第17話 監察官の宝石片
朝の台所は、夜より静かだった。鍋の中で薬草がまだ小さく揺れていて、湯気が窓の結露を曇らせる。生姜の匂いが、昨夜の寒さを追い払うふりだけして、床の冷たさは残したままだ。
志音は、湯気を指で追いながら、指先の重さを確かめた。札を一枚しか使っていない。石の気配はない。けれど胸の奥だけ、妙に重い。握られた手の甲の熱が、まだ残っているからだ。
「起きてますか」
布団の部屋から、愛恋が小さな声で答えた。
「うなずきました。……声は、まだ出しません」
志音は、うなずきの様子だけで胸が少しほどけた。華音は“助けて”を口にできない代わりに、うなずきで「ここにいる」を伝える。昨夜、手を握ったのも、同じ伝え方だった。
陽海は盾を背中に背負ったまま、湯の入った器を二つ運んできた。盾の縁に器を引っかけている。危なく見えるのに、落ちない。
「……これ、意外と便利です。手が空く」
ナツカが台所の入口で、腕を組んだ。
「はい、朝の段取り。陽海は運び屋、愛恋は語尾の手入れ、志音は――」
志音は身構えた。変な役名が付く予感がする。
「志音は、黙る係。喋りたくなったら、飲め」
ナツカが水筒を指で叩いた。志音は苦笑し、言い返す代わりに水をひと口飲んだ。喉が冷えて、余計な言葉が引っ込む。
布団の部屋の襖が、少しだけ開いた。華音の顔が覗く。頬の赤みは残っているが、目は昨日より澄んでいる。華音は志音を見て、短く息を吐いた。
「行く、の?」
声は小さい。それでも、言葉にしただけで背筋が伸びた。
「はい。監察庁へ。……昨夜の広場の件、紙が必要だって、陽海が」
陽海が慌てて頷いた。
「芝居の許可と、読書会の貼り札の場所。……今朝、巡回が増えてて」
華音は布団の中で身体を起こし、枕元の水差しを志音へ差し出した。手が少し震れている。志音は両手で受け取り、こぼさない角度に整えてから、華音へ返した。
「……水、ありがとう」
華音は、昨夜みたいに手を探す代わりに、志音の袖の端を指先で一度だけつまんだ。引っ張らない。行って、とも、行かないで、とも言わない。ただ、確かめる触れ方だ。
「……戻って」
たった二文字で、胸の重みが増えた。志音は「任せて」と言いそうになり、飲み込む。約束の言葉は重い。代わりに、息を一つ吐いて、短く返した。
「……帰ってきます」
玄関で外套を羽織る時、志音はレビュー札を一枚だけ取り出した。書く文はもう決めている。短く、静かに。笑いも皮肉も混ぜない。受け取るかどうかは、相手に渡す。
外へ出ると、朝の黄晶都は白い息で満ちていた。石畳は霜で滑り、屋台はまだ火を入れ始めたところだ。人々の顔は昨日より硬い。笑い声が少ない。代わりに、小さな咳が多い。
監察庁へ向かう道の角で、陽海が足を止めた。盾の向こうから、巡回の兵が二列で歩いてくる。今までなら一列だった。志音は数を数えかけ、やめた。数えると、怖さに名前が付く。
愛恋が、歩調を落とさずに言った。
「志音さん。今日、監察官に言いたいことが増えても、三文以上は控えたほうがいいです」
「……三文で収まるなら、ぼくは最初から苦労しない」
志音がぼやくと、ナツカが肩越しに振り返った。
「なら、一文だ。言いたいことは、札に押し込めろ」
監察庁の前は、朝から人で詰まっていた。窓口に並ぶ列が二本できている。顔色の悪い者、目の白い部分が薄く黄ばんだ者、震える手で紙を握る者。紙の端は、何度も折り直した跡で柔らかくなっている。
志音は列の脇を通りながら、ひどく小さな声を拾った。
「……あいつが悪いって言えば、楽になるって……」
