第22話 食卓が割れる
夜、黄晶都へ戻る荷車が石畳へ乗ったころ、空の端は墨を流したみたいに暗くなっていた。門の火が揺れ、衛兵の合図笛が短く鳴る。志音は荷台から降り、指先を握ったり開いたりして確かめた。昼の坑口の冷たさが、まだ皮膚の下に残っている。
華音の家は、都の南側、細い路地を二つ曲がったところにある。壁の黄いろい石は夜でも薄く光り、玄関の前に置かれた水桶がその光を受けて、月明かりみたいに淡く揺れた。華音は鍵を回す前に、いつもの癖で桶の水面を指で軽く叩き、波を一度だけ整えてから扉を開けた。
中は、鍋の匂いが待っていた。愛恋が台所で包丁を動かしている。切った野菜の端を揃え、まな板の上を拭き、切り口の小さな欠片まで器へ集める。志音が覗き込むと、愛恋は包丁を置き、志音へ小鉢を差し出した。
「味見を。……先に飲んでから」
志音は水をひと口飲み、小鉢の汁をすすった。熱い塩気が舌に広がる。胸の奥に、昼の金属みたいな味が少しだけ引いた。
愛恋の横には、型抜きの木枠が二つ置かれていた。ひとつは丸、もうひとつは星の形。人参を薄く切り、星に抜いて、鍋の具を小皿へ並べていく。志音が「ここで星を出すの、ずるくない?」と笑うと、愛恋は言葉で返さず、星の人参を一枚だけ志音の小鉢へ滑らせた。
「口の中が尖っているときほど、噛む回数が増えます。……噛むと、息が戻ります」
志音は星形の人参を噛み、思わず眉を上げた。甘い。甘さが、さっきの胸の硬さを少しだけほどく。
居間の卓では、陽海が火鉢の炭をいじっていた。鉄の箸で炭をずらし、火が大きくならない角度を探している。盾の紐を外して床に置いたまま、何度も同じ動きを繰り返した。
「炭、そんなに睨まなくても燃えるよ」
志音が言うと、陽海は返事の代わりに、火鉢の縁に手をかざして温度を確かめ、うなずいた。言葉より先に、手が動く。
そこへ、玄関の風がもう一度入った。外套の裾が床を撫で、紙の束が鳴る。昇一だ。監察官の外套を脱がず、規定紙を抱えたまま、卓の端に立った。
「今夜の集まりは、都の規定から外れる。……食卓でも、札を見せ合うのは禁止だ」
言い終える前に、赤い外套が反対側の椅子へ滑り込んだ。ナツカが、まるで舞台に登るみたいに手を広げる。
「じゃあ、札は見せない。声で読む。声なら、壁に貼られないでしょ?」
昇一の指が、規定紙の角を強く押した。紙が少しだけ折れ、折れ目が黄いろく光った。
華音は二人の間に入らず、まず卓の周りの椅子を二つだけ動かした。声の大きい方が、少し遠い位置になるように。次に、水差しを三つ並べ、コップを六つ置く。置く順番はいつも同じだ。
「話す前に、水です。……鍋が沸くまで」
昇一はコップを見た。いったん唇を結び、黙って水を飲んだ。ナツカも飲んだ。陽海も飲んだ。愛恋は飲んでから、ふたを閉める音まで小さくした。
鍋はまだ卓にない。火鉢の上で、湯がぽつぽつと音を立てている。志音は、その音を聞きながら、家の空気が割れそうだと気づいた。血のつながりがないからこそ、扉までの距離が短い。立って外套を取れば、すぐ逃げられる。
志音は自分の掌を見た。札は、まだ冷たい。冷たいままなら、書ける。熱くなると、言葉が膨らみすぎる。
「……昇一さん。『禁止だ』って言い方だと、鍋が先に焦げます」
言った途端、志音はしまったと思った。余計な比喩が混じった。昇一の眉が動く。だが、怒鳴らない。代わりに、規定紙の束を卓へ置き、指で一枚を叩いた。
「比喩で逃げるな。都は揺れている。共鳴塔のヒビが進めば、憎む声が増える。……昨日の評議の外で、石が飛んだ」
陽海の肩が跳ね、炭をつまむ箸が止まった。ナツカは笑いかけようとして、笑いを引っ込めた。
「石が飛ぶ前に、泣ける場所を作るのが先よ」
ナツカが言う。だが言い終える前に、昇一が被せた。
