第14話 陽海、盾を上げる
共鳴塔の鐘が鳴り終わっても、図書塔の窓ガラスはしばらく震えていた。机の上の紙は落ち着いたのに、都の空気だけが、間違った息のまま残っている。
図書塔の高い天井から落ちてくるのは、紙の匂いと、乾いたインクの匂いだ。静けさの中に、都の外のざわめきだけが、窓ガラス越しに遅れて届く。陽海の靴底が床を叩くたび、志音の胸の中で『短くしろ』と自分に言い聞かせる声が鳴った。
陽海が駆け上がってきた時、額に汗が浮いていた。昼なのに外套を着たまま走ったせいだ。息が切れているのに、まず言うのは謝罪だった。
「すみません、遅れて。……商店街のほう、声が尖ってます。鐘は、たぶん――」
「まず、飲んで」
華音が、言葉より先に革袋を差し出した。陽海は一瞬ためらい、すぐに二口飲む。喉が鳴った途端、眉間の皺が少しだけほどけた。
志音は立ち上がりかけて、椅子の脚が床を擦る音で、自分の焦りを自覚した。焦ると、言葉が長くなる。長くなると、札が濁る。
だから一度、湯呑みを持つ。飲む。熱を舌にのせて、短くする。
「行こう。……見て、戻る」
愛恋は古文書を押さえ、頁の端へ重しの石を乗せた。飛ばないように、でも押しつぶさない重さ。そういうところが、この都の呼吸と似ている、と志音は思う。
「“見て戻る”の前に、“誰が先に話すか”を決めましょう。商店街は音が多いです」
華音が頷き、歩きながら順番を作った。
「陽海さんが最初に状況を言って。次に私が呼吸と席――立つ位置を整える。志音さんは札は一枚だけ。愛恋さんは言い換えで支える」
志音は「一枚だけ」を聞いて、胸の内ポケットを押さえた。札は、複数あれば安心する。けれど安心は濁りやすい。志音は自分に言い聞かせるように頷いた。
図書塔の外へ出ると、石畳の冷たさが足裏から上がってきた。午後の光は白く、屋台の湯気は朝より細い。普段なら平和に聞こえる呼び込みが、今日は喉の奥を引っかく。
「安いよ、安いよ!」
「安くない! だまそうとしてる!」
声の棘は、店と店の隙間で反響して、増えていく。共鳴塔の方角から、黄いろの匂いがする。金属が熱を持ったような、甘くない甘さ。
「ここです」
陽海が足を止めたのは、香辛料の店の前だった。袋が山になり、粉が風で舞っている。普段なら色と匂いで楽しい場所が、今は目と喉を刺す。
二人の男が向かい合っていた。片方は店主で、片方は客。客の握った袋が破れて、黄色い粉が石畳へこぼれている。
「わざと破ったな」
「破れてたんだよ! おまえが粗悪品を――」
言い終える前に、客の目がぐらりと揺れた。黄ばみが白目へ滲み、声が一段低くなる。
「……顔が気に食わない」
志音は背筋が冷えた。第六話の広場で見た尖り方と同じだ。理由が細くなって、憎しみだけが太くなる。
華音は、いきなり声を張らなかった。水差しの代わりに、革袋を二つ、地面へ置く。置く位置は二人の間ではなく、少し斜め。取りに行くには一歩動く必要がある距離。
「飲める人から、二口。怒鳴る前に、喉を濡らしましょう」
店主の指が、革袋へ伸びかけて止まった。客が、店主の胸倉へ手を伸ばす。伸ばした手が震えている。怖いのか、怒りなのか、自分でも分からない震えだ。
「下がってください」
陽海が一歩前へ出た。盾を背中から下ろす。木と革でできた小さな盾なのに、そこだけ空気が変わった。
「手を、離して。……お願いします」
客が陽海を見た。盾ではなく、陽海の顔を見て、笑った。
「おまえの顔も――」
言葉が刃になる前に、陽海は盾を上げた。殴るためじゃない。二人の間へ、壁を置くために。盾が入った瞬間、掴む指が布から外れ、二人の胸の距離が指一本ぶん離れた。
