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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第16話 心を寄せる瞬間

 家へ戻る坂道は、広場よりも静かだった。さっきまで人の声が渦巻いていたのが嘘みたいに、靴底が石を擦る音だけが付いてくる。


  志音は何度も振り返りたくなった。路地の奥で膝をついた昇一の影が、まぶたの裏に残っている。追いかけて肩を貸す言葉が、喉の手前まで来るのに、形にならない。形にすれば刃になる気がした。


  その代わり、志音は華音の歩幅だけを見た。華音はいつも、先に椅子をずらし、先に水を配り、先に息を整える。けれど今夜は、足の運びがほんの少しだけ遅い。寒いから、ではない。肩が小さく上下している。


  「……大丈夫ですか」


  志音が尋ねると、華音は頷こうとして、途中で頷きをやめた。頷ききる力を節約するみたいに、顎が止まる。

  「歩けます。……家、近い」


  言葉は短い。けれど、最後の一語だけ、吐く息が熱を含んだ。


  家の扉を開けると、鍋の匂いがまだ残っていた。味噌と生姜の甘さが、冷えた指にまとわりつく。灯りの下で、ナツカが布を畳みながら振り向いた。


  「おかえ……り……?」


  語尾が伸びない。舞台の声が、台所の声に戻る。

  陽海は椅子から立ち上がり、まず革袋を取りに行った。愛恋は紙束を机へ置き、華音の額に手の甲を当てる。指の動きは丁寧で、迷いがない。


  「熱、あります。……華音さん、座って」


  華音は座ろうとして、椅子を先に直そうとした。斜めになった背もたれを揃え、テーブルの端を指で押す。いつもの癖だ。志音が慌てて、華音の手首に触れない距離で止める。


  「いまは、椅子の順番より、体の順番です。……先に休んで」


  ナツカが布をばさっと広げた。まるで幕を降ろすみたいに、華音の肩へ掛ける。

  「はい、看病役、私。今夜の配役は決まった。華音は病人、陽海は水運び、愛恋は言葉の台本係、志音は――」


  志音は身構えた。変な役名を付けられる予感がする。

  「志音は、走る係。外へ行け。薬草」


  ナツカの指が、玄関の方角へ真っ直ぐ刺さった。芝居の指示みたいに的確だ。志音が「はい」と返す前に、愛恋が二つ、言い換えを添える。


  「“走ってください”でもいいですし、“買いに行ってください”でも。……志音さんは、後者のほうが指先に残りやすいです」


  志音は妙に納得して、外套を掴んだ。

  「買いに行ってきます。……何が必要ですか。具体的に」


  陽海が革袋を差し出しながら言った。

  「白い葉。乾いた匂い。……咳じゃなくて、熱の時のやつ」


  愛恋が補足する。

  「店の人へは、“夜に効く”じゃなくて、“今夜、汗を出すため”と伝えると、濁りにくいです」


  志音は頷き、扉を開けた。夜気が頬を噛む。黄晶都の空は澄んでいて、星が黒い布に針で留められたみたいに瞬いている。けれど、共鳴塔の方角だけ、薄い黄いろが滲んでいた。


  薬草屋は、灯りの少ない通りの角にあった。小さな看板に、短い文が書かれている。

  『迷ったら、まず息を一つ。次に、戸を叩く。』


  志音は戸を叩く前に、本当に息を一つ吐いた。札の光ではなく、自分の呼吸で整える。中から、眠そうな声が返る。


  「……誰だい」


  戸が半分だけ開き、皺の深い店主が顔を出した。眼鏡の奥の目が、志音の外套の端を見て、次に指先を見た。札を扱う者かどうかを、先に測っている。


  「熱の薬草をください。今夜、汗を出すために。白い葉で、乾いた匂いのするやつ」


  志音は言い切って、自分でも驚いた。余計な比喩が出ていない。店主は鼻で笑うでもなく、ただ頷いた。


  「……金は」


  志音は懐を探り、硬貨を出した。足りるか不安になる枚数だ。店主が硬貨を摘まみ、音で重さを確かめる。足りない、と言われる前に、志音の口が動きそうになる。説明。お願い。自分語り。全部まとめて投げれば、相手の胸に刺さる。


