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黄晶都の書評師は恋を調律する  作者: 乾為天女


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第13話 イエロートルマリンの誓い

 役所の待合は、さっきより静かだった。静か、というより、皆が呼吸を探している音がした。


  床に舞った紙片は、華音が用意した布袋へ集められている。愛恋が一枚ずつ拾い、角を揃え、破れた端を指先で撫でてから袋へ入れる。破いた職員は別室の椅子に座り、湯気の立つ湯呑みを両手で抱え込んでいた。唇が動くたび、言葉は出てこず、喉だけがひくつく。


  志音は、掌の札を見ないようにしていた。さっき、職員へ向けて何か書こうとして、指先が石みたいに重くなりかけたのを思い出す。書けば助けられる。けれど書き方を間違えたら、刃になる。


  「……志音さん」


  華音が水筒を差し出す。いつもの合図だった。志音は頷き、ひと口飲んでから、深く息を吐いた。


  「ありがとう。……今の、危なかった。ぼく、つい“ひどい”って書きそうになった」


  愛恋が手帳を閉じ、丁寧に頭を下げた。

  「“ひどい”は、受け取り手に針が残ります。“苦しかった”なら、針が抜けやすいです」


  志音は「針って便利だな」と口の中で笑い、すぐに真面目な顔に戻した。役所の空気は、まだ薄い黄いろを含んでいる。誰かが誰かを責める前の、乾いた匂い。


  廊下の奥で、陽海が壁にもたれ、肩で息をしていた。さっき、破く手を止めるために一歩出て、職員の腕を傷つけないように距離だけを押さえた。志音が近づくと、陽海は親指を立てた。


  「止まった。……でも、目が戻らない」

  「戻すのは、怒鳴り声より時間が要る」


  志音がそう言うと、陽海は頷いた。胸を張るのではなく、胸の奥を押さえるみたいに手を当てた。


  その日の昼、志音たちは黄晶図書塔へ向かった。役所で起きたことの名前を知りたかった。名前が分かれば、言葉を選び直せる。選び直せれば、誰かの手が紙を裂く前に止められる。


  図書塔の奥は、木の匂いが濃い。高い棚の間には、光が細い帯になって落ち、埃がゆっくり舞っている。愛恋は古文書係の札を胸に、案内の扉を開けた。鍵の音が小さく鳴り、志音の背筋が勝手に伸びた。


  「ここ、声が響かないですね」

  「紙が音を吸うからです。……怒鳴り声も、吸ってくれたらいいのに」


  愛恋の最後の一言は、ささやきだった。志音は、その小ささに救われる。大きな言葉は、時々、石になる。


  机の上には、黄みがかった紙束が並べられていた。愛恋は一枚を広げ、古い文字を指で追う。華音は水差しを置き、椅子の位置を少しだけずらした。端の席を空ける。誰かが遅れて来ても、座れるように。


  志音は、その動きが好きだった。好き、と言うとまた重くなる気がして、心の中でだけ言った。


  「……出てきました」


  愛恋の声が、紙の匂いを切り開いた。

  「“イエロートルマリン”。ここでは“黄心石”とも書かれています。都の中心の結晶と、同じ系統の石です」


  志音は昨夜から掌に滲む語を思い出し、札をそっと握った。握りすぎると、光が濁る。開きすぎると、勝手に言葉が走る。中間が難しい。


  愛恋は続けた。

  「石は、感情を増やします。恋も、怒りも、恥ずかしさも。増えた感情は、言葉へ移り、言葉は札へ染みます。札が濁ると、場が荒れます。……逆に、澄むと、場が整います」


  華音が頷き、湯呑みを志音の前へ置いた。湯気が立つ。志音の心が、少しだけ柔らかくなる。

  「増やすだけで、選べない。だから、順番を整えるのが調律です」


  志音は、ふと机の端の細い注釈に目を留めた。

  「“恋文で暴動が収まった”って……書いてある?」

  「はい。恋文、と言っても、甘い言葉ではなくて……“先に水を飲んでから話そう”とだけ書いた手紙です」


  志音は思わず吹き出しそうになり、湯呑みで口元を隠した。華音が横目で見る。止めるのではなく、笑っていいかどうかを確かめる目だった。

  志音は小さく笑い、正直に言った。

  「その恋文、ぼくでも書ける。……いや、書けるから怖いのか」


  愛恋は頷き、紙面の別の段落を示した。

  「怖さも、書いてあります。“相手を正しく裁く言葉”は、石が好む、と。正しい言葉ほど、切れ味が増す、と」


  志音の喉が、ひゅっと狭くなる。役所で、職員が紙を破いた時の一言――「こんな紙、いらない」。あれは正しさではない。けれど、誰かを悪者にしない形で、自分を軽くしようとしていた。軽くなれないから、破いた。


