第20話 裁きの席と水差し
鉄の扉が開いたのは、朝の鐘が二つ目を鳴らした直後だった。
牢の冷えた匂いに慣れかけた鼻が、廊下の蝋の匂いで逆にむず痒くなる。志音は立ち上がり、指先を握って確かめた。札を持たない掌は軽い。軽いのに、昨日の一文が胸の裏でまだ重い。
「歩け」
監察庁の靴音が、石床を一定の間隔で叩く。志音はその間隔に合わせて息を数えた。余計な説明を頭で組み立て始めると、声が先に転ぶ。――短く、順番に。華音の水差しみたいに。
評議の間は、暖炉があるのに寒かった。石の壁に、責める言葉が染みついているような冷たさだ。長机がコの字に置かれ、中央には空白。空白の真ん中に、水差しが三つ並んでいた。陶器の白が、場の緊張を余計に浮かび上がらせる。
昇一はすでに席にいた。背筋はまっすぐで、机に手を置かない。置くと、怒りが机へ移るのを知っている動きだ。目の白い部分は、昨夜より少し戻っているように見える。戻っているのに、奥が硬い。
志音の向かい側に、黒いローブの評議員が三人。顔を隠しているわけではないが、表情が読みにくい。言葉の役所の人間は、表情を出さない訓練をしているのだろう。
「被告、志音。違反の内容を読み上げる」
昇一が紙束を広げる。紙の角が揃っているのに、音だけが乱れていた。紙は息を吸って吐くみたいに、かすかに震える。
「第一、許可のない集会の主導。第二、札の乱用の疑い。第三、監察官への断罪文による黄ばみの誘発。第四——」
「待ってください」
志音は思わず声を上げ、すぐに口を閉じた。評議員の一人が眉を上げる。昇一の唇がわずかに歪んだ。志音は息を吸い直し、声を落とす。
「……順番を、ください。一項目ずつ、答えます」
評議員が視線を交わし、頷いた。昇一が紙束の一枚目を指で押さえる。
「第一。許可のない集会だ」
志音は机の上を見た。札はない。代わりに、心の中に、昨日の牢の壁の文字がある。『TOKYO』。矢印。黄いろい石の形。あれをここで叫べば、場は沸く。沸けば、黄ばむ。だから、今は胸の奥へ戻した。
「提出しました。昼に。返答待ちで、開始の前に“読むだけ”と宣言しました。観客には、指ささない、一文だけ、と」
言い終えた瞬間、いつもの癖で「地球では——」が喉の先まで来た。志音は水を探し、見つけてしまう。水差しは中央。距離がある。届かないなら、呼吸で代用するしかない。
昇一が冷たく言った。
「返答が来るまで待てばよかった」
「……待てない夜が、増えています」
志音は事実だけを置いた。喧嘩の回数、連行の人数、黄ばみの目。数字を言うと札みたいに冷たくなるので、言い方を変える。
「昨日の広場は、殴り合いの一歩手前が三つありました。読むだけの輪で、殴り合いにならなかった。……それだけは、見てほしい」
評議員の一人が「第二」と言い、昇一が続けた。
「札の乱用だ。札を大量に貼れば、都の結晶が——」
「貼っていません」
志音は首を振った。胸の奥が痛い。自分が“貼る側”で偉くなる妄想を、昨日まで一度もしていないとは言い切れない。
「短い札を、少数だけ。店の入口、柱の案内、家の台所。……指が重くなる前に止めました。止め方は、華音が見ています」
扉が開き、華音が入ってきた。手には水差し。いや、今日は水筒と、紙コップを抱えている。陽海と愛恋、ナツカも後ろに続く。陽海は盾を抱えたまま、音を立てない歩き方をしていた。愛恋は目礼をし、ナツカは笑顔を作りかけて、やめる。
華音は評議員たちへ、黙って紙コップを配り始めた。志音の前にも置き、最後に昇一の前に置く。置き方が同じだ。差をつけない置き方は、ここでは一番強い。
「発言の前に、一口お願いします」
