
志音は胸が冷たくなった。昨夜、抱き合った人の手が、あれを聞いた瞬間に離れるのが想像できた。
広場へ着くと、すでに人だかりができていた。昨夜の読書の札が貼られていた掲示板の前。紙が幾重にも重なり、風で端がふるふる震えている。
その前に、昇一が立っていた。家を出た時と同じ外套なのに、肩が濡れている。夜明けに雨が降ったのか、眠れず歩き回ったのか、どちらにしても、袖口が冷たい色をしていた。
昇一は板を掲げ、規定の文を読み上げた。声は低い。けれど昨夜の鍋の前で聞いた声と違い、音が硬い。
「本日より、無許可の読書集会を禁ずる。レビュー札の掲示は、監察の許可を要する。違反札は、今ここで剥離する」
ナツカが一歩前へ出た。舞台へ上がる時の歩幅と同じだ。だが、今は笑いを誘う足音ではない。
「昨夜のは、読み合っただけ。誰も煽ってない。泣いた人は泣いて、笑った人は笑って、帰った。それだけ」
昇一はナツカを見ずに、札の群れを見た。紙の端が風で揺れるのを、まるで毒のように避ける目つきで。
「結晶に亀裂が入った。今は、言葉を増やす時ではない」
志音は口を開きかけた。「それ、逆じゃないですか」と言いそうになって、喉の奥で噛んだ。逆だと決めつける言い方は、刃になる。
代わりに、志音は短く聞いた。
「……剥がす理由を、短く言ってください。誰かを責めない形で」
昇一の眉が、ほんの少しだけ動いた。すぐに戻る。戻った眉は規定の紙と同じ角度だ。
「濁りが広がる。濁りは刃になる。刃を置くために、札を減らす」
愛恋が二歩だけ横へ出て、志音の横に並んだ。声を張らずに、選択肢を置く。
「『禁ずる』ではなく、『今日は控える』。『剥離』ではなく、『一旦しまう』。それなら……受け取りやすいです」
昇一は返事をしなかった。返事の代わりに手を上げる。合図だ。
監察の部下たちが動き、掲示板へ手を伸ばした。紙を剥がす指が、乱暴ではない。けれど速い。速さはそれ自体が圧になる。
ぺり、ぺり、と音がした。昨夜、誰かの胸を温めた文が、空気へ剥がされていく。
志音の腹の底がむずむずした。書評師として、剥がされる言葉に反射で言いたくなる。「それは違う」「それは誰かの灯りだ」。でも、今その言葉を投げれば、石になる。
紙が束になり、風にあおられた。
ふわり、と白い群れが舞い上がり、広場の上で散った。星の紙片まで一緒に跳ねた。落ちてきた紙が、誰かの顔にぺたりと張りつく。
「うわっ、目に入る!」
叫び声に、周囲が笑いそうになった。だが、笑いの先が歪んだ。
紙を払った男が、肩をいからせて隣を睨んだ。
「今、わざとやっただろ」
隣の女が、息を詰めた。目の白い部分に薄い黄ばみが浮く。
「やってない。あんたが邪魔なんだよ」
言葉が落ちた瞬間、空気の温度が下がった。昨夜の柔らかい拍手が、今は爪の音に変わる。
別の場所でも、同じ調子の声が上がる。
「剥がすからだ!」
「規定がどうとか、知らねぇ!」
「昨日の札、返せ!」
誰かが石を拾った。小石だ。握れる大きさ。投げれば当たる距離。
陽海が半歩前へ出た。盾はない。けれど、身体が先に動いた。掌を開き、石を持つ手の前へ、そっと出す。掴まない。押さえない。ただ、そこにある。
「……置こう。置いてから、言おう」
石を持つ男の指が震えた。黄ばみが濃くなる。手が、開かない。
志音の胸が痛んだ。怒りがあるのに、怒りで止めると増える。なら、別の燃料が要る。
志音は札を出した。昨日みたいに長くしない。三行で止める。指先が重くならない長さ。
『石を投げたい手は、誰かに触れてほしい手だ。
今は、投げる前に水を一口。
飲んだら、声を下げて名前を呼ぶ。』
書き終えた札が、淡く光った。光が男の手元へ落ちる。石が、少しだけ下がる。
だが、別の方向で、乾いた音がした。誰かが投げたのだ。石が掲示板の板へ当たり、木が割れる音が広場に跳ねた。
その音が合図みたいに、黄ばみが広がった。
志音は、叫びたくなった。責める言葉で「やめろ」と言えば、一番簡単だ。けれど、その簡単さが刃だと知ってしまった。
だから、志音は喉を震わせながら、別の言い方を探して、短く吐いた。
「責める声、いったん置いて! いま、ここで増やさない!」
声は大きいのに、相手を名指ししない。命令の形を減らす。志音の足が震え、指先が重くなりかける。
華音が、志音の背中へそっと手を当てた。押さえつけない。支えるだけ。指が温かい。
華音は前へ出た。水差しを掲げない。コップを一つずつ配る。距離を作り、椅子をずらし、聞こえる場所を作る。
調律札が手のひらに浮かんだ。華音は深く息を吸い、短い手順だけを声に乗せた。
「いまは、石を置く。
つぎに、水を飲む。
そのあと、言いたい言葉を“短く”言う。
……短く言えない人は、私が聞きます」
“短く”の部分で、華音は一度だけ拍手した。昨夜と同じ、小さな音。音が合図になり、何人かが呼吸を合わせた。
石を持っていた男が、地面へ石を落とした。落ちた石がころりと転がり、誰かの靴先へ当たる。今度は、怒鳴り声が出ない。靴先が少し避けるだけだ。
ナツカが、舞台の板を踏んだ。板が鳴る。昨日は笑いのための鳴り方だった。今日は、止めるための鳴り方だ。
「聞いて。いま、この広場の話だけにして。家の皿の音の話は、あとで私が舞台で受ける。だから、ここでは石を持たないで」
志音は、その言い方に救われた。怒りの出口を奪わない。出口の場所だけを移す。
昇一の指が、板の端を掴んだ。掴んだ指が震え、胸元へ戻る。欠けた宝石片を握りしめる癖が、出た。昇一はそれを隠すように外套の前を合わせ、声を落とした。
「……退け。ここは、広場だけではない」
昇一が見た先で、別の通りから叫び声が上がった。さらに遠くでも。鐘が鳴る。商店街の方角。水場の方角。宿屋の方角。
黄晶都のあちこちで、同時に喧嘩の声が立ち上がり、広場の空気がまた震えた。
陽海が顔を上げ、志音を見る。盾を取りに走りたい足が、今ここで止まっている。
華音はコップを握り、視線だけで「行ける」と伝えた。
愛恋が紙を一枚、志音の掌へ滑らせる。『一つずつ』。
志音は頷き、息を整えた。
「……一つずつ、止めに行こう」
共鳴塔の亀裂から漏れる黄いろが、昼の空でも消えずに薄く残っていた。




