第2話 調律官見習いの水差し
詰所は、黄みを帯びた石造りの二階建てだった。門から少し離れた通り沿いにあり、朝の往来が落ち着くころには、窓から紙の擦れる音が漏れてくる。
志音は、扉の前で一度だけ深呼吸した。昨日の門番の顔が浮かび、喉がきゅっと締まる。けれど、宿屋の女将の「怒られながら生きてる人間もいる」を思い出し、指先で札を押さえた。
扉を押すと、乾いた香りが鼻に入った。紙、墨、磨いた木。机が二列、壁際に棚。棚の札が風もないのにわずかに揺れ、薄い黄いろの光が走る。
「おはようございます。……あ、昨日の」
奥から声がした。淡い緑の外套を着た少女が、机の間をすり抜けて来る。歩きながら、片手に水差し、もう片手に木の椀を二つ持っていた。忙しそうなのに、椀は揺れない。
彼女は志音の前で立ち止まり、椀を差し出した。
「まず、これ。飲めますか」
志音は、反射で「はい」と答え、両手で受け取った。水は冷たすぎず、喉を痛めない温度だった。二口飲んだところで、腹の奥の熱がすっとほどける。
「助かります。……あなたが、昨日の」
「華音です。調律官見習い。えっと、志音さん、でしたよね」
名を口にされるだけで、昨日の「追い払われた自分」が薄くなる気がした。志音は椀を置き、椅子を引こうとして止まった。椅子の向きがばらばらだ。
華音が先に動いた。志音の椅子を壁際から少しだけ離し、机との距離を指二本ぶん詰める。さらに、向かいの椅子を斜めにずらす。
「ここだと、声がぶつからないです。聞こえやすい」
志音は思わず見回した。詰所の端では、二人の男が書類を挟んで言い合っている。机を挟む距離が近すぎて、言葉が角張っていた。
華音は、もう一つの椀を持って二人の間へ行き、無言で置いた。二人は言いかけた言葉を飲み込み、同じタイミングで水に手を伸ばした。呼吸が一拍そろう。
志音はその光景に、喉の奥が温かくなるのを感じた。魔法というより、暮らしの手つきだ。
華音が戻って来る。今度は机の上に薄い札を一枚、音を立てないように置いた。
「昨日の札、見せてもらってもいいですか。……提出じゃなくて、確認」
提出、という言葉に肩がこわばったのを、華音は見逃さなかったらしい。彼女は椀を持ち直し、志音の視線の高さまでゆっくり上げて見せた。水面が静かに揺れる。
「大丈夫。怖い時は、飲んでください。まず、息を整えるところからです」
志音は札を胸から取り出した。指に触れた瞬間、札の表面がぬるく脈打つ。昨日書いた短い文が、今も淡く光っている。
華音は、光を横からのぞき込み、頷いた。
「レビュー札ですね。都では、言葉が宝石に触れます。触れ方が優しいと、周りが少しだけ楽になります」
「少しだけ、ってところが大事なんですね。全部変えられたら、危ない」
志音がそう言うと、華音は短く両手を打った。ぱち、ぱち。二回だけ。
「そう。それ。操ることはできない。強さを、ほんの少し、上げ下げするだけ」
華音は、棚を指した。棚には札が種類ごとに分けられ、細い縄で束ねられている。
「調律札は、調律官が読み上げます。声、間、呼吸、手順。全部そろえて……こう」
華音は、机の角に指先を置き、ゆっくり息を吐いた。たったそれだけなのに、詰所の空気が一段やわらぐ。志音は自分の肩が下がったのに気づき、慌てて姿勢を正した。
「ただし、嘘はだめ。誇張もだめ。褒め殺しもだめ。断罪も……」
「皮肉もだめ」
言い切ったのは、背後の声だった。
志音が振り向くと、棚の影から一人の女性が顔を出した。きっちり結んだ髪。手には、古い紙束。歩くたびに紙がさらり、と鳴る。
「愛恋です。翻訳係。よろしければ、補足を」