  志音は机に指を置いた。爪の白さが戻るまで、力を抜く。

  「ねえ。恋も怒りも増えるなら……都には、増えても困らないものを、先に入れた方がいい」

  「例えば?」


  華音が問う。問い方が柔らかい。答えが出るまで、待ってくれる。

  志音は、口を開いて、いつもの自分語りが喉に押し寄せるのを感じた。そこで一度、湯呑みを持ち上げる。飲む。間を置く。短くする。


  「……物語。けれど、甘いだけじゃなくて、順番が入ってる物語」

  「順番?」

  「謝る前に、深呼吸。言い返す前に、水。席を譲る。鍋をかき混ぜるのは交代。そういう生活の並びが入ってるやつ。読んだ人が、明日、真似できる」


  志音が言い終えたところで、背後の扉がきしんだ。空気が一段硬くなる。

  振り向くと、監察官の昇一が立っていた。黒い外套の端に、役所の埃がついている。志音が出した椅子の空き席を見ても、そこへは向かわない。机の端へ、書類の束を置いた。


  「……物語を、薬にする気か」

  「薬、って言い方は……」


  志音が言い直そうとすると、愛恋が先に頭を下げた。

  「“暮らしの言葉の練習帳”と呼ぶほうが、誤解が少ないです」


  昇一は返事をしない。ただ、机の角を指で叩いた。叩く音は小さいのに、志音の札が反応して震えた。昇一の胸元には、欠けた宝石片が覗いている。そこだけ、黄いろが濃い。


  「許可のない札が増えれば、都は壊れる」

  「壊れてるのは、札じゃなくて……」


  志音は言いかけて、飲み込んだ。言い切れば、刃になると分かった。代わりに、机の上の古文書を指さす。

  「ここに書いてある。石は増やす。なら、増えても困らない言葉を、先に置くしかない。ぼくらがやるのは、操作じゃない。順番を思い出す手助けだ」


  昇一の視線が、古文書の文字へ落ちた。読めないはずはないのに、読まないふりをしている目だった。志音は、その目に、役所の奥で紙を破いた職員の目を重ねた。苦しさを隠すとき、人は目を動かさない。


  華音が、水差しをそっと昇一の前へ寄せた。言葉ではなく、物を置く。拒むなら、押し返せる距離で。


  昇一は水差しを見た。見ただけで、押し返さない。

  その指先が、少しだけ緩んだ。宝石片の黄いろが、ほんの一瞬だけ薄くなる。


  志音は、そこを見逃さなかった。大声で勝ちに行かない。いつもみたいに例え話を盛らない。代わりに、誓いを出す。


  「……ぼくは、短く書く。責める札は書かない。褒め殺しもしない。書く前に水を飲む」

  「志音さん」


  華音が名を呼んだ。止める声ではない。続けていい、と背中を押す呼び方だった。

  志音は頷き、もう一つだけ足した。


  「都の人が、明日、席を譲れる文だけにする」


  愛恋がすぐに言い換える。

  「“あなたが明日、少し楽になる文”です」


  昇一の眉が、ほんの僅かに動いた。第六話のナツカの眉ほど派手ではない。けれど、志音には分かった。怒りが一瞬だけ、別の形へ変わった。


  「……誓いは、紙では守れない」

  「じゃあ、何で守る?」


  志音が問うと、昇一は胸元の宝石片へ手をやった。握りしめる寸前で、指が止まる。

  「……行動だ」


  その言葉に、華音が静かに湯呑みを差し出した。昇一は受け取らない。だが、視線を逸らさなかった。


  図書塔の外から、遠い喧噪が届いた。昼の商店街の声だ。平和な声のはずなのに、どこかに棘が混じっている。石が増やすのは、恋も怒りも同じだ。なら、どちらが先に口から出るかで、都の一日が変わる。


  その時だった。


  共鳴塔の鐘が鳴った。


  昼なのに、重い音が、図書塔の窓ガラスを揺らす。机の上の紙が、ふわりと持ち上がり、埃が黄いろく光る。志音の掌の札に、勝手に線が走った。書いていないのに、言葉の影だけが浮かぶ。


  昇一が顔を上げた。外套の影が、床に鋭く落ちる。

  華音は立ち上がらず、まず息を整えた。愛恋は紙を押さえ、飛ばないようにした。陽海の足音が、階段の下から駆け上がってくる。


  鐘の余韻が消える前に、志音は窓の向こうを見た。共鳴塔の黄いろが、いつもより濃い。都の中心が、呼吸を間違えたみたいに脈打っている。


  志音は、湯呑みを握った。

  温かさが、誓いの形になるように。



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