第18話 病名がつく日
昼の光は、朝よりも黄かった。
監察庁から戻る道すがら、志音は申請紙の束を胸に抱えたまま、石畳の凍った筋を避けて歩いた。肩が触れ合わないように少しだけ距離を取り、陽海が盾を外側へ向ける。誰かを押し返すためではなく、志音の口から余計な文が飛び出さないように、間を作るための盾だ。
「……さっきの列の人たち、同じ言葉を回してましたね」
愛恋が声を落とす。語尾まで丁寧なのに、喉の奥だけが固い。
志音は、返事の代わりに水筒を持ち上げた。冷たい水が舌を通り、頭の中の言葉が少しだけ整列する。
「“あいつが悪いって言えば、楽になる”。……楽になる、って部分が、怖い」
陽海が眉を寄せた。
「楽になりたいのは、分かるのに……口にした瞬間、誰かの背中を押し倒すみたいでした」
志音は、胸の中で「今の比喩、上手い」と言いそうになり、飲み込んだ。褒め言葉は時に、相手を立たせる代わりに、周りを座らせてしまう。ここでは椅子の数が足りない。
家へ戻ると、台所から味噌の匂いが漂ってきた。鍋が小さく鳴き、刻んだ葱の青い香りが、凍った頬を柔らかくほどく。
襖の向こうから華音の声がした。
「……おかえり。……座って、飲んで」
華音はまだ布団の部屋にいる。けれど、声は昨日より真っすぐで、息継ぎの場所も乱れていない。志音は返事を短くして、台所の入口にある水差しへ先に手を伸ばした。
「ただいま。……水、先に飲みます」
ナツカが鍋のふたを片手で持ち上げ、湯気を逃がしながら笑った。
「えらい。今日の志音、喋る前に飲めてる。成長、ってやつ?」
志音は「昨日の熱のせいで反省した」と言いかけ、やめた。代わりに椀を受け取って、湯気の向こうへ目を向ける。
愛恋は机に古い紙束を広げ、文字の擦れを指で追っていた。紙の端には図書塔の印。今朝、愛恋が借りてきた古文書だ。
「見つかりました」
愛恋が紙を一枚持ち上げる。目線は紙の上のままなのに、言葉はきちんと相手へ届く角度で出てくる。
「この症状の、古い呼び名です。“黄晶病”」
志音は思わず眉を上げた。
「病名が、あるんだ……」
華音の部屋から、布団が擦れる音がした。華音が身を起こした気配。
「名前があると……安心する。……でも、油断もする」
華音はそう言って、少し間を置いた。言葉を出す前に、胸の奥を一度だけ整える癖が見える。志音はその間に、鍋の具を椀へよそった。手を動かすと、余計な文が出にくい。
愛恋は古文書の一節を、短く訳した。
「“黄晶病は、痛みの向きを外へ向けた時に広がる。誰かを悪者にすると胸が軽くなり、その軽さを欲しがって言葉が増える。増えた言葉は他人へ移り、他人も軽さを欲しがる”」
陽海が椀を持ったまま固まった。
「……軽さ、を欲しがる」
ナツカは唇を噛み、鍋のふたを閉めた。芝居の口上みたいな大げさな言葉を飲み込んだ顔だ。
志音は、自分の中にも同じ欲があると気づいた。誰かの正しさを、舞台の悪役にしてしまえば、観客は簡単に笑える。読んだ本を「浅い」「ひどい」と切って捨てれば、自分が賢く見える。――楽になる。怖いのは、その楽が甘いことだ。
「……ぼく、たぶん、昔から楽な書き方を知ってます」
志音がぽろりとこぼすと、台所の空気が少しだけ揺れた。自分語りの入口だ。華音がすぐに水差しの位置を変え、志音の真正面ではなく斜めへ置いた。言葉が突進しない角度だ。
「志音さん。……今は、作るほう」
華音の声は小さいのに、背中を押す力がある。
机の上には、読書会の案内文が置かれていた。昨夜、ナツカが広場で回した紙のたたき台だ。志音はそれを見て、胃がきゅっと縮んだ。
紙にはこう書かれている。
『悪い言葉を言うな。悪い奴を許すな。都を壊す者を見つけよう。』
ナツカが肩をすくめた。