それでも客は前へ出ようとする。盾が押され、陽海の踵が石畳を滑った。
「……っ」
声が漏れる。強がりの声ではなく、苦しさの声。陽海は歯を食いしばり、盾を落とさない。腕が震え、呼吸が浅くなる。浅い呼吸は言葉を尖らせる。
志音の中で、例え話が暴れ始めた。盾は本で、憎しみは火で――と、いつもの癖が叫ぶ。
けれど、ここで長い比喩は要らない。陽海が今しているのは、すでに正しい行動だ。なら、志音が札に書くのは“見たこと”だけでいい。
志音は湯呑みを持っていない。代わりに、口の中で唾を飲み込んだ。二拍、間を置く。札を一枚だけ取り出し、陽海の背中へそっと当てる。貼るのではない。触れて、短い文を置く。
『怖いのに、盾を落とさない。二人の間に壁を作れた。』
札が淡く光った。光は黄いろではなく、薄い白。陽海の肩が一瞬だけ下がり、息が入り直す。呼吸が深くなると、声が落ち着く。
「……俺は、殴らない。二人とも、手を下ろして。話す順番を、戻しましょう」
華音が、すぐに続ける。
「はい。店主さんから。次にお客さん。相手の言葉を最後まで聞いたら、手を下ろせます」
愛恋は、客の「粗悪品」という言葉を拾って、別の言葉へ置き換えた。
「“気に入らなかった”で大丈夫です。誰かを悪者にしなくても、返品はできます」
店主の喉が鳴った。怒鳴り声が出そうになって、そこで止まる。
「……気に、入らなかった。破れた袋を見て、腹が立った。だが、こっちも、わざとじゃない」
客は歯を剥いた。けれど、その歯が、さっきより少しだけ下がっている。
「……俺も、腹が立った。けど、殴りたいわけじゃ……」
言い終えた瞬間、客の白目の黄ばみが薄くなった。完全には戻らない。でも、戻る道が見えた、と志音は思った。
陽海は盾を下ろした。腕を振って血を流そうとするが、動きがぎこちない。志音は札を回収しようとして、手を伸ばし、止めた。大量に扱えない。今日は一枚で十分だ。
その時、華音の目が、陽海の腕へ落ちた。
「陽海さん……」
陽海は反射的に外套の袖を引き下げようとした。隠す動きが早すぎて、逆に目立つ。
袖の隙間から、黄いろい筋が見えた。細い線が、手首から肘へ向かって走っている。粉の色とは違う。肌の内側で光る、共鳴塔の黄いろだ。
志音は喉の奥が冷たくなるのを感じた。札の重みが、指先ではなく胸へ来る。
陽海は笑おうとした。笑いの形だけ作って、声が出ない。
「大丈夫です。……たぶん。さっき、押されたから、筋が――」
愛恋が首を横へ振った。否定の仕方が、怒らせない角度だ。
「筋肉の線ではありません。……“石の色”です」
遠くで、もう一度、誰かが怒鳴った。別の店。別の理由。黄晶都の午後は、まだ尖ったまま続いている。
華音が革袋を陽海へ押し当てる。押しつけない。手に戻すだけ。
「二口。今は、二口」
陽海は頷き、飲んだ。喉が動く。けれど、黄いろい筋は消えない。むしろ、光がほんの少しだけ濃くなった気がした。
志音は札を握りしめないよう、指を開いた。
「……盾で、受けたんだ。憎しみの波を。だから、腕に残った」
言い切った瞬間、志音は自分の言葉が“結論”になりかけているのに気づいた。結論は刃になる。愛恋が、すぐに受け止めて言い換える。
「“受けたかもしれない”。今は、そう置きましょう。確かめる場所へ行くのが先です」
陽海は盾を持ち直した。手が震えている。けれど、落とさない。
「……俺、逃げません。守るって言ったから」
志音はその背中を見て、札に二枚目を書きたくなった。けれど、書かない。代わりに、自分の胸へ言葉を押し込む。
今日の誓いは、行動で守る。
共鳴塔の黄いろが、商店街の屋根の隙間から覗いていた。
その黄いろは、陽海の腕の筋と、同じ濃さに見えた。