  その瞬間、志音は看板の文を思い出した。迷ったら、息を一つ。


  志音は掌を見下ろし、レビュー札を出した。出すが、書かない。使い方を選ぶ。

  「……一文だけ、書かせてください。店の前に貼る。嘘は混ぜません。見たままを」


  店主は眉を動かした。拒むでもなく、許すでもない。

  「刃になる文なら、剥がして追い返す」


  志音は頷き、札に短く書いた。

  『夜でも戸を開けてくれる。迷った人が帰れる灯りがある。』


  札は淡く光った。光は小さい。けれど、通りの暗さの中では、星の明かりみたいに目立つ。店主はそれを一度見て、奥へ引っ込んだ。戻ってきた手には、紙包みが二つ。乾いた葉と、刻んだ根。匂いが鼻の奥へ刺さり、背中が少しだけ軽くなる。


  「煎じろ。飲ませる前に、ぬるくしろ。……泣かせるな。汗が引っ込む」


  志音は「泣かせません」と言いそうになって、言葉を飲んだ。約束の言葉は、時に重い。代わりに、頭を下げた。


  家へ戻る道は、行きより短く感じた。息が白い。足の裏が熱い。玄関を開けると、今度は鍋の匂いより、薬草の匂いが先に家へ入った。


  「戻った!」


  ナツカの声が、舞台の声に戻っている。安心の声だ。陽海はすぐに湯を沸かし、革袋の水を足した。愛恋は器を並べ、華音の枕元の位置を、指二本ぶんだけ直す。顔へ湯気が当たらない角度へ。


  華音は布団の中で、目を半分だけ開けていた。頬が赤い。けれど、視線は志音を追っている。志音は紙包みを机へ置き、手を洗ってから座った。指先が重くないか確認する。大丈夫だ。札を一枚、短くしか使っていない。


  愛恋が小声で言った。

  「“治ります”は言わないでください。代わりに、“今夜は一緒に汗を出そう”がいいです」


  志音は苦笑して頷いた。自分が言いそうな言葉を、先回りされている。けれど、嫌ではない。これが家の呼吸だ。


  陽海が器を差し出した。湯気が立っている。志音は両手で受け取り、少し冷ましてから華音の唇へ近づける。華音は飲もうとして、途中で咳き込みそうになった。志音は器を引く。急がない。待つ沈黙を置く。


  華音が息を整え、二口飲んだ。喉が動く。眉が少しだけ上がり、そこで安心が落ちる。


  「……ありがとう」


  志音は「どういたしまして」と返してしまいそうになり、言葉を半分で止めた。返事の前に、華音の目の揺れを待つ。華音は布団の中で、手を探すように動かした。指先が空を掴み、次の瞬間、志音の手の甲に触れた。


  熱い。けれど、握る力は弱い。頼る、というより、確かめている触れ方だ。


  志音は手を引かなかった。握り返しもしない。先に圧をかけると、相手が逃げ場を失う。志音はただ、そこに置いた。


  華音の唇が動いた。声はほとんど息だ。

  「あなたの話……嫌いじゃない」


  志音の胸の奥が、きゅっと縮んだ。褒め言葉を受け取ると、いつも反射で言い返したくなる。長い説明で、笑いにして、逃げたくなる。けれど今夜は、逃げると熱が上がる気がした。


  志音は息を一つ吐き、短く返した。

  「……聞いてくれて、嬉しいです」


  ナツカが背を向けたまま、小さく咳払いをした。舞台の幕の裏で、役者が泣き笑いを隠すときの音。陽海は湯の火加減を見つめ、愛恋は紙束に何かを書き足している。誰も、こちらを見ない。見ないことで、守っている。


  その時、窓の外が黄いろく揺れた。月明かりとは違う濃さだ。共鳴塔の方角から、灯りが一段、強くなる。星の光が負けるほどの黄いろ。


  志音は窓へ目をやり、手の甲の熱を思い出した。

  汗を出す夜なのに、背中が冷える。


  華音の指が、志音の手をもう一度だけ、きゅっと掴んだ。



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