「私が書いた。勢いはある。……でも、勢いって、刃にもなるんだよね」
愛恋がそっと言い換えを二つ並べた。
「“言うな”を“先に飲む”に。 “見つけよう”を“見つけなくていい”に。どちらが、刺さりにくいでしょう」
陽海が盾を机の横へ立て、紙が風で飛ばないように押さえた。
「俺、守るのは得意です。……でも、誰かを狙う文は、守ってるつもりで殴ってました」
志音は紙を受け取り、息を一つ吐いた。机の縁に指を置き、揺れそうな声を喉で押さえる。短く。都の空気を整える文に。
「じゃあ、こうします。誰かを名指ししない。勝ち負けを作らない。……それと、ぼくの癖の“余計な比喩”は削ります」
ナツカが肩を叩いた。
「削れるの?」
「……削ります。水、飲んだので」
志音は筆を走らせた。文を短く切り、命令形を避け、相手の逃げ道を残す。
『夕方、広場の指定の柱の前で、本を一節だけ読みます。怒りが出たら水を一口飲んでから、一文だけ話してください。人を指ささないで、今の胸の痛みの名前を探しましょう。笑っても、泣いても、途中で帰っても大丈夫です。』
書き終えたところで、志音は筆を止めた。最後の一行を足すか迷う。“黄晶病”という病名を出すべきか。出せば、人は安心する。けれど、安心が次の「悪者探し」の燃料にもなる。
華音が襖の隙間から顔を出した。頬はまだ赤いが、目は冴えている。
「病名は……今は、言わなくていい。……まず、飲ませる」
志音は頷いた。名づけるのは、逃げ道にもなる。けれど、今は逃げ道が必要だ。責め言葉から逃げる道。
愛恋が案内文の語尾を整えた。
「“探しましょう”より、“探せたら嬉しいです”のほうが、受け取りやすいです」
志音は頷き、文を直した。陽海は「俺、柱まで運びます」と言って、紙を濡れないよう布で包んだ。ナツカは「じゃ、私が読み出し役ね」と胸を張ったが、すぐに喉をさすって水を飲んだ。自分の声が尖るのを知っている飲み方だった。
外へ出ると、昼の黄晶都は、朝より人が多かった。けれど笑い声は少ない。代わりに、咳と、足音と、紙が擦れる音が広場へ集まっている。
指定の柱は、監察庁が決めた場所だ。そこなら取り締まりの目が届く。目が届く場所で、あえて刺さらない文を貼る。志音はその滑稽さに笑いそうになり、笑いをこらえて息を吐いた。
柱へ案内文を貼り終えた瞬間、空気が静かになった。
誰かが遠くで水を飲む音。誰かが椅子を引く音。ほんの少しだけ、都が呼吸を取り戻した気がした。
案内文の前に、背の低い母親が子どもの手を引いて立った。子どもは柱の紙を指差し、「いちぶん?」と首を傾げる。母親は笑いかけようとして、口角が引きつった。
その横で、目の白い部分がうっすら黄ばんだ男が、紙を睨むように読んだ。唇が震え、言葉がこぼれかける。
「……誰が、こんな――」
志音は男の前へ水差しを差し出した。押しつけない距離で、両手で支える。
「一口だけ。……それから、一文だけで」
男は水を見て、鼻で笑いそうになり、喉の奥で咳き込んだ。咳の後、意地みたいに水を飲む。冷えた水が喉を通った瞬間、男の肩が少し落ちた。
男は紙へ視線を戻し、声を絞った。
「……こわい。……誰かを責めたら、楽になるって、分かってるのに」
母親が子どもの頭を撫で、子どもは小さく拍手を一回だけした。華音の癖と同じ拍手だった。
――その次の瞬間。
共鳴塔の方角から、氷が割れるような、低い音が届いた。
耳ではなく、胸の奥で聞こえる音だ。
志音は思わず、掌を胸へ当てた。札を持っていない指先が、わずかに重くなる気がする。陽海が盾を握り直し、華音が柱の影で水差しを抱えた。愛恋は案内文の端を押さえ、ナツカは笑顔を作ろうとして、作れない。
病名がついても、ヒビは止まらない。
黄いろい光が、また一段、濃くなった。