評議員の一人が「なぜ」と問う前に、華音は視線を上げず、淡々と続けた。
「声が大きい人ほど、喉が乾きます。乾いた喉は、尖った言葉を選びやすいです」
志音は笑いそうになり、堪えた。理屈が妙に生活感に寄っているせいで、場の角が少しだけ丸くなる。評議員の一人が渋い顔のまま、水を飲んだ。飲む音が、合図みたいに連鎖する。
昇一も、遅れて飲んだ。喉仏が上下し、目の黄いろが一瞬だけ薄まった。
「第三。断罪文だ」
昇一の声が少しだけ低くなった。怒りを押し込めた声だ。志音の胸が縮む。あの札の縁の濁りを思い出す。自分の胸が軽くなった軽さ。甘い軽さ。
志音は立ち上がりかけ、やめた。立つと、言葉が戦いになる。座ったまま、両手を膝の上に置く。掌を見せる形は、武器を持っていないという合図になる。
「書きました。……書いてはいけない書き方で」
室内が静かになった。評議員の誰かがペンを止める音がした。
「理由を伏せるのは怒りを呼ぶ、と。監察官を、物語の悪役にした。……ぼくの癖です。人の癖を“読み解く”つもりで、相手の胸を刺しました」
志音は言い訳を飲み込み、代わりに頭を下げた。深く下げすぎると、昇一の怒りに“勝った気分”が混じる気がして、額が机に付く手前で止める。
「取り消します。札は没収されました。だから、ここでは札ではなく、口で言います。……昇一さんは、危ない夜を知っていた。だから止めた。止め方が硬かったのは、硬くならないと自分が折れるからだと、今は思います」
昇一の指が、紙束の端を掴んだ。爪の白が見える。怒りか、耐える力か、どちらか分からない。
華音が、中央の空白へ水差しを一つ置いた。コップを配るだけでなく、場の真ん中に“息の逃げ道”を作る仕草だ。
「話す順番を、変えます」
華音は評議員たちの席を見回し、いちばん声の大きい評議員の前に、そっと水差しを寄せた。
「今からは、声の大きい方から先に話してください。途中で割り込まないでください。割り込みたくなったら、水を飲んでください」
理屈は単純で、妙に可笑しい。だが、評議員たちは反論しなかった。反論した瞬間、自分が“声の大きい人”だと認めることになるからだ。
いちばん声の大きい評議員が、咳払いを一つして言った。
「……被告の言い分は分かった。では、監察官。都の結晶のヒビと、被告の札の因果を、具体に」
昇一は口を開き、閉じた。言葉が出る前に、水を飲んだ。志音はその一口を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。あの人も、完全な悪役ではない。
「因果は、断定できない。だが、濁った札は黄ばみを呼ぶ。黄ばみが増えれば、ヒビは進む」
「なら、断罪の札は禁じる。だが、短い感謝の札は——」
議論が回り始めた。回り始めると、場の空気が“固まる”のではなく、“動く”。動けば、憎しみの一点に集まりにくい。志音は初めて、評議の間が生き物みたいに呼吸するのを感じた。
その時、外から、窓ガラスが鳴った。
遠い怒鳴り声。叫び声。石が落ちる乾いた音。誰かが「悪いのは——」と続け、言葉の尻が、複数の声でかき消される。
評議員たちが立ち上がりかける。昇一も顔を上げ、目の黄いろが揺れた。華音はすぐに水差しを抱え、唇を結ぶ。志音は胸の奥で、『TOKYO』の矢印を思い出した。
共鳴塔の方角から、昨日より近い揺れが来た。床が、ほんのわずかに震える。暖炉の火が、黄いろく跳ねる。
評議の間の空白が、急に広く見えた。
「……外が先です」
華音が低く言った。声は小さいのに、全員が聞いた。水差しの中で、水が一度だけ、ちいさく波を打った。




