第15話 ナツカの即興台本
夜。共鳴塔の鐘が、昼より低い音で一度だけ鳴った。
黄晶都の広場には、昼の商いの名残りがまだ残っている。石畳の隙間に落ちた粉糖、倒れたままの木箱、片づけられない気まずさ。夕餉の匂いが路地から流れ込み、腹が鳴る音があちこちで漏れた。
志音は、胸の内ポケットの札を指で押さえながら、人の輪の外側へ立った。中央にはナツカがいる。赤い外套を肩に掛け、舞台板も幕も用意せず、手を二度叩いて呼吸を揃えた。
「今夜は、台本を作りながらやります。ひとつだけ約束。怒鳴りたくなったら、先に水を飲む」
言い終えた瞬間、ナツカの足元に置かれた水差しが、月明かりを受けて光った。水差しは一つしかない。足りないのに、それがいい。取り合えば、喧嘩の種が見える。譲り合えば、順番が戻る。
華音が輪の端で頷いた。革袋を二つ抱え、陽海と愛恋へ目配せする。陽海は昼の盾を背負ったまま、袖口をやけに気にしながら輪に混じった。袖の下の黄いろい筋が、布越しに熱を持っているのが伝わってくる。
愛恋は小さな手帳を胸に当て、口を結ぶ。言葉を出さないのではなく、言葉が刃にならない位置を探している顔だ。
ナツカが観客へ問いかけた。
「今、いちばん腹が立ってること。ひとつだけ、言ってください。短く」
最初に手を上げたのは、昼の商店街にいた若い男だった。
「店主が、俺を疑った」
別の女が続く。
「隣が、うるさいって言った」
年配の男は唾を飲み込み、声を押し出した。
「息子が、帰ってこない」
言葉が重くなる前に、ナツカは指を鳴らした。
「じゃあ、舞台は“鍋のふた”です。怒りは湯気。湯気は、見えなくなるまで笑わせる」
志音は思わず眉を上げた。鍋のふた。昨日も似た芝居を見た。だが今夜のナツカは、観客の愚痴を材料にして、すぐに形へ落とす。
ナツカは手近な木箱を指で叩き、そこを鍋に見立てた。
「あなたは店主。あなたは客。あなたは隣。あなたはうるさいと言われた側。あなたは息子を待つ父」
指名された者たちは戸惑いながら前へ出る。断れない空気が嫌な強さを持つ前に、華音が一歩出て言った。
「立つ場所は、ここです。声の大きい方は端。小さい方は中央。間に水を置きます」
華音の手順は、役所で見せたときと同じだった。立ち位置を決めるだけで、言葉の当たり方が変わる。ナツカはそれを台本に組み込むように笑った。
「調律官さん、今夜は舞台監督だね」
志音は輪の外から札を出し、書きたい衝動を飲み込んだ。ここで書けば、観客は「書いてもらえた」か「書いてもらえない」かでまた競り合う。先にやるべきは、見張ることだ。
即興芝居は、最初は軽かった。
鍋のふたを開けるたびに「疑うな!」と叫ぶ店主役。
客役は「疑ったのは俺じゃない!」と叫ぶ。
隣役は「静かにしろ!」と鍋を叩き、言われた側は「静かにしてる!」と鍋を叩き返す。
息子を待つ父役だけが、鍋の前で黙り続ける。
ナツカはその沈黙を放置しない。沈黙を、笑いの火種に変える。
「父さん、鍋のふたが開かない。何が足りない?」
父役が答える前に、観客が勝手に口を挟み始めた。
「塩だ!」
「水だ!」
「待つ時間だ!」
ナツカは「全部」と頷き、ふたを持ち上げる仕草をした。
「時間は、煮込む。水は、飲む。塩は、言い方」
言い方。そこへ笑いが起きた。誰かが「言い方に塩を入れろ」と叫び、別の誰かが「塩を入れすぎると喉が乾く」と返す。広場の空気が、いっとき丸くなる。陽海が、ようやく肩の力を抜いたのが見えた。
陽海は革袋を受け取り、二口飲む。飲んだ後も袖口を押さえたままだったが、盾を持つ手は震えが少し減った。
志音の胸が、わずかに温かくなる。笑いは薬になる。そう思った瞬間、嫌な音が混じった。
「そんなの、笑って済ませる話じゃない!」
輪の奥から、怒鳴り声。笑いが途切れた瞬間だった。空気が戻る。鍋のふたが閉じる。湯気が、今度は目に染みる煙になる。
怒鳴ったのは、父役ではない。父役の後ろで腕を組んで見ていた男だ。白目に黄いろが滲んでいる。唇が震え、次の言葉が責める形を探している。
「笑ってる間は忘れられる。けど、終わったら戻るだろ。腹の奥の……あいつが悪いって気持ちは!」
観客の笑いが、喉の奥に引っかかったまま固まる。志音の札が、ポケットの中で震えた。勝手に滲む黄いろい語が、また戻ってきそうになる。
華音が、革袋を差し出した。相手へ近づきすぎない距離で。
「一口だけ。怒鳴る前に、喉を濡らしてください」