「泣く場所の名目で、群衆を集めるな。集めれば、黄ばみは広がる」
「集めなければ、家の中で割れる」
ナツカの声が少しだけ硬くなる。志音はその硬さに、昼の坑口の息を思い出した。息を止めると、言葉が尖る。
志音は、昼に聞いた古老の声を思い出していた。祠の前で、結晶へ向かって「泣きたいのか」と落とした声。問いかけなのに、命令でも祈りでもなくて、ただ“相手が出すまで待つ”音だった。
あの声を都へ持ち帰れたら、と志音は思った。だが今、この家の空気は、先に割れそうだ。笑ってごまかす癖が口へ出かけて、志音は上唇を噛んで引っ込めた。
昇一は規定紙を一枚開き、指で条文を追った。ナツカはその指先を見て、視線を外してから、椅子へ深く腰を沈めた。
「私が悪いって言えば終わる? 終わったら、外で語る。家の中で黙るの、続かないの」
昇一の椅子がきしんだ。立ち上がったのだ。外套の紐へ手が伸びる。陽海も反射で立ちかけ、盾の紐を掴んだ。
華音が「座って」と言わない代わりに、昇一の手元へコップを差し出した。視線は上げない。手だけで、順番を戻す。
それでも昇一は、いったん扉の方へ半歩動いた。半歩で空気が裂け、他の四人の呼吸が同時に短くなる。血がつながっていないから、別れる理由が作りやすい。
愛恋が包丁を置き、二人へ向かって、指を二本立てた。
「言い換えを、二つ。『集めるな』ではなく、『散らして聞こう』。『名目』ではなく、『理由を短く』」
提案は静かだが、刃がない。志音は胸の奥で、ほっと息を吐いた。
華音は鍋を運んできた。具はまだ入っていない。空の鍋が卓の真ん中に置かれるだけで、六人の視線が一度だけ揃う。揃うと、次にずれる。ずれた視線の先は、どれも同じ場所――扉だ。
志音は、その視線の動きに焦った。ここで誰かが立てば、連鎖する。立つ理由を、誰かが正しくて誰かが間違いだと決めた瞬間、都の外と同じになる。
志音の脳裏に、地球の台所がちらりと映った。鍋のふたが鳴り、誰かが「火、強い」と言い、別の誰かが「大丈夫」と返す。喧嘩しても、同じ匂いの中へ戻る場所があった。
ここには、まだ“戻る”の形が弱い。だから形を作らないといけない。言葉で。湯で。椅子の足音で。
志音は札を取り出し、短い文を探した。勝ち負けの言葉を使わず、責めも褒め殺しも入れず、今夜の手順だけを書く。掌の上で、指先が重くならない長さ。
『今夜の結論は、勝ち負けではない。湯が沸くまで同じ鍋を見る。沸いたら、同じ鍋を食べる。』
書き終えた札は、淡く光った。光は柔らかい。卓の上の空気が、ほんの少しだけ丸くなる。昇一の指が規定紙を押さえる力が抜け、紙が音を立てずに戻った。
志音は札を、鍋の縁にそっと置いた。貼らない。見せつけない。置くだけ。
「まず、同じ鍋を食べよう」
志音が言うと、陽海が炭を押し込み、火がぱち、と鳴った。愛恋が具を器へ並べ、野菜の白と緑が卓に増える。華音は小さく拍手を一度だけ鳴らした。ナツカはその拍手に合わせて、椅子の脚をきゅっと揃える。昇一は黙って外套を脱ぎ、椅子へ掛けた。
六人が座った。座る音が、床を通って一つに重なる。鍋の湯は、まだ沸ききっていない。だが、その瞬間だけ、部屋の光が変わった。
志音は、向かいの華音の目を見て息を止めた。華音の瞳の縁が、ほんの一瞬、黄いろく曇った。隣の陽海も、愛恋も、ナツカも、昇一も――同じ瞬きの間だけ、目の白い部分が薄く黄ばんだ。
次の瞬間、黄ばみは消えた。けれど、消えたはずの色が、志音の舌の奥に残った。金属の味。昼の坑口の冷たい息。
志音は札を押さえた。指先が、ほんの少しだけ重くなる。
「……今の、見えました?」
華音は答える前に、コップへ水を注いだ。六つのコップが同じ高さまで満ちる。水面が揺れ、揺れが止まる。止まった水面に、六人の瞳が映った。
「見えました。……だから、今夜は、逃げないで飲みましょう」