愛恋は小さく頭を下げ、机の端に立った。
「札は、嘘や誇張で書くと濁ります。濁りは、書いた方の指へ返ります。指先が重くなって、札を持つのがつらくなる。……最悪、石のように固くなる例もあります」
志音は思わず両手を握りしめた。昨日から、指はまだ動く。けれど「最悪」が現実の言葉として降りてくる。
華音が水差しを傾け、志音の椀へ少し足した。水の音が、話の角を丸める。
「だから、短く、正直に。志音さんの札は、今のところ濁りがないです」
「それは……よかった」
胸の奥が、ほっと緩んだ。志音は、つい口が先に出る。
「地球では、僕、レビューを書いて――」
「地球?」
華音が眉を上げた瞬間、志音は歯止めが外れた。門前で言えなかったぶんまで、喉が開く。
「本が好きで、読むと語りたくなるんです。面白いところを誰かに渡したくて。読むペースとか、ジャンルとか、レビューの構成とか――」
愛恋が、そっと二つ指を立てた。止める合図ではない。「選べる」合図だ。
「要点を二つにすると、伝わりやすいです。たとえば――」
愛恋は、志音の言葉を短くほどいて並べた。
「一つ目。『私は物語を読むのが好きで、感想を言う仕事をしていました』。二つ目。『この都でも、言葉で人の暮らしを助けたいです』。どちらから話しますか」
志音は、口を開けたまま固まった。自分がさっきまで投げていた言葉の束が、二本の糸に整えられて、掌に戻ってきた感覚がある。
「……二つ目、からで」
言った途端、華音が小さく笑った。笑い声を立てず、口元だけで。志音はそれが妙にうれしくて、つい続けそうになる。
しかし華音は、先に椀を持ち上げて、あごで促した。
「飲みながらでいいです。無理に詰めると、咳が出ます」
「咳?」
問い返した瞬間、華音が自分の椀を飲み、むせた。こほん、と一度。こほん、ともう一度。肩が小さく揺れ、耳が赤くなる。
「すみません……今の、見本ではないです」
志音は慌てて立ち上がりかけ、椅子の脚を鳴らしてしまった。音に気づいた華音が、手をひらひらと振る。大丈夫、の合図。
愛恋が自然に一歩前へ出た。椀の位置を少しだけ変え、華音の背中が壁に寄りかからない角度に整える。
「華音さん、息を二つ分だけ。……はい。そうです」
華音の咳が収まる。志音はその間、言葉を飲み込んで待った。待つことが、こんなに手のひらに汗をかく行為だと知らなかった。
華音は目尻をぬぐい、志音の札へ視線を戻した。
「志音さん。あなたの札、持ったままでもいいです。書く時、長くなりそうなら――」
「短く、正直に」
志音が先に言うと、華音はまた、二回だけ拍手した。
「そう。……じゃあ、質問。いつ、どこで、何を見て、どう感じたか。札に入れるのは、それだけ」
志音は頷き、札を見下ろした。昨日の鍋の湯気、女将の声、門の怒鳴り声。全部が「それだけ」に収まる気がしない。けれど、収まらないまま書けば、刃になるのだ。
「……僕、ここで、働けますか」
「働けます。たぶん。……えっと、手続きは――」
華音が机の下から紙束を取り出した瞬間、詰所の空気が、ぱき、と割れた。
扉が開いたのだ。冷たい外気が入り、黄いろの光が一筋、床を走る。
「札を提出しろ」
低い声だった。言葉が短いぶん、刃の形で届く。
志音が顔を上げると、入口に男が立っていた。黒に近い外套。胸元には、規定の紙束を綴じた板。視線は志音の手の札へ一直線だった。
華音が立ち上がり、椀を置く。愛恋も背筋を伸ばす。
男は名乗らないまま、もう一度だけ言った。
「今すぐだ。監察官、昇一の命令だ」
志音の指先が、札のぬるさを強く感じた。