男は革袋を叩き落とした。水が石畳に散り、月明かりが跳ねた。
「水で、憎しみが消えるなら苦労しねぇ!」
ナツカが、口を開く。だが、ここでナツカが言い返せば、芝居は口論へ落ちる。志音は息を吸い、短い札を一枚だけ取り出した。誰かを裁く文ではなく、今見えている景色をそのまま置く。
『笑いが止まった瞬間に、怒りが戻った。戻る道も、同じ場所にある。』
札が淡く光った。光は小さい。けれど、男の肩が一瞬だけ落ちた。落ちたのは安心ではない。疲れだ。怒りを握り続ける腕が、ほんの少しだけ痺れた。
そこへ、昇一が割って入った。黒い外套の裾が石畳を擦り、視線は観客ではなく、札の光を追っている。
「許可のない札の掲示は禁じられている。今すぐ解散しろ」
声は冷たい。だが、志音は知っている。昇一の冷たさは、都の規定を盾にして、広場の黄ばみをこれ以上増やさないためのものだ。言い方は下手でも、やろうとしていることは同じ方向だ。
ところが観客は、昇一の言葉を違う味で受け取った。
「また邪魔かよ!」
「おまえが来ると息が詰まる!」
「書くなって言うなら、じゃあおまえが代わりに言え!」
責める言葉が、次々と投げられる。さっきまで笑っていた口が、今は刃になる。昇一は一歩下がった。下がったのに、輪が前へ詰める。押し返す者がいないと、集団は勝手に勢いを得る。
陽海が盾を下ろしかけた。割って入ろうとする背中が見えた。志音は手を伸ばし、袖を掴んで止めた。
「今、盾を上げたら、黄いろが濃くなる。ここは……言葉で割る」
志音は、声量を上げない。上げれば、競り合いになる。華音の真似をして、順番を作る。
「昇一さん。まず、あなたが言いたいことを一文で。次に、ナツカさん。次に、いちばん怒ってる人。最後に、父役の人」
昇一は志音を睨み、口を引き結んだ。返事をしない。返事ができない。人前で、自分の感情を出すのが下手だ。志音はそこで初めて、昇一の指先が微かに震えているのを見た。手袋越しに、宝石片が肌を刺しているのかもしれない。
ナツカが昇一の沈黙を拾った。
「監察官さんは、“怖い”って言うのが下手なんだ。だから“禁じる”って言う。今夜の台本に、その一文を足そう」
観客の中から、苦笑が起きた。笑いではない。尖りが少しだけ丸くなる音。
昇一の目が、ほんのわずかだけ揺れた。けれど、その揺れはすぐに消え、顔が石みたいに固まる。
黄ばみの男が吐き捨てた。
「台本にして、笑って、終わりかよ。俺の腹の中は、まだ燃えてる!」
燃える。志音はその言葉を、比喩として受け取れなかった。都では、言葉が実際に火種になる。共鳴塔のヒビは、責める一文で広がる。
華音は散った水を見て、しゃがみ、指で濡れた石畳をなぞった。指先に水がつく。水を舐めない。手を拭き、立ち上がる。
「終わりにしません。終わりにしないために、今夜は帰り道を決めます。怒鳴りたくなったら、誰の家の灯りへ行くか」
誰の家。言葉が具体になった途端、観客の目線がばらけた。責める矛先が、ひとつに集まらなくなる。
志音は、そこで小さな失敗に気づく。自分の札が光ったせいで、昇一が“悪者”に見えた。札は心を操れない。だが、場の焦点を動かすことはできる。焦点が人に刺さると、刃になる。
志音は札を回収しようとして、指先が少しだけ重くなるのを感じた。まだ石になるほどではない。けれど、重い。責任の重さだ。
昇一は、観客の罵声を受けながらも、最後まで声を荒げなかった。規定の紙を取り出して貼ろうとしたが、手が止まる。貼ればさらに責められる。貼らなければ、規定を破る自分が嫌になる。
結局、昇一は何も貼らず、背を向けた。逃げたのではない。これ以上、燃料を落とさないために去ったのだ。
ナツカは、追いかけない。代わりに観客へ、低い声で言った。
「今夜の芝居は、ここまで。笑いが切れたら、戻る。だから、明日も続ける」
観客は散っていった。怒鳴り声は完全には消えないまま、路地へ吸い込まれる。志音は陽海の袖口を見た。黄いろい筋は、昼よりも濃い。笑いで薄まらない種類の黄ばみがある。
広場の端の路地へ目をやると、昇一の影が見えた。人の視線が届かない場所。石壁に背をつけた瞬間、昇一の膝が折れた。
志音は駆け出しかけて、足を止めた。追いかける言葉を、今は持っていない。華音が志音の袖をつまみ、囁く。
「行きましょう。今夜、倒れたのは……規定では守れない部分です」
路地の奥で、昇一が短く息を吐いた。吐いた息が白くなり、黄いろい光に溶けた。