言葉が空気に落ちた瞬間、隣の男が顔を上げ、同じ言葉を繰り返し始めた。楽になる。悪い。楽になる。小さな輪が、同じ文を回し始める。愛恋が唇を結び、言い換え案を飲み込んだのが分かった。ここで言葉を挟めば、火種になる。
監察庁の石段の上に、昇一が立っていた。規定の紙束を抱え、視線だけで列を裁いている。声を荒げないのに、列が縮こまる。志音は胸が痛くなった。昨夜、路地で膝をついた影が、今は石段の上に戻っている。
昇一の胸元が、朝の光を受けて小さく光った。制服の内側、鎖の先にぶら下がる欠けた宝石片。イエロートルマリンの端が、噛み欠けたように鋭い。昇一の指が無意識にそこを握り、指関節が白くなる。
志音は、それを指摘しそうになって、喉の奥を噛んだ。「それ、何ですか」と問えば、答えは返るかもしれない。けれど、答えの形が刃になる予感がした。相手の胸元を暴く言葉は、都の空気を刺す。
だから志音は、問い詰める代わりに近づいた。石段の一番下で止まり、頭を下げる。礼は短く。視線は相手の目ではなく、紙束へ。
「昨夜の広場の件。許可の手順を知りたいです」
昇一は紙束を一枚抜き、志音へ差し出した。指先が冷たい。感情を挟まない冷たさだ。
「申請は今日中。貼り札は指定の柱のみ。芝居の口上も、扇動に当たる文は禁止」
言いながら、昇一の視線が志音の指へ落ちた。札を扱う指かどうか、そこだけを見る目だ。
志音は申請紙を受け取りながら、レビュー札を一枚だけ差し出した。握らせない距離。受け取るかどうかを、相手に選ばせる距離。
「……一文だけです。昨夜、見たままを」
札に書かれた文は短かった。
『あなたは、火種を落とさずに去った。』
褒め言葉でもない。断罪でもない。見たままの記録だ。志音の指先が少しだけじんとした。札は淡く光り、光はすぐに収まった。
昇一は札を見た。ほんの一瞬だけ、眉が動く。けれど、その瞬間に指が宝石片を強く握り、表情が固まった。
「不要だ」
昇一は札を受け取らず、申請紙の束だけを志音へ押し付けた。
「規定外の紙は、受け取れない。……それに、見たままの文ほど危険だ」
志音は札を引っ込めた。言い返したい文が、喉の奥で渦を巻く。危険なのは、札じゃなくて、あなたの孤独だ――そんな言葉が出そうになる。出したら、刃だ。
志音は水筒を握り直し、ひと口飲んだ。冷たい水が胸を落ち着かせる。
「……分かりました。申請、出します」
昇一は頷かない。頷く余裕を見せるのも、今は規定外らしい。代わりに、列へ視線を戻す。その時、監察庁の扉が開き、伝令の男が駆け出てきた。
「監察官! 連行者、今朝の分も含めて――」
伝令の声が途切れ、紙を差し出す。昇一は紙を受け取り、目を走らせた。志音からは数字だけが見えた。昨日の倍。二倍。紙の上の数字が、朝の光より冷たく光る。
昇一の喉が、小さく動いた。声にならない息が漏れる。宝石片を握る指が、また白くなる。
「……倍、か」
陽海が盾を少し前へ出した。守るためではない。志音の前に、余計な言葉が飛び出ないように、距離を作るためだ。愛恋は志音の袖を軽く引き、口の形だけで言った。――今は、黙る。
志音は、石段の下から列を見た。並ぶ顔が増え、窓口の椅子が足りなくなり、立ったまま話す者が出る。立ったまま話すと、声が大きくなる。声が大きい者の言葉が、周りを刺す。
昇一は石段の上で、紙を握り直した。規定の紙束を抱えた腕が、少しだけ震えた。震えを隠すように、宝石片が制服の内側で鳴る。
志音は申請紙を胸に抱え、札を握らない手で息を一つ吐いた。華音の「戻って」が、背中に貼り付いている。
今日の都は、昨日より黄いろい。




